柴田勝家
柴田勝家

今回解説していくのは織田家の重臣として最後まで織田家を支えた柴田勝家

 

彼は最後は羽柴秀吉との戦に敗れ、自害に追い込まれてしまいましたが、今回はそんな彼について

  • 柴田勝家の生涯と年表
  • 柴田勝家とお市の方の関係
  • 柴田勝家と羽柴秀吉の間で起こった賤ヶ岳の戦い
  • 柴田勝家のゆかりの地

 

などについて詳しく解説していきたいと思います!

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柴田勝家がお市の方と共に自害を選ぶまでの生涯を解説!

柴田勝家

柴田勝家は1522年に尾張国生まれ。

若い頃から信長の父親である織田信秀の家臣として仕えます。

 

柴田勝家は信秀が亡くなった時には織田家でも重鎮の地位にいましたが、信長のうつけの姿を見て弟である織田信行を擁立。

信長に反抗し、稲生の戦いで信長と争いましたが、この戦で敗北するとその後は信長に恭順。

 

その後しばらくは主君に謀反していたことがあって重用されませんでした。

しかし、信長が上洛するとなると勝家は武功を挙げ、織田家では欠かせない武将として認識されるようになりました。

 

その後は信長の戦に従軍し、1575年に朝倉家を滅ぼすと越前一向一揆も平定。

旧朝倉領であった越前国7郡約50万石の領主となり、北陸の上杉家の攻略の総大将となりました。

 

1580年にはこれまで百姓の持ちたる国と呼ばれていた加賀を平定し、さらに越中と能登に進出。

これまで筆頭家老であった佐久間信盛が失脚すると名実と共に織田家の筆頭家老として織田家を支える存在となっていきます。

 

しかし、1582年に魚津城の攻略途中に信長が横死したことを知ると全軍撤退。

秀吉が信長の仇を打ったことによって秀吉が織田家の今後を握る主導権を獲得。

柴田勝家はお市の方を娶ったり、北近江3郡と長浜城を手に入れたものの、織田家の主導権は秀吉のものになってしまいます。

 

その後秀吉と勝家の対立は深まり1583年に滋賀の余呉湖付近で賤ヶ岳の戦いが勃発。

賤ヶ岳の七本槍の活躍もあり、柴田軍は敗退。

居城である北ノ庄城も囲まれ勝家は妻であるお市の方とともに自害したのでした。

経歴と年表

1522年 尾張国にて生まれる

1551年 織田信行を織田家当主に推薦する

1556年 織田信行側について信長と争う (稲生の戦い)

1568年 勝龍寺の戦いで戦功を挙げる

1570年 姉川の戦い

1575年 旧朝倉領越前7郡(50万石)の領主となり、北ノ庄城を築く

1577年 手取川の戦いで惨敗

1582年 清洲会議によって長浜を手に入れる

1583年 賤ヶ岳の戦い 柴田勝家自害する

柴田勝家とお市の方の関係

お市の方

お市の方

柴田勝家は戦国時代には珍しく60歳になるまで生涯未婚でした。

しかし、清洲会議の後についにお市の方と結婚することになります。

 

お市の方といえば『戦国一の女性』と呼ばれるほどの美貌を持っており、浅井長政の正室として浅井三姉妹(茶々・お初・お江)を産んだ女性なんですが、最初の父である浅井長政は小谷城の戦いで自害。

信長の弟である織田信包に庇護を受けながらひっそりと暮らしていました。

 

しかし、本能寺の変が起こると清洲会議にて秀吉が柴田勝家とお市の方が結婚を推奨するなどの働きを見せてついに結婚したのでした。

 

さて、肝心の夫婦仲なんですが、非常に良好なものだったと言われています。

お市の方はやはりかつての主君である織田信長の妹ですし手厚く接します。

最初の父の悲劇もあり不安だったお市の方、勝家の優しさに触れて次第に心を開いていきます。

 

最終的には秀吉によって北ノ庄城も攻められることになるのですが、柴田勝家はお市の方を秀吉に引き取らせようとします。

しかし、お市の方はそれを拒否し、浅井三姉妹を引き取らせた後に柴田勝家と自害したのです。

子孫について

柴田勝家の直系の息子は賤ヶ岳の戦いの後に処刑されてしまい、直系としての柴田勝家は現在はいません。

しかし、柴田勝家の甥である柴田勝政が柴田勝家の養子に入り、その家が代々旗本として残っていくことになりました。

家紋

勝家が使っていた家紋は二雁金という家紋。

雁というのは鳥の一種で雁と願掛けの願が同じ字であることが由来で願が叶う意味があり、また集団で行動するため団結力も表しています。

柴田勝家の城の場所

柴田勝家が治め、そして最後の地となった北ノ庄城があったのは今の福井県

この北ノ庄城はのちに結城秀康という武将によって福井藩の本拠地となるのですが、この北ノ庄城は城は足羽川と吉野川が合流した位置に築かれた要塞であり一説によると天守は7層構造で、あの安土城に匹敵する巨城であったと伝えられています。

賤ヶ岳の戦いについて

賤ヶ嶽大合戦の図

賤ヶ嶽大合戦の図

1582年に本能寺の変が起こり、絶対的な君主である織田信長が亡くなると、その後継を決めるために織田家の重臣たちがかつての本拠地であった清洲に集まり、織田家の旧領の分配と新しい当主を決める清洲会議が開催されることになりました。

 

本来ならこの時筆頭家老であった柴田勝家が主導権を握るはずなのですが、実際にこの会議をリードしていたのが羽柴秀吉

羽柴秀吉は織田信長の仇である明智光秀を山崎の戦いで討った功績があるとして後継者に信長の孫にあたる三法師を当主に据えるべきと主張。

 

柴田勝家は三男の織田信孝がふさわしいと主張しました。

しかし、羽柴秀吉の案に丹羽長秀などの家臣などがなびいてしまったため、結局三法師を当主としてその後見役として信孝を置くという形となりました。

 

こうして清洲会議は終わったのですが、ここで柴田勝家はおそらく一番やってはいけないミスを犯してしまいます。

 

この清洲会議によって柴田勝家は長浜城という現在の滋賀県東部に位置する城を手に入れました。

ですが、清洲会議が終わると柴田勝家は本拠地である越前の北ノ庄城に撤退しました。

 

当時時期は真冬。

雪が降ってしまったら道は塞がれてしまい主だった行動はできない状態となってしまいます。

 

これに目をつけた秀吉は一気に長浜城を奪還。

柴田勝家は何もできませんでしたが、春を迎えると秀吉を叩くために越前から出陣し、長浜に向かいます。

 

こうして敵対状態となった両者。

柴田軍は3万の軍勢を率いて滋賀の余呉湖に到着。

一方の秀吉は5万の兵を率いて木之本と呼ばれる場所で布陣します。

 

こうして両者膠着状態となりましたが、最初に動き出したのは柴田軍の方で、柴田勝家方の織田信孝が岐阜で挙兵したということを聞くと大垣に進軍。

この隙をつくかのように佐久間盛政が大岩山砦を奪取し、守っていた武将を討死させる功績もあげました。

 

しかし、秀吉はこの大岩山砦が陥落したことを聞くとすぐさま大垣から本陣の木之本までの52キロを5時間で踏破

秀吉お得意の大返しをここでも見せつけ、ついに激戦状態に突入していきます。

 

さらに、柴田軍の弱点の一つに秀吉の方は手塩に育てた武将たちがのちに賤ヶ岳の七本槍に数えられるなどの功績を挙げる一方で、人との関係が気薄なことが相まって武将の独断行動が目立つ状態となってしまいます。

 

さらに柴田軍にいながらも親秀吉側であった前田利家が急遽賤ヶ岳から離脱

抑えとして置いておいた利家隊の離脱によって佐久間盛政の隊までもが壊滅してしまいこれが決定打となり柴田軍は壊滅。

 

柴田勝家は本拠地である北ノ庄城に撤退し、賤ヶ岳の戦いは秀吉の勝利で幕を閉じました。

柴田勝家と秀吉との関係は?

豊臣秀吉

豊臣秀吉

賤ヶ岳で争うことになる柴田勝家と羽柴秀吉。

実は羽柴秀吉の羽柴は織田家の重役にいた丹羽長秀と柴田勝家から一文字づつ頂いて名乗ったこともあってか中は良さそうに見えるのですが、実は仲はというと真逆のものでした。

 

今も昔も日本という国は年功序列

長くいれば自然と偉くなるもので、柴田勝家も本能寺の変の時には織田家の筆頭家老という家臣の中ではトップの位置にいました。

 

しかし、織田家の当主である織田信長は徹底的な能力主義

伊賀から滝川一益、越前から明智光秀を登用して両方ともに織田家の方面軍のリーダーに任されるなど有能であれば徹底的に優遇するのが織田家の特徴でもありました。

 

その中でも特に優遇されたのが羽柴秀吉です。

昔は単なる草履取りに過ぎなかった若輩者が本能寺の変の時には中国方面軍の総大将となりました。

また、日本でも有数の大国として知られている播磨を本拠地として但馬国や飛び地として長浜も保有するなど織田家1番の稼ぎ頭となっていきます。

 

柴田勝家からしたら秀吉の怒涛の追い上げに恐怖と警戒心を抱いてしまったのでしょう。

柴田勝家ゆかりの地

織田家の筆頭家老として織田家を最後まで支えた柴田勝家。

そのゆかりの地は最後の本拠地となった福井県を始め全国各地に存在しています。

福井城

柴田勝家とお市の方が共に命を絶った北ノ庄城。

 

今では福井城があるせいで北ノ庄城の遺構はほとんど見つかってはいませんが、あったであろう推定地には凛々しく構えている柴田勝家の銅像が今も鎮座しています。

勝淵神社

三鷹市と調布市の市境付近にある小さな神社である勝淵神社。

この勝淵神社は柴田勝家の兜が祀られているという神社として有名です。

 

関東とは全く関係のない柴田勝家ですが、実は孫の柴田勝重に兜を与え、関東へと逃したと言われており、のちに徳川家から旗本としてこの三鷹あたりの地を与えられたのです。

 

それではまとめに入ります!

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まとめ

まとめです!

  • 柴田勝家は信長に謀反したことがあったが、織田家の筆頭家老として織田家を支えた
  • 柴田勝家とお市の方の仲は非常に良好なもので、最後は共に自害した
  • 賤ヶ岳の戦いは最初は柴田軍の有利であったが、前田利家の離脱や賤ヶ岳の七本槍の活躍もあって敗北した
  • 柴田勝家の子孫はのちに旗本となり、勝淵神社には勝家の兜が祀られている

 

最後になりましたが、柴田勝家は織田家をなんとか支え、そして自害という道を選びました。

そしてこの勝家の死から日本は信長の時代から秀吉の時代に変わっていくのです。

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