阿倍仲麻呂は天才で努力家だった! 百人一首にある和歌に込められた意味とは?

今回解説していくのは中国で皇帝の側近となった阿倍仲麻呂

彼は中国ではかなり有名なのですが、日本では百人一首の和歌を詠んだよねぐらいの知名度しかありません。

 

そこで今回はそんな阿倍仲麻呂について

  • 阿倍仲麻呂の天才ぶりと努力
  • 阿倍仲麻呂の華麗な役職歴任の歴史
  • 阿倍仲麻呂の家柄と経歴
  • 阿倍仲麻呂が日本に帰っていたら?
  • 阿倍仲麻呂と安倍首相の関係

 

などについて解説していきたいと思います!

阿倍仲麻呂は天才で努力家だった!

阿倍仲麻呂(百人一首より)
阿倍仲麻呂(百人一首より)

阿倍仲麻呂を一言で表すとしたら日本有数の天才

そう形容しても良いと思います。

 

まず、阿倍仲麻呂の天才ぶりは十代半ばの時に発揮されます。

なんといきなり従八位に任ぜられ、19歳には唐への留学生として第九回遣唐使船に吉備真備や玄昉と共に乗り込むことになるのです。

 

さらに阿倍仲麻呂は大変な努力家であり、唐に留学した直後には唐の学問機関である太学にて科挙に合格。

科挙というのは中国版国家公務員試験みたいなもので50歳で合格できれば御の字と表されるほどのとんでもない試験だったそうです。

 

その厳しさというのは今の大学受験の比ではなく、独房のようなところに閉じ込められてそこで四書五経を全部暗記しなければ解くことができない内容で、中には精神疾患や自殺者も現れる始末。

阿倍仲麻呂はこの壮絶な試験を20歳半ばで悠々と合格。

 

まさしく天才的な頭脳で唐の官僚への道を切り開いたのでした。

阿倍仲麻呂の家柄や経歴は?

阿倍仲麻呂は天才であり、日本人としては異例の科挙に合格するほどだったそうですが、彼の家柄もその能力に見合うだけのものでした。

 

まず、阿倍仲麻呂の出自である阿倍氏は元々蘇我氏や物部氏とまではいかないものの、かなり権力を持った豪族だったそう。

阿倍仲麻呂から見て祖父である阿倍比羅夫は蝦夷討伐のリーダーとなり、最終的には九州を丸ごと治める太宰府の長官である太宰帥に就任。

 

  • 父は朝廷の仕事を支える中務省の次官である中務大輔
  • 弟は岡山県北部の美作国の長官である美作守

 

に就任するほどの家柄でした。

 

これを見てみるともし阿倍仲麻呂が唐に行かなかったとしても朝廷の中でだいぶいい役職につけるほどの家柄があったのですね。

ベトナムの総督だった?

上にも書いた通り、阿倍仲麻呂は科挙という中国の官僚になるための試験に合格するほどであったため、当時の唐の皇帝である玄宗から大変気に入られる存在だったそうです。

 

そのため阿倍仲麻呂は玄宗皇帝から朝衡という名前を与えられわずか27歳にして唐第二の都市洛陽の司経局の校書(写経の校正や監督をする仕事)を皮切りにどんどん官位が上昇。

3年後には左拾遺(皇帝の補佐係)、左拾遺に就任してから2年後には左補闕(皇帝の助言係)になり日本人では異例の皇帝のそばに仕える役職へと就任を果たすようになりました。

 

さらに、阿倍仲麻呂が入唐してから17年後には玄宗から帰国を許されない代わりに玄宗の息子である義王の養育係に就任し、さらに翌年には義王に仕える義王友に就任。

752年にはついに唐の武器倉庫の管理する長官となり、唐の軍事を握る存在へと変わっていったのです。

 

阿倍仲麻呂はこの時に帰国を決断し、第12回遣唐使の船で帰ることになるのですが、この船が難破してしまい、安南(ベトナム)へと漂着。

結局帰国を果たすことができず、さらに泣きっ面に蜂のように唐で安禄山の変が勃発。

 

阿倍仲麻呂は760年に当時ベトナムを含むインドシナ半島の出先機関であった安南総督となり、ベトナムの王様と並ぶ地位を獲得。

さらにしばらくすると総督よりも強い権力を持っていた安南節度使に任ぜられます。

そして、この役職についた時に73年の生涯を終えることとなりました。

 

ベトナムの王様を凌ぐ権力を持った日本人は後にも先にも阿倍仲麻呂しか居ません。

ですが、阿倍仲麻呂からしたら唐でいい役職に就くよりは日本に帰った方がいいと思っていたのでしょうね。

百人一首にある和歌に込められた意味

こうして唐では官僚として重役につくほどだったのですが、彼はやはり故郷である日本に帰ることを強く願っていました。

その願いが通じたのか第12回遣唐使船で帰国することを許可されます。

 

そして、唐にいた時に友人となった李白や王維などによる送迎会が終わった後に阿倍仲麻呂はこんな歌を詠みます。

天の原 振りさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも

 

百人一首にも載っている有名な歌なんですが、これは阿倍仲麻呂が月を眺めていた時に詠んだ句です。

唐で見ているこの月は故郷の春日の三笠山で見る月と同じだということを感情を込めて読んだものでした。

 

しかし、阿倍仲麻呂が日本に帰ることは叶うことはありませんでした。

上に書いた通り、阿倍仲麻呂が乗り込んだ船は航海途中の東シナ海で難破。

 

死にはしなかったものの、結局ベトナムから長安へ命からがらで帰還を果たし、最終的には唐でその生涯を終えることになるのです。

阿倍仲麻呂が日本に帰国していたら今の日本はどうなっていた?

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阿倍仲麻呂が日本に帰ったからといって日本の歴史がガラリと変わったとは断言できません。

ですが、阿倍仲麻呂とともに唐に渡って彼とは違い無事に帰ってきた人の中に吉備真備という人がいました。

 

吉備真備は日本に帰国した後、聖武天皇の信頼を受けるようになりました。

唐に渡る前から8ランク上がった正六位下に任ぜられ、最終的には正二位右大臣まで上り詰め、奈良時代の有名な政治家となっていくことになります。

 

この頃は後に公卿を独占することになる藤原氏も藤原広嗣の乱や藤原仲麻呂の乱などで権力がかなりぐらついでいました。

なので、もしかしたら阿倍仲麻呂が無事に日本に帰ってきていたら吉備真備の右大臣までとは言わないものの、その下の大納言ぐらいにはなっていたのかもしれませんね。

阿倍仲麻呂の子孫は安倍総理?

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阿倍と言ったら総理大臣の安倍晋三を思い浮かべることがあると思いますが、実は関係があるように見えてあまり無いのが真相です。

 

阿倍氏は元々景行天皇の子孫と言われており、飛鳥時代では阿倍比羅夫などを始め、公卿を輩出するほどの名門の家柄でもありました。

しかし、阿倍氏は平安時代に入ると安倍氏に改名。

陰陽師としで有名な安倍晴明は阿倍仲麻呂の家系の安倍氏が由来なんだとか。

 

その一方で安倍晋三の安倍氏は平安時代に朝廷に服属した俘囚の蝦夷をルーツとしている家柄であり、東北地方を本拠地にしていました。

安倍晋三はこの阿倍氏の子孫ではあるみたいですが、阿倍仲麻呂の阿倍氏とはあまり関係はないようです。

 

それではまとめに入りましょう!

まとめ

まとめに入ります!

 

  • 阿倍仲麻呂は日本の歴史の中で一二を争うほどの天才であり、努力家であった
  • 阿倍仲麻呂は中国の難関な試験である科挙に合格して最終的には安南節度使というベトナムの王様を凌ぐ権力を握った
  • 阿倍仲麻呂の祖父は蝦夷討伐で活躍した阿倍比羅夫など有名な家柄であった
  • 阿倍仲麻呂は早く日本に帰りたいと願っていたが、乗っていた船が難破したこともあって最後まで帰ることができなかった
  • 阿倍仲麻呂の『天の原 振りさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも』という歌は彼が日本に帰る前日に詠んだ歌である
  • 阿倍仲麻呂と安倍晋三は名前は似ているが、関係はほとんどない

 

最後になりましたが、外国で官僚のトップレベルに上り詰めたのは後にも先にも彼ぐらいでした。

今の時代でも彼のような外国で大活躍するような人材が育ってくれれば嬉しいと思います。

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