織田信長の天下人としての地位を確立させ、武田家の衰退を決定的にさせた長篠の戦い。
戦国最強と謳われた武田軍、そして信玄の跡を継いだ武田勝頼も、当時勇将と呼ばれながらなぜ敗れたのでしょうか!?
そして、信長勝利の要となったとされる鉄砲の三段構えの一斉射撃はあったのか!?
詳しく解説します!
目次
長篠の戦いをわかりやすく解説!
1575年6月29日、三河国(みかわこく)の長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍38000人と、武田勝頼軍15000人が激突した戦い。
厳密には、長篠城とその周辺で何度か戦いがあり、決戦地が長篠城の西側であった設楽原(したらがはら)であったことから、『長篠設楽原(ながしのしたらがはら)の戦い』とも呼ばれます。
この戦いにおいて、織田信長は当時としては驚くべき数であった3000丁の鉄砲を用意、それによって戦国最強と謳われた騎馬武者たちを次々に倒していくのです。
父信玄の後を継いで武田の当主となった勝頼は、信玄の遺言でもあった京への進軍を考えておりました。
その道中にある家康の領地であった三河、ご存知今の愛知県。
京に進軍する際、三河の領地は何とか抑えておきたいところであり、何度も侵攻をおこしました。
1574年5月19日、信玄でも落とせなかった徳川方の高天神城(たかてんじんじょう)を落とすことに成功。
その勢いでさらに西に行き、1575年5月、1万数千の兵で500人が守る長篠城を包囲します。
しかしながら長篠城は予想以上に手ごわく、なかなか落とせません。
これには、長篠城の兵士であった鳥居強右衛門の激励があったとされていますが、ここでは割愛します。
これが、勝頼第1の誤算。
長篠城を守るため、織田軍3万と徳川軍8千は5月18日に長篠城近くの設楽原に到着。
設楽原は小川に沿って山が重なっており、長篠城周辺と武田軍はよく見通せない状態でした。
このアップダウンの激しさが、三段射撃が不可能の理由の一つなのですが、後で話します。
信長はこれを逆手に取り、3万の兵を敵から見えないよう、とぎれとぎれに布陣。
三重の馬防柵をこっそりつくり、接近戦では無防備な鉄砲隊の防御に努めます。
このことからも、信長が鉄砲を主力とする戦いを予想しており、武田を誘うために『待ち』の姿勢をとったことがうかがえます。
一方、信長自ら設楽原に到着したという武田軍は軍議を開きます。
織田軍は数において武田軍を圧倒し、さらに信長自ら出陣したと言うことから撤退を主張する家臣もいましたが、勝頼はこう考えたようです。
「数で勝る織田軍がこちらに動かないのは、手をこまねいているからだ」
元々武田軍は鉄砲隊と戦ったこともないため知識に乏しく、信長が最初から銃撃戦に向いた陣形と戦術をとっているのとは全く予想もしていませんでした。
高天神城を落とした後、勝頼が有頂天になって家臣の言うことを聞かなくなり始めたという説もあり、いずれにしても勝頼は撤退を主張する家臣を退けます。
これが、勝頼第2の誤算。
結果、勝頼は1万5千の兵のうち、1万2千を設楽原に進軍。
長篠城攻略には牽制としての3千の兵を残すのみとなりました。
その要が鳶が須山(とびがすやま)の砦。
設楽原の長篠城を挟んだ向かい側にあり、長篠城の包囲・監視に最重要の砦でした。
信長の目論見通りになったことを知った信長は、この2日後の5月20日軍議を開きます。
そこで登場するのが、家康の重心で、徳川四天王の一人でもあった酒井忠次。
信長は彼に500の鉄砲隊を加えた4000の兵を率いさせ、鳶が須山の奇襲攻撃を命じます。
かなり念入りな奇襲攻撃で、正面の武田軍を迂回し、南側から尾根伝いに進んだ酒井軍は、夜明けに鳶が須山の砦を背後から奇襲。
鉄砲射撃も加えられた攻撃に鳶が須山の武田軍は大混乱して陥落します。
これが勝頼の最後の誤算、これが大誤算だったといえましょう。
結果、武田軍は設楽原の3万4千の織田・徳川軍と、4千かつ高所で戦いの状況が見えやすい酒井軍に挟まれる形となってしまいます。
鳶の須山を攻め落とした酒井軍がこちらに攻め入る可能性もあり、また酒井軍によって逃げ道もなくなっていました。
勝頼に残された道は、敵陣を突破することしかありませんでした。
5月21日早朝、設楽原で最後の決戦が行われます。
騎馬隊を最大限に使って武田軍は攻め入りますが、馬を防ぐための三重の堀、そして1000丁の鉄砲の一斉射撃には歯が立ちません。
8時間かけた激闘の末、昼過ぎに戦いは終結。
武田軍は15000の兵のうち、10000人以上の犠牲、それも武田四天王のうち3人、武田二十四将の多くを討ち取られる形で大損害を被りました。
かたや織田・徳川軍は主だった武将の戦死者はなし。
この戦いっぷりが、信長の先見の明と、勝頼が愚将だというパブリックイメージをこれ以降、そして今日まで植え付けることになり、信長の天下人としての名声と武田家の急速な衰退がはじまります。
信長の柔軟性と先見性、そして勝頼のいくつもの誤算が重なった結果と言えましょう。
ここで、長篠の戦がなぜ起こったかを説明いたします。
長篠の戦いはなぜ起こった?
一言でいうと、『武田と徳川の領地争い』と言えましょう。
これは家康と、勝頼の父信玄が起こした三方ヶ原の戦いにまでさかのぼります。
信長との関係が悪化した室町幕府将軍足利義昭は、信長追討の命令を全国に発令。
これに応じた武田信玄が家康が治める三河を経由して進軍、三方ヶ原において家康は信玄と戦いますが敗北、三河の一部は武田家の領となります。
ところが間もなく、信玄は急死。
武田軍はいったん撤退を余儀なくされ、家康は取られた三河・遠江(とおとうみ)の領地を武田から奪還しようと努めます。
父信玄の後を継いだ勝頼は1575年に再び三河に進軍し、長篠城を包囲。
戦いが勃発します。
武田勝頼は前年の1574年、高天神城(たかてんじんじょう)の戦いで圧勝しており、その慢心もあったとされています。
また、その時の織田家は急速に力を伸ばしており、有力大名の浅井・朝倉家はすでに滅ぼされ、反信長軍団の神輿であった足利義昭も1573年に京都を追放、室町幕府は事実上滅亡していました。
これ以上力をつけては危ういという焦りがあったといわれています。
家康にとってはこれから遠江を奪還する上で、織田の援軍がある間に武田をたたいておきたいという思いがあったとされ、また信長も家康の同盟者として、徳川に義理を果たしたい思いがあったといわれています。
ここで、長篠の戦の布陣図を説明します。
長篠の戦いの布陣図
設楽原の決戦時では武田本隊は酒井軍と織田・徳川軍本隊に挟まれています。
仮に酒井軍に占拠された鳶が須山に攻撃を集中しても、数で勝る織田・徳川軍に背後から攻められるという懸念が勝頼にあったと思われます。
いずれにしても、もはやすべて手遅れの状態となっておりました。
以下に、長篠の戦の織田軍の勝因、武田軍の敗因について記します。
長篠の戦いの勝因
・鉄砲3000丁と馬防柵を使った織田軍の鉄壁の防御
後で詳しく話しますが、馬防柵という一見木でできたもろい柵のようで、実は堀を掘って馬が転落し突破しにくい防衛線を築くことで、武田騎馬隊に対抗する作戦を信長はとっていました。
それほど動かずとも遠くの敵を討ち取れる鉄砲の特性を知り尽くしていた信長は、機動力が最大の武器の武田騎馬隊に対し、『待ち』に特化した陣形と装備で対抗。
見事に武田軍の多くを討ち取ることができました。
・武田軍中央部の予想外の崩壊
元々数で劣っていた武田軍は『翼包囲(つばさほうい)』という戦術をこの戦いでとっています。
これは両端の軍を中央よりやや先に配置し、敵軍が中央の軍を迎え撃っている間に、両端の軍隊のどちらか、あるいは両方を敵軍の背後に回り込ませて挟み撃ちにする戦術。
この戦術は古今東西、数で劣る軍が敵軍を破った戦術として数知れず、今日でも陸軍の戦術として使われております。
長篠の戦においても武田軍は、織田軍が中央軍を迎え撃っている間に両端の軍を背後に回り込ませる作戦でしたが、誤算だったのが両端の敵陣突破の前に起きた中央部の崩壊。
武田軍中央部は勝頼の叔父であった武田信廉(たけだのぶかど)、従兄弟の穴山伸君(あなやまのぶきみ)といった親戚筋で主に構成されていたのですが、もともと勝頼と仲が悪く、指揮官の指示を無視した敵前逃亡を行い、両端の軍が取り残されて大損害となりました。
特に両端の軍に名将たちが重点的に置かれており、彼らが多く戦死したこともまた、のちの武田家の衰退につながっていくのです。
かたや中央軍はそのほとんどが生きて逃げ帰ったというありさま。
・勝頼のいくつもの誤算
①予想以上に長篠城が堅固で、信長本体が到着する前に落とせなかったこと
②信長が銃撃戦に特化した『待ち』の戦術をとっているにもかかわらず、手をこまねいていると考えて軍のほとんどを設楽原に向けてしまったこと。
③酒井忠次を中心とした奇襲攻撃により、長篠城攻略のかなめであった鳶が須山を奪われてしまったこと。
これが勝頼の敗因となったと言えるでしょう。
歴史にもしもはありませんが、もし勝頼が設楽原に進軍せず、長篠城攻略に集中していればと思いますね。
圧倒的に数で勝る武田軍は鳶が須山も抑えたまま、長篠城を落とせたかもしれません。
そうすれば自分の名声も上がり、退路も確保できたのかもしれません。
ここで、信長が特に頭数と質の育成に力を入れた鉄砲隊について話します。
鉄砲隊
鉄砲三段撃ちこそなかったものの、1000-3000丁という、当時としては驚異的な数の鉄砲を用意しており、長篠の戦が、初めて鉄砲が本格的に使われた戦いといっても言い過ぎではないでしょう。
ただし、横一線にまんべんなく鉄砲隊を配置していたというのは間違いで、信長は武田軍の両端のどちらかが敵陣を突破し、自軍の背後に回ってくることを予想して両端に集中的に鉄砲隊を置いたといわれています。
先ほども述べましたが、武田軍は両端に武田二十四将などの名将を配置し、質では勝る彼らに敵陣を突破させて敵軍の背後に回り込ませて挟み撃ちにする作戦でした。
信長の予想が見事に当たったが故の戦の勝敗と言えましょう。
つぎに、鉄砲隊に次ぐ防御のかなめとなった信長の馬防柵について解説します。
馬防柵
信長は設楽原での勝頼との決戦にあたり、三重の『馬防柵(ばぼうさく)』を設けたといわれています。
馬防柵とは、井の字型に木を組んで柵を作り、その前にすぐ水を入れない空堀を設けた防衛線です。
敵軍からすると木の柵しか見えず、脆い防衛線のように見えますが、空堀が見えにくく、騎馬隊は何も知らずに堀に突っ込み、馬が転落してけがをすることが多いのです。
『馬脚』という言葉がありますが、平均体重600㎏の体を支える馬の4本脚は極めて脆く、今日でも競馬が何らかの理由で脚のけがをした場合、傍目にもその脚がもげているように見えることが多いです。
この場合、もう手遅れで治癒することはできず、その傷口から菌が感染して化膿するので、その馬は厩舎に帰った後安楽死させられます。
この柵と堀が長篠の戦の場合、三重に作られ、さらに鉄砲隊も加えていましたから、武田の騎馬隊がそれで信長の防衛陣を突破することは理論上不可能といえましょう。
長篠の戦いの場所は?
家康は当時岡崎城を本拠地としており、浜松城は当時まだ小さな城の一つで駿府城もなし。
高天神城を制圧した勝頼は、長篠城を何としても落としたかったと考えられます。
地図
この通り長篠の戦以前は武田の領土が多かったのですが、この戦いで多くの兵と数々の名将を失った武田軍は急速に衰退していきます。
武田軍はこの戦いでいくつもの名将が戦死したといわれていますが、次に、彼らについてあげていきたいと思います。
長篠の戦いで討死した武将は?
武田四天王と呼ばれた実力者のうち、高坂正信(たかさか まさのぶ)以外の3人がすべてこの戦いで討ち死にしているのですが、彼らについて語っていきます。
・馬場信春(ばば のぶはる)
信玄時代から使えている家臣の一人で、三方ヶ原の戦いにおいても徳川軍を浜松城まで追いつめております。
しかし勝頼時代は疎まれ、信長の設楽原到着の際、撤退を進言しますが受け入れられませんでした。
設楽原の決戦で武田の敗北が決定的となり、勝頼自ら退却したのを見届けた後、軍の一番最後に位置するしんがり役を務め戦死しました。
・山県正景(やまがた まさかげ)
武田二十四将の一人でもあります。
信玄時代から仕えており、死の床にあった信玄の遺言「わしの死を3年間隠せ」と直接言われたと伝えられております。
武田軍の中でも最強中の最強と言われていた『赤備え部隊(あかそなえぶたい。鎧兜がすべて赤かったためにそう呼ばれた)』を率いていたのですが、勝頼が当主となって以降は彼から疎まれており、馬場信春とともに長篠城からの撤退を主張しましたが受け入れられませんでした。
設楽原の決戦では左翼の中心部将として勤めたのですが、決戦終結直前の未の刻(ひつじのこく。今でいう午後2時ごろ)に戦死しました。
・内藤昌豊(ないとう まさとよ)
武略にたけた武田の副将格。
川中島の合戦において武田軍がいわゆる『キツツキの戦法』を行う際、上杉軍の背後を攻める軍勢の将として活躍したと伝えられます。
設楽原の決戦では山県昌景とともに左翼の中心武将として臨んだのですが、勝頼自ら退却をする際に踏みとどまり、徳川の配下(正式には、すでに滅亡していた今川家の今川氏真の側近)であった朝比奈泰勝に討ち取られます。
四天王以外の実力者について語ると、
・真田信綱(さなだのぶつな)、昌輝(まさてる)兄弟。
2人とも真田昌幸の兄で、真田信繁(幸村)にとっては伯父にあたります。
また、信綱の官名は信繁と同じ『左衛門佐』。
特に信綱は当時の真田家の当主。
加えて「若年より武勇抜群、信玄・勝頼両代のうち、攻城、野戦、その功すこぶる多し(『真田家譜』)」と評された豪傑で、信玄からも将来を期待されていました。
弟の昌幸は彼を尊敬し、彼のようになってほしいという思いから信繁を彼と同じ『左衛門佐』と名乗らせたといわれています。
彼と次男の昌輝の戦死によって、残された三男の昌幸が真田家の当主となるのです。
・原昌胤(はらまさたね)
武田二十四将にも数えられている名将で、信玄の側近でもありました。
・土屋昌次(つちやまさつぐ)
『奥近習六人衆(おくきんしゅうろくにんしゅう)』と言われた信玄の最側近の一人だったのですが、三重の馬防柵の2つを突破したところで鉄砲の餌食になったといわれます。
次に、脚色や誇張もかなり多い長篠の戦の真実とうそについて説明します。
長篠の戦いの真実と嘘
長篠の戦いにおける一番の嘘としては、信長の鉄砲三段撃ちが一番でしょう。
これに関しては後述します。
かたや鉄砲の餌食になったとされている『武田騎馬隊』ですが、こちらは本当にあったという向きが多いようです。
武田の領地であった甲斐は『黒駒』と呼ばれる当時としても名馬と評された馬の産地であり、騎兵も十分に訓練を行っており、『戦国最強』と謳われるには十分な力量でした。
信長公記に「関東衆(武田軍)は馬の扱いがうまく、この時も馬を使ってかかってきた」と書かれていること、実際に参戦した徳川家臣の日誌に「武田の騎馬武者が数十人で集団を組み攻めかかってきた」などの記述がある事などから、織田・徳川軍も武田騎馬隊をかなり警戒していたことがうかがえます。
ただ通説の『横一線に一気に突撃』は厳密にいうと嘘。
6月は田植えの時期で田に水がまかれており、設楽原も水のまかれた田が多くそこは極めてぬかるんでおり通れません。
騎馬隊は田のあぜ道を通りながら攻めたと考えられています。
しかしながら織田軍の1000丁の鉄砲の一斉射撃が、武田軍に大きな動揺を与えたのは事実で(迂回が多かったこともあるのでしょうが)、これが武田軍中央部の予想外の崩壊につながったといわれています。
では、鉄砲三弾撃ちが不可能とされていることを説明します。
鉄砲三段撃ちは本当にあったのか?
長篠の戦で信長が行ったとされる鉄砲三段撃ち。
これは元々『信長公記』にあった記述で、明治期の陸軍によって教科書に取り入れられて通説になったとされています。
しかしこれは、作り話だったという説が近年有力になってきています。
・理由1:周りの様子が見えにくい
『信長公記』によると、指揮官5人によって3000人の鉄砲隊を指揮していたようです。
しかしながら決戦地となった設楽原は山が多く、ほかの軍や離れたところにいる指揮官は見えにくいのです。
したがって指揮官の動作が見えにくく、それで統一的な行動をとるのは難しかったといわれています。
・理由2:号令が聞こえにくい
長篠は丘陵地で、周りの音が聞きにくいのです。
また、火縄銃の銃声も大きく、指揮官の号令はかき消されてしまいます。
今でも車の通行音等、ちょっとした雑音でも聞こえないことが多いです。
まして、敵味方の叫び声が飛び交う戦場においておや。
理論上、1組1000人、3組で合計3,000人の鉄砲隊を指揮官5人で率いるのは不可能です。
・理由3:効率が悪い
鉄砲3,000丁を3,000人が持ち、1,000人1組で3組交互に一斉射撃を行ったのというのが通説。
通説上、先込め式の火縄銃を発射してから次弾装填までの時間は約30秒。
ところが、実際にやってみると、発射してから次弾装填までの時間は1人1人がばらばらであるという報告が多く、これが1000人だと大変です。
全員が揃うまで待たないといけません。
加えて、火縄銃は撃ち続けていると、銃身に火薬のカスが溜まっていき、この状態で撃つと銃弾の飛距離が短くなるほか、火薬のカスが一間、つまり約2mも周辺に飛びます。
それが周りの人間にかかると大やけどをしてしまいます。
それを防ぐために、銃弾装填のほかに、銃身を掃除して火薬を除去する時間も必要となるのです。
最後に、歴史にもしもはありませんが、設楽原の決戦時に雨が降ったらどうでしょう。
火縄銃は雨天時は火縄が濡れて使えず、丸腰同然の銃撃隊はすぐ武田騎馬隊の餌食になるのがオチ。
つまるところ、鉄砲三段撃ちはむしろ極めて効率が悪い戦法で、よほどでない限り使えないことがわかります。
まとめ
- 馬防柵と鉄砲を用いた、銃撃戦に最適な『待ち』の戦いになると考えた信長の先見性
- 勝頼の設楽原の決戦前のいくつもの誤算
これが長篠の戦の勝敗を決する大きな原因となりました。
鉄砲三段撃ちはなかったにしても、信長の先見の明が勝頼のそれをはるかに上回っていたのは確かでしょう。
この後、武田家は急速に衰退して家臣からも裏切りが相次ぎ、この17年後の1582年、天目山の戦いにて滅亡します。
戦国最強と謳われた武田家の敗北と滅亡は、信長の天下人としての名声と実力を確実なものとしていくのです。