フランシスコザビエルの生涯!ザビエルが日本に来た理由や本名と死因についても

今回はフランシスコザビエルについて詳しく解説していきたいと思います!

 

  • フランシスコザビエルの生涯や画像について
  • フランシスコザビエルの経歴年表や本名
  • ザビエルは何人?
  • ザビエルの死因や日本に来た理由
  • ザビエルのミイラはインドにある?

 

他にも、ザビエルの頭は禿げているわけではない?や、聖フランシスコ・ザビエル記念教会をご紹介したり、マカオではザビエルの骨が見れる?などなどザビエルの事を、一つ一つ分かりやすく解説します!

 

ではまず、フランシスコザビエルの生涯について解説していきますね!

フランシスコザビエルの生涯!

フランシスコ・ザビエルというと、日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師として有名です。

しかし、それ以外について彼のことを詳しく知ることはあまりありません。

ということで、ここでは彼の生涯について詳しく解説していきますね!

 

フランシスコ・ザビエルは北スペインのナバラ王国出身とされ、地方貴族として1506年4月7日に誕生しました。

5人姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子として育てられました。

 

ナバラ王国は小国ながらも独立を保ってきましたが、フランスとスペイン(カスティーリャ=アラゴン)の紛争地になり、1515年にスペインに併合されてしまいます。

父フアンはこの激動の中で世を去りました。

その後、ザビエルの一族はバスク人とスペイン、フランスの間での複雑な争いに翻弄されることになります。

 

1525年、ザビエル19歳の時にパリ大学へ留学し、聖バルブ学院に入り、自由学芸を修めます。

この頃に、哲学を専攻していたフランス出身のピエール・ファーヴル、バスク地方出身のイグナチオ・ロヨラと出会います。

 

1529年、ザビエルの母・マリアが亡くなると、その4年後に姉も亡くなります。

この時、ザビエルはイグナチオ・デ・ロヨラから影響を受け、聖職者を志すことになるのです。

 

そして、ロヨラの感化を受けた青年たちが集まり、1534年8月15日に

  • ロヨラ
  • ザビエル
  • ファーヴル
  • シモン・ロドリゲス
  • ディエゴ・ライネス
  • ニコラス・ボバディリャ
  • アルフォンソ・サルメロン

 

この7人が、モンマルトルの聖堂において神に生涯を捧げるという『モンマルトルの誓い』を立てます。

ここに『イエズス会』が創立。

 

その後、イエズス会はローマ教皇パウルス3世から、叙階許可を得られて1537年6月、ヴェネティアにて司祭に叙階されました。

 

当初より世界中にカトリックを広めようということをテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル王・ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だった『インド西海岸のゴア』に派遣することになりました。

ザビエルはゴアに到着すると、そこを拠点にインド各地で宣教し、更にマラッカ、モルッカ諸島に赴き宣教活動を続け、多くの人々をキリスト教に導きました。

 

そして、マラッカに戻った1547年12月、鹿児島県出身の『ヤジロウ(アンジロー)』という日本人と出会ったのです。

ザビエルは日本という国についてヤジロウから聞き、キリスト教を宣教しようと考えます。

 

そして、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船でゴアを出発し、日本を目指しました。

一行は明の上川島(広東省江門市台山)を経由し、ヤジロウの案内でまずは、薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て、現在の鹿児島市祇園之洲町に来着しました。

 

本来は京へと上り、天皇や将軍に会いたかったのですが、戦乱激しい戦国時代では思うように行かず、薩摩(鹿児島県)の島津貴久や、豊後(大分県)の大友宗麟を初めとする九州や、周防(山口県)の大内義隆の元で布教活動を行います。

 

しかし、宣教活動は中々うまくいきませんでした。

なぜかというと、日本では戦国時代当たり前だった『男色(男性同士の性愛)』をキリスト教は罪としていたからです。

しかも、日本の文化や作法も知らず、知らず識らずのうちに無作法な行いをしていた様でした。

 

このことで大内義隆の怒りを買い、ザビエル一行は逃げるように周防を去ります。

その後、堺に上陸し、豪商・日比屋了珪と知り合い、色々な事を教わり、支援を受けて念願だった京へ向かいます。

 

ザビエルは、全国での宣教を許可してもらうため、インド総督とゴア司教の親書とともに後奈良天皇と征夷大将軍・足利義輝への拝謁を請願。

しかし、献上品がなかったためか拝謁は叶いませんでした。

 

京での滞在を諦めたザビエル一行は、失意の中で平戸に戻ります。

ザビエルは、平戸に起き残していた献上品を携えて、再び周防に入り、大内義隆に再謁見。

 

これまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視される事を知ったザビエルは、一行を美服で装い、珍しい品々を義隆に献上しました。

献上品は天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などでした。

 

この時の『眼鏡』は日本に初めて持ち込まれた眼鏡だったそうで、これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めました。

 

この宣教許可のおかげで、ザビエルは大道寺で1日2度の説教を行いました。

約2ヶ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼったと言われています。

 

その後、ザビエルは豊後へ移動し、そこでも大友宗麟に迎えられ、その保護を受けて宣教活動を行うことに成功しました。

 

日本滞在が2年を過ぎ、ザビエルはインドからの情報がない事を心配し、一旦インドに戻る事を決意します。

インドに戻ったザビエルは、日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣します。

 

そして、ザビエル自身は中国を目指し、上川島に到着します。

しかし、中国への入境は思うように行かず、ザビエルは心身ともに疲弊し、病気を発症。

 

1552年12月3日、上川島でこの世を去りました。

フランシスコ・ザビエルの一生はキリスト教宣教のために捧げた一生でした。

 

次はフランシスコ・ザビエルの画像をご紹介します。

フランシスコザビエルの画像

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次は、ザビエルの経歴年表をご紹介します。

経歴年表

《青年期》

1506年 4月7日、ナバラ王国の貴族の息子として誕生。

1525年 19歳で名門パリ大学に留学。

1534年 モンマルトルの誓いを立て、『イエズス会』を創立。

1537年 ヴェネツィアの教会でロヨラらと共に司祭に叙階される。彼らはエルサレム巡礼の誓いを立てたが、国際情勢の悪化で断念。

 

《東洋への出発》

ポルトガル王ジョアン3世の依頼で世界宣教のためインド・ゴアへイエズス会の会員を派遣することとなる。

1541年 4月7日、ザビエル35歳の誕生日にリスボンを出発。8月にアフリカ・モザンビークの到着。

1542年 2月にモザンビークを出発。5月6日にインド・ゴアに到着、インド各地で宣教活動を行う。

1545年 9月にマラッカに到着。

1546年 1月にはモルッカ諸島に赴き、宣教活動を行う。

1547年 12月マラッカに戻り、そこで鹿児島県出身の『ヤジロウ』という日本人に出会う。

 

《日本へ》

1549年 4月15日ゴアで洗礼を受けたヤジロウら3人の日本人と共にジャンク船でゴアを出発、日本を目指す。

1549年 9月に伊集院城(一宇治城/現・鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得る。

1550年 8月ザビエル一行は肥前国平戸に入り、宣教活動を行う。

〃 11月周防国山口に入り、無許可で宣教活動行う。

〃 12月17日周防の守護大名・大内義隆にも謁見するが、男色を罪とするキリスト教の教えが大内氏の怒りを買い、周防を発ち、岩国から海路に切り替え、堺に上陸。豪商・日比屋了珪の知遇を得る。

1551年 1月に日比屋了珪の支援により、念願だった京都に到着。『日本国王』から宣教の許可を得るために、インド総督とゴア司教の親書と共に後奈良天皇および征夷大将軍・足利義輝への謁見を請願。しかし、献上の品がなかったためか叶わなかった。

〃 3月京都滞在を諦めて、平戸に戻る。

〃 4月にたくさんの献上品を携えて、大内義隆に再謁見。これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めた。

〃 9月、ザビエルは豊後国に到着し、大友義鎮(後の宗麟)に迎えられ、
その保護を受けて宣教を行う。

 

《再びインドへ》

日本滞在が2年を過ぎ、ザビエルはインドからの情報がないことを気にし、一旦インドに戻ることを決意。

1551年 11月15日、日本人青年4人を同行させて、トーレス神父とフェルナンデス修道士らを残して出帆。

1552年 2月15日ゴアに到着。

 

《中国布教への志と終焉》

1552年 9月ザビエルは日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、中国上川島に到着。しかし、中国への入境が思うように行かず、病気を発症。

〃 12月3日、上川島で死去。享年46歳。

 

次は、ザビエルの本名について解説します。

ザビエルの本名は?

ザビエルの本名、実はとっても長いんです。

 

その本名とは、『フランシスコ・ジャッコア・アスピルクエルタ・イ・エチュベリーア』です。

フランシスコが名前とされ、父の苗字をバスコ語読みしたジャッコア、母の苗字であるアスピルクエルタ、ザビエルをバスコ語読みしたエチュベリーアが名前として付けられました。

 

次はザビエルは何人?について解説します!

ザビエルは何人?

ザビエルは何人かというと、スペインのナバラ王国で生まれたので、『スペイン人』です。

民族としては『バスク人』です。

 

しかし、ザビエルの生きていた時代ナバラ王国は独立国で、のちにスペインに吸収されています。

そのため、はっきりとスペインと言い切ることは難しく、ポルトガル人だと考える人もいます。

 

次はザビエルの死因について解説していきます。

死因

日本での布教活動を終えたザビエルは、すぐに東洋の布教活動の拠点であったインドに戻ります。

 

大分県豊後を出たザビエル一行は、インドのコチンに到着。

日本を含む多くのアジアの国が中国から影響を受けていることを知り、次は中国にキリスト教を普及させようとします。

 

しかし、当時のザビエルの体調は悪かったようで、ゴア在住の神父が送った書簡には、

「ザビエルは食もとれないほど胃が痛み、衰弱も酷かったにも関わらず働き続けていた。」

という記述がありますから、無理を押して活動していたのが分かります。

 

そんな中、中国付近で船が渡航禁止になるなどの苦難が続き、精神的苦痛が重なり、さらに体調が悪化していきます。

 

1552年(天文21年)の9月に広東省上川島に上陸しますが、上陸してわずか2ヶ月余りの11月に肺炎で倒れてしまうのです。

そして、同年12月3日体調が回復することなく肺炎をこじらせ46歳の生涯を閉じたのでした。

 

次は、ザビエルが日本にきた理由について解説していきますね!

ザビエルが日本にきた理由は?

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当時、ルターが宗教改革を起こし、カトリックから分離してプロテスタントが生まれました。

 

プロテスタントに負けないように、世界中にカトリックをもっと広めようと、カトリックは『イエズス会』を創設しました。

そして、イエズス会のメンバーの一人がザビエルだったのです。

 

ザビエルは布教活動のために東へ東へと船で向かいます。

そんな中、ザビエルは東南アジアのマラッカで『ヤジロウ』という一人の日本人と出会うのです。

その運命的な出会いがザビエルを日本へと向かわせたのです。

 

このヤジロウは資料上確かな日本人のキリスト教徒です。

彼自身やザビエルの書簡によれば、彼は若い頃に人を殺し、薩摩や大隅に来航していたポルトガル船に乗ってマラッカに逃れました。

その罪を告白するために、彼はザビエルを訪ねたと言われています。

 

ザビエルは、彼から日本という国の存在を聞きました。

国の規模を考えるとイエズス会が最終目的地としたのは、間違いなく中国であったと考えられます。

ですが、その中国への道のりの途中にある高い文化レベルを持った日本という国があるならば、寄って布教活動をしようと考えたのです。

 

そして、1549年にザビエルが日本に来て、日本にキリスト教が広まったのです。

 

次は、ザビエルのミイラはインドにある?について解説していきますね!

ザビエルのミイラはインドにある?

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46歳の年齢でこの世を去ったザビエルの遺骸は石灰を詰めて納棺し、海岸に埋葬されました。

その後、ザビエルの遺骸はマラッカに移送され、さらにゴアに移送されました。

 

この時「聖人が亡くなると起こる」と言われる奇跡が起こります。

ザビエルの遺体は、なぜかいつまで経っても腐らなかったのです!!

 

1554年3月16日から3日間、聖パウロ聖堂にて棺から出されて一般に拝観が許されました。

このとき、興奮した女性信者が右足の指2本を噛み切って逃走するというハプニング起きるなど拝観者で溢れかえったそうです。

ちなみに、この指2本は彼女の死後、聖堂に返されたそうです。

 

ザビエルの死後50年が過ぎたとき、ローマのイエズス会総長の命令で、セバスチャン・ゴンザーレスによって、ミイラ化したザビエルの右腕が切断されました。

しかし、死後50年が以上が経過しているにも関わらず、切断された右腕からは鮮血がほとばしったと言われています。

 

その後、ザビエルの遺体は『奇跡のミイラ』とされ、遺体の一部は世界各国に分散され、一部以外は今も、インド・ゴアにあるボン・ジェス教会に大切に安置されているそうです。

 

次は、ザビエルの頭は禿げているわけではない?について解説していきます。

ザビエルの頭は禿げているわけではない?

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ザビエルの頭頂部は、禿げているわけではなく『トンスラ』と呼ばれるカトリックの修道士の髪型なのです。

 

しかも、日本の歴史の教科書に掲載されている有名なザビエルの肖像画はザビエルの没後80年経った頃描かれたものです。

当然写真などもありませんから、文書や人々の伝承の記憶からイメージで描かれたものだったのです。

なので、カトリックの修道士=トンスラ=フランシスコ・ザビエルということになってしまったのです。

 

しかし、海外にあるどのザビエル像を見ても頭部はフサフサとした豊かな髪があります。

また、彼が所属していたイエズス会にはトンスラの習慣がなかったようで、実際のザビエルの髪型はトンスラをしてはいなかったと考えられています。

 

『ザビエル=禿げ』は日本人が勝手に作り出した架空のイメージだったんですね。

 

次は聖フランシスコ・ザビエル記念教会について解説していきますね!

聖フランシスコ・ザビエル記念教会

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聖フランシスコ・ザビエル教会は、長崎県平戸市鏡川町にあるカトリックの教会および聖堂です。

 

教会の保護者は大天使聖ミカエルですが、聖フランシスコ・ザビエルの三度の平戸訪問を記念して、1971年(昭和46年)にザビエルの像が聖堂の脇に建てられたことから『聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂』とも呼ばれるようになりました。

 

そしてその後、現在の名称『平戸ザビエル記念教会』に改められました。

 

平戸市街地の丘の上にあり、市街地から坂を登る途中で手前の光明寺、瑞雲寺などの寺院と重なって見える風景は『寺院と教会の見える風景』として平戸を代表する景観の一つとなっています。

鉄筋コンクリート造りのゴシック様式の教会堂で、左側にのみ八角塔があるアシンメトリーな景観を作っています。

 

《所在地》
〒859−5152 長崎県平戸市境川町259−1

マカオではザビエルの骨が見れる?

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マカオにある『聖ヨセフ修道院』の聖堂にザビエルの右腕の遺骨が安置されています。

 

マカオ中心地のセドナ広場からのんびり歩いて10分ほどのところには、美しい教会が点在するエリアがあります。

そのエリアで一番の見どころとも言えるのが、聖ヨセフ修道院の聖堂です。

修道院は見学できませんが、併設した聖堂は自由に入ることができます。

 

聖ヨセフ教会は1758年にイエズス会によって建設されました。

マカオの主要な教会に倣い、バロック様式を採用しており、ドーム型天井には、イエズス会のシンボルである『IHS』という文字が書かれています。

この教会にはマカオで一番美しいマリア像やザビエルの遺骨がさりげなく展示されています。

 

このザビエルの遺骨についてですが、1619年ザビエルの右腕から肘までを切り取り、ゴアからマカオに送られました。

そこから一旦は日本に運ばれましたが、時代が悪くキリスト教迫害下の日本では安全が保障されないとの思いから、再びマカオに送り返されました。

 

以後約200年間は聖ポール聖堂に保管されていましたが、1835年にポール聖堂が焼失してしまい、その後は聖アントニオ教会に移されていました。

その後、聖フランシスコ・ザビエル教会に置かれていたようですが、現在は聖ヨセフ教会に大切に保管されています。

 

最後にザビエルについてまとめていきますね!

 

まとめ

フランシスコザビエルについてまとめていきます。

 

  • フランシスコザビエルは、日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師
  • ザビエルの一生はキリスト教宣教のために捧げた一生だった
  • ザビエルの本名は『フランシスコ・ジャッコア・アスピルクエルタ・イ・エチュベリーア』
  • ザビエルは『スペイン人』で民族でいうと『バスク人』
  • ザビエルが日本に来たのは、東南アジアのマラッカで『ヤジロウ』という一人の日本人との出会いがあったから
  • ザビエルの死因は、中国に宣教に向かったが、入国できないなど度重なる苦難があり、心身ともに疲弊して『肺炎』をこじらせてしまったことだった
  • ザビエルのミイラは『奇跡のミイラ』としてインド・ゴアにある『ボン・ジェス教会』に大切に安置されている
  • 実際のザビエルは禿げてはいなかった!日本で有名なザビエルの肖像画は没後80年経ってから、想像で描かれたものだった
  • 聖フランシスコザビエル教会は、長崎県平戸市鏡川町にあるカトリックの教会および聖堂
  • マカオにある『聖ヨセフ修道院』の聖堂でザビエルの右腕の遺骨を見ることができる

 

まとめると少しわかりやすくなりましたかね!

 

ザビエルはキリスト教以外にも多方面で日本に影響を及ぼした人物の一人です。

そして、真面目で熱意に溢れ、かつ柔軟な思考力を持った人物と言えます。

 

ザビエルの布教姿勢は比較的穏健なもので、ルイス・フロイス、グネッキ・ソルディ、オルガンティノといった後の宣教師たちもそれに続きました。

 

ですが、後にフランシスコ・カブラルが日本人を見下した行動をとったり、イエズス会以外の宣教師が目立ちすぎる活動や国益重視の行動をとるようになると、豊臣政権や江戸幕府からキリスト教は危険視され、厳しい弾圧を受けるようになってしまうのです。

 

死ぬ間際まで、必死にキリスト教を布教し続けたザビエルがこの状況を見ていたらどのように感じるでしょうか。

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