日米修好通商条約とは?井伊直弼は本当に独断で条約を結んだのか?

今回取り上げるのは、日米修好通商条約です。

幕末に日本がアメリカと結んだ不平等条約として有名ですね。

 

今回は、

  • 日米修好通商条約はどのような点で日本にとって不利だったのか?
  • 井伊直弼は本当に独断で条約を結んだのか!?
  • この条約が貿易にどのような影響を与えたか

 

などについて、特に詳しく見ていきたいと思います!

日米修好通商条約とは ?

日米修好通商条約
出典:ウィキペディア

この章では、日米修好通商条約とはどのような条約であるのかについて説明していきます。

 

この条約は、1858年に日本とアメリカとの間で結ばれた条約です。

この条約では、以下のようなことが決められました。

 

  • 新たに神奈川長崎新潟兵庫を開港する。
  • 江戸大坂の開市
  • 開港場に外国人居留地を設定する
  • 自由貿易の原則を認める
  • アメリカの領事裁判権を認める
  • 日本の関税自主権を否定する

 

また、日米和親条約で定められた片務(契約当事者のうち一方のみが義務を負うこと)的最恵国待遇はそのまま継続されています。

 

次に、年号及び条約の原文について、そしてハリスとは何者であったかについて、見ていきます!

年号

この条約の交渉が開始され、調印されたのは、ともに1858年です。

原文

ここに日米修好通商条約のうち、前の章で取り上げた内容の箇所を載せますので、ご覧ください。

第三條
下田箱館の港の外次にいふ所の場所を左の期限より開くへし
神奈川 午三月より凡十五箇月の後より 西洋紀元千八百五十九年七月四日
長崎 午三月より凡十五箇月の後より 西洋紀元千八百五十九年七月四日
新潟 午三月より凡二十箇月の後より 西洋紀元千八百六十年一月一日
兵庫 午三月より凡五十六箇月後より 西洋紀元千八百六十三年一月一日
若し新潟港を開き難き事あらは其代りとして同所前後に於て一港を別に撰ふへし
神奈川港を開く後六箇月にして下田港は鎖すへし此箇條の內に載たる各地は亞米利加人に居留を許すへし居留の者は一箇の地を價を出して借り又其所に建物あれは之を買ふ事妨なく且住宅倉庫を建る事をも許すへしと雖之を建るに托して要害の場所を取建る事は決して成ささるへし此掟を堅くせん爲に其建物を新築改造修補なと爲る事あらん時には日本役人是を見分する事當然たるへし
亞米利加人建物の爲に借り得る一箇の場所並に港々の定則は各港の役人と亞米利加コンシュルと議定すへし若し議定し難き時は其事件を日本政府と亞米利加ヂプロマチーキ、アゲントに示して處置せしむへし
其居留場の圍に門墻を設けす出入自在にすヘし
江戶 午三月より凡四十四箇月の後より
千八百六十二年一月一日
大阪 同斷凡五十六箇月の後より
千八百六十三年一月一日
右二箇所は亞米利加人只商賣を爲す間にのみ逗留する事を得へし此兩所の町に於て亞米利加人建家を價を以て借るへき相當なる一區の場所並に散步すへき規程は追て日本役人と亞米利加のヂプロマチーキ、アゲントと談判すへし
雙方の國人品物を賣買する事總て障りなく其拂方等に付ては日本役人是に立會はす諸日本人亞米利加人より得たる品を賣買し或は所持する倶に妨なし○軍用の諸物は日本役所の外へ賣るへからす尤外國人互の取引は差構ある事なし此箇條は條約本書爲取替濟の上は日本國內へ觸渡すへし
米並に麥は日本逗留の亞米利加人並に船に乘組たる者及ひ船中旅客食料の爲の用意は與ふとも積荷として出する事を許さす○日本產する所の銅餘分あれは日本役所にて其時々公けの入札を以て拂渡すへし○在留の亞米利加人日本の賤民を雇ひ且諸用事に充る事を許すへし

第四條
總て國地に入出の品々別册の通日本役所へ運上を納むへし
日本の運上所にて荷主申立ての價を奸ありと察する時は運上役より相當の價を付け其荷物を買入る事を談すへし荷主若し之を否む時は運上所より付たる價に從て運上を納むへし承允する時は其價を以て直に買上へし
合衆國海軍用意の品神奈川長崎箱館の內に陸揚し庫內に藏めて亞米利加番人守護するものは運上の沙汰に及はす若し其品を賣拂ふ時は買入る人より規定の運上を日本役所に納むへし
阿片の入嚴禁たり若し亞米利加商船三斤以上を持渡らは其過量の品は日本役人之を取上へし
入の荷物定例の運上納濟の上は日本人より國中に送すとも別に運上を取立る事なし亞米利加人入する荷物は此條約に定めたるより餘分の運上を納る事なく又日本船及ひ他國の商船にて外國より入せる同し荷物の運上高と同樣たるへし

第五條
外國の諸貨幣は日本貨幣同種類の同量を以て通用すへし、(金は金銀は銀と量目を以て比較するを云)雙方の國人互に物價を償ふに日本と外國との貨幣を用ゆる妨なし
日本人外國の貨幣に慣されは開港の後凡一箇年の間各港の役所より日本の貨幣を以て亞米利加人願次第引換渡すへし向後鑄替の爲め分を出すに及はす日本諸貨幣は(銅錢を除く)出する事を得並に外國の金銀は貨幣に鑄るも鑄さるも出すヘし

第六條
日本人に對し法を犯せる亞米利加人は亞米利加コンシュール裁斷所にて吟味の上亞米利加の法度を以て罰すへし亞米利加人へ對し法を犯したる日本人は日本役人糺の上日本の法度を以て罰すへし日本奉行所亞米利加コンシュル裁斷所は雙方商人逋債等の事をも公けに取扱ふへし
都て條約中の規定並に別册に記せる所の法則を犯すに於てはコンシュルヘ申逹し取上品並に過料は日本役人へ渡すへし兩國の役人は雙方商民取引の事に付て差構ふ事なし

(引用:日本國米利堅合衆國修好通商條約(データベース「世界と日本」))

ハリスって何者?

タウンゼント・ハリス
タウンゼント・ハリス

この章では、日米修好通商条約締結時のアメリカの全権である、タウンゼント・ハリスについて見ていきます。

 

彼は敬虔な聖公会信徒であり、若いころは教育活動をはじめとした公共事業に尽力していました。

その後太平洋を航行しつつ貿易業を営み、結果東洋に腰を据えるようになります。

 

日米和親条約により、アメリカは下田に領事を置くことが認められたのですが、彼はそこで初代の駐日領事となりました。

日米修好通商条約締結後は初代駐日公使となって江戸に移り、1862年に帰国しています。

 

この帰国の理由は病気のようですが、故郷が南北戦争の渦中にあることを案じたから、であるとも言われています。

また、彼は生涯独身を貫いたようですよ。

 

次の章では、開港された港について、その後は日米修好通商条約が日本にとってどのように不利であったのかについて見ていきます!

開港された港は?

日米修好通商条約で新たに開港されたのは、神奈川・長崎・新潟・兵庫の4港です。

 

また、神奈川港の開港に伴って、日米和親条約で開港されていた下田港は鎖港となりました。

日米修好通商条約は日本にとって不平等だった!?

この条約の不平等なところは、大きく2つあります。

 

1つ目は、アメリカの領事裁判権を認めたことです。

領事裁判権とは、外国人が別の在留国において、自国の領事による裁判を受ける権利のことを言います。

アメリカの領事裁判権を認めたということは、日本は国内でのアメリカ人の犯罪を、日本の法律で裁けなくなったということです!

 

しかし、当時の日本は、この内容が後にどのような悪影響を及ぼすかについての理解がまったくされておらず、むしろ歓迎されたと言われています。

 

また、この要項を加えたアメリカ側にも、それなりの理由がありました。

当時の欧米人にとって、東アジアの法整備は自国のそれと比較して、かなり遅れているように見えました。

そのため、きちんとしていない裁判なんかにかけられるのは不当だ!ということで、自分たちには自分たちの法を適用しようとしたのです。

 

2つ目の不平等要素は、日本に関税自主権がなかったことです。

関税自主権とは、国家が輸入品にかける関税を自主的に定めることのできる権利です。

これを失った、ということは、税率の改訂の際にアメリカと交渉する必要が生じた、ということを意味しています。

 

ちなみに、日米修好通商条約単体では、それほど日本に不利な関税の設定ではなかったことをご存知ですか?

この条約の貿易章程の改訂版である、改税約書により、日本に不利な状況が生まれたのです。

 

当初は従価税といって、税率が品物の取引価格に応じて定められていました。

しかし改税約書により、当時の主要な輸出入品が従量税となりました。

 

従量税とは、税率が品物の量によって決められるものです。

幕末期の日本は混乱期にあり、それによりインフレーションが起きていたため、従量税採用によって関税がないに等しい状況となってしまったのです。

 

次の章では、当時の大老・井伊直弼についてみていきます。

彼が独断で条約を締結したと思われがちですが、実は・・・!

井伊直弼は本当に独断で条約を結んだのか?

井伊直弼
井伊直弼

ここでは、彼は本当に独断で条約を結んだのか?について検証していきましょう。

 

ハリスが幕府に対して自由な通商を求めてきたところから話は始まります。

当時の老中首座であった堀田正睦は、下田奉行と目付の二人に交渉を開始させます。

正睦は孝明天皇の勅許を得ることで世論を納得させ、その上で通商条約を結ぼうとします。

 

しかし、当時の日本は開国派と攘夷派に分かれており、岩倉具視などの攘夷派は通商条約締結に猛抗議します。

また、孝明天皇自身も、対等な立場での通商条約締結が日本にとって悪影響を与えるとして、勅許を拒みました。

 

こうなると、ハリスのほうも黙ってはいられません。

彼は、中国と戦争中のイギリス・フランスが、日本を侵略する可能性について言及したのです。

その場合は少なくともアメリカとは友好関係を保っておく必要がありますから、開国派は条約調印を主張するわけですね。

 

すると、ここで大老・井伊直弼が異議を唱えます。

彼は、あくまでも勅許を優先させるべきだ、という意見だったのです。

 

開国派のドンであった松平忠固が即時調印を唱えたことで幕閣たちの意見は一致。

井伊は孤立してしまいますが、それでも彼は最後まで勅許を優先させるべき、という意見を曲げませんでした。

 

交渉担当者に対しては、やむを得ない場合には調印するように、と伝えただけだったのです。

しかし、実際には井伊の意向を無視する形で、条約は調印されたのです。

 

お分かりいただけたでしょうか。

井伊直弼は、決して独断で条約を結んだわけではなかったのです。

 

その後、井伊は反対派を大量に処罰する安政の大獄により、条約関係者を排除しますが、自らは桜田門外の変で命を落としました。

 

次の章では、日米修好通商条約がその後の貿易に与えた影響について見ていこうと思います。

その後の貿易への影響

前の章で述べた通り、この条約及び改税約書の取り決めにより、日本は関税による税収があまり見込めなくなりました。

 

また、日本と海外での金銀の交換比率の違いから、日本の金が海外へ多く流出することとなり、これもまた国内のインフレーションを加速させていきました。

 

海外からの輸入品は低関税でどんどん日本に流れてくる一方、日本からの輸出品は外国商人の手で行われることとなり、日本の貿易は外国人に半ば支配されるようになってしまったのです。

 

特に、安い綿製品の流入で、日本国内の綿織物業は衰退していきます。

 

その一方で、生糸は日本の輸出品の約7割を占めており、こちらは海外であまり生産されていなかったためか、日本での生産量は増加していきました。

 

それでは最後にここまでの内容をまとめて振り返ってみたいと思います。

まとめ

日米修好通商条約は、1858年に日本とアメリカの間で結ばれた条約。

 

主な内容は、

  • 神奈川長崎新潟兵庫の開港と江戸大坂の開市
  • 開港場に外国人居留地を設定
  • 自由貿易の採用
  • アメリカの領事裁判権を認める
  • 日本の関税自主権を拒否する

 

というものでした。

ちなみに、下田港は鎖港となりましたね。

 

アメリカの全権ハリスは、初代駐日領事として日米修好通商条約を結び、その後初代駐日公使となった人物です。

 

日米修好通商条約は日本にとって不利な内容と言われており、その主な理由は2つです。

1つは、アメリカに領事裁判権を認めたこと、もう1つは、日本に関税自主権がないことでした。

 

また、井伊直弼は日米修好通商条約締結時の大老でしたが、彼は決して独断で締結に踏み切ったわけではなく、勅許を第一に考え、むしろ締結に反対していましたね。

 

この条約と改税約書により、日本の貿易の主導権は外国商人が握ることとなり、海外の安価な製品が日本国内に流れてくるようになったことで、特に綿織物業などが大きな打撃を受けました。

 

今回取り上げた日米修好通商条約が、その後の日本にどのような影を落としているかにも、是非注目してみてください!

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