安政の大獄とは?井伊直弼が弾圧を行った理由と裏事情についても

今回は、江戸時代におきた最大の弾圧事件『安政の大獄』について解説していきます!

 

  • 安政の大獄とは?
  • 主な死者は?
  • 井伊直弼が弾圧を行った理由と裏事情について
  • 安政の大獄で西郷隆盛だけが死罪を免れた?

 

そのほか、橋本左内が死罪、吉田松陰が処刑されたそれぞれの理由。

安政の大獄から桜田門外の変へ向かっていった背景についてもわかりやすく説明していきたいと思います!

安政の大獄とは?

井伊直弼

井伊直弼

安政の大獄とは、江戸幕府大老・井伊直弼が自分の政策に批判的だった公卿、大名、幕臣、志士などを大量に弾圧した事件のことを言います。

 

そして、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されるまでの間に処罰された人々は、処刑者7名を含む100名以上にのぼります。

この安政の大獄という事件は、日本史上例を見ない大弾圧だったと言われています。

 

では、安政の大獄があった年号や主な死者について書いていきますね。

年号

1858年(安政5年)〜1859年(安政6年)

主な死者は?

  • 吉田松陰・・・長州藩毛利敬親家臣、斬罪
  • 橋本左内・・・越前藩主松平春嶽家臣、斬罪
  • 頼三樹三郎・・・儒学者、斬罪
  • 安島帯刀・・・水戸藩家老、切腹
  • 鵜飼吉左衛門・・・水戸藩京都留守居役、斬罪
  • 鵜飼幸吉・・・水戸藩京都留守居役助役、獄門
  • 茅根伊予之介・・・水戸藩奥右筆、斬罪
  • 梅田雲浜・・・小浜藩士、獄死
  • 飯泉喜内・・・元土浦藩士・三条家家来、斬罪
  • 日下部伊三治・・・薩摩藩士、獄死
  • 藤井尚弼 ・・・西園寺家家臣、獄死
  • 月照・・・清水寺成就院坊、入水自殺
  • 信海・・・僧侶、月照の弟、獄死
  • 近藤正慎・・・清水寺成就院坊、月照の弟、獄死
  • 中井数馬・・・与力、獄死

井伊直弼が弾圧を行った理由と裏事情

なぜ井伊直弼は弾圧を行ったのでしょうか?

それは井伊直弼の2つの政策から生じた問題が原因でした。

 

まず一つ目は、次期将軍を巡る政策での問題でした。

つまり、次の将軍を誰にするかで揉めていたんです。

 

黒船が来航した1853年(嘉永6年)に第12代将軍徳川家慶が死去し、第13代将軍に家慶の四男・家定が就任しますが、病弱で政治能力がなく、子供を設ける見込みもなかったので将軍継嗣問題が起こりました。

 

前水戸藩主・徳川斉昭の七男で優能な一橋慶喜を支持し、諸藩との協力体制を望む「一橋派」と、現将軍に血筋の近い紀州藩主・徳川慶福(後の家茂)を推す保守路線の「南紀派」とに激しく対立したのです。

 

当初、時の天皇「孝明天皇」の信任も厚かった一橋慶喜を次期将軍に立てる動きがありましたが、「南紀派」だった井伊直弼はこれに反発。

なんと天皇の許可を得ることなく大老としての強権を発動し、独断で徳川慶福を次期将軍にしてしまったのです。

 

これにより、慶喜を推していた「一橋派」からの反発を招きます。

そして、井伊直弼はこの「一橋派」に属していた人たちを、次々に弾圧していったのです。

 

二つ目は、日米修好通商条約についての政策でした。

 

1853年(嘉永6年)6月3日、ペリー率いる黒船艦隊が浦賀にやってきます。

ペリーの狙いは日本の開国でした。

 

幕府側は将軍の病気を理由に1年の猶予を求めます。

ペリーはこれを了承し、1年後に再来航することを告げ、浦賀を離れます。

 

しかし、1年経たずに半年後、再び日本に来たペリーと開国の方針を固め、全12条の「日米和親条約」を締結してしまったのです。

アメリカからの開国要求の圧力は相当なものだった様で、黒船来航からわずか半年で、200年続いた徳川幕府による鎖国が破られたのです。

 

ですが、「孝明天皇」が攘夷派(外国を斥けたいという考え方)であったため、アメリカと条約を結んでしまった幕府に対し、攘夷思想を唱える志士たちは猛反発します。

 

その後、日米和親条約により日本初の総領事として1856年(安政3年)下田に赴任したハリスは、次は「日米修好通商条約」の締結を迫ってきました。

しかし、この条約はいわゆる「不平等条約」だったんです。

 

何が不平等なのかというと、例えば、領事裁判権の承認、関税自主権の放棄などです。

領事裁判権の承認とは、日本国内で外国人が罪を犯しても、日本の法律で裁けず、その外国人の出身国で裁かれるため、甘い判決が出たり、被害者の保証が十分になされないことも多いという問題があります。

 

次に関税自主権の放棄とは、他国の商品を日本が輸入して売る際に、その商品にかける関税額を日本が決められくなるという問題があります。

 

そのため、孝明天皇は日米修好通商条約にも断固反対。

それなのに井伊直弼は幕府の実権を握っていたため、またしても天皇の許可を得ることなく、日米修好通商条約の締結を断行。

 

この井伊直弼の独断専行による条約締結に反発する者たち、つまり攘夷を唱える人たちが井伊直弼に意見し、処罰の対象となったのです。

これが「安政の大獄」の始まりと言われています。

 

しかし、本格的な処刑や流罪の嵐が起こる前に、1つの事件が起こるのです。

それが「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」です。

これは何かと言うと、孝明天皇が「水戸藩」に出した「秘密の命令」のことです。

 

どんな内容だったかというと、

  1. 日米修好通商条約を締結したことへの説教と、締結について詳細に解説せよ
  2. 徳川御三家や全国の諸藩は、幕府と協力して「公武合体」を成し遂げ、幕府に攘夷を行うための改革を行うように、という命令
  3. 以上2つの内容を、水戸藩が諸藩へ伝達せよ

 

この3つの勅命が、幕府を通り越して、幕府の下に位置する「水戸藩」へ出されたのです。

 

これは幕府の権威を失墜させる行為でした。

これを野放しにしていては、幕府の命令に従う藩はなくなり、再び戦国時代のように日本がバラバラになってしまうとも限りません。

そのため、井伊直弼はこの「戊午の密勅」に関わった人間を根こそぎ弾圧するように命令したのです。

 

つまり、安政の大獄は、単純に井伊直弼に逆らった者を弾圧したのではなく、幕府の権威を失墜させかねない「戊午の密勅」に携わった人間を処罰した事件なのです。

 

幕府側としては、天皇の命令を幕府以外の組織に下されては、幕府存亡の危機であり、弾圧以外に幕府の権威を取り戻す方法がなかったというのが裏事情としてあるのではないかと考えられています。

井伊直弼は、弱体化していた幕府をなんとかして必死で守ろうとして、この大弾圧を行ってしまったのかもしれませんね。

 

次は、安政の大獄で西郷隆盛だけが死罪を免れた?

について解説していきますね!

安政の大獄で西郷隆盛だけが死罪を免れた?

西郷隆盛

西郷隆盛の銅像

西郷吉之助(隆盛)は薩摩藩士で、薩摩藩主・島津斉彬の「お庭方役」として江戸へ行き、斉彬の側で色々な事を学びながら働いていました。

 

西郷は斉彬を慕い、尊敬していました。

そして、この斉彬は「一橋派」であり、「攘夷派」だったのです。

 

斉彬は、井伊直弼が日米修好通商条約を締結したとき、このような横暴を止めるために、ある計画を準備します。

その計画とは薩摩に戻り、挙兵して京に入り、朝廷より幕府改革の勅許(天皇の命令)を得て、幕府や井伊のやり方を改めさせるというものでした。

 

しかし、この計画の準備中に急死してしまうのです。

この計画は実行されませんでした。

斉彬の死で西郷は大きなショックを受け、殉死を考えたと言われています。

 

このとき、西郷に生きるよう説得した人物がいます。

それは「月照」という僧侶でした。

月照は、斉彬と同様に「一橋派」で「攘夷派」の考えを持っている清水寺の僧侶であり、朝廷と薩摩藩の橋渡し役を務めていて、西郷との関係も深い人物でした。

 

そして、この時期から「安政の大獄」が始まり、井伊の政敵である月照の身にも危険が迫ったのです。

西郷は月照を助けるために、共に京都を脱出して、助けを求めようと薩摩に帰ります。

 

しかしながら、薩摩藩の実権を握る島津久光(斉彬の弟)は、月照に「日向国へ国外追放」という冷酷な対応を取りました。

なぜならば、月照を匿うことは幕府への反逆を意味するからです。

 

そして、西郷に薩摩と日向の国境まで連れて行き、そこで月照を「切り捨てよ」と指示します。

西郷は苦しみました。

自分が死のうとしたとき生きるよう説得してくれて、志を同じくした月照を救うどころか、殺すなどできるわけがないと‥‥。

 

そして、逃げ場のない二人は悩んだ末、錦江湾に身を投げ、入水自殺を図ります。

しかし、月照は死にましたが、西郷は奇跡的に助かりました。

 

一命を取り留めた西郷ですが、薩摩藩から身を隠すよう命じられます。

そして、西郷は「菊池源吾」と名を変え、奄美大島に流罪。

 

薩摩藩は幕府へ「西郷は月照と共に自殺した。」と報告し、2人とも死んだことにしたのです。

薩摩藩は西郷を罰したのではなく、助けるために流罪にしたのです。

 

ずっと幕府に反発し、後にも倒幕のため挙兵する薩摩藩ですから、有能な藩士である西郷をなんとか生かし、いずれ倒幕を叶えるために力を蓄えようと、幕府に目をつけられないよう忠実なふりをしていたのかもしれませんね。

このようにして、西郷隆盛が死罪を免れたのは薩摩藩の助けがあったのです。

 

では次は、橋本左内が死罪になった理由を解説して行きたいと思います。

橋本左内が死罪になった理由

橋本左内

橋本左内

橋本左内は、越前福井藩の藩士。

16歳で大阪の適塾の緒方洪庵の元で蘭方医学を学び、帰国後に福井藩藩医、そして藩校「明道館」の学監心得(学長を補佐、学務を司り学生を監督する者)に登用されて蘭学を導入した秀才と言われています。

江戸遊学中には、薩摩の西郷吉之助(隆盛)、水戸の安島帯刀、藤田東湖、松代の佐久間象山らに接しました。

 

そして24歳の時、有能な仕事ぶりが藩主・松平春嶽の耳に入り、藩主の側近として江戸で仕えることになります。

当時の幕府が直面していた通商条約調印問題や、14代将軍の継嗣問題において、藩主の手足となって奔走していました。

 

主である松平春嶽が「一橋派」の中心人物だったので、左内は一橋慶喜擁立運動を熱心に行なっていましたが、幕府に対して反逆の意思は全くありませんでした。

左内の考え方は、幕藩体制を維持しつつも、西欧の先進技術の導入を図ろうとするもので、当時としては極めて真っ当なものでした。

 

しかし、対立する井伊直弼が大老に就任すると、反対派諸侯は厳罰に処され、左内の主・松平春嶽も隠居・謹慎に処されます。

さらに1858年(安政5年)10月には左内までが謹慎となり、翌年、将軍継嗣問題に介入したことを理由に、小伝馬町の獄舎で斬首されました。

 

大老・井伊直弼は、松平春嶽が「一橋派」の中心人物だったので、その側近である左内も反幕の考えが無かったとしても、見逃すわけにはいかなかったのです。

 

左内の人物像は、学識、胆識ともに優れ、当代一と言われ、性格は温和で純粋、謙虚、人と争ったことがなかったと言われています。

一説にはオランダ語だけでなく、英語、ドイツ語も理解し、和漢の書に通じていたと言われています。

 

享年26。

もし、安政の大獄がなく彼がもっと生きていたとしたら、どれほどの働きをしたであろうかと考えると、彼の早すぎる死が惜しまれます。

 

次は、吉田松陰が処刑された理由について解説していきますね!

吉田松陰が処刑された理由

吉田松陰

吉田松陰

吉田松陰は長州藩士で幕末の尊皇論者・思想家・教育者です。

9歳の時に藩校「明倫館」の兵学師範に就任し、11歳の時、藩主・毛利義親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、「松本村に天才あり。」と、その才能が認められました。

 

長崎・江戸に遊学、佐久間象山に師事ました。

ペリーが再来した時に密航を企てて、失敗し自首します。

このため、江戸伝馬町の獄舎に投獄され、その後に萩に送られ、野山獄に入ります。

 

27歳の時、幕府は出牢を許し、生家での禁錮を命じます。

それから、生家で叔父が主宰していた「松下村塾」の名を引き継ぎ、高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文ら維新の指導者を育成しました。

安政の大獄で死罪となった吉田松陰ですが、死罪となった人たちの中で松蔭だけは、その処刑理由に違いがありました。

 

まず、松蔭が安政の大獄に連座して江戸に送られた際にかけられていた嫌疑は2点でした。

 

1つ目は、勤王家・梅田雲浜と関係しているのではないかということ。

梅田雲浜とは尊王攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕政を厳しく批判した勤王家で、安政の大獄で摘発された人物でした。

 

2つ目は、御所で見つかった落とし文が松蔭の筆跡ではないかということです。

しかし、どちらも松蔭とは関係なかったので取り調べですぐに嫌疑が晴れました。

それなのに松蔭は「老中・間部詮勝(まなべあきかつ)暗殺計画」を自ら暴露し、しかも「島流し」で終わるところを松蔭自ら、「自分を処刑にするのが妥当である。」と言い出したのです。

 

そのような事を言わなければ、そのまま萩に戻ることができたかもしれないのに、状況は一変。

松蔭は伝馬町獄に投獄され、江戸に送られて3ヶ月余りで処刑されました。

 

なぜ松蔭は自分の首を絞めるような言動をしたのでしょうか?

それは井伊直弼に直接会って、今の幕府のあり方を諌める機会を作る目的が1つ。

 

そして、一番の目的は自分が幕府に物申し処刑される事で、「至誠にして動かざる者、いまだこれ有らざるなり(誠を尽くせば動かせないものなど何もない)」と「知行合一(知識と行為は一体であるという事)」という松蔭の信念を門下生に伝えることではないかと考えられています。

 

自分は死んだとしても、後に残った者たちが志を引き継ぎ、倒幕に向けて奮い立つ。

身一つで立ち上がればよいという松蔭の魂の叫びに聞こえます。

ここに思想と実践の一体化した松蔭教育の確信があったのです。

 

松蔭の考え通り、松蔭の死後、松下村塾の門下生である高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文・山県有朋・吉田稔麿など、明治維新の立役者が出でくるのです。

 

では次は、安政の大獄から桜田門外の変へどのように向かっていくのか解説していきますね。

安政の大獄から桜田門外の変へ

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  • 無許可での条約締結
  • 強引に決めた次期将軍
  • 多くの人を処罰した安政の大獄

 

これらの3つの事件で井伊直弼は多くの恨みを買いました。

 

中でも、藩主・徳川斉昭を永蟄居(終身にわたって出仕・外出を禁じ、謹慎させること)、家老・安嶋帯刀を切腹、その他にも関与した藩士たちを斬首、島流しなど重罪にされた水戸藩の恨みは凄まじいものでした。

 

そんな時、井伊直弼は水戸藩主・徳川慶篤(斉昭の子)に「戊午の密勅」の返納を促します。

 

最初は良い返事を得られませんでしたが、直弼が何度も催促するうちに、ついに慶篤と斉昭が折れ、密勅が幕府を介して朝廷へ返納される事になりました。

しかし、水戸藩の「攘夷派」がこれに反対し、返納の阻止を図るために水戸から江戸への道筋に潜伏するなどして、収集がつきません。

 

1860年になると、直弼は1月25日までに密勅を幕府に届けるようにと期限をつけて最後通告を送り、これを守らない場合は水戸藩を「改易(領地・家禄・屋敷の没収)」するとまで言って脅します。

 

この強硬な措置を受け水戸藩士たちは激昂し、脱藩した関鉄之介らが中心となって直弼暗殺計画が立てられるのです。

 

水戸藩は将軍家の血を分ける御三家の家であり、これを改易しようとするのは、あり得ない処分でしたが、この時はすでに多くの幕閣が遠ざけられていたため、直弼をたしなめる人材もいなくなり、直弼は孤立していました。

 

そして、1860年(安政7年)3月3日「桜田門外の変」が起きます。

井伊直弼を襲ったのは、水戸脱藩浪士17名と、薩摩藩士1名。

全員が「攘夷派」でした。

 

江戸城桜田門外で江戸城に向かっていた彦根藩の行列を浪士たちが襲います。

銃撃と刀で重傷を負わせた後、駕籠から引きずり出して首を落としました。

犯行はものの数分だったそうです。

 

当日は牡丹雪が降っており、駕籠の警備隊は合羽を着ていて、刀に被せ物をしていたため、素早く反撃ができず襲撃が成功したと言われています。

 

「桜田門外の変」で大老を暗殺され、幕府の権威は失墜します。

幕府は公然と非難されるようになり、「異人斬り」という外国人襲撃事件や「天誅」と称した安政の大獄に関わった官吏や公家を対象とした人斬りが横行します。

 

その後は皮肉な事に、安政の大獄で処罰された吉田松陰の門下生たちや、島流しにされていた西郷隆盛ら長州藩・薩摩藩によって、倒幕は急速に進んでいく事になります。

 

結果として、井伊直弼が幕府のために行った「安政の大獄」は、逆に江戸幕府を滅亡させていく原因となっていってしまったのです。

まとめ

最後に安政の大獄についてまとめます。

 

  • 安政の大獄とは、安政5年(1858年)から、その翌年まで井伊直弼が自分の政策に批判的だった公卿、大名、幕臣、志士などを大量に弾圧した事件
  • 主な死者は吉田松陰、 橋本左内 、頼三樹三郎、安島帯刀、鵜飼吉左衛門、 茅根伊予之介、 梅田雲浜、飯泉喜内などがいる
  • 安政の大獄は14代将軍継嗣問題と、無許可での日米修好通商条約締結問題が原因で始まり、幕府の権威を守るために「戊午の密勅」に携わった人々を厳しく処罰するため行われた。
  • 西郷隆盛は薩摩に逃げ帰り、薩摩藩に島流しにされたため死罪を免れた
  • 橋本左内は「一橋派」の中心人物である藩主松平春嶽の側近だったので幕府に目をつけられ処刑された
  • 吉田松陰は自ら「老中間部詮勝(まなべあきかつ)暗殺計画」を暴露し、処刑を願い出て処刑された
  • 水戸藩に「戊午の密勅」の返納を強引に迫り、改易をチラつかせらため、水戸藩の「攘夷派」の不満が爆発し「桜田門外の変」へ向かっていった

 

まとめてみると少しわかりやすくなりましたかね!

 

井伊直弼の行った安政の大獄は日本史上稀に見る大弾圧でした。

これによって幕府の権威は強化されたように見えましたが、行き過ぎた処罰による反発がどんどん膨らみ、幕府は結果的に自分で自分の首を絞める結果になってしまいました。

 

井伊直弼が暗殺される前日に読んだ歌があります。

「咲きかけし 猛き心の 一房は 散りての後ぞ 世に匂いける」

 

世の中のためを想った熱い思いは、自分が死んだ後に世の中にりかいされるだろう。

という内容の歌です。

 

私には、井伊直弼は自分が恨まれ、暗殺されることも全て承知で、ただただ幕府を守るために、身を切る思いで安政の大獄という政策を行っていたという井伊直弼の覚悟が現れた歌に思えます。

 

幕末の混乱の時代、幕府側も反幕府側の人々も、命懸けで日本を良くするために戦っていたんですね。

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