黒田官兵衛の生涯と天才軍師呼ばれた戦術とは?本能寺の変の黒幕説についても

今回ご紹介するのは、黒田官兵衛です。

 

日本史上に残る長い混乱期である戦国時代を、巧みに生き抜いた一人の武将がいました。

彼はのちに「三英傑」とされる織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に重用され、その軍事的才能を余すところなく発揮してきたのです。

 

そんな「軍師」黒田官兵衛について、今回は特に以下の点について詳しく見ていきます。

  • 官兵衛の生涯とは
  • 官兵衛の用いた戦術とは
  • 官兵衛の脚と温泉について

 

是非ご注目ください!

<スポンサーリンク>

黒田官兵衛とは?

黒田官兵衛

黒田官兵衛

黒田官兵衛は、戦国時代から江戸時代前期の武将・大名です。

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の「三英傑」に重用されたことからも分かるように、軍事的才能に非常に優れた人物でした。

黒田孝高(よしたか)ともいい、剃髪後の号をとって黒田如水ともいわれます。

 

それでは、官兵衛の経歴を、年表と合わせてご覧ください。

経歴と年表

黒田官兵衛は1546年、播磨国(兵庫県南西部)の姫路に生まれます。

 

少年時代に母を亡くし、官兵衛は文学にのめりこんだようです。

 

1562年に彼は父・職隆とともに土豪を征伐して初陣を飾り、1567年には家督を継ぎ、櫛橋光(てる)を正室に迎えました。

そのころ勢力を拡大してきたのが、織田信長です。

 

1560年に桶狭間の戦いで今川義元を破り、1568年には足利義昭を奉じて上洛し、その将軍就任を助けています。

また、1573年には浅井長政を討ち、今度は足利義昭を追放しており、その2年後の長篠の戦いでは武田勝頼を破っています。

 

そんな信長の才能を評価していた官兵衛は、当時の主君である小寺政職に、織田氏への臣従を進言し、その後信長との関係が深まっていきます。

その後、信長に仕官していた豊臣秀吉に居城を提供し、官兵衛は参謀として活躍するようになりました。

 

しかし、織田家の重臣である荒木村重が信長に対し謀反を起こして籠城し、小寺政職も村重に呼応しようとする事件が起きます。

官兵衛は村重を説得しようと試みますが失敗し、逆に幽閉されてしまい、1579年にようやく救出されています。

 

1581年、秀吉は鳥取城に出兵し、官兵衛もこれに加わります。

後の章で詳述しますが、この戦いでは徹底的な兵糧攻めを行い、3か月で降伏に持ち込んでいます。

 

1582年に本能寺の変で信長が明智光秀に討たれたという報が入ると、高松城を攻めていた秀吉は毛利氏と講和を済ませ速やかに光秀の討伐に向かいます。

この「中国大返し」を献策したのが官兵衛であった、という逸話があります。

 

その後は秀吉の参謀としていくつもの戦いで活躍したほか、キリシタン大名である高山右近らの勧めによってキリスト教に入信しています。

 

1589年には家督を長男の長政に譲りますが、その後も官兵衛は秀吉の側近としてあり続けます。

朝鮮に出兵した1592年からの文禄の役では加藤清正らが暴走し、思ったように指揮を執れませんでしたが、同じく朝鮮における1597年からの慶長の役では寡兵ながら奮戦したと言われています。

 

1598年に秀吉が死去すると、1600年に関ヶ原の戦いが起こります。

長政は豊臣方の大名を多く家康方に引き込んで活躍したほか、官兵衛も百姓たちを集めて速成軍を作り上げ、出陣しています。

 

関ヶ原の戦いが終わると、家康は官兵衛に勲功を与えようとしましたが、官兵衛はこれを辞退しており、その後は隠居生活を送ります。

1604年、官兵衛は59歳でこの世を去りました。

出来事
1546年 誕生
1567年 家督を継ぐ
姫路城代となる
1577年 姫路城を秀吉に提供する
1578年 荒木村重が謀反
幽閉される
1581年 鳥取城を攻める
1582年 備中高松城を攻める
本能寺の変
1583年 キリスト教の洗礼を受ける
1588年 中津城築城開始
1589年 家督を長政に譲る
如水と号す
1590年 小田原城を攻める
1592年 文禄の役
1597年 慶長の役
1600年 関ヶ原の戦い
1604年 死去

次に、官兵衛の用いた家紋について見ていきます。

家紋について

黒田官兵衛が用いた家紋は2種類あります。

 

1つ目は、小寺家に仕えていた時に下賜された「藤巴」です。

小寺家のものはやや入り組んだデザインでしたが、同じ家紋を用いるのは畏れ多いと考え、黒田家はそのデザインを簡略化したものを使うようになったのです。

 

2つ目は「黒餅」と呼ばれる家紋で、白地に黒い丸を描いただけというシンプルなデザインです。

官兵衛の子・長政を助けた竹中半兵衛の家紋であり、半兵衛に敬意を払った官兵衛がこれを黒田家の家紋としたのです。

 

次の章では、官兵衛の息子について見ていきます。

息子について

官兵衛の息子には、長政熊之助がいます。

 

このうち次男の熊之助は、暴風に遭って船が沈没し、若くして亡くなりました。

長男の長政は父とともに戦い、のちに筑前福岡藩の初代藩主となっています。

 

長政は、

  • 1586年に始まった秀吉による九州平定
  • 1592年に始まった秀吉による朝鮮侵略戦争である文禄・慶長の役
  • 1600年の関ヶ原の戦い

で活躍しています。

 

関ヶ原の戦いでは特に戦功を挙げており、福岡藩の立藩につながりました。

長政も父と同じくキリシタン大名でしたが、秀吉によるキリスト教宣教の制限であるバテレン追放令を受け、改宗しています。

 

次に、官兵衛の用いた個性的な兜について見ていきます。

黒田官兵衛の兜が個性的すぎる?

黒田官兵衛の兜はとても個性的なことで知られます。

 

彼の兜はお椀を逆さにしたような形で、これは「如水の赤合子」(合子は蓋つきの小さい容器の意)として恐れられました。

蓋つきのお椀の形は、夫婦が一対であることを表そうとしたように思えます。

 

また、お椀は戦場においては「相手を飲み干す」という意味も持っており、官兵衛の勇猛ぶりがよく表れた兜であるとも言えますね。

官兵衛が用いたこの兜は、現在は岩手県盛岡市のもりおか歴史文化館に所蔵されています。

 

次に、官兵衛が脚を悪くした原因について言及します。

黒田官兵衛は足が悪い?

官兵衛は足が悪かったと伝えられています。

 

しかし、足が悪くなった原因については判明していません。

原因として考えられるのが、官兵衛が荒木村重の説得に向かった後、逆に幽閉されてしまったことです。

狭い牢獄に長い間閉じ込められていたことが災いした、という考え方です。

 

しかし、史料によっては幽閉期間がそれほど長くなかった可能性もあり、これが直接の原因であるかは分かりません。

 

もう一つの原因としては、性病の一種で当時かなり流行っていたとされる梅毒にかかったという説ですが、これも確かな根拠がないのです。

 

次に、官兵衛の活躍した代表的な戦いから、驚きの戦術を見ていきます。

<スポンサーリンク>

天才軍師と呼ばれた驚きの戦術とは?

官兵衛と秀吉が兵糧攻めを敢行したのが、1581年に鳥取城を落とすときです。

鳥取城のもとの城主であった山名豊国はこの前年に降伏していたのですが、家老たちが新たに吉川経家を城主に迎え入れ、交戦を続けようとしたのです。

 

そこで、秀吉方の作戦が開始されます。

まず商人たちに鳥取城周辺の米を買い占めさせた上で包囲することで、補給路を断ちます。

そして官兵衛らの隊が城周辺の人家を襲撃したうえ、住民を鳥取城に避難させたのです。

 

つまり、城内の人口は増えるも食料がない、という状況となったのです!

 

当然城内の兵糧はすぐになくなってしまい、城内は飢餓により凄惨な事態となりました。

なんと、人肉食の記録も残っているのです!

 

この事態に耐えかね、3か月で降伏を余儀なくされました。

経家は、自らの命を引き換えに兵士や住民の助命を確約させ、自害しました。

 

次に、官兵衛の戦争哲学について見ていきます。

戦わずして勝つ?

官兵衛の戦争哲学は、「戦わずして勝つ」ことにありました。

そのことが伝わってくるエピソードとして、小田原征伐があります。

 

1590年、秀吉は小田原征伐を試みますが、小田原城は歴戦の武将たちも手を焼いた、難攻不落の城でした。

しかし官兵衛は小田原城に単身乗り込んで北条氏政・氏直の父後を説得し、無血開城に持ち込むことに成功したのです!

 

このことに関しては秀吉も官兵衛のことをかなり讃えていたようです。

「戦わずして勝つ」ことは、古代中国からの軍事思想史として名高い『孫子』で謳われていたことでした。

官兵衛は、この「孫子の兵法」を具現化したと言えるでしょう。

 

次に、官兵衛が関わった水攻め戦略について見ていきます。

水攻め戦略とは?

1582年、備中高松城を攻略するに当たって、秀吉軍は水攻めを行います。

 

高松城は、毛利氏配下の清水宗治が守備する城で、低湿地にある沼城でした。

沼城は攻めづらいものでしたが、秀吉はそれを逆手にとったのです。

 

秀吉は巨大な堤防を築いて近くの川の水をせき止めようとしており、官兵衛はこの工事の指揮に当たっています。

堤防はわずか12日で完成し、その後に降った雨の影響もあって、高松城は即座に陸の孤島と化しました。

 

城の外にいた毛利輝元はこの状況を打開しようと軍を進ませていましたが、堤防がすでに完成していたことと、信長の援軍が送られてくるという情報を受けたことで、秀吉との和睦を決意しました。

なお、その後に本能寺の変が起こり、秀吉は急いで毛利氏方と和睦を結び、「中国大返し」を行っています。

 

次に、官兵衛と秀吉との関係について見ていきます。

黒田官兵衛と秀吉の関係

豊臣秀吉

豊臣秀吉

官兵衛と秀吉は、信長の家臣であった時期からつながりがありました。

そのつながりが特に強くなったのは、官兵衛が居城であった姫路城本丸を秀吉に提供し、自身が参謀として仕えるようになってからでしょう。

秀吉は官兵衛の能力をとても高く評価するとともに、官兵衛を恐れていたとも伝えられています。

 

ただ、官兵衛がキリシタンであったことを秀吉は快くは思っていなかったようです。

 

次に、官兵衛と本能寺の変の関係について見ていこうと思います。

本能寺の変の黒幕は官兵衛?

本能寺の変

本能寺の変

実は、本能寺の変の筋書を官兵衛が作成したのではないか、という説があります!

 

そもそも本能寺の変が起こった京都から、秀吉らがいた高松城まで約200kmあるところを、信長の死の情報はたった1日で届けられたところが驚きです。

官兵衛が事前に信長が討たれることを思い描き、彼を討つことになる明智光秀を監視していたということもできたわけです。

 

官兵衛が情報を早く掴みたかったのは、京都に一番乗りして光秀を討ち、秀吉が天下を取ることを望んでいたからでしょう。

突然信長が討たれ、別の誰かにその首謀者を討たせてしまったら、秀吉は信長の後継者とはなりえません。

官兵衛はそうしたことを見越して、本能寺の変の「黒幕」とまではいかずとも、その予期はしていたのかもしれませんね。

 

次に、官兵衛が一時期幽閉された場所について見ていきます。

黒田官兵衛が幽閉された場所

有岡城 跡

官兵衛が一時期幽閉された場所は、織田家の重臣であった荒木村重が籠城した有岡城です。

有岡城は現在の兵庫県伊丹市にあります。

 

城の外郭に囲まれた内部の構造を「総構え」と言うのですが、その総構えを大改修によって作り上げたのが荒木でした。

城の近くを流れる川と崖がこの城を天然の要塞としており、信長の攻撃に対してなんと1年も持ちこたえたのです。

 

この長期間の籠城戦と官兵衛の幽閉により彼の脚が不自由になったとも言われていましたね。

 

次に、官兵衛の死因について言及します。

黒田官兵衛の死因の謎

官兵衛の死因については、実ははっきりしていません。

 

当時は梅毒が流行り始めており、この梅毒によって亡くなったという説があります。

官兵衛には皮膚にできものがあったことや歩行障害があったことから、これらが梅毒に起因するものと考えられました。

 

しかし、できものも歩行障害も、有岡城に幽閉されていた際の不衛生な環境によるものだとし、梅毒説を否定する見方も強まっています。

ある史料には病死であるという記述があるようですが、それより詳しい真相は謎のままです。

 

次の章では、官兵衛の残した名言をいくつかご紹介します。

黒田官兵衛の名言

官兵衛の名言をいくつかご紹介します。

 

  • 「我人に媚びず、富貴を望まず」

 

幽閉中にかなり苦しい生活を強いられた官兵衛の、戦国時代の武将の一般的なイメージと異なる言葉ですね。

 

  • 「神の罰より主君の罰を恐れよ、主君の罰より家臣・百姓の罰を恐れよ」

 

神の罰は祈ることで、主君の罰は謝ることでなんとかなりますが、家臣・百姓に恨まれてしまうと国を失うこととなるから恐れるべきだ、という意味です。

 

  • 「思いおく言と葉なくて、ついに行く道は迷はじ、なるにまかせて」

 

これは官兵衛の辞世の句です。

彼は自らの死期を悟っていたと言われており、この句を詠んだ日に彼は息を引き取ったのでした。

 

次に、官兵衛の面白エピソードとして、温泉での話を取り上げたいと思います!

黒田官兵衛の面白エピソード

有馬温泉

官兵衛は有馬温泉で湯治をしたと言われています。

 

有馬温泉は日本三古湯(ほかは道後温泉&白浜温泉、または道後温泉&いわき湯本温泉)のひとつであり、兵庫県神戸市に現在もあります。

ここにはさまざまな泉質の温泉があるとされており、官兵衛は幽閉から解放されたあと、この有馬温泉で湯治をしました。

なんと、多い時で1週間に11回も入浴したという記録も残っています!

 

また、秀吉も有馬温泉を愛していたようで、現在有馬には「太閤橋」や「太閤通り」といった地名が残っています。

 

次に、NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』と、そのキャストについて見ていきます。

大河ドラマ「軍師官兵衛」について

NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』は、2014年に放送されました。

 

前半の「播磨国姫路・山崎編」では、官兵衛の幽閉を経て光秀の謀反までが描かれ、後半の「豊前国中津編」では秀吉の時代から徳川家康の時代にかけての彼の生涯が描かれていきます。

 

なお、前述の鳥取城の兵糧攻めは、事態があまりにも凄惨であったこともあり、『軍師官兵衛』では描かれていません。

キャスト

主人公の官兵衛をV6の岡田准一氏を演じているほか、官兵衛の子・長政を松坂桃李氏、秀吉を竹中直人氏、官兵衛と同じく軍師として名をはせた竹中半兵衛を谷原章介氏が、それぞれ演じています。

 

次の章からは、官兵衛ゆかりの地をご紹介します。

黒田官兵衛ゆかりの城

官兵衛ゆかりの地として、今回は姫路城・福岡城・中津城をご紹介します。

まずは姫路城です!

姫路城

この投稿をInstagramで見る

 

Kensoku Biblosさん(@biblosl)がシェアした投稿 -


兵庫県姫路市にある姫路城は、官兵衛生誕の地です。

 

城内で誕生した武将は珍しく、姫路城の歴代の城主のなかで官兵衛ただ一人のようです。

前述のように、官兵衛は信長の天下統一のために、この姫路城を秀吉に献上しました。

1993年にはユネスコの世界遺産にも登録された、言わずと知れた名城ですね。

 

次に、福岡城です!

福岡城

この投稿をInstagramで見る

 

Terutsugu Ikinaさん(@terutsugu.ikina)がシェアした投稿 -


現在の福岡市にあった福岡城も、黒田氏ゆかりの地です。

 

この城は、官兵衛の子・長政が関ヶ原の戦い後に築いたものです。

1601年に築城が開始されましたが、1607年に竣工したため、官兵衛は1604年に亡くなったため、この城の完成を見ることはできませんでした。

福岡城は明治維新まで福岡藩黒田氏の居城として使われました。

 

最後に、中津城をご紹介します!

中津城

この投稿をInstagramで見る

 

TATO.YM(城郭訪問記)さん(@castle.tato)がシェアした投稿 -


現在の大分県中津市にあった中津城は、官兵衛が築城した城です。

堀に海水が引き込まれていることから水城(海城)ともされており、今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられています。

 

1588年に官兵衛が築城を開始し、1600年には豊前小倉藩初代藩主となる細川忠興が大修築を開始し、1621年に完成しました。

まとめ

いかがでしょうか。

それではおさらいも兼ねて、黒田官兵衛についてもう一度振り返ってみましょう。

 

1546年に姫路に生まれた官兵衛は、黒田孝高・黒田如水とも言われた、戦国・安土桃山時代を代表する武将です。

織田信長に臣従し、同じく信長の家臣であった豊臣秀吉のもとで参謀として活躍するようになります。

 

しかし、織田家の重臣であった荒木村重が謀反を起こした際には説得を試みましたが、失敗し長い間有岡城に幽閉されてしまいました。

この長期の幽閉により、官兵衛は脚を悪くしてしまったと言われています。

 

秀吉は官兵衛の実力を高く評価しており、両者はいくつもの戦いで活躍してきました。

 

鳥取城を攻める際には計画的な兵糧攻めを行い、備中高松城を攻略する際には水攻めを行ったほか、後北条氏の小田原城に関しては説得による無血開城を実現して「戦わずして勝つ」を具現化しています。

 

また、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、秀吉の「中国大返し」によってすぐに光秀の討伐に向かいました。

 

官兵衛は秀吉に天下を取らせるために、この本能寺の変の筋書を作成していた、という説もありましたね。

 

1589年には家督を長男の長政に譲り、長政は関ヶ原の戦いで活躍したのち、筑前福岡藩の初代藩主となっています。

 

1604年、官兵衛は59歳でこの世を去りました。

 

官兵衛が用いた家紋には、「藤巴」と「黒餅」がありました。

 

また、彼の用いた兜はお椀を逆さにしたような形で、とても個性的なものでした。

 

官兵衛の残した名言としては、「我人に媚びず、富貴を望まず」「神の罰より主君の罰を恐れよ、主君の罰より家臣・百姓の罰を恐れよ」などがありましたね。

 

官兵衛は悪くなった脚を湯治で直そうと、有馬温泉によく行っていたようです。

 

2014年に放送されたNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』では、岡田准一氏演じる官兵衛が主人公として描かれています。

 

官兵衛ゆかりの地としては、生誕の地である姫路城、長政が築城した福岡城、官兵衛が築城した中津城などがありました。

 

機会があれば是非一度訪ねてみてください!

<スポンサーリンク>
おすすめの記事