大津事件とは?簡単に解説!原因や結果とその後の影響について!

今回は大津事件について詳しく解説していきたいと思います!

 

  • 大津事件とは?
  • 場所、なぜ起きたのか?
  • 事件発生後の日本の反応は?

 

他にも、児島惟謙が司法権の独立を守った?や、大津事件と向畑治三郎の関係は?など詳しく説明していきます!

まずは大津事件とは何かについて解説していきますね!

大津事件とは?

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大津事件とは、1891年(明治24年)5月11日、日本を訪問していたロシア皇帝の皇太子・ニコライ(ニコライ2世)が、警備を担当していた警察官「津田三蔵」にサーベルで突然斬りつけられ、負傷した暗殺未遂事件のことを言います。

 

ニコライは頭部に傷を負いましたが、命に別状はなく、犯行に及んだ津田三蔵はその場で逮捕されています。

 

当時の列強の一つであるロシア帝国の艦隊が神戸港にいる中で事件が発生。

まだ発展途上であった日本が武力報復されかねない緊迫した状況下で、行政の干渉を受けながらも司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件とされています。

 

次に、大津事件が起きた場所について説明します。

場所

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滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で発生しました。

 

次は、大津事件がなぜ起きたのかについて説明していきますね!

なぜ起きたのか?

なぜ大津事件が起きたかというと、津田本人の供述によれば、以前からロシアの北方諸島などに関しての強硬な姿勢を快く思っていなかったことが一つ。

 

もう一つは事件前、西南戦争で戦死した西郷隆盛が実はロシアに逃げ延びて、ニコライと共に帰ってくるというデマがささやかれており、西南戦争で勲章を授与されていた津田は、もし西郷が帰還すれば自分の勲章も剥奪されるのではないかと危惧していたという説もあります。

 

ただし、ニコライを殺害する意図は薄かったらしく、事件後の取り調べにおいても、「殺すつもりはなく、一太刀献上したまで。」と供述したという記録もあるようです。

 

他にも、当時はニコライの訪日が軍事視察であるという噂もあり、シベリア鉄道もロシアの極東進出政策を象徴するとして国民の反発があったという経緯もあったと言われています。

 

次は、事件発生後の日本の反応について解説していきますね!

事件発生後の日本の反応

日本の国民も日本政府も、この暗殺未遂事件のニュースに大混乱になりました。

 

事件直後、国際関係に精通していた威仁親王は、即座にこの事件を自分のレベルでは解決できない重大な外交問題と判断しました。

随行員に命じて顛末を急いで書きまとめさせ、東京の明治天皇の元へ電報を送り、ロシア側に誠意を見せるため天皇の京都への緊急御幸を要請しました。

 

明治天皇は自ら汽車に乗って京都へ行き、ニコライ2世を見舞いに行きましたが、ニコライ側の侍医の要請により翌日へ延期され、天皇はひとまず京都御所へ宿泊しました。

威仁親王の兄の熾仁親王も天皇の後を追って京都に向かいました。

 

翌日、天皇はニコライの宿舎である常盤ホテルに自ら赴いてニコライを見舞い、謝罪をしました。

さらに熾仁・威仁・能久親王の三親王を引き連れてニコライを神戸まで見送ります。

天皇が謝罪したものの、ロシア本国からの指示もあってニコライは東京訪問を中止し、艦隊を率いて神戸からウラジオストクへと期間の途につきました。

 

小国であった日本が大国ロシアの皇太子を負傷させたとして、「事件の報復にロシアが日本に攻めてくる!」と日本中に激震が走り、日本中がロシアに恐怖心を持ってしまう「恐露病」と言われる集団ヒステリーのような病気が現れ始めます。

 

例を挙げると、学校は謹慎の意を表して休校となり、神社や寺院では、皇太子の傷の回復を願って祈祷が行われました。

ニコライの元に届けられた見舞いの電報は1万通を超え、山形県最上郡金山村(現金山町)では「津田」姓や「三蔵」の命名を禁じる条例を決議。

 

5月20日には、天皇の謝罪もむなしく皇太子が日本を立ち去った事を知り、死を以って詫びるとし京都府庁の前で剃刀で喉を突いて自殺し、後に「房州の烈女」と呼ばれた畠山勇子のような女性も出現しました。

 

そして、恐露病は日本政府にも感染していきます。

当時の日本は、何とか欧米の植民地にならずに済んでいたものの、まだロシアに軍事的に対抗する力を持っていなかったため、賠償金や領土の割譲まで要求してくるのではないかと危惧されていました。

 

日本政府内では外務大臣・青木周蔵と内務大臣・西郷従道が責任を負って辞職し、6月には司法大臣・山田顕義が病気を理由に辞任しました。

それでも足らないと考えて日本政府は、事件を所轄する裁判官に対し、旧刑法116条に規定する天皇や皇族に対して危害を与えたものに適用すべき大逆罪によって死刑を求刑するよう働きかけました。

伊藤博文は死刑に反対する意見がある場合、戒厳令を発してでも断行すべきであると主張したほどです。

 

このように、日本政府はロシアに誠意を見せようと、是が非でも暗殺未遂事件を起こした津田三蔵を死刑にして見せしめにするように強く圧力をかけていったのです。

 

では次は、児島惟謙が司法権の独立を守った?について解説していきますね!

児島惟謙が司法権の独立を守った?

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裁判の時、日本政府から裁判官に津田三蔵の死刑求刑への強い圧力がかけられていました。

裁判官の中には政府の意向に従い、死刑判決を下そうとする者まで出てきます。

 

そのような風潮があるときに、この当時の大審院(現在の最高裁判所)のトップであった児島惟謙(こじまこれかた)は、「法治国家として法は遵守されなければならない」と言いました。

さらに、「日本の刑法に外国皇族に関する規定はない。」として、死刑を要望する政府の圧力に真っ向から反対したのです。

 

そして、事件から16日後の5月27日、皇室に対する罪ではなく、一般人に対する殺人未遂として扱われ、「無期徒刑(現在の無期懲役)」という判決が下されました。

 

判決後、ロシアの対応としてシェービッチ公使は津田の無期徒刑が決定したことを知ると、「いかなる事態になるか判らない。」と脅しと捉えられる様な発言をしたり、ロシア皇帝・アレクサンドル3世も暗に死刑を求めてました。

 

しかし、結果的には賠償請求も武力報復も行うことはありませんでした。

日本がこの国際問題を乗り越えられたのは、日本の迅速な処置や心からの謝罪を受け、ロシアが寛大な態度を示し、友好的姿勢をとってくれたことも大きな要因であったと言えるでしょう。

 

児島惟謙がいなかったら、日本が一生懸命作り上げてきた三権分立は崩れ、司法が政府に牛耳られてしまい、日本の司法権に対する信頼は諸外国に認められることはなかったでしょう。

このことから、児島惟謙は日本の司法権の独立を守った「護法の神様」などと高く評価されています。

 

次は、大津事件と向畑治三郎の関係について解説していきますね!

大津事件と向畑治三郎の関係は?

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向畑治三郎はニコライが乗った人力車の車夫でした。

 

京都から琵琶湖への日帰り観光で、滋賀県庁にて昼食をとった後の帰り道、ニコライ、共に来日していたギリシャ王国王子・ゲオルギオス、威仁親王の順番で人力車に乗り大津町内を通過中、警備を担当していた滋賀県警察部巡査の津田三蔵が突然サーベルを抜いて斬りかかりニコライを負傷させました。

 

ニコライは人力車から飛び降りて脇の路地へ逃げ込みましたが、津田はニコライを追いかけながらも、なおも斬りかかろうとしました。

 

しかし、ゲオルギオスに竹の杖で背中を打たれ、ニコライに随伴していた人力車夫の向畑治三郎に両足を引き倒され、同じくゲオルギオス付き車夫の北賀市太郎に自身の落としたサーベルで首を切りつけられた後、警備中の巡査に取り押さえられました。

 

ニコライは、命の恩人である向畑治三郎と北賀市太郎に2500円の報奨金と、1000円の終身年金を与えました。

また、日本政府もこの二人に勲八等白色桐葉章と年金36円の支給を決めました。

この頃の2500円というと今のお金の価値でおよそ1000万円位になりますから、かなりの額のお金ですよね。

 

突然舞い込んできた大金は向畑の人生を狂わせます。

賭博と女遊びに明け暮れ、また怪しげな投機話に大金をつぎ込んでしまったのです。

 

しかも、彼は窃盗や暴行の罪で服役したことのある前科者で、事件後も少女暴行事件を起こし、授与された勲章を剥奪されました。

その後に起こった日露戦争によって年金が停止され、さらにロシア革命で帝政ロシア革命は滅び、年金支給自体が消滅、困窮のうちにその一生を終えたと言われています。

 

では最後に、大津事件について簡単にまとめますね。

まとめ

大津事件についてまとめます。

 

  • 大津事件とは、1891年(明治24年)に日本を訪問していたロシア皇帝の皇太子ニコライ(後のニコライ2世)が、警備を担当していた警察官「津田三蔵」に突然斬りつけられ、負傷した暗殺未遂事件のこと
  • 滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で発生した事件
  • なぜ大津事件が起きたかというと、津田三蔵が以前からロシアの北方諸島などに関しての強硬な姿勢を快く思っていないことや、西南戦争で戦死した西郷隆盛が実はロシアに逃げ延びて、ニコライと共に帰ってくるというデマがささやかれて誇大妄想が膨らみ事件を起こした
  • 事件後日本はすぐに天皇自ら京都へ向かいニコライの見舞いと謝罪を行った
  • 日本全体がロシアを恐れる「恐露病」が蔓延し、死を以って詫びるとし、剃刀で喉を突いて自殺し、後に「房州の烈女」と呼ばれた畠山勇子のような女性も出現した
  • 日本政府はロシアの報復を恐れて死刑にしようとしたが児島惟謙は法にのっとって無期懲役の判決を下した
  • 政府からの圧力に屈せず法にのっとって判決を下したことが国際的に評価され、領事裁判権の撤廃が進んでいった
  • 向畑治三郎は、ニコライ2世の乗った人力車の車夫で、犯人を取り押さえ、ニコライの命を救った男だが、多額の報奨金や年金により人生を狂わせてしまった

 

まとめると少しわかりやすくなりましたかね?

 

この事件判決で司法の独立を達成したことにより、まだ曖昧だった大日本帝国憲法の三権分立意識が広まりました。

さらに、この事件により列強国から近代国家として認められ、領事裁判権の撤廃が進んでいきました。

 

領事裁判権というのは、日本で外国人が犯罪をしたら、その外国人の国の法律で裁くというもので、領事裁判権というのはその国の法律が信用ならない時に結ばれます。

ですが、政府の圧力に屈せず法にのっとって判決を下したことは、日本の三権分立や司法権の独立を守っているとして国際的に日本の司法権に対する信頼を高めることになります。

 

その結果、一時期停滞していた領事裁判権の撤廃の交渉がどんどん進んでいくことになっていき、陸奥宗光によって撤廃されることになるのです。

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