平清盛の死因はマラリア?清盛の生涯と功績について!大河ドラマについても

今回解説していくのは日本初の太政大臣に就任した人物であり、平氏の黄金期を築き上げた平清盛

 

彼によって平氏は一気に隆盛を極めることになるのですが、今回はそんな彼について

  • 平清盛とは一体どんな人物だったのか?
  • 清盛の妻や娘について
  • 清盛のゆかりの地
  • 清盛を描いた大河ドラマ

 

など清盛のことについて詳しく解説していこうと思います!

平清盛とは?

平清盛
平清盛

平清盛は1118年に伊勢平氏の棟梁であった平忠盛の長男として生まれ、平氏のリーダーとして保元の乱や平治の乱で活躍した武将です。

 

彼は、平治の乱の後積極的に朝廷に取り込んで自ら武士としては初めてである太政大臣に就任したのを始め、一族を公卿にさせ平氏の栄華を築き上げました。

経歴と年表

平清盛は1118年に伊勢平氏の棟梁である平忠盛の長男として生まれました。

父である平忠盛は海賊退治で功績をあげ、播磨や伊勢の国主として重用され、なんと平氏としては初めて昇殿を許されるほどの人物でした。

 

清盛は父がなくなるとそのあとを受け継ぎ、実質的に平氏のリーダーとして活躍し始めます。

保元の乱では播磨守に、平治の乱ではライバルであった源義朝や藤原信頼などを排除して実質的に朝廷の第一人者へと上り詰めることになるのです。

 

その後、1167年に太政大臣に就任するとその勢いはピークに達し、平氏一門が朝廷の要職を独占し始め、いわゆる「平氏にあらずんば人にあらず」という言葉のように、平氏の勢いは誰にも止められない状態に入っていました。

さらには娘である平徳子と高倉天皇の間に生まれた安徳天皇が天皇に即位すると清盛は天皇の祖父という地位に立ち、ついに朝廷をコントロールする力を得たのでした。

 

しかし、1177年に後白河法皇などを始めとした朝廷の人々が鹿ケ谷の陰謀と呼ばれる陰謀で清盛排除の動きを見せ始めるとついに清盛の行動はエスカレートしていき、後白河法皇を幽閉するなど暴走が見られるようになります。

さらに平氏に対する不平不満がたまりついに1180年に以仁王が反乱を起こすと源頼朝を始めとした源氏勢力が一気に反旗を翻し、平氏は一気に苦境に立たされるようになりました。

 

そして清盛は平氏の行く末を案じながら1181年に64歳にて亡くなりました。

父の平忠盛との関係

平清盛の父である平忠盛は平氏の栄華の基盤を作り上げた清盛に取ったら非常に尊敬していた人物であったと言われています。

妻の時子について

平清盛の正室であり、清盛の後継者である平宗盛を生んだのがこの平時子という女性。

清盛の妻として平氏を必死に支えていた人物だったのですが、清盛が亡くなって平氏が滅亡することになった壇ノ浦の戦いでは安徳天皇を抱えて入水したとされています。

娘の徳子について

清盛自身は平治の乱の鎮圧で名を挙げましたが、平氏の栄華を決定付けたのは実は清盛の娘である徳子によるものでした。

 

平清盛と平時子の間に生まれた平徳子は16歳の時に当時天皇であった高倉天皇の妃として朝廷に入り、そして8年後に安徳天皇を出産することになります。

こうなると清盛は天皇の祖父という立場となり、清盛の朝廷内での権力はますます高められることになりました。

藤原氏がやった外戚政策とまるっきり同じですね。

 

しかし、清盛が亡くなり、平氏が都落ちを行うと徳子は安徳天皇とともに西へと落ち延びます。

そして壇ノ浦の戦いでは安徳天皇とともに入水することになるのですが、かわいそうなのかどうかはわかりませんが徳子だけは敵によって救われ、最終的には建礼門院として出家して静かな生涯を送りました。

名言

頼朝の首をはねてわが墓前に供えよ

(亡くなる前に言ったとされる言葉。彼がこれほど頼朝を逃したことを後悔していたことがよくわかる)

平清盛が眠る墓

清盛の遺体は側近の円実法眼が経ヶ島に納めたとされ、その場所に今では能福寺の清盛塚として今に伝えられています。

場所は清盛が日宋貿易のために作った大輪田泊付近である神戸市兵庫区にあり、この付近のシンボルにもなっています。

平清盛と厳島神社の関係

平清盛と切っても切れない関係にあるのが今では世界遺産に登録されている厳島神社。

元々厳島神社自体は推古天皇の時代からあったのですが、現在の形となったのは実は清盛の時代で平氏が行なっていた海運事業などの守り神としてあがめられていたんだとか。

さらに、清盛が安芸守(安芸国の長官)に赴任したことも要因となり、厳島神社は清盛によって大々的に改築され、平氏の氏神となっているのです。

ちなみに、その後も厳島神社はこの付近の武士たちに崇拝され、あの毛利元就もこの厳島神社を崇拝していたんだそうです。

平清盛の死因はマラリア?

平清盛の死因といえば平家物語に書かれているように熱病で死んでしまったというのが一般的。

これは南都焼討といって興福寺や東大寺を焼いた祟りが彼を死に追いやったとされていますが、そうなると考えられるのがマラリアなどの熱病で死んだというのが妥当かと思います。

 

しかし、マラリアは蚊によって媒介されるため夏に起こる病気なのに、死んだのが3月と非常に微妙であったり、九条兼実の日記である玉葉には頭痛を患ったと記述されているのを見ると脳出血で亡くなったのではないかとも言われています。

平清盛が行った日宋貿易が日本にもたらした影響

清盛が行なった大事業の一つが日宋貿易

 

日宋貿易とは日本と宋の間で行われた一大貿易のことなんですが、これがどんな影響をもたらしたのかというとこれによって一気に貨幣による経済体制が構築されたとも言われています。

日本では和同開珎とか富本銭などのように古代度々銅銭が鋳造されていましたが、平安時代には絹などの現物で支払う形となっており貨幣というものが浸透していませんでした。

 

しかし、日宋貿易によって貨幣が入ってくるようになると一気に貨幣の流通が行われ始めのちの貨幣経済の元となっていったのでした。

ちなみに影響はこれだけではなく、後に起こる鎌倉仏教もこの宋からきた経典によって発展していくことになるのです。

平清盛と源頼朝の関係

源頼朝
源頼朝

平清盛と頼朝の関係はよくライバルとして描かれていますが、接点はほとんどありませんでした。

 

しかし、平治の乱の後に頼朝の助命を行なったのは実は清盛でして、清盛の継母である池禅尼が必死に懇願したことに折れて最終的には流刑という処分で終わらせてしまいました。

 

しかし、このことが平氏の滅亡に導いてしまうということは彼も非常に後悔していたそうで、亡くなる直前には頼朝の首を墓に備えてくれと言ったとされています。

平清盛と平将門の関係

平将門
平将門

平清盛と同じく有名な平氏の人物といえば平将門

平清盛と平将門は同じ系統なのですが、平将門の血筋ではなく平将門と敵対していた平貞盛の子孫が清盛というわけなんです。

 

ちなみに、平将門と平清盛は同じく桓武平氏という括りとされていますが、厳密には平将門は坂東平氏、平清盛は伊勢平氏とされています。

平清盛が諦めた福原京とは?

平清盛が晩年をかけて作った港である大輪田泊

さらに、清盛はこの大輪田泊付近に大きな都を作ってそこに移転しようとした計画を実行したのでした。

 

その場所が今の福原京となっていますが、しかし安徳天皇は移転したものの、高倉上皇や後白河法皇が平安京に留まったことや、源氏が迫っていたことなどが要因となってわずか5ヶ月で福原京は放棄。

清盛が亡くなったことで完全に福原京は幻の都となってしまいました。

大河ドラマ「平清盛」が面白いと話題になった

2012年の大河ドラマとなった『平清盛』。

当時はあまり良い作品ではないとされていましたが、現在ではじわじわとその面白さが伝わり始めコアなファンを獲得するようになった、そんな作品でした。

 

平清盛をより深く知ることのできる作品なので、ぜひご覧になってみていただければと思います。

キャスト一覧

大河ドラマ平清盛では主人公である平清盛は松山ケンイチさんが、ライバルである源頼朝は中川大志さん、義経は神木隆之介さんが演じています。

 

また、平時子は深田恭子さん、藤原頼長は阿部サダヲさん、後白河法皇は松田翔太さんが演じるなど豪華な俳優陣となっています。

 

それではまとめに入ります!

まとめ

まとめです。

  • 清盛は保元の乱と平治の乱で活躍して最終的には太政大臣となった
  • 清盛の娘である平徳子は安徳天皇を産んで平氏の最盛期を築きあげた
  • 清盛は厳島神社を大々的に改築して信仰していた
  • 大河ドラマ『平清盛』はコアなファンを獲得している

 

最後になりましたが、清盛の死から4年後に平氏は滅亡するとになるのですが、清盛の活躍がなければ武士の時代はもしかしたらもう少し遅くなっていたかもしれないと思います。

清盛は700年続く武士の時代の幕開けを告げた人物だったのですね。

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