長宗我部元親

今回解説していくのは土佐の出来人と呼ばれた長宗我部元親

 

土佐の国人から四国統一を成し遂げましたが、今回はそんな長宗我部元親について

  • 長宗我部元親の生涯と年表
  • 長宗我部元親の本拠地や家紋について
  • 長宗我部元親と織田信長との関係
  • 長宗我部元親ゆかりの地

 

などについて詳しく解説していきたいと思います!

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長宗我部元親の生涯を解説!

長宗我部元親

長宗我部元親は1539年に土佐国の国人の一人であった長宗我部国親の嫡男として岡豊城で生まれます。

長宗我部元親は背が高く器用は良いのだが、いつも屋敷の隅にこもっているとして嘲笑の的になることが多く、この頃滅亡一歩前の憂き目に立っていた長宗我部家もこの代で終わると父親でさえ深く嘆いていたそうです。

 

そんな中元親が22歳になった頃、国親は土佐国の豪族である本山家の領地に侵攻。

22歳で初陣はかなり遅いものでしたが、元親はこの初陣の時に大活躍。

『姫若子』という前評判をガラリと変え、元親は嫡男としてふさわしい武将となったのでした。

 

その後父である国親の死後、元親は急激に勢力を拡大。

長宗我部家の基盤である一領具足を元に1568年に本山家を滅ぼすと土佐中部を統一。

さらに元親は八流の戦いで土佐東部を治めていた安芸家も撃破すると東部も統一。

 

一時は滅びかけていた長宗我部家は元親によって土佐一の勢力へと変貌を遂げるのですが、そんな長宗我部の勢力を確固たるものにしたのが1575年の四万十川の戦い

この当時土佐東部を治めていた土佐一条家ではクーデターが起こっており、元親はこれを機に土佐統一を果たそうとするのですが、これに大友家の支援を受けた一条兼定が対峙。

 

四万十川を挟んで攻防が繰り広げられるのですが、元親は兼定の軍に対して陽動作戦を行い一気に畳み掛けて勝利。

土佐一条家を滅ぼし、念願の土佐統一を果たしたのでした。

 

その後は四国も我が物にしようと四国全体に侵攻を開始。

この頃の四国は弱小勢力がひしめき合っており、元親の手にかかれば一気に攻めつぶせるものでしたが、この時立ちはだかったのが織田信長

四国を統一しかけていた元親に警戒をして四国征伐を実施しようと画策し始めます。

 

元親は一気にピンチに追い込まれるのですが、よりにもよって四国征伐に出発しようとしていた日に本能寺の変が勃発。

信長は横死し、これに漬け込んだ元親はついに47歳にして四国統一を成し遂げることになりました。

 

しかし、一難去ってまた一難。

この頃中央では信長の跡を継いだ羽柴秀吉が急激に勢力を拡大。

中国地方の毛利家や宇喜多家は秀吉に友好的な姿勢を見せていたため、四国の長宗我部家は孤立した存在となってしまいます。

 

元親は懸命に交渉に打って出ましたが、上手くはまとまらず1583年に四国征伐が起こってしまい、10万の兵が一気に四国になだれ込んでいきました。

元親もこれにはどうすることもできず秀吉と和睦。

せっかく頑張ってもとが手に入れた四国は手放さなければならず、土佐一国が安堵されるという結果となりました。

 

さらに元親に悲劇が襲いかかります。

四国征伐から3年後、元親は秀吉の名を受けて九州征伐に出陣。

九州を統一しかけていた島津家を攻めるために四国の大名たちを九州に派遣しました。

 

しかし、四国の大名たちは元々敵同士。

上手く軍議はまとまらず、戦上手である島津家に勝てるとは到底思えない代物でした。

また、元親は秀吉の本軍が来るまで持久戦を行うべきだと主張しますが、当時先鋒の総大将である仙谷秀久は何を血迷ったか知りませんが戸次川を渡って一気に島津軍を攻め滅ぼすと命令。

 

冬の時期の渡河など無理難題であり勝てるはずもない戦なんですが、仕方なく進軍。

案の定主力部隊は島津軍の伏兵に襲撃をくらい壊滅。

さらにこの時嫡男である長宗我部信親と大切な家臣も失う被害を受けてしまいました。

 

私が思うに、この戸次川の戦いが長宗我部家の未来を大きく変えてしまったと言っても過言ではないと思います。

手塩にかけて育てて聡明と評判が良かった嫡男である信親の死な元親の性格を大きく変えてしまい、これまでの優しい性格は一転過激な性格に変わってしまいました。

 

元親は自身の考えに刃向かうものを難なく粛清。

家督を無理矢理四男である盛親に譲るために次男と三男も幽閉にしてしまいます。

 

この結果長宗我部家を混乱状態に変えてしまった元親。

元親は長宗我部家が混乱している中1599年に伏見の屋敷にてこの世を去ってしまいました。

経歴と年表

1539年 長宗我部元親が生まれる

1560年 長浜の戦いで初陣を飾る

1563年 明智光秀の重臣の娘を娶る

1569年 土佐東部を統一

1575年 土佐一国を統一

1576年 阿波に侵攻開始

1584年 四国統一

1585年 豊臣秀吉による四国征伐にて土佐一国のみ安堵される

1586年 戸次川の戦い 嫡男の信親が討死

1599年 伏見の屋敷にて死去

家紋について

長曾我部元親の長宗我部家は七つ片喰という家紋を用いていました。

 

この家紋は長曾我部元親の祖先が人物が土佐に向かう時に参拝した時、カタバミの葉が浮かんでいたことから家紋したという説や、カタバミは繁殖力が強いことから長宗我部家が長く繁栄するように願ってつけたという説があります。

城はどこにある?拠点はどこだった?

長宗我部元親は生まれた時から長宗我部家の拠点であった岡豊城という城を代々本拠地としてきましたが、1588年に高知城の前身となる大高坂山城に移転し、その後岡豊城に戻りながらも、最終的に1591年に浦戸城という城を本拠地としました。

 

ちなみに、高知城を本拠地とするのは長宗我部家の次に土佐に入ることになる山内家の時。

1611年に完成したそうですから元親とは関係ありません。

墓の場所

長宗我部元親は1599年に亡くなるとその亡骸は土佐の長浜に埋葬されました。

しかし、墓の様子はかつて四国を統一した墓としてはなんとも不十分。

 

やはり長宗我部家が西軍についてしまい、お家がお取り潰しになってしまったことが、主な原因となったとは思いますが、今でも長宗我部元親を慕っている人によって墓の状態は保たれています。

家系図

長宗我部のルーツは、とある説によると秦の始皇帝の子孫が日本にわたり、秦能俊という人が土佐国において宗我部氏を名乗ったのが始まりだといわれています。

その後長宗我部に変えて戦国時代が訪れることになるのですが、長宗我部家は国親の父親の代の時に一旦岡豊城を落とされてしまい、滅亡してしまいます。

 

その後は土佐一条家に逃げ延びでその時に父親である長宗我部国親が元服。

なんとか城を取り返して元親に移り変わることになります。

 

元親の死後は四男である長宗我部盛親が跡を継ぐのですが、関ヶ原の戦いで西軍についたことによって改易。

盛親は大坂の陣で豊臣方について再起を図ろうとしますが、破れてしまい斬首となってしまいます。

 

こうして長宗我部家は盛親の代で滅んでしまうことになったのでした。

幼名

戦国大名には幼少の時には幼名といって成人する時とは全く違う名前を名乗っていました。

 

長宗我部元親の場合は弥三郎と呼ばれていましたが、青年期の元親は女性のように肌が白く、またなよなよした性格だったために姫若子と呼ばれることもありました。

名言

一芸に熟達せよ 多芸を欲張るものは巧みならず

(芸は一つに絞って熟達させなさい、いろんな芸を欲張って熟達させるとうまくはならない)

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長宗我部元親と織田信長の関係

織田信長

織田信長

長宗我部元親の一つ目の危機。

それは何と言っても織田信長による四国征伐の危機でした。

長宗我部元親は織田信長と対立したとよく言われますが、実はそれが表面化したのは1580年と結構後の話。

 

実は信長と元親が対立するようになったのは以下の理由からでした。

信長は長宗我部元親の四国征服に反対していた!

信長が台頭していた時、四国では伊予の河野家、阿波の三好家、そして土佐長宗我部家の三つ巴の状態が続いており、織田信長は三好家と対立していたことから丁度阿波に侵攻する動きを見せていた長宗我部元親に肩入れをしていました。

 

しかし、三好家がいきなり信長に臣従するようになってから、信長の長宗我部元親に対する考えは一気に変わります。

 

もしもこのまま長宗我部元親が四国を統一したら信長に反抗するのではないかと思い始め、1580年に織田信長は四国統一を順調に進めていっている長宗我部元親に対して土佐と阿波半国のみの領有を認め臣従するように命令。

 

もちろん元親はこれを拒絶して一気に両家の間柄は冷え切ってしまうようになりました。

長宗我部元親が信長に出した手紙

2014年に発見された資料によると信長は元親と度々文通を通じて同盟関係を結んでおり、信長は元親に対して四国の切り取りを自由にするというお墨付きの手紙を出しました。

 

これに元親は感謝の意を示そうと信長の家臣に感謝の気持ちと四国攻めの状況を伝えたんだそうです。

二人は元々同盟を結んでいたが晩年から不仲に?

元親と信長の関係のキーマンとなったのが三好家

 

三好家は元々阿波や讃岐などの四国の東半分を領有している大名でしたが、この家がなんといっても信長が大嫌い。

信長と三好家は度々抗争を起こしており、三好家の領地に侵攻し始めていた元親はまさしく、信長にとったら都合のいい存在でした。

 

元親の方も、畿内を完全に掌握している信長と手を結べることはまさしく願ったり叶ったり。

この頃は元親の長男に信長の信の字をつけて烏帽子親にするぐらい両家の仲も良好で、このままいけば信長の後ろ盾のもとで四国を統一できたかもしれません。

 

しかし、三好家が信長に臣従してから話はガラッと変わってしまいます。

信長と元親の同盟の理由であった共通敵が消滅したことによって、都合のいい存在から一気に目の上のたんこぶに。

 

信長はなんとかして元親を抑え込もうとしたことによって一気に関係が冷え切ってしまったのでした。

長宗我部元親と明智光秀の関係

明智光秀

明智光秀

よく、長宗我部元親と明智光秀は親戚同士で、本能寺の変を起こした理由の一つにこの関係があったからだと主張している人も数多くいます。

一体元親と光秀の間にはどのような関係があったのか?

 

次はそんな両者の仲についてみていきましょう。

二人は親戚関係というのは事実?

元親と光秀は実は親戚といってもいいぐらいの間柄にありました。

実は元親の正室であった奈々という女性は美濃守護である土岐氏の出身で、さらには光秀の重臣であり、斎藤利三の娘でした。(ちなみにこれは狙ったのではなく単なる偶然)

 

親戚であり、家臣の娘としての認知はあると思いますから、光秀からしたら元親は気にかける存在だったのでしょう。

長宗我部元親が光秀の重臣に送った手紙

信長による四国征伐の直前、元親は信長に恭順しようと明智光秀の重臣である斎藤利三に手紙を出していたことが分かりました。

斎藤利三は妻の兄ということもあって元親は信長による四国征伐をなんとか回避しようとしていたのでしょう。

長宗我部元親が本能寺の変に関係していたのか?

信長による四国征伐に一番頭を抱えていたのは光秀だったのかもしれません。

 

実は四国征伐を行う前元親は信長の要求通り、土佐と阿波半国以外を手放すことに合意していて信長に対しても恭順の石を示そうと上にも書いた通り、光秀の重臣である斎藤利三に送っています。

 

しかし、信長は四国征伐をやめる気はなく、三男の織田信孝と重臣丹羽長秀を四国に派遣。

一気に攻め滅ぼそうとしていきます。

 

こうなると板ばさみとなってしまった光秀。

もちろん他にも色々な理由はあると思いますが、光秀が本能寺の変を起こした訳には元親をなんとかしても助けたいという思いも少しはあったかもしれません。

長宗我部元親ゆかりの地

長宗我部元親が生まれた土佐国。

今では高知県と名を変えていますが、今でもこの地には長宗我部元親ゆかりの場所がたくさんあるのです。

若宮八幡宮

高知県高知市にある若宮八幡宮。

実はこの神社は元親が初陣を迎えた時に陣を構えた場所であり、これ以降思い出深い地として戦に向かう際にはここで戦勝祈願をするようになったそうです。

 

ちなみに、長宗我部家が滅亡しても崇敬される神社であることは変わらず、長宗我部家の次に土佐に入った山内氏もここに祈願したんだそうです。

土佐神社

土佐国の一宮としても知られている土佐神社。

実はこの神社は長宗我部家の敵であった本山氏が長宗我部家の岡豊城を攻めてきた際に焼失してしまったかわいそうな神社でした。

 

元親は、1567年からこの土佐神社の再建に着手。

1571年には再び完成し、長宗我部家の重要な神社の一つとなりました。

銅像

元親が亡くなってから400年後の1999年。

この年、地域おこしを目的としていた一領具足会が中心となって元親の初陣の姿を現した銅像を建立されました。

22歳で初陣を迎えた元親の姿を力強く表しており、左手は四国を掴もうとする様子が見て取れて『土佐の出来人』の姿を再現しています。

大河ドラマ「真田丸」

大河ドラマの真田丸では、彼の跡を継いだ長宗我部盛親の様子が描かれています。

盛親は関ヶ原の戦いによって改易された後、京都で寺子屋を開くのですが、大坂の陣では豊臣方として大活躍することとなります。

 

この盛親を演じたのが阿南健治という俳優。

この人は度々三谷幸喜の作品に出演しており、盛親を上手く演じ、ネットでも注目を浴びることになりました。

 

それではまとめに入ります!

まとめ

まとめです!

  • 長宗我部元親は土佐一国から四国統一を成し遂げたが、晩年に戸次川の戦いで嫡男を失くすと長宗我部家を混乱に陥れた
  • 長宗我部元親は二つ片喰という家紋を使い、本拠地は岡豊城と浦戸城を使っていた
  • 長宗我部元親と織田信長は最初は同盟関係を結んでいたが、1580年から険悪ムードとなっていった
  • 高知県には様々な長宗我部元親ゆかりの地があり、没後400年の1999年には銅像も建てられた

 

最後になりましたが、土佐の出来人と呼ばれた元親の生涯はまさしく波乱万丈だったと思います。

残念ながらその後長宗我部家は没落していくことになったのですが、四国統一を成し遂げた彼の業績は今もしっかりと残っているのですね。

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