南北朝時代をわかりやすく解説!タブーとされる理由や歴代天皇についても

今回ご紹介するのは、南北朝時代です。

ただ単に2つの勢力が対立していただけでなく、朝廷が2つ存在するという史上唯一とも言えるこの時代は特殊であり、のちの時代にも大きな影響を与えました。

 

  • 南北朝時代はどんな時代だった?
  • 南北朝時代の有名な武将は?
  • 南北朝時代がタブー視された理由は?
  • 南北朝時代の刀はどんなものだった?

 

今回はこうした点に特にスポットを当てているので、是非ご注目ください!

南北朝時代をわかりやすく解説!

後醍醐天皇
後醍醐天皇

南北朝時代は、鎌倉時代と室町時代に挟まれた時期であり、天皇が2つに分かれていた時代です。

 

もともと鎌倉時代に、

  • 大覚寺統
  • 持明院統

という、2つの天皇の系統が存在しており、両系統から順番に天皇が即位するという両統迭立の原則ができていました。

 

1333年に鎌倉幕府が倒れますが、これを主導したのは大覚寺統の後醍醐天皇です。

足利尊氏新田義貞といった人物たちは後醍醐天皇に協力することで倒幕に貢献し、後醍醐天皇は建武の新政という政治を開始します。

 

しかし、建武の新政は天皇を中心としたものであり、倒幕に貢献した武士たちの恩賞も不公平であったため、武士たちの支持を得られなくなります。

足利尊氏は後醍醐天皇から離反し、彼には多くの武士も従いました。

 

尊氏は後醍醐天皇との和解を図りつつ、持明院統の光明天皇を京都に擁立し、室町幕府を開きました。

しかし、後醍醐天皇は本物の三種の神器を持っていると主張し、吉野に逃れて朝廷を開きます。

 

のちに

  • 尊氏の奉じた朝廷は北朝
  • 後醍醐天皇の側の朝廷は南朝

と呼ばれることとなります。

 

このような2人の天皇が併立する状況が50年以上続きます。

室町幕府3代将軍の義満の頃になると、北朝が南朝に対して圧倒的に優位に立っていました。

そして、最終的には南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位したことで、事実上南北朝の合一が達成されました。

 

次に、南北朝時代の年表や全国の勢力図、天皇の系図をご紹介します。

年表

出来事
1333 鎌倉幕府滅亡
建武の新政始まる
1336 建武式目成立
足利尊氏が光明天皇擁立、後醍醐天皇吉野で朝廷を開く
1349~1352 観応の擾乱
1359 筑後川の戦い
1368 足利義満征夷大将軍に
1392 南北朝合一

勢力図

南北朝時代 勢力図
(出典:コトバンク 南北朝時代
南北朝時代 勢力図
(出典:コトバンク 南北朝時代

天皇系図

天皇系図
(出典:小・中学生のための学習教材の部屋 知識の泉 南朝と北朝について

次の章では、南北朝時代の有名な武将たちについてご紹介します!

武将

足利尊氏

代表的な武将たちをご紹介していきます。

 

まずは室町幕府の初代将軍となった足利尊氏です。

彼は当初後醍醐天皇に従って鎌倉幕府の滅亡に大きく貢献しました。

 

彼はもともとは「足利高氏」だったのですが、この勲功が評価されて、後醍醐天皇の諱(本名)である尊治から一字をもらって「尊氏」となったのです。

しかし、後醍醐天皇の建武の新政には反対し、結果的に光明天皇を擁立して後醍醐天皇と対立してしまいます。

 

彼は弟の直義とともに室町幕府を動かしていましたが、両者はその後対立して「観応の擾乱」という幕府内の内紛が起こります。

実はこの時、尊氏は直義派に対抗するため一時南朝に降伏しており、南北朝の合一は一瞬ですが達成されたのです。

尊氏の子の義詮がすぐに北朝を復活させてしまうのですが。

 

次にご紹介するのは、新田義貞です。

彼は鎌倉時代末期から足利尊氏のライバルとも言える存在であり、尊氏とともに鎌倉幕府倒幕に貢献した後は尊氏と対立、南朝の総大将となりました。

 

彼は北朝と戦いを重ねますが敗北し、最期は越前国で戦死しました。

彼は生涯を南朝のために捧げており、死後500年ほど経った明治維新後に「忠臣」として再評価されるようになるのです。

 

次は楠木正成です。

彼も鎌倉幕府滅亡に貢献した武将の一人なのですが、前述の2人とは異なって出自がはっきりしていません。

それでも倒幕以来圧倒的な存在感を出した理由は、彼が天才的な武将であったからです。

 

彼は戦術としてゲリラ戦や情報戦を取り入れており、また日本全土を視野に入れて戦乱を組み立てた不世出の軍事的天才だったのです。

彼も北朝軍との戦いで戦死してしまうのですが、江戸時代末期から明治期に特に再評価を受けることとなるのです。

 

次に、南北朝時代がタブー視された理由に迫っていきます!

南北朝時代がタブーとされる理由は?

南北朝時代は、一時期タブー視されていました。

それは、これまで見てきたように天皇家の血統が2つに分かれていたことに関係します。

 

明治時代に発布された大日本帝国憲法の記載に、

  • 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

とあるのです。

 

「万世一系」である、つまり天皇家の血筋は一度も途切れていない、としています。

 

そんな時に、南北朝時代に一度2つに分かれて途切れてしまったじゃないか、という議論を持ち出すことは、国家の基盤を揺るがしてしまいますね。

だからこそ、この憲法下では南北朝時代の出来事からは目を背けるようになったのです。

 

次の章では、日本が南北朝時代であった時の中国の様子について見ていきます。

南北朝時代当時の中国はどうなっていた?

鎌倉幕府滅亡当時、中国ではが支配していました。

元は13世紀後半には皇帝フビライ=ハンのもとで最盛期を迎えますが、14世紀には衰退が始まっていました。

 

そして1368年、朱元璋という人物が建てたにより、元は滅びます。

彼は洪武帝として中国皇帝に即位すると、六部という中国の官庁を皇帝直属にして、独裁体制を構築しました。

ほかに、農村の検地や人口の調査を進めるなど、特に農業に力を入れることで国の発展を図りました。

 

次に、南北朝時代の刀工として有名な人物について見ていこうと思います。

南北朝時代の刀工で有名な人は?

この南北朝時代で有名な刀工として、貞宗という人物を取り上げます。

 

この時代に、刀は実用的で勇壮なものとされる相州伝が日本全国に広まっており、貞宗はこの相州伝を代表する刀工でした。

貞宗の父は正宗といい、相州伝を確立した、史上最も著名な刀工の一人です。

彼は正宗の作風を残しつつ、全体的に正宗よりも穏健な作風を残したことで知られており、現在彼の作品は多く国宝や重要文化財として残っています。

 

次に、この時代の刀の特徴について見ていきます。

南北朝時代に使われていた刀の特徴は?

南北朝時代の刀は、巨大化したことが大きな特徴です。

その理由は主に2つあります。

 

1つ目は、前述の相州伝の確立により、よく切れて曲がらない刀の製作が可能になったことです。

中には150cmを超える長さを持つものも製作されました。

 

もう一つは、大きな刀の需要が増したことです。

南北朝間で争いが頻発したことで、個人の武術の力量が重要視され、実力主義の機運も高まっていきました。

 

そして、大きな刀を持つことで、個人の力の大きさを誇示しようとしたようです。

ただ、武器が大きすぎて、侍従の者に持たせるということもあったようです。

 

次の章では、北朝と南朝の政治の違いについて見ていきます。

北朝と南朝の政治の違いは?

南朝は、北朝と対抗するにあたって全国各地に後醍醐天皇の皇子を派遣しています。

 

特に力を見せたのが、九州に征西将軍として派遣された懐良親王です。

1359年に、九州において筑後川の戦いという大規模な戦いが起こり、懐良親王の南朝はこれに勝利したことで、以後10年ほどこの地は南朝の支配下に入ることとなります。

 

また、建武の新政において、後醍醐天皇は摂政・関白の廃止による天皇独裁体制を作ろうとしましたが、これは失敗に終わっています。

そのため、天皇と同様、南朝は北朝とは異なる関白が置かれていたのです。

 

北朝は、将軍足利家を中心とした室町幕府が主導権を持っています。

将軍に次ぐ地位を持っていたのが管領であり、斯波氏・畠山氏・細川氏の「三管領」が就きました。

ほかに「七頭」という有力氏族が幕府の重要な職務を担当していました。

 

基本的な法としては、鎌倉時代に成立した御成敗式目を適用して「建武式目」が制定されています。

また、幕府直属の軍隊として奉公衆が創設されました。

地方政治においては、守護の地位が鎌倉時代よりも大きくなっていき、次第に両国の支配者、すなわち「守護大名」へと変貌していきます。

 

次に、南北朝時代を取り扱った小説について見ていきます。

南北朝時代の小説

南北朝時代をテーマとした小説について、2作品ほどご紹介いたします。

 

1作品目は『風の群像ー小説・足利尊氏』(杉本苑子、2000年、講談社)です。

室町幕府を開くこととなる足利尊氏が、北条氏の鎌倉幕府を打倒し、その後の熾烈な争いを描き出します。

 

もう1作品は、『新太平記』(山岡荘八、1986、講談社)です。

歴史小説家として著名な山岡荘八によるこの作品は、文庫版にして全5冊に及んでいます。

後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すことを密かに企んでいた時期からの主要人物の動きを、鮮やかに描いた作品となっています。

まとめ

いかがでしょうか。

それでは、もう一度南北朝時代について振り返ってみます。

 

南北朝時代は1336年から50年ほど続いた、朝廷が南朝と北朝の2つに分かれていた時代です。

 

1333年に後醍醐天皇の主導のもとで鎌倉幕府が倒れ、建武の新政が始まりますが、その天皇親政の方針に反対した足利尊氏など多くの武士が、後醍醐天皇から離反します。

足利尊氏は別の天皇を擁立して室町幕府を開き、後醍醐天皇は吉野へのがれて別の朝廷を開いたことで、南北朝時代が成立しました。

南北朝が合一を果たすのは、1392年のことです。

 

南北朝時代の代表的な武将としては、北朝では足利尊氏、南朝では新田義貞や楠木正成などがいましたね。

 

南北朝時代は天皇の皇統が2つに分かれていたため、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とした大日本帝国憲法下の日本では特にタブー視されていました。

 

南北朝時代のころ、中国では元が滅んで朱元璋のもとで明が興隆を見せていました。

 

南北朝時代の刀は、相州伝が全国に広がり、巨大なものが使われていたようで、刀工としては貞宗が有名です。

 

室町幕府は将軍の下に管領が置かれ、直属の軍として奉公衆が創設されるなどしており、南朝では北朝とは異なる関白が置かれていました。

 

南北朝時代を扱った小説としては、『風の群像ー小説・足利尊氏』や『新太平記』などがありましたね。

是非一度手に取ってみてください!

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