姉川の戦いを解説!お市が送った袋の鼠メッセージについても言及!

今回は、織田信長浅井長政が激突!姉川の戦い(あねがわのたたかい)について、わかりやすく解説していきたいと思います!

 

  • そもそも、姉川の戦いが起きた原因は?
  • 浅井長政とは何者?
  • 姉川の戦いで活躍した有名武将は?

 

さらに、兄・信長の窮地を救った妹・お市からの「袋の鼠」メッセージとはどんなものだったのか!?

 

そんな疑問を、全部まとめて解決しちゃいます!

織田信長と浅井長政が対立

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まず、戦いのきっかけとなった織田信長浅井長政の関係についてお話します。

 

なんとこの二人、実は義兄弟だったのです!

 

桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った織田信長は、京都へ勢力を伸ばしたいと考えていました。

尾張から京都へ行くには近江を通らなくてはいけないため、北近江を治めている浅井長政を味方にしようと妹・お市を嫁がせました。

 

こうして義兄弟になった二人ですが、この婚姻の際にひとつの約束をしていたのです。

それが、「浅井家と古い同盟関係にある朝倉家には攻め込まない」という約束です。

 

しかし!

その約束を信長が破ってしまったから、さあ大変!

 

長政は信長と対立することになり、姉川の戦いへと繋がるわけです。

二人の対立のきっかけは、信長が先に約束を破ったことだったんですね。

 

では、次に対立のきっかけとなった金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)について解説します!

金ヶ崎の戦い

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約束を破ったのはいけないことですが、信長にも言い分があります。

長政と対立するきっかけとなったのは朝倉家を攻めたことですが、朝倉家を攻めた原因は朝倉家にあるのです。

 

お市を嫁がせたことで長政と協力することになった信長は、足利義昭を第15代将軍として担ぐことで上洛します。

この時代、新しい将軍が決まったときには、各大名は挨拶に行くことになっていました。

 

もちろん、朝倉家も例外ではありません。

しかし、信長による再三の勧告も聞かず、朝倉家は挨拶に来なかったのです。

 

それに怒った信長は、1570年(元亀元年)4月20日に朝倉家討伐に向け越前に出陣、5月30日には金ヶ崎城を包囲しました。

信長と共に、徳川家康・明智光秀・木下秀吉(豊臣秀吉)が出陣していたため、はじめのうちは織田軍が優勢でした。

 

ですが、ここで信長も大慌ての事態が起こります。

それが義理の弟・浅井長政の離反です。

 

はじめのうちは信じていなかった信長も、ある知らせを受け金ヶ崎からの撤退を決めます。

信長が京都へ撤退したことから、この金ヶ崎の戦いは金ヶ崎の退き口、金ヶ崎崩れとも呼ばれています。

撤退の際、秀吉が殿を勤め奮闘の末に信長を脱出させた逸話も有名ですね。

 

そして、ついに姉川の戦いが始まるのです!

姉川の戦い

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京都への脱出を成功させた信長の怒りの矛先は、朝倉家から長政へと移ります。

妹を嫁がせ、信頼していたにもかかわらず裏切られたのです。

 

こうして対立することになった二人は、1570年(元亀元年)7月30日に姉川で合戦を始めました。

それが姉川の戦いです。

 

織田軍は徳川軍の援軍を加え、およそ3万4000の軍勢。

それに対し、浅井軍は朝倉軍と手を組み、およそ2万1000の軍勢でした。

数の上では織田・徳川軍が勝っていますが、戦いは浅井・朝倉軍が優勢です。

 

しかし、ここで織田・徳川軍が負けては、その後の本能寺までたどり着けませんよね?

織田・徳川軍の劣勢をひっくり返したのは、なんと後に徳川家最強と謳われることになる若かりし頃の本多忠勝だったのです!

 

本多忠勝の活躍については、この後詳しく解説しますので少しお待ちください。

 

とにかく、忠勝の活躍で優勢へと立った織田・徳川軍は一気に浅井・朝倉軍を攻めます。

そして朝倉軍は敗れ、浅井軍も小谷城への撤退を余儀なくされました。

姉川の戦いは、織田・徳川軍の勝利に終わったのです。

 

では、姉川の戦いの詳しい布陣を見ていきましょう。

姉川の戦いの布陣図

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姉川の戦いは、川を挟んで行われました。

織田軍の対岸には浅井軍が、徳川軍の対岸には朝倉軍が対峙していたのです。

 

このとき、浅井軍は野村、朝倉軍は三田村へと軍を進めていたことから、「野村合戦」または「三田村合戦」と呼ばれることもあります。

徳川軍と睨み合っていた朝倉軍の朝倉景紀・前波新八郎たちが攻めかかったことで、戦いの火蓋は切られました。

 

そして、激戦の最中徳川軍の榊原康政らが側面から攻撃したことにより形勢が逆転し、織田・徳川軍が勝利を収めたのです。

こうして、姉川の戦いは幕を閉じました。

 

では、今度は金ヶ崎の戦いで信長が受け取った”ある知らせ”や、姉川の戦いでの本多忠勝の活躍を詳しく見ていきましょう。

まずはじめに、信長が受け取った”ある知らせ”についてです。

お市が送った袋の鼠のメッセージ

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先に解説した金ヶ崎の戦いで、信長が長政の裏切りを信じたのはある知らせがあったからだと書きました。

その知らせとは何だったのか?

 

実は、それは妹・お市からの密告だったのです。

密告といっても、お市が直接伝えに来たわけではありません。

お市は、小豆を袋に入れ両端を縛ったものを送って、信長に長政の離反を伝えたのです。

 

なぜ小豆の入った袋で、そんなことが伝わったのか?

一説では、小豆の入った袋は信長の父・信秀が大敗した小豆坂の合戦を暗示していたのではないかといわれています。

 

小豆坂の合戦では、父・信秀があと一歩で勝利、というところで伏兵に横合いを突かれ、退路を塞がれたことが大敗の原因でした。

お市は、兄・信長が朝倉を攻めている間に長政が裏切り、父のように退路を絶たれ負けることを心配したのでしょう。

 

そして、小豆入りの袋を送ることで、「浅井の裏切りで、兄上は袋のネズミとなりつつあります」と伝えることに成功しました。

信長はお市からの密告を受け、すぐさま撤退することで難を逃れることができたのです。

ただ、このお市からのメッセージについては信憑性に乏しく、俗説ではないかと考えられています。

 

次は、姉川の戦いで大活躍した本多忠勝についてです!

本多忠勝の活躍

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姉川の戦いでその名を全国に知られることになった本多忠勝。

忠勝は、この戦いで2000の兵を率いて榊原康政・酒井忠次らと出陣していました。

 

彼が活躍を見せたのは、織田・徳川軍が苦戦を強いられ、徳川本陣へと朝倉軍が迫ったその時!

なんと、敵将である真柄直隆に対し、無謀ともいえる一騎打ちを敢行したのです!

それを見た徳川軍は忠勝を必死に助けようと奮闘し、その勢いが朝倉軍を打ち崩したといわれています。

 

結局、忠勝と真柄直隆による一騎打ちは、勝敗のつかないまま戦の流れに流されてしまいました。

そして、真柄直隆は姉川の戦いで命を落とし、その後忠勝と刃を交えることはありませんでした。

 

姉川の戦いの後、信長は忠勝の並外れた武勇を「花実兼備の勇士」「日本の張飛」と絶賛したそうです。

こうして忠勝は、徳川家最強と言われるまでに武勲を重ねていくのでした。

 

それでは最後に、姉川の戦いの後で浅井長政がどうなったのかお話します。

小谷城の戦い

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姉川の戦いから三年後の1573年。

ついに、浅井長政の最期の時が来ます。

 

姉川の戦いで敗北し、次々に浅井家の家臣たちが織田家へ寝返りました。

しかし、長政はなんど信長からの降伏勧告を受けようと拒否し続け、一向一揆と手を組むなどして信長に抵抗していました。

 

それも限界まで来たとき、共に戦った朝倉家は一乗谷城で織田軍に滅ぼされ、後に続くように小谷城で浅井家も滅ぼされることとなりました。

小谷城の戦いで長政は、息子・万福丸を家臣と共に城外へ逃がし、妻であるお市と三人の娘を攻め込んできた秀吉に引き渡すと、28歳で自刃しました。

 

その後、息子・万福丸も捕縛されると関ヶ原で磔にされ、命を落としました。

こうして浅井家は滅んだのです。

 

歴史のことを調べていると、実際に現地に行ってみたくなりませんか?

現在の姉川はどのようになっているのか、地図を参考に訪れてみるのも面白いかもしれません。

姉川の戦いの場所

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織田・徳川軍と浅井・朝倉軍が激戦を繰り広げた姉川は、現在の滋賀県長浜市野村町を流れる川です。

姉川野村橋のたもとには、戦死者の慰霊碑が立てられています。

浅井長政最期の地である小谷城と共に訪れるのもいいかもしれませんね。

地図

姉川の戦いについて、理解できたでしょうか?

少し情報が多くて、混乱してしまったかもしれません。

 

では、ここまでの内容をまとめてわかりやすく整理しましょう!

まとめ

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最後に、姉川の戦いについてまとめます。

 

  • 1570年(元亀元年)7月30日に姉川で起きた織田徳川軍と浅井朝倉軍の戦いを「姉川の戦い」と呼ぶ
  • 織田信長と浅井長政は、信長の妹お市が嫁いだことで義兄弟の関係だった
  • 長政が離反する原因となった「金ヶ崎の戦い」は、浅井家の同盟相手である朝倉家を信長が攻めたために起こった
  • 「姉川の戦い」で織田徳川軍は苦戦を強いられたが、本多忠勝の活躍により勝利を収めた
  • 長政は「姉川の戦い」から三年後、「小谷城の戦い」で自刃した

 

まとめてみると少しわかりやすくなりましたかね?

 

結局、朝倉家の勝手な行動に信長が怒り、朝倉家に味方したことで浅井家まで滅ぼされた、というのが姉川の戦いなのです。

 

今回は触れませんでしたが、もっと詳しく両軍の動きなどを調べていくと、あちこちで焼き討ちなどをしていて「あ、織田信長だなぁ」という感じがしますので、興味のある方はもっと調べてみてください。

 

それにしても、こうして見てみると28歳という若さで自刃した長政の一生は、とても儚いものだったのでしょうね。

時代の奔流に押し流され、古くからの同盟相手を取るか、妻の兄を取るかで心を痛めたのかもしれません。

 

戦国時代はロマンがあり憧れる時代でもありますが、この時代に生まれなくてよかったかも、なんて思ってしまいますね。

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