足利義満
足利義満

今回は足利義満についてわかりやすく解説していきたいと思います!

 

  • 足利義満が金閣寺を作った理由
  • 足利義満の一生涯
  • 経歴や年表
  • 本当は天皇になりたかった?
  • 明の皇帝に日本国王に任命された?
  • 足利義満の名言や逸話
  • 足利義満と義政の関係
  • 足利義満と一休の関係やエピソード

 

その他、足利義満が行った勘合貿易についてや、南北朝合一をどのように果たしたのかと、その目的など一つ一つ詳しく解説していきますね!

 

ではまず、足利義満が金閣寺を作った理由について解説していきます!

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足利義満が金閣寺を作った理由

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ここでは、修学旅行でもお馴染みの『金閣寺』についてクローズアップしていきます。

 

金閣寺が建てられたのは、1397年

その頃の足利義満は、もう将軍職を息子に譲り、太政大臣も辞めていました。

つまり、隠居生活をしていたのです。

 

当時の金閣寺は、足利義満の別荘として建てられ、『北山殿』と呼ばれていました。

金箔をふんだんに使った豪華絢爛な金閣寺。

 

義満はなぜ別荘にしては、ちょっと豪華すぎではないかと思うような、ピカピカの金閣寺を建てたのでしょうか?

その理由は、『金閣寺は、義満が自分の権威を誇示するために作ったもの』だったという説があります。

 

金閣寺の造りは非常に変わっていて、

  • 1階は寝殿(公家)造り
  • 2階は武家造り
  • 3階は中国風の禅宗様

 

となっていて、金箔仕様になっているのは2階と3階で、1階には金箔は貼られていないのです。

 

これが何を意味するかというと、

  • 1階の公家や貴族よりも武家が上
  • そのもっと上に中国皇帝がある

 

という事を表現しているのです。

そして、当時、足利義満個人が取り仕切って、交易をしていた明国の様式を上に据えることで、自分が『最大権力者である』ということをアピールしているのではないかと言われているのです。

 

義満の時代は、室町幕府の全盛期と呼ばれる時代ではありましたが、大胆なことしますよね。

天皇家はさぞ怒り心頭でだったのでは・・・

 

ちなみに、1987年に行った金閣寺の建て替えのときに、金箔の張り替えや漆の塗り替えにかかった工事費用は7億4000万円だったと言われています。

足利義満のこだわりが詰まった金閣寺は、今でも貴重なものとして、世界遺産に登録されています。

 

では次は、足利義満の一生涯について解説していきますね!

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足利義満の一生涯

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足利義満は、言わずと知れた金閣寺を建てた室町幕府の3代将軍です。

しかし、義満はそれ以外も将軍として色々な事をしてきた人物なんです!

ここでは義満の一生について詳しく紹介していきますね。

 

足利義満は、室町2代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)と側室の紀良子(きのよしこ)の子として生まれました。

父・義詮には正室とに間に、義満の兄にあたる千寿王がいましたが、若くして亡くなったため、義満は嫡男として育てられました。

幼名は春王と言います。

 

義満が幼い頃は、まだ南北朝が争っている時期で、幕府も政治も落ち着いておらず、家臣に守られて播磨(兵庫県)へ逃れていたこともありました。

京都へ帰った義満は、管領・斯波義将の教育を受けつつ、赤松則祐とも良い関係を続けていました。

1366年には、北朝の後光厳天皇から『義満』の名と従五位下の位階を授かっています。

 

同年、貞治の変により斯波義将らが失脚したため、新たに細川頼之が管領となりました。

義満最大の幸運は、このように近臣が入れ替わっても、忠誠心のある人が常に側にいたことですね。

鎌倉幕府が、血縁者・御家人同士、はたまた御家人VS御内人の争いに明け暮れて滅びていったことを思うと、奇跡といってもよい恵まれようですね。

 

1367年の暮れに父・義詮が病に倒れ亡くなり、義満は10歳で将軍職を継ぎ、1374年には、日野業子(ひのなりこ)を正室として迎えています。

16歳で結婚したわけですね。

しかし、二人の間には子供が生まれなかったため、義満は側室を多く抱え、あっちこっちで子供を産ませています。

 

1378年には邸宅を北小路室町に移し、幕府の政庁としました。(花の御所)

幕政の実務は細川頼之の手にあり、細川頼之は幕府の体制強化に努め、幕府の基礎をしっかりと固めていきます。

 

しかし、細川頼之の権力の肥大を危惧した他の有力守護大名の反発を招き、足利義満は細川頼之に帰国を命じ(康暦の政変)、反・細川派の斯波義将を再度管領としました。

 

この後、義満の将軍職は確立されており、追討令が下された細川頼之が翌年には赦免されて幕政に復帰した経緯などから、双方の派閥を利用して牽制させることで義満自らが、幕政を執りしきれるようにするための策ではないかと考えられています。

 

1383年には、25歳で武家として初めて『源氏長者』となり、准三后の宣化を受けて、名実ともに公武両勢力の頂点に上りつめていきます。

 

細川頼之亡き後、義満は

  • 土岐康行(土岐康行の乱)
  • 山名氏清(明徳の乱)
  • 大内義弘(応永の乱)

を討ち滅ぼし、義満自身の将軍権力を絶対的なものにしていきました。

 

義満の巧みな策で有力守護大名が破れ、破れた有力守護大名が担いでいた南朝に対しても、1392年南朝の後亀山天皇に『三種の神器』を北朝の後小松天皇へ譲り渡すことで、事実上南朝を否定して、60年近く続いた朝廷の分裂を終わらせました。(南北朝合一)

 

1394年義満は、太政大臣に任命され将軍職を息子の足利義持に譲り、隠居しました。

しかし、隠居とは名ばかりで政治の実権は義満が握っていました。

 

翌年には太政大臣も辞め、今度は出家して『道義』と号しました。

そして、1397年に西園寺家から京都北山の『北山第』を譲り受けて、義満の別荘である、あの有名な『金閣寺』を建立します。

 

1401年、『日本国准三后道義』の名義で博多の商人肥富(こいとみ)と僧祖阿を使節として明に派遣します。

義満が若い頃から夢見ていた明との貿易が叶わなかったのは、明が南朝の『懐良親王』を唯一の正規な通交相手としており、それ以外の勢力を拒否していたためですが、その懐良親王の勢力はこの頃には没落しており、次期皇帝である『建文帝』が、義満を『日本国王』に冊封したことにより、両国の国交が正式に樹立されることとなりました。

 

1404年、日本国王が皇帝に朝貢する形式で『勘合貿易』が始まります。

また、義満は明に要請されて『倭寇』の鎮圧などにも勢力的に行いました。

 

1399年春以降、義満は本格的に別荘である山荘に移り住み、活動の拠点としていきます。

そして、能を大成させた『観阿弥・世阿弥』を庇護するなど、北山文化と称される文化を花咲かせます。

 

また、義満が建立を進めた特筆すべき建築物として、139京都相国寺に完成した『八角七重塔』があります。

360尺(約109m)に及ぶ高層建築物であり、以後500年以上、日本最高記録となっていました。

 

1408年4月、義満は咳病を患い倒れます。

将軍で息子でもある義持が加持祈祷を命じ、様々な快癒の催しを行いますが、その甲斐もなく、約1週間後の5月6日51歳(満49歳)で亡くなりました。

 

義満の遺骨は相国寺塔頭鹿苑院に葬られました。

しかし、江戸時代中期の天明8年(1788年)に起きた『天明の大火』で焼けてしまい、その後は、明治時代の廃仏棄釈で寺ごとなくなって、当時の墓がどこの誰だかわからなくなってしまいました。

 

その代わりに、義満が贅の限りを尽くして建立した金閣が現在にまで残り続けたので、義満本人としては本望だったかもしれませんね。

 

次は、足利義満の経歴や年表について解説していきます!

経歴や年表

《足利義満の経歴や年表》

1358年 京都春日で足利2代将軍・足利義詮の子として誕生。

1361年 3歳の時、抗争・内紛で南朝に攻め込まれ、父・義詮と京を離れ播磨白旗城へ避難する。

1367年 9歳の時、父・義詮が病死し、第3代将軍として足利将軍家を継ぐ。

1368年 10歳で元服。

1369年 11歳の時、正式に征夷大将軍に就任する。

1374年 16歳の時、日野業子(ひのなりこ)を御台所に迎える。

1378年 20歳の時、邸宅を北小路室町に移し幕府の政庁とする。(花の御所・室町幕府)

〃 右近衛大将(このえのだじょう)に任命される。

1382年 24歳の時、相国寺の建立を開始。

1383年 25歳の時、祖父・足利尊氏や父を超える源氏長者となる。

1390年 32歳の時、兄弟の不和・内紛を利用して土岐氏を滅ぼす。(土岐康行の乱)

1591年 33歳の時、山名氏の内紛に介入し、山名氏を討伐する。(明徳の乱)

1392年 34歳の時、三種の神器を北朝に接収させる形で南北朝合一を現実。

1394年 36歳の時、息子義持に家督を譲り、隠居するが実権は握り続ける。

〃 従一位太政大臣に昇進するも、翌年には出家して道義と号する。

1395年 37歳の時、九州探題として独自の権力を持っていた今川貞世(さだよ)を罷免する。

1397年 39歳の時、舎利殿(金閣)を中心とする北山殿(後の鹿苑寺)を造営。

1399年 41歳の時、西国の有名大名・大内義弘を討伐(応永の乱)/相国寺七重塔を建立。

1401年 43歳の時、日明国交を正式に樹立し、建文帝より『日本国王』に冊封される。

1404年 46歳の時、日本国王(足利義満)が、皇帝に朝貢する形式で勘合貿易開始。

1408年 49歳の時、咳病の為に急死。等持院で火葬され、相国寺塔頭鹿苑院に葬られる。

 

次は、足利義満は本当は天皇になりたかった?について解説していきますね!

本当は天皇になりたかった?

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南北朝の動乱により、皇室と公家勢力の権力が低下すると共に、室町幕府の成立以来、足利将軍家はの権威は皇室に迫り、実質的に日本の君主としての役割を担っていました。

とりわけ3代将軍足利義満は朝廷への影響力を強め、公武を超越した権威と権力を持つに至りました。

このように、日本の国を自分の思うように動かしていた義満ですから、『義満は天皇になりたかったのではないか』という説があるのです。

 

しかし、義満は皇族ではないため天皇にはなれません。

そこで義満は、皇位簒奪(こういさんだつ)を目論んでいたのではないかと言われています。

 

皇位簒奪とは、皇位継承権のないものが天皇の地位を奪うことを言います。

このことを裏ずける事柄として、義満の建てた金閣寺の上の鳳凰が鍵を握ってきます。

皆さんは、金閣寺の屋根の中心に黄金に輝く鳳凰がいることはご存知でしょうか?

 

この鳳凰は、中国で誕生した伝説の鳥で、中国では良いことが起きる兆しの吉鳥として崇められています。

そして、鳳凰が現れるということは、『徳のある天皇の世が始まる』ということを表していて、天子の交代を暗示しているようにも取れるのです。

しかも、その鳳凰を自分の別荘である金閣寺の屋根に置いてしまうということは、『新しい天皇に相応しいのは自分である』と言っているようなものなのです。

 

晩年には実子義嗣を親王に準ずる形で元服させました。

 

義満が皇位簒奪を企てているとする論者は、義嗣を皇位に就かせ、自らは『上皇』に就く意図があったと考えています。

そして、義満の死後、朝廷が『鹿苑院太上法王』の称号を贈ったこと(義持は斯波義将らの反対もあり辞退)、相国寺が過去帳に『鹿苑院太上天皇』と記しているのは事実です。

 

しかし、榎原雅治教授(東京大学資料編纂所)によれば、義満の公家化は朝廷側にも義満を利用しようという思惑があったとの考えが定説となりつつあるといわれています。

 

当時財政的に窮乏していた朝廷は、政治的安定や経済的支援などを得ようとしていました。

権威の復興を図る朝廷と、武家の中で足利家の権威をより高めようとする義満の意図が一致し、義満が公家化したと言われています。

 

なお、足利将軍家は清和天皇の子孫が臣籍降下した清和源氏の一流(河内源氏)であり、皇胤であるため皇室とは遠い血縁関係にあたるそうです。

そして、あくまでも推察の域を超えてはいませんが義満の急死は、そんなことを許してはいけないと思った皇族側の人間により暗殺されたのではないかという説もあり、今でも議論になっています。

 

次は、明の皇帝に日本国王に任命されていた?について解説していきます!

明の皇帝に日本国王に任命された?

足利義満は明の皇帝から『日本国王』と呼ばれていたそうです。

ではなぜ征夷大将軍である義満は『日本国王』と呼ばれるようになったのでしょうか?

まずは、『日本国王』についての説明をしていきますね。

 

日本国王とは、その名の通り日本の国王ということです。

中国から見たら『天皇』、『日本国王』、『将軍』の順にトップを決めていたようです。

やはり、『天皇』が一番順位が高いんです。

 

中国では日本の統治者を『倭王』と呼んでいました。

しかし、唐の時代になり、日本国王が使われるようになりました。

 

南北朝時代、『懷良親王(かねよししんのう)』が日本国王とされていました。

懷良親王は後醍醐天皇の皇子で、西日本の統治をした人物です。

 

しかし、九州の南朝政権は倒され、1392年に義満による南北朝合一が達成されたので、日本国王がいなくなるという事態になってしまっていたのです。

 

足利義満は征夷大将軍や、太政大臣の位も降り、隠居して出家してから日本国王と呼ばれるようになりました。

それが何を意味しているかというと、朝廷あるいは天皇から見ると、形式的には現役の征夷大将軍の肩書きを持った天皇の家臣ではなく、隠居・出家した高僧の身分である『日本国准三后源道義』が明に通行を申し込み、明の皇帝が義満を『日本国王』と冊封したという形にしたのです。

 

義満が任命された『日本国王』は、日本のトップという意味合いではなかったのです。

 

そして、1401年に義満は『日本准三后源道義』の表文を携えて使節を明に派遣して交渉を開始、『日本准三后源道義』に宛てた建文帝の詔書と大統暦を携えた明使を伴って翌日に帰国しました。

帰国後、北山第に明使を迎えた義満は自ら拝跪して詔書を受けたそうです。

 

ところが明では当時『靖難の役』が起こっていました。

義満は国書を天龍寺の僧圭密に託し、明使に随行させましたが、このとき国書は2通作られていました。

『建文帝』宛のものと『永楽帝』宛のものの2通でした。

 

1403年に一行が中国に上陸して見ると、すでに永楽帝が即位していたので、圭密は抜け目なく、新皇帝の即位を賀する内容の国書を永楽帝に提出したのです。

義満はの国書は『日本国王臣源表す』に始まり、即位を祝い宝物を献じる事を記していました。

 

永楽帝は即位早々、日本から賀使が来朝したことを非常に喜び、翌年答礼の国書を『日本国王』義満に送り、『日本国王之印』と刻んだ金印と、十年に一度のわりで朝貢を許しました。

 

これによって勘合貿易が開始されることとなり、室町幕府の将軍が『日本国王』として明の朝貢国に組み込まれることとなったのです。

 

義満は建文帝と永楽帝どちらが即位しても大丈夫なように2通の国書を用意して、誰よりも早く祝いの言葉を送ることで明の皇帝に気に入られるように用意周到に計画していたのです。

このことからも義満は、現代の日本外務省も顔負けの高度な外交を展開していたことがわかります。

政治だけでなく、外交の分野でもずば抜けたセンスを持っていたんですね。

 

次は、足利義満の名言や逸話をご紹介していきますね。

足利義満の名言や逸話

ここでは足利義満の名言や逸話についていくつかご紹介していきます。

 

一つ目は、義満が少年の時の話です。

 

南北朝の争いで京を離れていた幼少時代の義満は京の景色を見て、

「ここの景色は美しいから持って帰ろう。」

と言い、家臣たちに、

「お前たちが担いで帰れ。」

と話したと伝えられています。

 

子供らしい発想なのか、大人のような気の利いたジョークなのかは定かではありませんが、なかなかの大物発言で周りの者を驚かせました。

このような感性の豊かさが、後に北山文化を花咲かせたのかもしれませんね。

 

二つ目は、日本初の酒税を課したという話です。

 

義満は日本で初めて酒税を課した人物です。

壺一つで200文の税金が掛けられたそうですが、今のお金で換算すると、2万円くらいなので相当な額になったと考えられます。

幕府成立から30年ほど経っていましたが、反乱の鎮圧などに軍事費が掛かり過ぎたので、彼は酒に目をつけて税金を徴収しようと思いついたのです。

 

三つ目は、天皇を自殺未遂まで追い込んだ⁈という話です。

 

才能溢れる義満は、雅楽の楽器である笙(しょう)の名手でした。

後円融天皇は、自分より上手く奏でる義満に嫉妬しており、人としても好ましく思っていませんでした。

 

お妃の藤原厳子が出産を終えて宮中に戻ったとき、義満との密通があったのではないかと疑い彼女を殴ってしまったり、愛妾の関係だった按察局(あぜちのつぼね)も密通を疑い、内裏から追い出して出家させたりするなど後円融天皇は荒れていました。

 

義満は人を通じて上皇に相談しようとしましたが、後円融天皇はそれを知ると流罪にされるのを怖れて、持仏堂で切腹未遂の騒ぎを起こしてしまいます。

ちなみに厳子と按察局が義満と実際に関係があったかは定かではありません。

 

最後に、義満の歌をご紹介します。

 

たのむかな我がみなもとの石清水ながれの末を神にまかせて(新後拾遺1517)

 

《通釈》
一身を託して祈ることだよ。

我が一族のおおもとをなす源氏の氏神、石清水の社に。

その流れの末は神の意のままに任せて。

 

義満は政治家としてだけではなく、文化人としての側面も持ち合わせていたんですね。

 

では次は、足利義満と義政の関係について解説していきたいと思います。

足利義満と義政の関係

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室町幕府3代将軍・足利義満と8代将軍・足利義政はどんな関係だったのかというと、『祖父と孫』の関係でした。

 

義満が長男・義持を4代将軍とし、やがて、義持が隠居すると一人息子の義量が5代将軍となります。

しかし、この人は将軍とは名ばかりで、存命中の父・義持が政治を全て取り仕切っていたことに嫌気がさして、暴飲を繰り返して19歳で死去してしまいます。

 

一人息子を早くに亡くした義持は、これを嘆いて死ぬまで次の将軍を決めようとしませんでした。

やがて義持が重病になると、幕府の重臣たちは半ば強引に義持に承諾させて、義持の有力な弟4人でくじ引きを行い、次の将軍を決めることにしました。

このくじで選ばれたのが、義満の三男である6代将軍・義教です。

 

この義教は独裁的な政治を行い、やがて恐怖政治のような有様になり、粛清を恐れた大名によって暗殺されてしまいます。

この緊急事態に幕府は、義教の9歳の長男・義勝を7代将軍にしました。

ところが、義勝は10歳で病死し、仕方なく重臣たちは義教の三男である義政を8代将軍にしたのです。

 

このとき、義政は8歳でした。

足利幕府は3代義満以降、残念ながらよい後継者には恵まれなかったんですね。

 

次は、足利義満と一休の関係について解説していきます。

足利義満と一休の関係は?

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実は足利義満は、アニメ『一休さん』に登場する将軍様だったんです。

 

1394年に生まれた一休さんの父は北朝の『後小松天皇』、母は藤原氏の出身という皇族出身でした。

足利義満によって南北朝時代が終わったのですが、権力争いに巻き込まれないように、6歳で臨済宗の寺に出家させられました。

 

しかし、実際は一休さんが生まれた1394年というと、義満は将軍を息子・義持に譲っていますから、アニメの一休さんで出てくる将軍様の年代と義満が将軍であった年代にはややズレが出てきてしまいます。

しかも、一休さんの父・後小松天皇といえば、後円融天皇の皇子でした。

 

先ほども少し出てきたように、後円融天皇はお妃の藤原厳子が出産を終えて宮中に戻ったとき、義満との密通があったのではないかと疑い彼女を殴ってしまったり、愛妾の関係だった按察局(あぜちのつぼね)も密通を疑い、内裏から追い出して出家させたりするなど、義満の夜這いをしつこく疑っていました。

 

ということは、後小松天皇は足利義満との密通によって生まれた可能性もあり、そうなると一休さんは義満の孫になるという可能性もあるのです。

 

この話に確たる証拠はないので、あくまでも可能性があるというだけですが、もしこれが本当なら一休さんは天皇の子であり、征夷大将軍の孫ということになります。

これ以上に恵まれた家柄は日本中どこを探してもいないでしょう。

 

次は、二人についてのエピソードをご紹介していきますね。

二人のエピソード

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アニメ『一休さん』では義満と一休さんはよくとんち対決をしていますが、その中でも一番有名な『屏風の虎』というエピソードを一つご紹介していきます。

 

将軍である義満は一休さんを呼び、屏風に描かれた今にも牙をむいて飛びかかりそうな虎を扇で指して、

「毎晩あの虎が屏風から抜け出して悪さをするから縛り上げてほしい。」

と一休さんに言います。

 

もちろんこれは将軍・義満が吹っかけたトンチです。

 

一休さんはしばらく考えて、

「縄を用意してください!見事縛り上げてご覧に入れます!」

と言い、ねじりハチマキをして腕まくりをします。

 

義満は、まんまと騙されたと内心喜びます。

 

しかし、一休さんに

「虎を縛るので将軍様、虎を屏風から追い出してください。」

「出てきたら縛ります!」

 

と言われた義満は、

「絵の虎が出るわけないであろう!」

と答えるのです。

 

すると一休さんはにっこり笑って言います。

「それでは、屏風から虎は出てこないのですね。」

「それを聞いて安心しました。」

「いくら私でも、出てこない虎を縛ることはできませんからね。」

 

それを聞いて、義満は思わず手を叩きました。

「あっぱれ!あっぱれなトンチじゃ!」

「褒美をつかわすから、また来るがよいぞ。」

 

こうして一休さんはたくさんの褒美をもらって、満足そうにお寺に帰りました。

なんだか微笑ましくなるようなエピソードですよね。

 

では次は、足利義満が行った勘合貿易について解説していきます。

足利義満が行った勘合貿易について

勘合貿易とは簡単にいうと、『室町時代に行われていた日明間の貿易』のことです。

そして、勘合とは倭寇がはびこっていた当時、明は海禁政策をとって、自国と外国の船の自由な渡航、貿易を禁止しました。

この際、公私の船を区別するために『合い札』の勘合が用いられたので勘合貿易とも呼ばれたのです。

 

日明間の勘合は『日字◯號』、『本字◯號』の文書をそれぞれ中央から折半し、一方を勘合、他方を勘合低薄として照合しました。

明からの船は日字勘合を、日本からの船は本字勘合を持参しました。

 

ちなみに倭寇とは、対馬、壱岐、肥前などの住民を中心とした海賊集団のことをいいます。

義満が行った勘合貿易は1404年、明皇帝・永楽帝が『日本国王之印』と刻した金印と『勘合』を義満に与えたことで始まります。

 

そして、この勘合貿易は日本に莫大な利益をもたらす貿易だったのです。

なぜかというと、当時、明は外国に対して『朝貢貿易』の形式をとることを強制しており、日明貿易も日本が貢物を明に献上し、明が日本に物を与えるという形式がとられました。

 

中国では、臣下である国王が遠くから、わざわざ使者を送って貢物を持ってくるのは、皇帝の素晴らしさ(徳)を慕っているからだと考えていました。

そのため、使者に対して、貢物の何倍もの価値がある品物を与え、徳を示す必要がありました。

明皇帝にとっての貿易は、自分の徳を世界に広げるためのものだったのです。

 

実際に、この貿易では明側が大幅な輸入超過だったそうで、日本側は元値の4〜20倍ともいわれる利益を得ることができていたそうです。

すなわち、この貿易の性格としては、日本は中国に服従した臣下で、『明と日本は対等な関係ではなかった』といえます。

義満もそれを承知の上で、日本国王の称号を得て、日本の立ち位置よりも、貿易による莫大な利益を優先していたと考えられます。

 

では、勘合貿易の主な輸出入品についてご紹介していきます。

  • 輸入品→ 明銭(永楽通宝)、絹製品、書物、織物、陶磁器など
  • 輸出品→ 硫黄、銅、金、刀、漆器、屏風など

 

そして、何と言っても勘合貿易の目玉は、『銅』でした。

日本から明に銅を輸出すると、かなりの額で売れました。

当時の明では慢性的な銅不足が起きていたことに加え、日本の銅にはわずかですが銀が含有されていたからです。

 

その一方で日本は、明からの輸入品である『絹糸』を日本国内で販売すると、ぼろ儲けだったそうです。

 

それに、勘合貿易で持ち込まれる『永楽通宝』という銅製の銭貨が重宝されます。

永楽通宝は永楽銭とも呼ばれ、江戸時代の初頭まで200年以上に渡って用いられることになりました。

 

義満の死後、義満の息子である4代将軍・足利義持によって、一旦明との貿易は中断されますが、結局は利益の大きさが優先され、6代将軍・足利義教の頃に復活。

その後、大名による私貿易・密貿易になり、豊臣秀吉や徳川家康が行った朱印船貿易へと形を変えていくのです。

 

次は、足利義満は南北朝合一をどのように果たしたのか?について解説していきます!

足利義満は南北朝合一をどのように果たしたのか?

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足利義満が行った南北朝合一とは、60年余り続く京都の『北朝』と、吉野の『南朝』という日本に天皇が二人いるという異常事態を解消させるというものです。

 

そして、南北朝合一は別名『明徳の和約』と言われ、元中9年/明徳3年10月27日(1392年11月12日)に南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)間で、和議と皇位継承について締結された約定のことをいいます。

 

足利義満はこの南北朝合一をどのように果たしたのでしょう?

まず、義満は紀伊・和泉の守護である大内義弘に間を取り持ってもらい、義満と南朝勢力との間で話し合いが持たれます。

 

そこで問題となるのが講和条件です。

講和条件として以下のことが挙げられました。

  • 三種の神器を『譲国の儀』をもって北朝に譲り渡す。
  • 以後、代々の天皇は持明院統、大覚寺統から交互に即位する。
  • 諸国の国衙領(こくがりょう)は大覚寺統の支配とする。
  • 長講堂領は持明院統の支配とする。

 

『譲国の儀』によって三種の神器を譲り渡すということは、あくまで天皇の正当性は南朝にあるが、それを北朝の天皇に譲るということです。

結果的には、南朝から北朝に皇統が移ってしまうにしても、正当な血筋は南朝にあり、それを譲ったという解釈ができるのです。

 

南朝側としては、最低限のメンツは立ちますし、北朝側にとっても三種の神器を取り戻して、堂々と正当な天皇であることを主張できるので、どちらにとっても都合が良いことでした。

南朝・北朝双方の事情と立場を考えて、義満が提示した妥協案でした。

 

ついに南朝側は、義満の提示した講和条件を受け入れます。

明徳3年(1392年)10月、南朝の後亀山天皇は三種の神器とともに吉野を出発し、京都へと向かいます。

 

しかし、実際には『譲国の儀』は行われず、『文治の例』に倣って儀式が行われたのでした。

『文治の例』とは何かというと、文治元年(1185年)平家一門によって奪われた三種の神器のうち海に沈んだ宝剣を除く2つが西国から戻り、後鳥羽天皇のもとに戻されました。

その時の形式に従って、義満は儀式を行ったのです。

 

とういことは、南朝から北朝に三種の神器を譲るのではなく、『非合法に持ち去られていた三種の神器が戻ってきた』という解釈になるのです。

南朝側は義満に騙されたのです。

 

南朝の後亀山天皇は、騙されたことに気づいたとしても後の祭り。

南朝の勢力はかなり弱体化しており、反乱を起こしても勝てる見込みもないに等しいし、当面は京都に帰還できることが重要であり、この事柄を受け入れざるを得ませんでした。

 

ここに、後醍醐天皇の吉野遷幸(1336年)以来、実に57年ぶりに三種の神器が京都に戻りました。

南朝の後亀山天皇は北朝の後小松天皇に上位し、南北朝の合一が達成されたのです。

 

ただし、南北朝合一に至る交渉は、ほぼ義満の独断で進められたものであり、北朝側にはほとんど知らされていませんでした。

いわば、『室町幕府と南朝の約束』で北朝は蚊帳の外だったのです。

そのため、後日問題が出てきます。

 

義満の南朝側へのせめてもの配慮として、後亀山天皇に『上皇』の尊号を送りましたが、北朝側の猛反対が起こり、応永4年(1397年)後亀山天皇は『上皇』の尊号を辞退、そのまま出家して法王となりました。

しかも、義満が南朝側に提示した講和条件は、ほぼ守られなかったのです。

『交代で持明院統と大覚寺統から天皇を出す』という条件は、完全に反故にされ、『諸国の国衙領は大覚寺統の支配とする』も守られたのは最初だけだったのです。

 

そのため、後亀山天皇の暮らしは日に日に苦しくなっていきました。

最低限の生活さえ保証しない幕府に対してのせめてもの抗議として、応永17年(1410年)11月、後亀山天皇は京都を脱出します。

 

幕府の後亀山天皇に対する非道な扱いを見て、元南朝勢力は怒ります。

そして、彼らは京都を離れ、再び吉野をはじめ各地に潜伏し、15世紀後半まで朝廷や幕府に対する反抗を続けていました。

 

これを後南朝といいます。

 

次は、南北朝合一の目的について解説していきます!

南北朝合一の目的

なぜ義満は南北朝合一を成し遂げようとしたのでしょうか。

それは、室町幕府にとって南朝はなんといっても始末の悪い存在だったからです。

なぜかというと、幕府に不満な者は南朝に味方するという構図があったからです。

 

わかりやすくいうと、足利尊氏と対立した者は、とりあえず南朝に味方しますと言えば、謀反人ではなく大義名分のある正規軍、官軍になれるのです。

 

実際、尊氏と弟・直義が対立すると、直義が南朝に降ったり、尊氏が直義に負けて京都を追われると、その当の尊氏がなんと

「南朝に味方します。」

と言い出したり、何でもありのねじれ現象が起きはじめます。

 

地方で隣の領主に押されている者、一族の相続争いで劣勢な者が続々と『南朝方』を表明して、内乱が一層複雑になっていきます。

いわば、南朝が反乱分子の『受け皿』となっていたのです。

 

そしてそれは、室町幕府がいつなんどき形勢が逆転するかわからないという可能性を、常に考えていなければならないということを意味します。

これではいつまで経っても室町幕府は安定しません。

そこで義満は、南朝にさきほど解説した講和条件を提示して、南朝を騙す形で南北朝合一を成し遂げたのです。

 

すなわち、南北朝合一は『室町幕府安定化』のために行った、反乱分子の受け皿である南朝を、戦をせずに崩すための綱渡りのようなギリギリの『政治的決着』だったのです。

 

最後に、足利義満についてまとめていきますね!

まとめ

では、足利義満についてまとめます。

 

  • 足利義満は室町幕府3代将軍で、世界遺産にもなった金閣寺を建てた人物。
  • 父は室町幕府2代将軍足利義詮。
  • 足利義満が金閣寺を建てたのは、自分の権威を誇示したかったから!
  • 足利義満は多くの乱を鎮圧して、室町幕府の力を揺るぎないものにしていった。
  • 足利義満は皇位簒奪を目論んでいたという説もあるが、義満の公家化は朝廷側にも義満を利用しようという思惑があったとの考えが定説となりつつある。
  • 足利義満は、隠居出家した高僧の身分である『日本国准三后源道義』として、明に通行を申し込み、明の皇帝から『日本国王』と称された。
  • 足利義満は日本で最初に酒税を徴収した人物だった!
  • 足利義満と義政の関係は『祖父と孫』の関係だった!
  • 足利義満は、アニメの『一休さん』で出てくる将軍様だった!そして、もしかすると一休は義満の孫という可能性も
  • 足利義満が行った勘合貿易は『朝貢貿易』の形式を取り、日本は明の臣下という位置付けになることで莫大な利益を得ていた!
  • 南北朝合一のカギは『三種の神器』の引き渡しだった!
  • 南北朝合一の目的は、南朝が反乱分子の受け皿となっていたので、室町幕府を安定させるために南朝勢力を解体したかった!
  • 足利義満は、能を大成させた『観阿弥世阿弥』を庇護するなど、『北山文化』を開花させた。
  • 足利義満は咳病で51歳(満49歳)のとき急死した。

 

まとめると少しわかりやすくなりましたかね。

 

足利義満は、武力で有力豪族を鎮圧し、その力を揺るぎないものにしていったという事実もさることながら、優美な『北山文化』を作り出すなど、文化的センスも持ち合わせ、武家と公家の両方のトップとなったといえる抜群のバランス感覚を持ち合わせた支配者であったと言えるでしょう。

 

その他にも、明との交易による利益を上げるために便宜的に『日本国王』を名乗ったという説も出てきて、国のために矢面に立ち、その利益で幕府の財政を立て直したのだとすれば、義満は理想的な権力者だったのかもしれません。

 

少し前までは、天皇の位を狙う『悪者』というイメージがあった義満ですが、最新の研究ではその『野心』は否定されつつあります。

 

今となっては義満の思惑はわかりませんが、政治的・外交的・文化的な様々な面で多大な功績を残した人物だということは確かですね。

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