今回ご紹介するのは、幕末に起きた日本とイギリスの国際問題である生麦事件です!
この事件は、日本に白人がやってくるようになった幕末に起こった騒動で、日本とヨーロッパの文化やルールの違いが引き起こした悲劇でもあったのです。
今回はそんな生麦事件について
- どうして起こったのか?
- 生麦事件の発生現場や記念館の情報
- 生麦事件の犯人や被害者について
- その後どんな影響が生まれたのか?
などなど詳しく解説していきたいと思います。
目次
生麦事件とは?
生麦事件とは薩摩藩が江戸から本拠地の薩摩に帰る途中に大名行列を横切った外国人を殺害してしまった事件のことです。
この事件によって薩摩藩とイギリスの間で薩英戦争と呼ばれる戦争へと発展してしまいました。
場所
生麦事件が起こった場所は事件の名前と同じ生麦にて起こりました。
日本史の事件の名前には地名由来のものがかなり多く、この生麦事件も例外ではないということですね。
それはともかく、この生麦村は今で言うところの横浜市鶴見区に存在していた村であり、今でも京急本線の駅に生麦駅があるなど一定の名残は存在しています。
地図
事件が起こった生麦村は当時日本で一番栄えていた街道である東海道が通っている村であり、さらには江戸から当時外国人が多数いた横浜に向かうためには必ず通らなければならなかった道でした。
そのためこの村の付近は沢山の人々が往来する道であり、さらに幕末の頃になると外国人もよく通る道へと変貌を遂げる事になったのです。
生麦事件が起こった理由の一つにこのような生麦村周辺の状況などが深く関係したのでしょうね。
当時の現場の状況
生麦事件の当事、薩摩藩は江戸から本拠地の薩摩の帰宅途中。
多数の藩士を連れて大名行列を組んでいました。
当時の常識として大名行列というのは大切なものであり、藩からすればこの大名行列を民衆に見せつける事によって威厳を保っていたのです。
そのため、大名行列を横切った=藩の名誉を汚したというのがさらに常識となり、大名行列を横切った人は産婆か大名行列よりも重要な職業である飛脚を除いて全て斬り捨てても構わないというルールも存在していたのでした。
いわゆる斬り捨て御免ですね。
しかし、イギリス人からすれば大名行列の大切さなんてわかるはずもありません。
そのためイギリス人はよりにもよって馬によって大名行列を横切るという大暴挙に打って出ました。
そのため大名行列を守っていた藩士はこのイギリス人に斬りかかり殺害。
さらに重傷を負った2人は命からがらアメリカ総領事館に逃げ込んだのでした。
事件の犯人と被害者
こうして起こってしまった生麦事件。
こんな大事件が起こってしまうとやはり気になってしまうのがそんな事件を起こした犯人ですよね?
実際問題イギリスはこの犯人探しに必死となり、引き渡しを薩摩藩に命令したりもしましたが、結局犯人は見つからずじまいとなり、犯人は闇に包まれたままとなってしまいました。
しかし、一説によると最初にイギリス人に斬りかかったのは奈良原喜左衛門という人がやったとされており、さらに海江田信義がトドメを刺したと言われています。
一方の被害者はチャールズ・リチャードソンを含む4人であり、生麦事件が起こった当時は横浜に観光でやってきていました。
生麦事件の参考館
このような悲劇が起こった生麦事件でしたが、今ではこの生麦村は横浜市の一部となり、京浜工業地帯近くの住宅地に様変わりしてその面影はほとんどありません。
しかし、今でもこの生麦事件の様子を伝えようと生麦資料館が京急本線生麦駅の近くに存在しています。
この資料館は一時期は館長の体調が悪化したこともあり閉館したりしたそうですが、今では電話による予約があれば無料で公開してくれるそうで、もし機会がかあれば一回予約して行ってみるのもいいですね。
生麦事件現場の碑
こうして殺害されたチャールズ・リチャードソンでしたが、今でも生麦事件が起こった地点には今でも巨大な石碑が建っています。
地点は京急本線生麦駅から歩いてすぐ。
横浜や東京からも近く生麦事件の当時の様子も克明と石碑に書かれており、結構見る価値があります。
賠償金はすべて幕府が支払った?
さてさて大変な事になってしまった薩摩藩。
もちろん被害者の出身国であるイギリスはカンカンに怒っています。
1863年イギリスは幕府に対して10万ポンドの支払いを要求しました。
もちろん元々被害者のために最初は幕府は賠償金を支払おうとしました。
しかし、いかんせん幕末の時代であり、日本中で尊王攘夷論が巻き起こっていたこの時期にそんな話が通らず、天皇の命令によって賠償金の支払いはなしとなってしまいました。
賠償金も支払われず、さらにいえばイギリスの顔に泥を塗った徳川幕府。
もちろんイギリスは大激怒して一時期は江戸周辺に艦隊を待機させて戦争一歩手前に追い込んでしまうという事態も引き起こしてしまいました。
結局、賠償金は幕府が土壇場で賠償金を支払うことを承認した事によって決着し、幕府は賠償金をイギリスに支払って生麦事件はひとまず決着したのでした。
生麦事件から薩英戦争へ
生麦事件は一応幕府が賠償金を支払った事によって終結しました。
でもイギリスが求めたのは薩摩藩による謝罪と犯人の引き渡し。
しかし、薩摩藩は結局賠償金を払わずじまい。
さらに犯人の引き渡しも薩摩藩が全く協力しなかったこともあり全然進展がないまま時が進んでいました。
こんな状況にしびれを切らしたのかイギリスは軍艦7隻を連れて鹿児島湾に入港し、直接薩摩藩と交渉する事にしました。
しかし、この交渉も全然まとまることはなく、さらにはイギリスの態度にブチ切れた藩士がイギリスの軍艦を奪い取るというトラブルもあり、薩摩藩とイギリスの交渉は決裂。
イギリスはついに薩摩藩との戦争を決意し、薩英戦争が勃発する事になったのでした。
こうして薩英戦争に突入したところでまとめに入りましょう。
まとめ
- 生麦事件とは生麦村で起こった薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件のこと
- 生麦事件によってイギリスは大激怒。賠償金の支払いと犯人の引き渡しを要求した
- 生麦事件の犯人は分かっていないが奈良原喜左衛門が有力となっている
- 生麦事件のお陰でイギリスは薩摩藩との戦争を決意。薩英戦争に突入していくことになった
- 生麦事件の発端地は今では住宅地が広がり面影はほとんどないが、駅前には石碑や記念館などがある
最後になりましたが、この生麦事件ののちに起こった薩英戦争によって薩摩藩はイギリスの強さを実感し、倒幕へと舵を切っていく事になります。
生麦事件というのは薩摩藩が欧米列強の強さを実感し、日本を近代化させていく一つのきっかけになったのかもしれませんね。