明治維新とは?簡単に解説!中心人物と人物関係図や真実を考察

19世紀、曲折の末に幕府が倒れ、薩長土肥の雄藩を中心に行われた明治維新

 

このおかげで日本はタイ同様、アジアで欧米列強の植民地化を免れた数少ない国となります。

ですが、同時に天皇崇拝や軍国主義が広まり、結果的に太平洋戦争に導かれ敗北と荒廃を招いたといわれています。

 

  • 明治維新の本質は何なのか!?
  • 中心人物とその関係は!?
  • ベストセラー『明治維新という過ち』の持論は正しいのか!?

 

それについて見ていきます。

明治維新とは?簡単に解説!

明治天皇の東京行幸
明治天皇の東京行幸

明治維新とは、明治初期の日本が行った色々な維新、すなわち変革のことを指します。

 

薩長土肥の雄藩が行った討幕運動から天皇をトップとした政治への転換のことを指します。

 

それは、士農工商から四民平等という『身分制の廃止と解放』。

 

それまで月の満ち欠けで暦を図っていたのを太陽の動きで測る『太陽暦への転換』。

(それまでは『八つ時(やつどき)』『未の刻(ひつじのこく)』と呼ばれていた時間が、『午後3時』と呼ばれるようになったのも明治あたりから。

それで『おやつ(=お八つ)』というのです。)

 

さらには奇兵隊に倣って武士だけでなく平民も兵役を持つ、廃藩置県等の中央集権型の行政システム転換。

義務教育の導入(憲法ではなく法律で定められていましたが)。

鉄道や電話などの近代インフラの導入等、極めて幅広いものでした。

 

次に、年表を書き出していきます。

年表

明治維新の開始の時期については諸説あり、一般的には明治に元号を改めた

・1868年10月23日

を指します。

 

ですが大政奉還、王政復古の大号令が起きた

・1867年

を差すという人も多いのです。

 

終了時期も

・1871年に廃藩置県が行われてから

・1874年の西南戦争終結

・1875年の内閣制度発足

・1889年に大日本帝国憲法が発布されてから

と、やはりばらばら。

 

ここでは、1868年の明治改元を維新の始まり、1889年の憲法発布を維新の終わりとみていきます。

また、改革の分野も幅広いため、様々なカテゴリーごとに年表を作っていきます。

 

明治政府は幅広い大改革を、欧米から招き入れた『お雇い外国人(おやといがいこくじん)』をブレーンとして進めていきます。

 

【行政面】

これによって、それまで藩によって勝手に治められてきた地方は変わって県がおかれ、天皇をトップとした中央集権化が進んでいきます。

また、行政の拠点も京都から、江戸改め東京になります。

 

・1869年6月25日:版籍奉還(はんせきほうかん)

これにより、これまでの藩主は明治天皇の下になりましたが、引き続き『知藩事(ちはんじ)』として政務に当たることに。

 

・1871年8月29日:廃藩置県(はいはんちけん)

これにより、藩は県となり、それまでの藩主はその地位を失い東京に移住することを余儀なくされ、代わって県令(けんれい)が地方行政のトップとなります。

(しかし旧藩主は東京に移動した後、藩時代の一部の収入をしばらくもらうことになったほか、公家や天皇一族と同じ『華族(かぞく)』として重んじられます。)

 

・1871年8月29日:中央行政の三院制設置。

奈良時代以降の律令制にあやかったものですが、しばらくは安定せず、1885年の内閣制度の設置を持ってようやく落ち着くようになります。

 

【立法面】

法律を成立させる分野である立法の分野については、明治初期から木戸孝允などが議会を設立することを求めていました。

しかし、まだ人々の教育や制度整理が未熟であったため、しばらくの間は大久保利通らによる薩長土肥の有力者による制度設計が行われます。

 

やがてこれが自由民権運動の活動家である板垣退助・後藤象二郎などによって『有司専制(ゆうじせんせい。一部の有力者だけによって政治が動かされており、五か条のご誓文に反するという考え方)』として批判されるようになります。

 

・1881年に『国会開設の詔(こっかいかいせつのみことのり。詔とは天皇の命令)』が出され、憲法制定と議会開設が決まりました。

・1889年:大日本帝国憲法公布

・1890年:帝国議会開設。

 

これにより、日本は東アジアで初の本格的な立憲君主制・議会制国家となります。

 

【宗教面】

・1867年:『神仏分離令(しんぶつぶんりれい』発布。

それまでは江戸幕府の保護を受けて、仏教が宗教では一番社会的地位が高かったのですが、水戸学や国学の影響を受けた明治政府は、日本古来の神をあがめる神道をトップに据えることを目的として、神と仏は別物という政令を出します。

 

しかしこれは、民衆が今まで寺に搾り取られてきたという事や、『仏教も排除すべき外国の宗教のうち』という考えを人々に強め、民衆による寺の打ちこわしや仏像の廃棄といった副作用も起こしています。

これが『廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)』。

明治政府によって注意が出されたことでやっと収まりましたが、それでも誤解を与えたのは否めません。

 

一方で、南北朝時代に南朝の武将として戦った楠木正成や新田義貞を忠臣として次々とまつるようになります。

(これには南朝方の公家であった北畠親房(きたばたけちかふさ)の『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』の影響が大きいようです。)

 

一方、『天皇以外の人間を唯一の神とする』という宗教理念ゆえか、徳川幕府時代からのキリスト教禁止は引き継がれ、宣教師と信者は強制的に地方に移住させられます。

 

しかし1871年、岩倉具視らが欧米を視察に当たった際、当時のアメリカ大統領グラントや、イギリス女王ビクトリア1世、デンマーク王クリスチャン9世等、欧米のトップから激しい非難を浴び、キリスト教を禁止したままでは不平等条約改正に支障が出るという結論に達します。

 

そして、

・1872年:キリスト教信徒の解放。

井上馨名義だったのですが、しかし今まで神道をトップとする政策との矛盾もあり、神道や彼らとの関係を練り直そうと考えていた仏教とその信者からは、キリスト教という『邪宗門(じゃしゅうもん。邪悪な宗教)』の解禁に反対する声も多かったのですが、翌年1873年にキリスト教は正式に解禁され、大日本帝国憲法でも、『臣民の義務に反しない限り』、宗教の自由が保障されます。

 

それでも人々の間で『日本古来の神がいるのに、毛唐(けとう。欧米人を軽蔑して言う語)の神を拝むことはない』という考えは根強く、キリスト教が一般的に受け入れられるのは第二次大戦後と言っていいでしょう。

 

【身分と軍隊について】

それまでは武士が士農工商の頂点に立ち、名字帯刀(苗字を名乗ることと、武器である刀を差すこと)が許されていました。

(功績が大きければ、農工商の人間でも名字帯刀ができましたが)

 

また、国内はもちろん海外との戦いでも、武士の身分の者だけがおこなうことができたのです。

しかし維新後、士農工商という身分が廃止され、武士改め士族は、農・工・商改め平民と同じ地位という事になりました。

 

その一方、吉田松陰の『草莽崛起(そうもうくっき。身分の低い人間が志のために立ち上がること)』に影響され、武士たちのみならず農工商の人間もメンバーに加えた奇兵隊赤報隊といった軍隊が幕末に次々とできていきました。

 

これを発展させて明治政府は、

・1872年:徴兵制(ちょうへいせい)発布。

これにより、陸軍省(りくぐんしょう)と海軍省(かいぐんしょう)名義で、ある程度の健康を満たしていればどんな人間でも塀に駆り出すことができるようになり、これで外国の侵略に対抗しようとします。

(陸軍省と海軍省は、現代で言うと防衛省でしょうか。)

 

しかしこれによる副作用は、旧来上に立っていた武士改め士族の不満を高めます。

・1876年:廃刀令(はいとうれい)発布。

軍人と警官以外は例え士族の人間でも刀が持てなくなり、『刀は武士の魂』としていた士族の不満が高まります。

 

さらには

・1876年:『秩禄処分(ちつろくしょぶん)』が出される。

これにより、それまで出されていた『禄(ろく)』という給与が、一時金を渡されたうえで永遠に打ち切られることになり、士族の暮らしが立ち行かなくなっていくのです。

 

(これには、政府財政支出の4割を占めていた禄をカットして政府の財政を安定させようという意図もありました。

旧支配層が無抵抗で既得権を失ったという点では世界でも珍しいという事ですが)

 

暮らしの手段も封建的な特権もすべて奪われた士族の不満は爆発し、1877年の西南戦争まで武力テロも続きました。

しかし、近代的な武器と徴兵制で集めた人員で作られた政府軍によってすべて鎮めることができ、これ以降政府への不満は言論で行うというように変わっていきます。

 

【経済産業面】

自給自足経済と物々交換による経済が完全に行き詰り、貨幣経済が便利だという事を、幕府の衰退からも政府は知っていました。

 

それまでは土地の質と収穫高を調べて、そこに住む者からコメなどの実物で税を納めるというやり方がメインだったのですが、貨幣経済に切り替えるために

・1871年:『田畑永代売買禁止令』廃止。

(たはたえいだいばいばいきんしれい。江戸初期に出された、飢饉による百姓の没落を防ぐために田畑の売り買いを禁止する法律)

 

これにより、土地の売買が公認されることになり、土地は政府ではなく個人が持つこととなって、担保(たんぽ。金を借りる代わりに保証として土地などをわたすこと)制も簡単となり、資本主義の下地ができます。

 

・1874年:地租改正発布。

明治政府は今までのコメによる税を納める方法をやめ、『土地の値段を決めて、その一部を貨幣で収める』という税金の納め方の変更にします。

 

・1871年:新貨条例(しんかじょうれい)。

江戸幕府のころは『江戸では金貨、大阪で銀貨、その他は銅貨ないし銭』と貨幣単位もばらばらだったので、取引が苦戦することが多かったのです。

それを新貨条例により、日本全国で統一して『円(えん)、銭(せん)、厘(りん)』という貨幣単位にします。

 

日本全国で統一された貨幣と取引方法で行われることになり、貨幣経済がより便利かつ効率的になり、資本主義経済がさらに進展します。

(ちなみに明治時代の1円は、現代価格で言うと約3600円だったんだとか)

 

一方、

  • 殖産興業(しょくさんこうぎょう。産業を発展させ経済力を高める)
  • 富国強兵(ふこくきょうへい。国を豊かにし、兵を強靭にする)

 

を合言葉に、工部省、のちに内務省(ないむしょう。大久保利通の下に置かれた省で、農林水産から厚生労働等、様々な行政を行っていました)を中心に西洋の技術を取り入れた近代的な工場『官営模範工場(かんえいもはんこうじょう。政府自らが経営する近代化の模範とすべき工場)』が次々と建てられていきます。

 

今日世界遺産にもなっている、群馬県の富岡製糸場(とみおかせいしじょう)もその一つ。

しかしながら西南戦争後の財政難のため、富岡製糸場も三井財閥に渡されるなど、官営模範工場は次々に民間の商人に渡され、1890年代には日本で産業革命がおこります。

 

・1871年:郵便制度が敷かれる。

前島密(まえじまひそか。彼も越後の農村地主の生まれで、幕臣・前島家の身分を金で買った『金上げ侍』。)によって作られました。

ちなみに郵便貯金ができたのもこのころで、イギリスにおいては貯金が郵便の活動資金として経済に大きく役立っていたのですが、日本では貨幣経済が浸透してなかったためか、当時なかなか広まらなかったようで、前島は自分自身のお金を貯金発端金(ちょきんほったんきん)として預けさせるなど苦労したようです。

 

・1872年:『陸蒸気(おかじょうき)』設置。

汽車鉄道が新橋―横浜間で初めて敷かれ、約53分で新橋―横浜間を移動できるようになります。

電信の整備や船による物の運搬(時間はかかりますが、大量の製品を運べるという利点があります)も活発になっていきます。

 

【教育面】

江戸時代においては『寺子屋』において、読み書きそろばんを中心に人々の教育がありましたが、その内容は地方によってばらばら、しかも身分によって内容が違っていたのが実情。

そこで、欧米諸国に対抗するためには、全国の人間が士農工商に関係なく、同等の教育を受ける必要があると考え、

 

・1872年:文部省(もんぶしょう。現在だと文部科学省)名義で義務教育が設置。

子供も家業につかせている貧しい親も当時少なくなく、学費の問題や授業時間の長さ等で反発する人間は少なくありませんでしたが、学費を下げたり時間を短くしたりして、少しずつお互い歩み寄るようになっていきます。

 

・1886年:文部省が小学校令(しょうがっこうれい)、帝国大学令(ていこくだいがくれい)発令。

これにより、全国に尋常小学校(今の小学校)、高等小学校(今の中学校)、中学校(今の高等学校)、そして大学が設置されるようになり、身分の貴賤なく教育が受けられるようになっていきます。

(ただしこれが、今日まで続く日本の横並び型の教育につながっているという指摘もあります)

 

女性の教育においても、欧米の女子教育を留学して知った伊藤博文は女性の教育も大事と思うようになり、女子教育奨励会を設立。

黒田清隆は後の岩倉使節団で津田うめ(後の津田梅子)を留学生として派遣するなど、女性教育にも牛の歩みでしたが、力が入っていきます。

大日本帝国憲法で義務化こそされなかったものの、教育が広まったことで福沢諭吉などの啓蒙活動も効果を示すことになります。

 

【法律面】

江戸幕府によって結ばれた不平等条約を改正するためには、日本が近代国家であることを証明する必要がありました。

そのため、憲法の制定と同じくらい、法律の整備は急務で、フランスのお雇い外国人であったボアソナードをブレーンとして、江藤新平を中心に法整備が進められていきます。

 

・1872年:証書人(しょうしょにん。後の公証人)、代書人(だいしょにん。後の司法書士)、代言人(だいげんにん。後の弁護士)設置。

こうした法律に詳しい専門家の制度を設けた後、フランスやドイツの法律と、日本の慣習との間で折り合いをつけつつ、

 

・1880年:刑法(けいほう。法に触れる犯罪の位置づけや、それによる刑罰を定めた方法)制定。

・1882年:刑法施行。

 

一方で、民間同士の財産関連等の争いや訴訟の方法も決めた民法も整理され、

・1896年:民法制定。

・1898年:民法施行。

となりました。

 

『いち早く(1889年)憲法を決めた伊藤博文』という語呂合わせは有名ですが、憲法も不完全なものでしたし、法律が成熟するのはもう少し後になったといえましょう。

 

それでも、法整備が不平等条約撤廃に貢献したことは否定できませんし、今日でもグローバル化が進む中で、アジア諸国が日本に法整備支援を求めている一因にもなっております。

 

このほか、『文明開化(ぶんめいかいか)』を合言葉に牛鍋や、ちょんまげを切ってざんぎり頭の導入、西洋建築の導入など、文化も西洋のものが混ざります。

 

(『ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする、ちょんまげ頭を叩いてみれば因循姑息(いんじゅんこそく。古い習慣に囚われてその場しのぎに終始するさま。)の音がする』というざれ歌は当時有名でした)

 

また、自由民権運動を始めとする人権思想の導入など、文化や考え方の変化も大きなものとなっていきました。

 

日本やタイ以外の近代化政策は、保守派の反発で失敗に終わったケースが多く、なぜ日本やタイだけが成功したのかは、主にほかのアジア諸国で大きな研究課題となっております。

中国の孫文や毛沢東、インドネシア初代大統領スカルノ等が特に非常に興味を持っていたようでした。

 

次に、中心人物と人物関係図についてみていきます。

中心人物と人物関係図

岩倉具視
岩倉具視 (出典:ウィキペディア)

勿論、明治政府が天皇をトップとしたトップダウンの中央政権である以上、明治天皇がトップと言えました。

しかし明治維新が始まった1868年には、明治天皇は16歳と若く、政治をするにはまだ未熟な状況でした。

 

そこで明治天皇の側近である岩倉具視などの公家と、薩長土肥といった雄藩が合議制(ごうぎせい)という形で政治をしていきます。

つまり『みんながすべてを決める』という原始的なやり方から少しずつ、分野を細かくしてそれぞれの専門家に担当させるという近代的なやり方になっていくのです。

 

・公家(幕末においては、公武合体から討幕という形になっております)

明治天皇の側近であった岩倉具視三条実美をはじめ、朝廷のことについては非常に詳しい人間が多かったようです。

 

岩倉をはじめ中央行政の改革に大きくかかわる一方、岩倉は大久保利通、伊藤博文らとともに欧米に行き、欧米の文化や王室についての知識も取り入れながら、影の実力者となっていきます。

大久保の死後、大隈重信と伊藤が頭角を示す中で、大隈が遠ざけられて伊藤が中心となって憲法制定に大きくかかわったのも、岩倉の影響が大きかったといわれています。

 

・薩摩藩(幕末においては、当初は公武合体派として尊王攘夷派の長州藩と敵対していましたが、自分の立場しか考えていない幕府に愛想をつかし、薩長同盟を皮切りに討幕派へ、雄藩の中では一番優れた経済力と軍事力を持っていました)

幕末では調所広郷(ずしょひろさと)の改革によって、一番広い領と優れた経済力・軍事力を持っていた薩摩藩は、西郷隆盛大久保利通を中心に経済的な行政変革に当たりました。

特に大久保は内務省を統括する内務卿(ないむきょう)として、西洋の技術の導入や、留学による西洋の制度や王家の実情について学び、改革を進めていきます。

 

その一方、西郷は幕末時代の人望から薩摩藩出身の人間に対し、忠誠を誓わせていました。

(ちなみに大久保も西郷も、財政的な問題から鉄道建設には反対だったのですが、新橋―横浜間に開通した鉄道に乗った後『百聞は一見に如かず』と考えを改めています。)

 

しかし征韓論で薩摩藩をまとめ上げていた重鎮である西郷が下野すると、1877年には彼を神輿として担ぎ上げた薩摩藩の不平士族である西南戦争が勃発。

西郷は死に、翌年に大久保も暗殺。

 

以降は、隆盛の弟であった従道(『つぐみち』という読みが有名ですが、西郷家によると『じゅうどう』という読みが正しいようです)や、従弟の大山巌(おおやまいわお)、黒田清隆を中心に軍事面で重要な役職に就くようになります。

 

・長州藩(幕末においては尊王攘夷の急先鋒だったのですが、その過激な活動から幕府に目を付けられ、討伐の危険性があったものの、ひそかに結ばれた薩長同盟によって幕府軍を撃破し、倒幕となっていきます)

木戸孝允、伊藤博文、山県有朋を中心に、海外経験も積みながら法律・軍事的な分野で力を発揮するようになります。

 

大久保、西郷とともに維新三傑(いしんさんけつ)と評される木戸孝允(きどたかよし。幕末での名は桂小五郎)は、士農工商の廃止や版籍奉還・廃藩置県といった行政改革による中央集権化、二院制による議会政治の立役者となります。

 

幕末では奇兵隊の一つ・力士隊隊長だった伊藤博文は岩倉使節団の重鎮だったほか、ボアソナードやグナイストといったフランス・ドイツの法律学者の下で法律学を学び、大日本帝国憲法の制定の中心人物となっていきます。

幕末で奇兵隊副官であった山県有朋は、主に軍事制度の改革に携わり、当初は兵部卿として、徴兵制の制定に関わっていきます。

 

なお、山県の死によって薩長による藩閥政治は終結しますが、軍と中央政府に強いコネを持つ人間がいなくなり、昭和における軍部の暴走の遠因となります。

 

・土佐藩(幕末において吉田東洋の元に改革が進められて雄藩に。当初は公武合体派だったのが坂本龍馬によって薩長同盟の仲介人となり、倒幕になります)

龍馬がいるためか開明的な人間が多く、板垣退助、植木枝盛(在野の活動家でしたが)、後藤象二郎等、自由民権運動の中心となる人物がほとんどでしたが、どちらかというと明治政府においては少数派と言えましょう。

 

幕末においては藩主・山内容堂の側近であった板垣退助は、征韓論によって西郷とともに明治政府を辞職した後、1881年の国会開設の詔をきっかけに自由党(じゆうとう)を組織、フランス流議会政治を主張します。

 

自由民権の考え上、選ばれた人間しかなれない華族に関しては否定的でしたが、明治天皇の再三再四の懇願に根負けして華族の一つである伯爵になりましたが、貴族院議員にはならず。

 

当時イギリス流議会政治を主張していた大隈重信とは対立がひどかったものの、最初の政党内閣であった第一次大隈内閣では協力。

隈板内閣(わいはんないかく。隈板とは大隈の「隈」と板垣の「板」を合わせたもの)』と呼ばれますが、4か月で総辞職に至ります。

 

同じく容堂の側近で、坂本龍馬の大政奉還を直々に申請する役回りをした後藤象二郎は、維新では大阪府知事などになったものの、征韓論で板垣とともに下野。

自由党では板垣に次ぐ副党首となりますが、のちに袂と分かち、第1次松方内閣や黒田内閣で通信大臣(つうしんだいじん。今でいうと総務大臣)、第2次伊藤内閣で農商務大臣(のうしょうむだいじん。今でいうと農林水産大臣)を務めます。

 

・肥前藩(幕末においては政治には比較的無関心だったものの、軍事力増強はすごかったため、雄藩に加わります)

大隈重信、江藤新平などの有力者が出ましたが、佐賀の乱で江藤が処刑されると、大隈が一人活躍するようになります。

幕末にオランダ宣教師・フルベッキの下でアメリカの理念や新約聖書について学んだ大隈は、初期は伊藤と共に鉄道建設に携わったほか、地租改正など財政にも拘わります。

 

それまでの太陰暦から、今に続く太陽暦に暦時法(れきじほう)を変えたのも彼。(『八つ時』『未の刻』を『午後3時』にかえて、『おやつ』の原型を作ったという事です)

 

しかし伊藤との権力闘争に負けて政府を辞職した後は、立憲改進党の党首となってイギリス流議会政治を主張する一方、教育を重視して東京の早稲田(わせだ)に東京専門学校(とうきょうせんもんがっこう。後の早稲田大学)を設立します。

(ちなみに東京専門学校設立には、当時最大の論争相手であった福沢諭吉の挑発があったとのこと)

 

そして長い下積みの後、返り咲いて総理大臣を歴任し、1922年に死去した折には30万人の国民が日比谷公園で別れを惜しんだといわれています。

ちなみに西郷は大隈を『俗吏(ぞくり。俗物である役人)』と嫌っていたとか。

 

幕末に開国を主張した『図海策(ずかいさく)』を主張した江藤新平は、戊辰戦争においてはアームストロング砲の遠方射撃を指導し、旧幕府の壊滅に努めます。

 

法律重視で、フランスの民法を強く崇拝していた彼は『フランスの民法を日本民法と書き直せばよい』『誤訳をとがめなくていいから速訳せよ』と言っていたほど。

(現代でもフェイスブック社長マーク・ザッカーバーグ氏が『完璧を目指す前に終わらせろ』と言っていますが、江藤の考えはこれと同じ、巧緻より拙速重視と言えます)

 

しかしナポレオン三世率いるフランスがビスマルク率いるプロイセンに完敗し、日本でのフランスの評価が低くなると江藤は孤立。

さらに彼中心に進められていた、裁判所の整備や写真による指名手配制度の整備に財政が追い付かず、さらに明治政府で彼は孤立。

経済重視の大久保と激しく対立します。

 

また、明治政府高官の汚職に厳しかった彼は、山県有朋や井上馨を汚職の件で辞任に追い込み、彼らの憎悪も受けることになるのです。

やがて征韓論で江藤は西郷とともに辞職すると、肥前改め佐賀に帰り、佐賀の乱で神輿として担がれます。

 

しかし近代化した政府軍にあえなく敗北、同じく下野していた鹿児島の西郷に武力蜂起を解くが受け入れられません。

そして自分が制度設計にかかわった写真による指名手配によって、あっという間に逮捕されてしまいます。(写真による指名手配制度は、皮肉にも江藤が被適用者一号になってしまいました)

そして4月13日に罪人として打ち首、その首を幕末の様にさらすことになるのです。

 

歴史にもしもはありませんが、江藤が下野せず反乱にも参加してなかったら、江藤は自由党の重鎮になっていたかもしれません。

大久保と江藤、大隈、板垣、伊藤の三つ巴の争い等、政治的な理念での対立も少なかったのですが、彼らは1890年の帝国議会開設、および1898年に政党内閣である憲政党(けんせいとう)が政治を取るまで、重鎮として明治政府を動かしていきます。

 

次に、明治維新の真実について考察していきます。

明治維新の真実について考察

幕府の財政窮乏や、外国に対して無力だったこともあって、幕府の支配に疑問を持つ人間は幕末には多かったのではないかと思われます。

 

そのことを考えると、大政奉還は自然の成り行きと思われますが、問題は

そのままだったら徳川将軍が「大君」と名を変えて実質的トップになるはずだったところ、王政復古の大号令と戊辰戦争で、幕府と旧体制の面々が遠ざけられるにいたった

のも事実。

 

薩長土肥という雄藩と幕府の争いという権力闘争が、明治維新の本質なのかもしれませんが、同時に実質的トップが幕府から雄藩に変わったという事もあって、明治維新の変革に拍車がかかったものと思われます。

 

一方、タイのチャクリー改革は王以外の人間によって行われたのではなく、今までの王朝にいたラーマ5世がトップとして行われました。

そのため、当時のタイには違和感を持つ人間が比較的少なかったのではないかと言われます。

 

次にベストセラーとなった、『明治維新という過ち』を取り上げ、明治維新が本当に間違いだったのかについてみていきます。

書籍『明治維新という過ち』について

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『明治維新という過ち』は少々言い過ぎで、『王政復古という過ち』が正しいのではないかと私は思います。

明治維新、つまり薩長土肥による日本の変革は、『王政復古の大号令』によるクーデターによるものと言われています。

 

つまりそれさえなければ徳川の支配が続いていたとも考えられますが、表向きは『幕府消滅。天皇が政権を取り返す』という形ではありました。

 

侮幕(ぶばく。幕府を馬鹿にすること)・討幕論が強まる中で、安政の大獄のような力技でも効果がなく(まして説得においておや)、八方ふさがりな中で、一度幕府は閉じなければいけなかったのではないかと私は思います。

 

もともと自然経済、つまり自給自足と物々交換による経済を善とし、商品経済、つまり貨幣を使った経済を悪としてきた徳川幕府ですが、(商人が士農工商の最下層に置かれたことや、今日でも『金は汚いもの』と考える日本人が少なくないのはそれもあります)やはり物々交換より貨幣経済のほうが便利ということもあるのでしょう。

 

江戸時代の半ばから、農村にも都市にも貨幣経済が浸透し、武士に給料として支給されたコメの価値が下がり、それに伴って武士の実質的給料が下がって、幕府の財政が貧窮していきます。

 

もちろん、薩長土肥といった藩は経済を根本的に立て直して外国に打って出るだけの経済力と軍事力を身に着けましたが、幕府は三大改革のうち、享保の改革以外はすべて失敗。

財政貧窮と力のなさを人々に知らせることになり、急速に地位が低下します。

 

しかもこの後には、幕府が諸外国と不平等条約を結んだことによって金の流出や、それを防ぐための貨幣価値下落などによる物価高で人々の苦しみが高くなったこと、および三大飢饉等の自然災害で(当時の自然災害は天罰、つまり主君の徳がないことによっておこるものと思われてました)、一揆や打ちこわし等が多発していました。

 

このことを考えれば、(歴史にもしもはありませんが)慶喜が大政奉還を発表しなくとも、遅かれ早かれ幕府は朝廷に政権返上せざるを得なかったものと思われます。

もちろん、王政復古の大号令は明確な薩長土肥のクーデターで、それさえなければ慶喜以降も徳川将軍が政権のトップとして君臨し続けていたのではないかと思われます。

 

重ねて歴史にもしもはありませんが、徳川将軍がトップとなった中で、明治維新のような良くも悪くも変化が大きかった変革を起こせたか、欧米列強の侵略を防げたかどうかはわかりません。

まとめ

  • 欧米列強の侵略を防ぐため、欧米に追いつき追い越すために急激な変化が必要で、薩長土肥を中心に西洋の文化を急速に導入する変革が行われたということ。
  • 江戸後期から三大飢饉等の自然災害が頻繁に起こり、それによる一揆や打ちこわしが多発したことを考えれば、遅かれ早かれ徳川将軍は天皇に政権を返さないといけなかっただろうということ。
  • 同時期に西洋文明を取り入れる近代化政策を取り入れたことによって、日本もタイも、西洋列強の植民地化を免れた数少ないアジア諸国になったということ。

 

これが真実と言えましょう。

 

今も昔も権力争いというのは、政策を掲げて行うものであって、それそのものは醜いものでも汚いものでもないわけです。

勿論、いつの時代も結果によってその良し悪しは判断されるものですが。

 

今はイノベーション、つまり変革の時代と言われていますが、そのなかで日本にしろタイにしろ、戦争を起こさずに変化の時代を乗り切っていけるかがこれからのキーと言えそうです。

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