今回は豊臣秀吉が行った朝鮮出兵について解説していきたいと思います!
- 豊臣秀吉はなぜ朝鮮出兵を行なったのか?
- 朝鮮出兵の結果は?
- 朝鮮出兵にまつわる伝説
- 朝鮮出兵で戦った有名武将
そのほか朝鮮の英雄“沙也可”とはどんな人物だったのか?
朝鮮出兵には黒幕がいる?
などなど、まとめてわかりやすく解説していきたいと思います!
目次
朝鮮出兵の理由と結果を解説!
まずは朝鮮出兵とはどんなものだったのか。
朝鮮出兵の理由と結果について解説していきますね!
朝鮮出兵とは?
「朝鮮出兵」とは、戦国時代を終わらせ、日本統一を果たした天下人豊臣秀吉が、そのおよそ2年後に始めた二度の朝鮮侵略のことで、「文禄の役」と「慶長の役」という2つの戦いの総称のことをいいます。
そして、秀吉の目的は「明国(現在の中国)を征服する」ことでした。
その足がかりとして経由地となる朝鮮に日本への「服属」と「明への先導」を命じ、従わなければ攻撃をすると伝達したことで朝鮮側の反発を招き、「明国までの道を貸すように」という要求も拒まれたために朝鮮出兵が始まったのです。
文禄の役は文禄元年(1592年)4月に始まって翌文禄2年(1593年)7月に休戦。
どんな戦いだったかというと、序盤は戦力や装備に勝る日本軍が快進撃を続けました。
わずか1ヶ月足らずで首都「漢城」(現在のソウル)を落とします。
さらに、2ヶ月後には小西行長が「平壌」(ピョンヤン)まで進撃、加藤清正は現在の北朝鮮の最北部まで侵入して、日本軍が朝鮮全域を席巻しました。
しかし、朝鮮と深い中にあった明からの援軍や朝鮮は義兵(義勇兵)を組織し、ゲリラ戦を展開して抵抗したことや、朝鮮半島の南部は山岳地帯で玄界灘から続く長い補給路を維持するのに苦労したことから日本軍の勢いは続きませんでした。
そして、漢城の日本軍が窮地に追い込まれたのを機に「和議」を結び、日本軍が撤退しました。
慶長の役は慶長2年(1597年)1月の講和交渉決裂によって再開されて、慶長3年(1598年)12月、豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結しました。
そして、この戦いお互いの兵力数が凄いんです!
- 文禄の役:日本軍約15万人、明軍+朝鮮軍合わせて約24万人(諸説あり)
- 慶長の役:日本軍約14万人、明軍9万人(諸説あり)
天下分け目の関ヶ原の戦いでも西軍約8万人、東軍約7万人と言われていますから、桁が違いますよね!
この兵力数からも見てとれるように、この国際戦争は16世紀における世界最大規模の戦争であったと言われています。
次はなぜ朝鮮出兵を行ったのかについて解説していきます!
朝鮮出兵を行った理由
先ほど秀吉の目的は「明を征服すること」だったと書きましたが、秀吉はなぜ明を征服したかったのでしょうか。
朝鮮出兵を行うことになった理由について考えていきましょう。
朝鮮出兵の理由には様々な説がありますので、いくつかの説をあげていきたいと思います。
・秀吉の乱心もしくは認知症説
豊臣秀吉といえば、「人たらし」「陽気で人懐っこい」イメージがあるが、晩年の秀吉は短気で残忍な性格に変わってしまったと言われています。
それが妹朝日姫、弟秀長、息子鶴松、千利休、母北政所の死が原因で精神を病んでしまった、あるいは精神的ショックによる認知症の発症が原因だった可能性があります。
先程あげた人物達の死は1590〜1592年の2年に集約しており、朝鮮出兵が始まったのも1592年なのです。
親族、息子、親しい人物の死により乱心、もしくは認知症になり、正しい判断ができないまま朝鮮出兵へと向かったという説です。
・恩賞不足説
秀吉が全国統一をしたため、大名たちに恩賞として与える土地が日本国内になくなってしまった為、朝鮮出兵を行い領土拡大を狙ったという説です。
・元寇の復讐説
元寇とは1274年と1281年に中国を支配していた「元」が鎌倉時代の日本に二度にわたり侵略した事件です。
この時、元に征服されていた高麗は遠征軍に加わり、対馬と壱岐に攻め入っています。
日蓮聖人の遺文を集めた『高祖遺文録』に元・高麗連合軍侵略時の残忍な記録が残っています。
住民の男は殺されるか生け捕りにされ、女は手に穴を開けられ数珠つなぎの捕虜にされたという記述があります。
多くの対馬や壱岐の人々が捕虜として朝鮮に強制連行されたようです。
そして、元寇そのものが高麗の執拗な働きかけがあって起きた事件であり、元寇で窮乏した御家人が海賊となり残忍な高麗に復讐しようとしたのが倭寇の始まりで、秀吉の朝鮮出兵もその原因は元寇であったという説です。
・東アジア交易の独占支配
室町幕府衰退により、日明間の貿易は長く途絶えていましたが、この貿易は利潤が大きく、1回の往復で元手の数倍〜数十倍もの利益を得られたと言われています。
こうした貿易のうまみに秀吉が気付き、「日明貿易の再開」を視野に朝鮮に使者を送ったが反発や拒否をされ、武力侵略を起こしたという説です。
・スペインによる日本侵略の阻止説
この時代、東アジアでスペインに征服されていない国は明と日本だけでした。
当時のスペイン宣教師というのは表向きの役割はキリスト教の伝道ですが、裏では立派な軍事組織を持つ僧兵軍団だったと言われています。
伝道と見せかけ、うまく改宗させるや、首尾よく軍隊を送り込んでは殺戮、財宝の強奪、植民地支配などを行っていました。
この頃の日本の軍備をみると直接対決だと日本が勝てる可能性は大いにあります。
なぜかというと、日本まで海を渡ってくるには人数も兵力も限られますし、人数も武器も優位に立てるため問題ありませんでした。
しかし、明を支配されると話は変わってきます。
スペインよりも先に明を支配下に置くことで対スペインに有利に立ちたい。
また、朝鮮出兵で日本の国力をスペインに見せつけておきたいという意図で朝鮮出兵に踏み切ったという説です。
このように多くの説がありますが、どれも学者たちを納得させるには至っておらず、本当の理由はいまだにわかっておらず、歴史上の謎の一つになっています。
ではこの朝鮮出兵はどんな結果をもたらしたのでしょうか?
朝鮮出兵の結果
日本軍は兵士と輸送員を含めて約15万人を動員した文禄の役。
一説では、そのうち三分の一の5万人が死亡してしまったと言われています。
しかも敵による死者はわずかだったんです。
では、多くの人の死の原因はなんだったのでしょうか?
それは、労苦、飢餓、寒気、および疫病だったんです!
慣れない朝鮮半島での戦いでしたので、兵士は過酷な環境の中で戦っていたんですね。
文禄の役で総大将を務めたのは20歳の宇喜多秀家であり、統率力がある人物ではありませんでした。
まして彼の下についているのは小早川隆景、長曾我部元親、加藤清正、小西行長といった猛将であり、秀家の補佐をするため渡海していた黒田官兵衛ですら、彼らを統率することができませんでした。
そのため前線は制御が効かないまま、むやみに北上してしまい兵糧が十分に確保できず餓死者が大量に出てしまったのです。
他にも、朝鮮の水が合わず疫病で死ぬものも多かったり、現在の北朝鮮周辺での戦いもありましたから、厳しい寒さにより凍死する兵士も多かったようです。
それに、朝鮮人の死者と捕虜の数は日本人とは比較にならない程多かったようです。
『フロイス日本史』によると秀吉軍は兵糧確保のため朝鮮各地で村の乱取り、刈田を行う。
また奴隷狩りも行われたと記されています。
そのため文禄元年(1592年)、文禄2年(1593年)の朝鮮は深刻な飢餓状態となり、京畿動、忠清道、全羅道、慶尚道では飢餓民が殺し合い食する状態となり、また疫病が流行し死者が山のように溢れてしまった。
戦場である朝鮮半島は想像を絶する地獄と化していたようです。
この後は朝鮮出兵にまつわる伝説をご紹介していきますね!
朝鮮出兵にまつわる伝説
朝鮮出兵にまつわる伝説!京都豊国神社の「耳塚」についての話をしていきたいと思います。
現在の京都市東山区の豊国神社門前にある史跡に、朝鮮および明兵の戦死者の耳や鼻を削ぎ、持ち帰ったものを弔うための「耳塚」があり、一節には2万あるいは、10万人分の耳と鼻が埋められているといわれています。
この耳塚は以前から、夜中になると不気味な声が聞こえてくると噂がある場所で、霊感の強い人は近づくだけで霊の存在を感じると言われているんです!
霊能力の中でも、特に「霊聴」という霊の声を聴く能力に長けている人物は、日本語ではない外国語の呪いの言葉を耳にすることがあるそうです。
この塚は慶長2年(1597年)に築造され、同年9月28日に施餓鬼供養が行われました。
この施餓鬼供養は秀吉の意向に沿って相国寺の住持「西笑承兌」が行ったもので、京都五山の僧を集めて盛大に行われたようです。
この時代から戦いで殺された朝鮮や明の人々の無念や苦しみの声が聞こえていたのかもしてませんね。
この後は、秀吉の行った残忍な耳鼻削ぎはなぜ行われたのか。
そして、耳鼻削ぎをされたのは戦闘員だけではなく、非戦闘員だった女性にもされていた?について詳しく解説していきたいと思います。
朝鮮出兵で女性の耳と鼻が大量に切りとられていた?
私たち現代人が耳削ぎ、鼻削ぎという言葉を聞くと非常にグロテスクで残酷な言葉と感じますよね。
ただ戦国時代には戦功の証として敵の大将クラスは首をとって検分したが、一揆や足軽など身分の低いものは鼻や耳でその数を証していたそうです。
朝鮮出兵でも慶長の役の記録によると、戦功の証として鼻や耳を削ぎ塩漬、酢漬にして日本に持ち帰ったといわれています。
しかし、朝鮮出兵では戦闘員の耳鼻削ぎだけではなく、非戦闘員の女性や子どもの耳鼻削ぎも行われていたんです!
なぜそのようなことが起きていたのでしょう?
戦国時代には戦闘地域の住人を拉致して売り飛ばす「人取り」という行為が一般的に行われていたそうです。
望ましい行為ではないですが、そうした「戦利品」をむげに禁じても戦意が上がらない。
そういうことで、秀吉は「集めた耳鼻が枡一升分になった者から住人の生け捕りを認める。」と指示を出したのです。
出兵した大名たちは、戦闘員だけでなく耳や鼻があればいいのですから、非戦闘員の女性や子どもまで捕まえて耳鼻だけ削ぎ、数を増やそうとします。
記録としてそれらの耳や鼻は秀吉の軍目付により勘定され、各大名家に受取状が発給されています。
吉川家18350、鍋島家5444、黒田家8187など端数までしっかり記録が残っています。
武士の戦いにおいて最も大切なのは戦功で、耳鼻削ぎはあくまでその結果を示すものだったはずが、慶長の役ではそれが逆転してしまい、耳鼻削ぎが目的化してしまったのです。
戦争というものは人を狂わせ、善悪の倫理感などを失わせてしまうとよく言います。
この朝鮮出兵でもそのような常軌を逸した状態になっていってしまったのかもしれません。
次は朝鮮で英雄となった沙也可という武将について解説していきます!
朝鮮の英雄!沙也可とは一体?
「沙也可」とは、文禄・慶長の役の際、加藤清正の配下として3千の兵を率いて朝鮮に渡ったものの、「秀吉の朝鮮出兵に大義なし!」として投降。
朝鮮軍に加わり火縄銃の技術を伝えて、日本軍と戦ったとされる武将と言われています。
朝鮮では金忠善(キム・チュンソン)の名で知られ、韓国において英雄扱いされている人物ですが、その活躍の実態は不明な点も多いとされています。
戦後も沙也可は、国境警備や反乱の平定、女真族との戦いなどの功績により、正憲大夫(正二品)にまでなり、記念碑もあり、国王からも表彰されています。
この沙也可という人物の正体は、日本の武将の誰のことなんでしょうか?
いまだに解明されていませんが、いくつかの説をご紹介していきますね。
・雑賀説
1971年(昭和46年)に小説家の司馬遼太郎は紀行文集『街道をゆく2 韓のくに紀行』で沙也可が日本名「サエモン」の音訳、あるいは「サイカ(雑賀)」のことではないかと推測しています。
しかし、加藤清正の陣中には「サエモン」と名の付く武将が複数名いますが、いずれも日本に帰還しています。
「サイカ」に関しては、確かに雑賀衆は文禄・慶長の役にも参加しており、またかつて信長を苦しめた鉄砲隊で知られています。
そして、後に秀吉によって攻められた恨みもあり、その秀吉に反旗を翻したと考えるとこちらの方が現実味があると言えますが、文禄・慶長の役に参加した雑賀衆は反信長派との抗争に敗れた親信長派であり、秀吉に保護された経験もある「雑賀孫一」らの一党であるため、やや根拠とするには弱いとされています。
・岡本越後守説
朝鮮に出奔した日本の武将で蔚山城の戦いと順天城の戦いでは朝鮮側の使者として和議交渉に登場した岡本越後守(阿蘇宮越後守)が沙也可ではないかという説。
加藤清正の旧臣であり、九州の阿蘇氏と関係が深い人物だったと推測されています。
阿蘇氏は肥後の豪族でしたが、一揆を扇動したとして秀吉から弾圧され、数年後に今度は反乱に関与したとして当主阿蘇惟光が清正に謀殺されたのを恨んで投降したという説です。
また、雑賀説と合わせて岡本越後守が雑賀孫一の仮の姿だったという説もあります。
・原田信種説
原田家の出自は漢の霊帝4代目の素孫・阿知使主だと言われています。
隋に追われて百済を経て倭国に来た漢人系の渡来人です。
加藤清正配下で4千石の知行を得ていた重臣で、文禄元年(1592年)に咸鏡道の吉州、ついで端川には在番していたことが確認されているが、翌2月末に加藤清正軍が漢城に撤退して以降は、原田信種の名前が一時期記録から消えている。
このことから、端川で孤立し籠城したものの、持ちこたえられずに降伏したのではないかと言われていますが、文禄2年〜5年にかけて文書に存在しているので、この説は成立しないとも言われています。
このように沙也可という人物については、いずれの説も裏付けとなる記録はなく、伝承と合致しない部分も多いので、本当にいた人物なのか、想像上の人物なのかも定かではないようです。
次は朝鮮出兵で鬼島津と恐れられた島津義弘について解説していきます!
朝鮮出兵で鬼島津と恐れられた島津義弘の正体とは?
島津義弘は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将で、戦国大名の島津義久の弟で、島津家の第17代当主です。
武勇の誉れ高く「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代で屈指の猛将として知られています。
そして、なんといっても島津義弘といったら「泗川(しせん/サチョン)の戦い」が有名です。
「泗川の戦い」について解説していきますね。
慶長3年(1598年)9月から10月にかけて、豊臣秀吉の死の情報に力を得た明・朝鮮連合軍は、日本軍がいる倭城に攻勢をかけました。
そのうち明の董一元(トンイユァン)率いる軍が襲ったのが島津義弘のいる泗川倭城です。
この時董の連合軍は3万7千人前後(一説には20万)と言われ、一方の島津軍はたった、7千人でした。
泗川城は古城と新城があり、新城に詰める義弘は大軍の襲来を予想して、味方全軍に新城への撤退を命じますが、早くも董の連合軍が古城を襲います。
数百で古城にいる川上忠実は敵の囲みを突破し、新城へ撤退しますが、150人が討たれ、古城は敵に奪われました。
川上らの苦戦に義弘の息子・忠恒(のちの家久)は古城救援を主張しますが、義弘は頑として許さず、川上らが新城に撤収するのを待ちます。
一方、川上は部下に敵の食料庫を襲わせ、その焼き討ちに成功しました。
これによって大軍の明・朝鮮連合軍は兵糧を失い、短期決戦を余儀なくされます。
10月1日早朝、明・朝鮮連合軍は泗川新城に押し寄せました。
義弘はギリギリまで敵を引き付けた上で、鉄砲と大砲を一気に放ちます。
虚を突かれて混乱する連合軍を、義弘が城外に配置していた伏兵を使って襲いました。
島津軍のお家芸「釣り野伏」を応用した戦法です。
義弘は泗川古城を「釣り」、新城を「野伏」に見立てていました。
伏兵が敵の隊列を寸断して混乱に拍車をかけると、連合軍の後方では火薬庫が引火して大爆発が起こります。
この機に乗じて、義弘率いる島津軍は城門から打って出ました。
もはや連合軍の混乱は収拾がつかず、総崩れとなり、追い討ちをかけた島津軍は一説に3万7千人の敵を討ち取り、味方の犠牲は200人以下という奇跡的な大勝利をあげました。
この大敗北に明・朝鮮連合軍は日本軍に和議を申し入れ、島津軍は「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と呼ばれて、敵軍に恐れられました。
しかし、朝鮮水軍の李舜臣(イスンシン)は講和を潔しとせず、順天城の小西行長の帰途を阻み、海上を封鎖しました。
ここで義弘は小西軍救援を決断、海路西に向かって11月18日未明、露梁津(ノリャンジン)海峡で待ち伏せしていた朝鮮水軍と激突します。
義弘ら日本軍は三分の一以上の兵力を失う苦戦をしながら、敵将・李舜臣を討ち取り、朝鮮水軍に大打撃を与え、小西軍の脱出を可能にしました。
この功績は五代大老達から高く評価されており、島津家は文禄・慶長の役に参加した諸大名で唯一、恩賞として加増されることになりました。
この戦いで日本だけではなく、朝鮮・明国にも島津義弘の武勇が知れ渡ったのです。
この後は朝鮮出兵で強制連行されてきた朝鮮の陶工たちについてまとめていきたいと思います。
朝鮮の陶工たちが日本へ強制的に連行
陶工とは陶磁器の製造を職業とする人、焼き物師のことです。
秀吉の朝鮮出兵で多くの朝鮮人が日本へ強制的に連行されました。
その数、約7万人とも言われています。
その中で朝鮮の陶工たちもたくさん日本に連行されてきました。
朝鮮出兵時に、佐賀藩であった鍋島直茂は、何千人という陶工を連れて帰り、その朝鮮陶工たちにより新たな唐津陶器窯が次々と開かれたのです。
その中の一人が「李参平」でした。
来日当初は、佐賀の多久で陶器でを焼いていました。
ですが、納得がいかず陶器の原料である白磁石を求めて歩き回り、1616年、有田の泉山で良質な白磁石を発見し、窯を構えました。
日本で初めて白磁の焼成に成功した「有田焼」の祖は朝鮮人だったのです。
他にも、福岡県内には二つの焼き物の発祥の地が生まれます。
現在の直方市大字上頓野の鷹取山付近と田川郡福智町(旧、赤池町)大字上野です。
この地に陶工を連れてきた黒田長政によって「高取焼」の祖を、細川忠興によって「上野焼」の祖を誕生させてきました。
時に茶人に「一井戸、二楽、三唐津」とも言われるほど愛されている唐津焼は、佐賀県の西部から長崎県一帯で焼かれた陶器で、唐津港から出荷されたのが、その名の由来と言われています。
このころが唐津焼の最盛期と考えられ、日用雑器を中心に急速に流通圏を広げ、中世以来の伝統を誇る瀬戸美濃と国内陶器市場を二分するまでに成長したと言われています。
このことから、秀吉の朝鮮出兵は何も日本にもたらすものはなかったと言われていますが、日本の陶磁器の歴史にだけは大きく貢献をしたということで、「やきもの戦争」という別名を持っています。
次は朝鮮出兵の真実についてまとめていきたいと思います!
朝鮮出兵の真実とは
では、朝鮮出兵の真実について考えていきますね。
文禄・慶長の役という二つの大規模国際戦争のより、日本も朝鮮・明も甚大な損害を被ることになりました。
それに、日本では朝鮮での戦いが終わった後、
- 加藤清正ら前線で死闘を演じた武士団グループ(いわゆる「武断派」)
- 石田三成ら後方で軍政を担当していた官僚グループ(いわゆる「文治派」)
この2グループの対立関係が鮮明となり、豊臣家は家臣団が真っ二つに分裂した状態になってしまったのです。
そして、そのまま天下分け目の関ヶ原の戦いへと突入していくのです。
一方、朝鮮半島では日本の被害よりもさらにひどい被害があったと言われていて、復興に膨大な時間を費やし、さらに日本との戦いで多くの将兵を失ったために急速に国力を失っていきます。
やがて明国は、北方の異民族(女真族)により滅ぼされ「清」の時代へと移ります。
この国際戦争により豊臣家、明国双方の滅亡を招いてしまったのです。
どちらも歴史の流れの中では止められない出来事があったかもしれませんが、「私欲による無益な戦い」が、戦った両者それぞれに多くの損害や不幸をもたらしたというのが朝鮮出兵の真実です。
では次に朝鮮出兵の黒幕は織田信長だった?について解説していきたいと思います。
黒幕は織田信長?
明国侵攻を最初に発案した人物は、秀吉の主君だった「織田信長」だったと言われています。
キリスト教の宣教師などを中心に海外事情に精通していった織田信長は「貿易の重要性」を早くから認識しており、対明貿易の復活に向け、朝鮮にその仲介を依頼する交渉を続けていました。
しかし、思うような反応を得られず、次第に「武力侵攻」を意識するようになります。
信長は安土城を築城している頃、酒宴で家臣たちに「将来は明国に侵略するぞ!」と話していたそうです。
もちろん、その時はまだ日本国内でさえ平定していなかった頃だったので、家臣たちも話半分で聞いていたものと思われます。
ところが、信長から天下統一を受け継ぐ形になった秀吉がその夢を実現したときこの話を思い出して、信長の野望を自分の野望に変えて、朝鮮出兵を決断したのかもしれませんね。
最後に朝鮮出兵のまとめをしていきたいと思います。
まとめ
では朝鮮出兵についてまとめますね。
- 朝鮮出兵とは文禄慶長の役という二つの戦いの総称
- 豊臣秀吉は朝鮮出兵で明を征服しようとしていた
- 明征服の理由は諸説あるが、いまだにはっきり答えが出ていない
- 朝鮮出兵の結果は日本と朝鮮明両国に大損害を与え、豊臣政権と明国双方の滅亡を招いてしまった
- 朝鮮出兵で日本の武将たちは競って、朝鮮人の耳や鼻を削ぐ行為を行っていた。それは戦闘員のみに限らず、非戦闘員の女性たちにも行われていた
- 捕虜として連行された朝鮮陶工により日本の陶磁器文化が花開いたため、朝鮮出兵は別名「やきもの戦争」と言われている
- 朝鮮出兵「泗川の戦い」で朝鮮人に恐れられた島津義弘という武将がいた
- 明征服の最初の発案者は織田信長だった
まとめてみると少しわかりやすくなりましたかね!
この豊臣秀吉の朝鮮出兵は秀吉最大の失策と言われることもあるように、多くの犠牲と損害を日本と朝鮮・明双方に与えました。
いつの時代も戦争というものは破壊を生み、多くの苦しみや憎悪を生み出します。
現在の日韓の国際問題も歴史を知り考えていくことで、今に始まったものでない根深い問題であるとみて取ることもできますね。