刀狩り令とは?目的や影響などを解説!徴収した武器はどこへ!?

今回解説するのは秀吉が天下統一を果たす直前にやった一大プロジェクトであった刀狩り

 

戦国時代といえば農民ですら自身の才能があれば戦国大名になれることができる下剋上の時代でした。

刀狩をする秀吉もそのような人物の一人だったわけですが、何故、よりによって秀吉はこんな法令を出したのでしょうか。

 

実はそこには、戦国時代ならではの農民の働きや戦国大名の悩みが関係していたのです。

 

  • 刀狩りとはどんなものだったのか?
  • 刀狩令を出したおかげでどのような効果が出たのか?
  • 刀狩令の条文の現代訳はどんなものだったのか?

 

今回は、戦国時代の終わりを迎える刀狩令の隠されたドラマなどを見ていきましょう。

刀狩りとは?

豊臣秀吉
豊臣秀吉

「刀狩り」とは、本能寺の変以降天下人となっていく豊臣秀吉が1585年から断続的に行なっていた農民から武器を奪った政策のことです。

 

秀吉は天下人になるまでの間、これまで度々一向一揆などで大暴れしていた農民から武器を奪うことによって天下統一の事業をスムーズに行える状態として、兵士と農民を分別する兵農分離を行なっていきました。

 

ちなみに、これと同じ時期にやっていた全国の農作物の取れ高や土地の調査を行った太閤検地とセットで覚えることが多いのでこちらもチェックするのがオススメですよ。

 

さて、次は刀狩りがいつぐらいから行われていったのかを見ていきましょう!

刀狩令の年号は?

秀吉は1585年の紀州征伐(今の和歌山県にある根来寺を攻めたよ)の頃から紀州を中心に刀狩りを行なっていきました。

ただ、その刀狩が完全に実施されるようになったのは1588年のことでした。

秀吉が天下統一を果たすのが1590年ですからそれのちょっと前ということですね。

 

ここで秀吉はこの頃の治めていなかった関東地方と東北地方以外の全ての地域で刀狩りを行なっていきます。

1590年に天下統一を果たすと秀吉の家臣である石田三成に宛てた手紙の中に「2年前に刀狩令を出したけどこれからは関東地方と東北地方でもやっていくで」と書いているのです。

 

その通りに関東地方や東北地方の農民からも武器を奪って全国津々浦々の農民が武器を持てなくするような状況を作っていきました。

 

年号は「以後パパッと(1588年)刀狩令」と覚えておくのがベストです。

1500年代は以後が使いまくることができるからいいですよね。

 

ちなみに、ちょっとした豆知識として刀狩令の同じ日に秀吉は海賊禁止令という法令も出しています。

 

海賊といえばワンピースみたいなものを思い浮かべますよね。

ただ、日本における海賊というのは瀬戸内海にいる農民みたいなもので、瀬戸内海を通過するすべての船から通過料金を徴収しながら過ごしていました。

 

しかし、秀吉は刀狩令と同じ時期に海賊禁止令を出して海賊ですら武器を持てなくしてしまったのでした。

 

こうして秀吉は刀狩令や海賊禁止令など農民からばかすか武器を奪っていきましたが、次はどうして秀吉が刀狩りをしたのかを見ていきましょう!

刀狩りの目的や影響

秀吉は刀狩りをしてまで農民から武器を奪い去りたがっていましたが、どうして秀吉はそんな政策を実行したのでしょうか?

でも、それには秀吉の元々の身分が関係していたのです。

 

秀吉は皆さんご存知現在の愛知県出身の農民の生まれであり、信長に見出されて本能寺の変以降では天下人として日本に君臨したまさしく日本史上最大の成り上がり者です。

 

だからこそ秀吉は農民の隠された力や能力を知っており、このまま武器を手に取って秀吉の後に天下人になると恐れていたのでした。

まぁ、自分がそうですからそう思うのは無理がありません。

 

さらにこの頃は戦国時代。

商人や野武士ですらいつのまにか戦国大名として国1つを治めることもしばしばありました。

さらに一向一揆といって一向宗(浄土真宗のこと)の信者の農民達が戦国大名を襲うことがあったのです。

 

「でも農民でしょ?」そう思ったあなたは甘々です。

この頃の兵士の主役は農民。

農民こそが戦の主役であり戦のカギを握っていました。

 

そんな農民が束になってかかってきたらたまったもんじゃありません。

だからこそ秀吉はこの農民から武器を分捕って農民に農作業をして年貢を治めることをして欲しかったのでした。

 

そんな刀狩りの結果は効果抜群だった模様で、この政策のおかげで兵士と農民が完全に別々となる兵農分離がどんどん進んでいき、大名の方は農民の言い分を聞かなくて済むようになりました。

 

さらに、一方の農民は戦に巻き込まれることが少なくなっていき、農作業に集中出来るようになって両方共にwin-winの関係になるような状態になったそうな。

刀狩令の原文

  • これから百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲その他色々の武器を持つことを固く禁じる。
  • コソコソと武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は徹底的に罰する。
  • 取り上げた武器は、今建造中の方広寺の大仏の釘などの材料とする。これは百姓があの世で救われるために作っているのだぞ。
  • 百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せるのだ。
  • 俺は百姓生まれであり、百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。わかったらありがたく思ってさっさと耕作に励め。

 

刀狩令の条文を見るとわかるように農民は農作物を作る立場なのだから武器を持つのはふさわしくないとしており、秀吉は下剋上の風潮を真っ向から否定していることがわかります。

しかし、秀吉が農民から天下統一したのに農民が納得するのでしょうかね?

 

次は刀狩りによって奪われた武器はどのような結末を迎えたのか?刀狩令が発布されてもなぜ農民が蜂起を起こさなかったのかを見ていきましょう!

刀狩りで徴収した武器はどこに?

こうしてジャンジャン集まっていった刀ですが、普通に考えたら秀吉もこんなに刀はいりません。

じゃあ、この刀たちはどこにいったのか。

 

それは、大仏の建造に使われていったのです。

秀吉は上にも書いた通り、刀狩は「大仏の原料にするから集めているんだぞ」という名目の下で行われていました。

 

しかし、これは仏教を信じている農民達に納得してもらうための言い訳であり、「さすが秀吉だ!大仏を作るのであれば武器を渡した方がご利益あるよなぁ〜」と思わせるための巧妙なトリックでもあったのです。

 

でも、秀吉も馬鹿じゃありませんから普通に刀をほっといてもバレバレなのはわかりきっていましたので、ちょっとだけ大仏の材料に使うことによって百姓達に命令したことを少しだけ実行したのです。

 

さらに秀吉は刀狩りで集まった刀のうち綺麗な刀を褒美として与えることもしていました。

奪ったものを徹底的に活用する様子はまさしく人たらしの秀吉らしい政策だったのかもしれませんね。

 

それではまとめに入りたいと思います。

まとめ

こうして秀吉は全国に刀狩令を発布して農民と武士を区別して下剋上の時代にピリオドを打ちましたが、ここでまとめに入りましょう!

 

  • 刀狩りは1585年から行われ始め1588年には刀狩令が発令された農民から刀を奪い取ったこと
  • 刀狩りによって日本は完全に武士と農民の区別がつくようになり兵農分離が実現した
  • 刀狩りが行われる前は戦は農民がするようなものであり、農民が一向宗と手を組んで一向一揆を起こすこともあった
  • 刀狩りは条文に徴収した刀は大仏の材料として使うとされており、実際に使われたりもしていたため一揆などが起こることはなかった

 

最後になりましたが、刀狩令が出されて農民と武士の区別がつくようになると次の江戸時代では士農工商と呼ばれる身分制度が確立され安定していきます。

 

刀狩令は江戸時代が平和な時代となった土台を作ったきっかけでもあったのかもしれませんね。

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