天保の改革とは?失敗の理由や影響と江戸三大改革との違いについても

今回は、江戸の三大改革の最後に行われた「天保の改革」について、わかりやすく解説していきたいと思います!

 

  • 天保の改革ではどんなことが行われたのか?
  • 誰が、何の目的で行ったのか?
  • 失敗の理由はなんだったのか?

 

さらに、内容が混同されやすい江戸の三大改革の違いとは!?

そんな疑問を、全部まとめて解決しちゃいます!

天保の改革とは?

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天保の改革とは、江戸時代後半に行われた改革のことです。

 

この改革が行われた頃は江戸時代も終盤で、さまざまな場所で変化が起きていた時代です。

天災や飢饉だけではなく、百姓一揆や打ちこわしも起こり国内情勢も混乱していきました。

 

また、鎖国中であった江戸幕府に対し、海外からの貿易要請なども増えていきます。

こういった事情から、それまでの政策が通用しにくくなっていました。

 

さらに、天保の改革が行われる前の将軍は、浪費の激しい11代将軍・徳川家斉でした。

彼はとにかく派手好きで、子供が55人いたとも言われています。

 

そんな人が将軍だったこともあり、寛政の改革で倹約をしていた庶民もどんどん活気のあふれる生活をし始めます。

この頃の文化が化政文化で、葛飾北斎などが活躍していました。

しかし、派手な生活を送りながら55人もの子供を養うには、莫大な資金が必要となりますよね。

 

その結果、この当時の幕府の財政は逼迫した状態でした。

財政がままならない上に国内情勢が不安定では、とても海外勢力に対応することはできません。

政治を安定させながら財政を改善しようと行われたのが、天保の改革でした。

 

まずはじめに、人事改革が行われます。

というのも、家斉時代の幕府では賄賂が行われていることで風紀が乱れ、改革に反対する高官も多くいたからです。

改革を行うために約950人の役人を処罰し、その代わりに「遠山の金さん」としても有名な遠山影元鳥居耀蔵江川英龍などが登用されました。

 

そして、財政を安定させるために人返し令や株仲間の解散を行いました。

 

江戸幕府の収入源は、幕府領の年貢です。

そのためには農村に人がいなければいけませんが、改革が行われた頃には農村から江戸や大阪へ出て行く人が多く、人手が不足していたのです。

人返し令を出すことで、江戸に住んでいた農村出身者を強制的に農村へと帰郷させました。

 

また、急上昇していく物価を安定させようと、株仲間の解散も行いました。

株仲間を解散させることで自由に価格設定ができるようにし、物価の上昇を抑えようとしたのです。

 

さらに、幕府は上地令を出します。

これにより、江戸や大阪など都市部周辺の大名や旗本から領地を取り上げ、幕府の直轄領にしようとしました。

 

その他にも貨幣の改鋳を行うなど、さまざまな財政政策が行われました。

 

天保の改革では、これまでに行われたふたつの改革と違い、軍事改革も重視されました。

 

それまでの江戸幕府は異国船打払令により、外国船はとにかく打ち払っていました。

しかし、すぐ近くの清でアヘン戦争が勃発し、「眠れる獅子」と恐れられた清がイギリスに大敗したことをきっかけに、幕府はこの方針を変えることを検討しました。

 

その結果、異国船打払令は廃止されその代わりに薪水給与令が出されます。

外国船を打ち払うのではなく、薪などの燃料や水、食料を与えることにしました。

 

また、軍備の増強にも力を入れ、西洋流砲術を取り入れるなどしました。

庶民向けの政策として、江戸時代の改革ではお馴染みの倹約令が出されます。

それまでの派手な生活をやめさせようとしたのです。

 

絹などの高価な着物などの贅沢を禁止し、さらに落語の寄席の閉鎖や、有名な歌舞伎役者の処罰なども行われました。

そのため、北斎などが活躍した化政文化は終わりを告げました。

 

では、一度ここで天保の改革についてまとめてみましょう。

 

  • 「天保の改革」は江戸時代後半に行われた改革
  • 人返し令を出し、江戸に住んでいた農村出身者を強制的に帰郷させた
  • 株仲間を解散させ、物価の上昇を抑えようとした
  • 上地令を出し、都市部周辺の土地を取り上げようとした
  • 薪水給与令を出し、外国船に燃料や食料を与えることにした

 

天保の改革のポイントは、このようになります。

次は、政策が行われた年代と天保の改革前後に起きた出来事を見ていきましょう。

年号

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天保の改革は、1841年(天保12年)~1843年(天保14年)にかけて行われました。

 

改革が行われる前、1833年(天保4年)には全国的な飢饉である天保の大飢饉が起こります。

都市や農村を問わず餓死者が続出し、とてもひどい状態でした。

 

しかし、それに対する幕府の救済が不十分であったため、1837年(天保8年)には大塩平八郎の乱が大阪で起きます。

それ以外にも、各地で一揆や打ちこわしが続発しました。

 

さらに、大塩平八郎の乱が起きたのと同じ年に、モリソン号事件が起きます。

日本人漂流民を乗せたアメリカ商船・モリソン号が通商を求めて来航し、幕府に打ち払われた事件です。

 

そして、改革が行われる前年、1840年(天保11年)に清でアヘン戦争が勃発しました。

 

このように、改革が行われる直前は国内外がとても混乱している時期だったのです。

 

そして、改革が始まった1841年(天保12年)に株仲間が解散されます。

翌年の1842年(天保13年)には、薪水給与令が出されました。

1843年(天保14年)に人返し令上地令が出されたのと同じ年に、天保の改革は終わりました。

 

国内外の出来事が込み入った時期だったので、もう一度年代順に整理しましょう。

 

  • 1833年(天保4年)  天保の大飢饉
  • 1837年(天保8年)  大塩平八郎の乱モリソン号事件
  • 1840年(天保11年) アヘン戦争
  • 1841年(天保12年) 天保の改革が始まる、株仲間の解散
  • 1842年(天保13年) 薪水給与令
  • 1843年(天保14年) 人返し令、上地令、天保の改革終わり

 

ひとつ前の寛政の改革は6年間でしたが、今回の天保の改革はたったの3年で終わってしまいました。

この改革を行っていた人物は、どんな人だったのでしょうか?

天保の改革を行った人

水野忠邦
水野忠邦

天保の改革は、老中の水野忠邦が中心となって行っていました。

 

水野忠邦は唐津藩(現在の佐賀県)の藩主・水野忠光の次男として生まれました。

兄が早くに亡くなり、跡取りとして藩主になります。

 

しかし、当時の幕政では唐津藩出身の者は老中になれないという決まりがあったため、浜松藩(現在の静岡県)に国変えを願い出ました。

出世のために国を変えるとは、大変な野心家だったようですね。

 

そして、老中に就任し12代将軍・徳川家慶のもとで天保の改革を実施しました。

次の項目で詳しい経緯は説明しますが、天保の改革のあとで水野忠邦は一度老中から失脚します。

ですが、後任の老中が家慶の怒りを買ったため、再び老中に任命されました。

 

結局それも長くは持たず隠居・謹慎が命じられ、その後まもなく懲罰として山形藩に領地を移されました。

そして、その6年後に病気により亡くなりました。

 

地方の本来なら老中になれない藩の藩主から、ここまで出世を重ねた水野忠邦は優秀な人物だったのでしょう。

しかし、老中を解任されていることからもわかるように、改革はあまりいい結果を残せませんでした。

 

次は、改革の結果とその後を見ていきたいと思います。

天保の改革は失敗だった?結果とその後の影響

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天保の改革は、3年という短い期間で終了しました。

水野忠邦の老中解任からもわかるように、改革は失敗に終わります。

 

人返し令は上手くいかず、農村の人手を増やし年貢の徴収を安定させることはできませんでした。

さらに、株仲間を解散したことで江戸に商品が届かないなどの物流の混乱を招き、余計に物価が上がってしまうなど経済の混乱を招きました。

 

貨幣の改鋳も急激な勢いで実施してしまったために、インフレを引き起こしてしまいます。

倹約令も厳しすぎたせいで、庶民からのブーイングの嵐でした。

 

そして、天保の改革を終わらせた一番の原因が上地令でした。

一度説明をした通り、この上地令は都市部の大名・旗本から土地を取り上げる制度です。

 

ただ幕府がその土地をほしいから取り上げる、などといっては反感を買うのは当然の話ですよね。

各方面からの大反対により上地令は中止になりましたが、これが将軍・家慶の不興を買い、水野忠邦は失脚したのです。

 

この天保の改革の失敗が、余計に幕府の財政を混乱させました。

それに対し、独自の財政改革を進めていた薩摩藩や長州藩、水戸藩などは成功を収め、幕府を超える裕福な藩に成長することもありました。

そのため、幕府と地方の繋がりや信頼関係が弱まっていきます。

 

そして、水野忠邦が失脚して10年も経たずに黒船が来航。

幕府はますます苦しい状況に立たされ、日本はさまざまな混乱の中で新しい時代へと向かっていくことになったのです。

もしかすると、ここで天保の改革が成功をしていたら江戸幕府はもっと長く続いていたのかもしれませんね。

 

さて、ここまで天保の改革についてみてきました。

江戸時代にはこの天保の改革の前に、享保の改革、天保の改革という三大改革が行われました。

次は、内容が混同されやすいこの三大改革の違いについてみていきたいと思います。

江戸三大改革「享保」「寛政」「天保」の違いは?

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江戸三大改革である

  • 享保の改革
  • 寛政の改革
  • 天保の改革

 

が混同されやすいのは、改革が行われるに至った時代背景が似ているからです。

似ている時期に行った改革のため、目的や内容が似てしまうのが一番のややこしいところです。

 

三大改革は、どれも江戸幕府が始まって100年以上経過してから行われました。

最初に述べたとおり、1700年ごろには幕府の財政は悪化しており、慢性的で深刻な財政難に陥っていました。

 

さらに、享保の大飢饉でもみたように、天候不順や虫害による被害で不作が発生すると、それだけで飢饉が起き、餓死者が続出します。

不作は飢饉だけでなく、米価の高騰も招きますから、打ちこわしや百姓一揆などの暴動も頻発することとなります。

これらの問題を解決しようと、それぞれの時代で改革が行われました。

 

改革が行われた背景は、このようにすべて似たり寄ったりです。

そもそも、状況が似ていなければ前の改革を参考にすることもできませんよね。

 

では、似た状況で行われた三大改革にはどんな違いがあるのでしょう?

ここでは、わかりやすく箇条書きでそれぞれの改革の違いを見ていきたいと思います。

 

享保の改革

  • 1716年~1745年にわたって行われた長期の改革
  • 主導者は8代将軍徳川吉宗
  • 目安箱を設置し、町民の意見を内政に反映させた
  • 漢訳洋書の輸入を緩和し、学問を奨励した
  • 上米の制を定め、代わりに参勤交代を短くした
  • 相対済し令により、金銭トラブルは当事者同士で解決するようにした
  • 改革はある程度成功した

 

寛政の改革

  • 1787年~1793年にわたって行われた改革
  • 主導者は老中松平定信(将軍は11代徳川家斉)
  • 人返しを行い、出稼ぎを制限した
  • 囲米の制で飢饉に備え、米を蓄えさせた
  • 寛政異学の禁により、朱子学以外の講義を禁止した
  • 棄捐令を出し、旗本や御家人の借金を帳消しにした
  • 庶民の反感が強まり、失敗した

 

天保の改革

  • 1841年~1843年に行われた改革
  • 主導者は老中水野忠邦(将軍は12代徳川家慶)
  • 人返し令により、出稼ぎや江戸への移住を禁止した
  • 株仲間を解散させた
  • 江戸大阪周辺の土地を没収する上知令を出すも、反発にあう
  • 厳しすぎたため、失敗した

 

まとめてみると、それぞれこんな感じになります。

 

大きな違いとしては、改革を行った年数と指導者ですね。

また、どれも幕政を立て直そうとした改革でしたが、成功したかどうかにも大きな違いがでてしまいました。

 

厳しすぎては反感を買ってしまうし、緩すぎては改革にならない。

なんとも難しい問題ですね。

 

しかし、すべてに共通するのは幕政をよりよくしようという思いと、税収を安定させたいということでした。

指導者達の地位は違えど、国を思う気持ちは同じだったのですね。

 

では、天保の改革についてわかりやすく整理しましょう。

まとめ

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最後に、天保の改革についてまとめます。

 

  • 「天保の改革」は江戸時代後半に老中水野忠邦によって行われた改革
  • 人返し令を出し、江戸に住んでいた農村出身者を強制的に帰郷させた
  • 株仲間を解散させ、物価の上昇を抑えようとした
  • 上地令を出し、都市部周辺の土地を取り上げようとした
  • 薪水給与令を出し、外国船に燃料や食料を与えることにした
  • 将軍徳川家慶や庶民からの反感を買い改革は失敗し、水野忠邦は失脚した
  • 改革の失敗を受け、幕府の財政はより混乱した

 

まとめたことで、少しわかりやすくなったかと思います。

 

江戸の三大改革は享保の改革に始まり、それを参考にした寛政の改革、さらにそのふたつを参考にした天保の改革へと続きました。

結果的に成功したのは、最初の享保の改革だけでした。

 

天保の改革は江戸後半期だったこともあり、国内の混乱も徐々に大きくなっていった頃です。

そんな時代に財政を建て直し、国内の混乱を収めるというのは簡単なことではなかったでしょう。

 

水野忠邦は出世をしたくて国を変えるほどでしたが、それに見合うだけのなにかを手に入れることはできたのでしょうか?

混乱の時代に人の上に立つ為政者というのは心労も絶えなそうですが、彼は満足のいく人生を送れたのか、ちょっと気になってしまいますね。

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