毛利元就の三本の矢の教えとは?経歴や生涯と有名エピソードについて解説!

今回解説していくのは一代にして中国地方を制覇した毛利元就

 

三本の矢の逸話などでも有名で、今でも広島県を中心に親しまれている武将なんですが、今回は毛利元就について

  • 毛利元就の三本の矢の教えについて
  • 毛利元就の経歴と年表
  • 毛利元就の息子と家臣たち
  • 毛利元就の性格やエピソードなどについて
  • 毛利元就に関する小説や漫画

 

などについて解説していこうと思います!

毛利元就の三本の矢の教えとは?

毛利元就といえばまず最初に上がるのが息子たちに教えた「三本の矢の教え」

この話は一本では折れやすい矢でも三本まとめれば折れにくくなるように三人の息子が手を取り合えは毛利家は折れなくなるという意味です。

 

ただ、実はこの話は創作

毛利元就の嫡男である毛利隆元が元就が亡くなる10年前にはすでに亡くなっており、そうなるとかなり辻褄が合わなくなるのです。

 

しかし、毛利元就は毛利隆元と吉川元春と小早川隆景に対して三子教訓状というこれに似た話を送っています。

毛利元就について解説!

毛利元就

毛利元就は1497年に安芸国の国人の息子として生まれました。

 

桶狭間の戦い(1560年)以前の戦国時代をよく知らない人からしたらかなり前から生きており、どちらかといえば室町時代の人物に見えます。

ですが、彼はこの当時中国地方を支配していた二大大名である大内氏と尼子家の間でうまくバランスをとりながら、徐々に所領を拡大。

最終的には安芸一国だけではなく、中国地方全体を治める大名として毛利家の名を一代で築き上ました。

 

また、彼は謀略家としても知られており、その謀略の凄さから「謀神」として恐れられる存在でもあります。

経歴と年表

毛利元就安芸国の国人であった毛利弘元の次男として1947年に生まれました。

 

毛利家は元々鎌倉幕府の別当であった大江広元の子孫でした。

ただ、室町時代に入ると衰退してしまい、元就の幼少期の頃には家臣によって住んでいた多治比猿掛城を横領されてしまいます。

そして、「乞食若殿」と呼ばれるほど困窮する生活を送るようになります。

 

しかし、父と兄が相次いでなくなると元就は叔父として後見人になります。

さらに、弟である合剛元網との間で後継者争いが発生するとこの争いを影から操っていた尼子経久からの独立を宣言。

 

代わりに周防国を治めていた大内氏と同盟を結みます。

そして、元就は大内氏の下で勢力拡大へと乗り出していきます。

 

例えば同じ国人であった吉川家と小早川家の当主に自身の息子である元春と隆景を養子として出して当主にすると勢力下に置きます。

そして、1550年ごろになると安芸国の大半を治める大名に成長。

さらに1551年に大寧寺の変が起こると陶晴賢を討伐するという建前の下で大内氏との断交を発表し、厳島の戦いが勃発。

 

圧倒的に不利であった状況下において元就は持ち前の謀略を駆使して陶晴賢を厳島におびき出して陶晴賢の本陣を奇襲。

追い詰められた晴賢は自害して大内氏の領土をそっくりそのまま奪い取ることに成功します。

 

また、尼子晴久が亡くなって混乱状態であった尼子家を1566年に滅ぼし、ついに中国地方に一大勢力を築いた大名となったのです。

その後は嫡男であった隆元の死などで若干ゴタゴタになりかけた家督問題をなんとかしながら織田家などの勢力を渡り合い、1571年に75歳で逝去しました。

 

1497年 安芸国の国人の息子として生まれる

1516年 甥の後見人となる

1517年 有田中井手の戦いで初陣を飾る

1523年 毛利家の当主となる

1542年 第一次月山富田城の戦いで大敗北する

1555年 厳島の戦い

1555〜1557年 防長経略にて大内家を滅ぼす

1562年 出雲に侵攻を開始

1565年 第二次月山富田城の戦いで尼子家を滅ぼし、10カ国の太守となる

1571年 75歳で死去

領地と勢力図

毛利元就は幼少期の頃は300貫(石高に直すと600石)のわずかながらの弱小国人からスタートしました。

 

その後、元就は周囲の国人に対し養子を出して最終的に支配したり、討伐しながら安芸国を統一。

さらに大内氏の当主が大寧寺の変で暗殺されると、その混乱のさなか厳島の戦いで陶晴賢に勝利。

大内氏の領土をそっくりそのままいただき、さらに出雲の尼子家の領地も支配。

 

最終的には安芸国を始め、中国地方10ヶ国の太守となり、毛利家の名を全国に轟かせるほどの領地を手に入れたのでした。

性格

毛利元就は息子のことを虫けらと書いたり、謀略を駆使していたため非情な人物に描かれることが多いです。

 

しかし、

  • 嫡男の隆元に元就が生涯愛していた妙玖の供養を頼む
  • 隆元が元就が死ぬ前に亡くなるとしばらくの間取り乱してしまい、騒動を起こしてしまう

 

など人間味あふれる性格であったと言われています。

元就は現実主義であったけれどもこのような人間味があったからこそここまで毛利家を強くすることができたのかもしれません。

居城の場所

毛利元就は幼少期は安芸国の猿掛城に住み、毛利家の当主になってからは安芸国の吉田郡山城を本拠地として中国地方に覇を唱えました。

 

ちなみに、元就といえば広島を思い浮かべるかもしれませんが、毛利家が広島城を本拠地とするのは孫である輝元の時代。

さらに広島城にいた期間も10年あるかないかレベルですのであまり広島城は毛利家とは関係は深くないんです。

有能な家臣たち

毛利元就が中国地方の覇者となった一つの要因に元就の知略だけではなく、家臣に恵まれていたことにあるでしょう。

 

次男と三男である吉川元春や小早川隆景を始めとした毛利十八将、安国寺恵瓊などの有能な交渉役、村上水軍の人たちなど名だたるメンバーが揃っており、元就はこの家臣たちとともに勢力を拡大していきました。

家系図

毛利元就の祖先と言われているのがかつて鎌倉時代に政所執事として活躍した大江広元だと言われています。

そして、広元の四男が相模国毛利荘を本拠地としたことから毛利と名乗るようになったんだそうです。

 

その後毛利家は安芸国に移住。

大江広元の四男である季光から数えて11代目の当主が元就でした。

息子について

毛利元就には9人の息子がいました。

 

元就は正室の妙玖のことを愛していたのでその間に生まれたいわゆる三矢の教えのメンバーと側室との間に生まれた子供を別で考えており、側室との間に生まれた子供は「虫けら」と手紙の中では書き記したそうです。

 

しかし、虫けらといっても有能であれば重用せよと言っていたこともあり、養子に出された後でも元就の子供たちは毛利家のために働いたのでした。

子孫

元就の家系は長男である隆元を中心に伸びていき、元就から見たら孫にあたる毛利輝元は関ケ原の戦いのときに西軍の総大将として活躍することになります。

 

しかし、西軍についてしまったために関ケ原の戦いで敗北。

所領を3分の1にまで減らされてしまうことになってしまいました。

 

しかし、元就の子孫たちはその後長州藩36万石の大名として幕末のときに活躍することになるのです。

名言

能や芸や慰め、何事も要らず。武略、計略、調略こそが肝要にて候。謀多きは勝ち、少なきは負ける。

毛利元就の逸話や面白いエピソード

「酒は飲まず、好物は餅」が毛利の長寿の秘訣?

きなこ餅

元就はお酒を慎みどんな時でも飲まなかったそうです。

実はこれには訳があって父である弘元や、兄の興元が酒によるアルコール中毒が原因で短命だったことから自身は酒を慎んで長生きしようと考えていたからなんです。

 

また、これに関しては息子である輝元に対して「私は酒が飲めぬからこのように長生きなのだ。酒を飲まなければ70歳、80歳まで健康でいられるのだ。」という手紙も残っています。

 

一方で元就は餅が大好物であったと伝えられており、 元就は酒が大好きな家臣には元就が飲まなかった酒を振舞って、酒が嫌いな家臣には元就が好きな餅を振舞ったそうです。

毛利元就はまめに手紙を書いていた?

毛利元就は心配性であり、かなりの筆まめであったと伝えられています。

 

現状でもかなり元就の自筆の手紙が残っています。

ただ、その内容は息子である隆元や毛利二川のことに対する教訓が非常に多く、悪い言い方をすればくどい内容だったそうです。

毛利元就の育ての母「杉大方」はどんな人物?

毛利元就の前半生はまさしく不憫そのものといってもいいぐらい生活に困窮していました。

父親の死後、後見役となった家臣の井上元盛によって猿掛城を奪われ、周囲からは「乞食若殿」と蔑まれる身となり、生活は一基に困窮することになりました。

 

武士としての窮地であるこの状況を助けたのが義理の母・杉大方でした。

 

父の側室でしたが、正室の死後には正室格の女性となったとされています。

そして、9歳で城を追われた元就のことを不憫と思った杉大方は再婚もせず、元就を必死に養育したといわれています。

 

杉大方の思いはその後も元就の心に残り、三子教訓状には「10歳の頃に大方様が旅の御坊様から話を聞いて素晴らしかったので私も連れて一緒に2人で話を聞き、それから毎日欠かさずに太陽を拝んでいるのだ。」と記したりもしています。

毛利元就と織田信長はどちらが最強?

織田信長
織田信長

戦国時代において最強と呼ばれる武将はたくさんいます。

ですが、下の身分から中国地方10カ国の太守になった点や、謀略の面でみたら元就に敵うものはいないと思います。

 

しかし、経済力から見たらやはり信長にかなうことは出来なかったと考えています。

信長は兵農分離を行なっており、一年中出兵ができる状態となっているため、農繁期に動きづらい兵農分離していない毛利の兵の隙をつくこともできますし、さらにはお金もあるためそれこそ水攻めや鉄砲の使用など大がかりの戦をすることができました。

 

最強と言ったら信長が勝つかもしれませんが、それぞれの良さがありその良さを使って戦に挑んでいたのです。

厳島の戦いについて

厳島神社 大鳥居

毛利元就の名を全国に知らしめることになったのが日本三大奇襲の一つに数えられている厳島の戦いでした。

 

この頃毛利元就は大内家という中国地方はおろか全国の中でも指折りの強さを誇った大名の下で安芸国と備後国に勢力を拡大。

徐々に力をつけていったのですが、1551年に大寧寺の変が起こり、当主である大内義隆陶晴賢によって自害に追い込まれてしまいます。

 

これによって大内家は大混乱。

陶晴賢によって乗っ取られてしまい、大内家によって支配下に組み込まれていた国人たちが一斉に蜂起を起こします。

そして、毛利元就もこれを受けて大内家からの独立を果たし安芸国から大内家の勢力を追い出しました。

 

これを受けて陶晴賢は2万の兵を率いて毛利家の領地に侵攻。

毛利家はこの時4千の兵しかおらず御家存亡の危機に瀕してしまいます。

 

しかし、元就は智謀を使い、宮島に宮尾城という城を急いで急造。

「ここに攻められたら毛利家はヤバイな〜元就困っちゃうな〜」という噂を陶晴賢に拾わせます。

その結果、2万の兵をあんまり広くない宮島におびき寄せることに成功しました。

 

さらにこの時瀬戸内海で猛威を振るっていた村上水軍を味方につけることに成功。

さらに極め付けに陶晴賢の軍が宮島に誘き寄せられた後に暴風雨が降り、毛利軍の動きを察知されませんでした。

 

こうして宮島に布陣した毛利軍は夜の時に一気に奇襲を開始。

狭い宮島では2万の兵が逆に足かせとなってしまい、陶晴賢を始め陶晴賢の軍は壊滅状態に追い込まれてしまい、大内家は完全に崩壊。

 

その後元就は長門・周防国に侵攻して中国地方の覇者への道を歩んでいくことになるのでした。

なぜ神聖な厳島神社を選んだのか?

元就はこの宮島を使って厳島の戦いという大逆転劇を起こしました。

しかし、元就は陶晴賢を追い込むためにはこの宮島が一番適していると考えてこの地で奇襲作戦を起こすことになります。

 

しかし、元就は戦のことだから仕方のないことだとしながらも厳島神社を厚く信仰していた上に、この厳島の戦いも厳島神社に祀られている厳島大明神によって勝つことができたと考えていました。

 

自筆で書いた手紙にこのようなことが書かれているため、元就は神頼みをしながらも戦のことなら聖域に誘き寄せることもためらわなかったのでしょうね。

毛利元就と対立した陶晴賢との関係は?

毛利元就と陶晴賢は直接関わったとされる史料は残ってはいませんが、毛利元就は大寧寺の変が起こる前までは大内家に従属していました。

そのため、もしかしたら陶晴賢と一緒に会ったこともあるかもしれません。

毛利元就ゆかりの地

毛利元就のゆかりの地といえばやはり、当主となってから亡くなるで本拠地として置いた吉田郡山城でしょう。

吉田郡山城は広島県安芸高田市にんで存在していた山城で、孫である毛利輝元が広島城へ移るまで毛利氏の居城として使用されました。

 

今は廃城となり、跡が残っているだけなのですが、この城は周辺の集落全体が守られており、まさしく謀略家として有名な元就らしい作りだったと今に伝わっています。

毛利元就をまつる神社

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毛利元就は1557年に財政難に苦しんでいた朝廷に莫大な献金を行い、正親町天皇の即位式を実現させる功績をあげます。

 

さらに、毛利家が治めている長州藩が王政復古の立役者となったことから1869年に明治天皇から豊栄の神名を与えられます。

元就は仰徳大明神として、隆元や輝元と共に山口市の豊栄神社に祀られています。

毛利元就および一族の墓

たった一代で中国地方の覇者となった毛利元就でしたが、彼は居城としていた吉田郡山城のすぐ近くにあった洞春寺付近に毛利一族と共に眠っています。

近くには彼が目標にしたとされる百万一心の碑石があり、彼の功績が今もなお残っているのです。

毛利元就を題材にした作品

秋の国人から中国大陸の覇者となった毛利元就は今でも故郷の広島を中心に広く親しまれており、元就を題材としたドラマなどがたくさんあります。

大河ドラマ「毛利元就」の内容とキャスト

毛利元就を扱ったドラマといえば大河ドラマ『毛利元就』でしょう。

 

不遇の幼年期から大内家と尼子家の間で揺れ動きながら最終的には中国地方を治めることになる元就の生涯を描いた作品で、馴染みがない人物な分、一人一人を丁寧に描いていることが特徴です。

 

キャストの方はというと主役の元就を中村橋之助が演じたのを始め、毛利隆元を上川隆也が、小早川隆景を恵俊彰など豪華キャストで描かれており、戦国時代を題材とした大河ドラマでは独眼竜政宗とともにかなりの高評価もなっています。

小説

毛利元就のことをさらに知りたいという人にオススメしたいのが、岸田裕之の『毛利元就 武威天下無双 下民憐愍の文徳は未だ』という小説。

 

作者である岸田裕之は広島大学にて中世日本の経済を研究しており、大河ドラマ『毛利元就』では時代考証を手がけるなどまさに元就に関することに精通している人物です。

 

内容は少し難しいかもしれませんが、筆まめであった彼の書状からどのように戦国の世を渡り歩いていったのかがよくわかる作品となっています。

漫画

毛利元就のことをできるだけわかりやすく教えて欲しいのであれば読みやすい漫画がオススメです。

その中でも特にオススメなのが戦国人物伝の毛利元就

この漫画は毛利元就の生涯をわかりやすくストーリーにまとめあげているため元就のことを知るにはオススメの一冊となっています。

 

それではまとめに入ります!

まとめ

まとめです。

 

  • 毛利元就が残した三本の矢は創作だが、息子たちに対して家訓の手紙は残した
  • 毛利元就は幼少期は不遇だったが厳島の戦いから中国地方の覇権を握った
  • 元就の息子は隆元・隆景・元春が有名だが、そのほかの子供達や、元就の家臣も有能であった
  • 元就は謀略家としての一面もありながら人間らしいエピソードもある

 

最後になりましたが、元就は自分の知力で成り上がった面もありますが、やはりその後息子たちや家臣のことを大切にしていたからこそのちの長州藩の未来が築かれていったのだと思います。

元就は本当に有能な人だったのですね。

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