今回は、小牧・長久手の戦いについて、わかりやすく解説してみました!
戦国時代の中で一番有名な武将といえば、やっぱり三英傑と呼ばれる3人の武将、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ですよね!
そんな3者ですが、実は、秀吉と家康、そして信長の息子が一回だけバチバチに戦をやったことがありました。
それが、今回のお話、小牧・長久手の戦いです。
- 3者はなぜ戦うことになったのか?
- 戦いの結果は?
- その時歴史が動いた!?家康を救った天正大地震とは?
- 戦場となった場所と、ゆかりの地の現在は?
一体、この戦いの裏にどんなドラマが隠されていたのでしょうか。
学校や教科書では語られない、真実を解き明かしていきたいと思います!
目次
小牧長久手の戦いとは?
小牧長久手の戦いは1584年に徳川家康・織田信雄VS豊臣秀吉の間で起こった戦のことです。
ちなみに小牧長久手の戦いを話す前に言っておきますが、実は小牧長久手の戦いは小牧での戦いと長久手の戦いを一つに合体したものですので注意ですよ!
織田信雄という信長みたい名前の人がいますが、実はこの人なんと信長の次男なんです。
普通なら秀吉は信長の家臣なんですから信雄に従うのが当たり前。
ですが、実はこの時秀吉は弟の信孝やライバルの柴田勝家を倒してノリノリ状態に突入していまして信雄なんて知らんぷり。
信雄は秀吉から冷遇されたせいで家康とタッグを組んで秀吉と対決するようになりました。
小牧長久手の戦いの布陣図
こうして対峙するようになった秀吉と家康。
ですが、最初からバチバチに戦ったのではなく、
- 秀吉は今では国宝の城に認定されている「犬山城」
- 家康は信長の昔の本拠地だった「小牧山城」
にそれぞれ布陣していました。
ちなみに小牧と犬山の距離はわずか10キロちょい、互いの城が見えてしまうぐらい短い距離でした。
さらに秀吉軍10万、家康軍3万、両軍合わせて13万の兵士がここで待機していたのです。
こうしてみるとめっちゃ過密ですね。
小牧長久手の戦いの結果
この戦いでは、最初の方は家康がこんなにも差があったのにもかかわらず、奇襲攻撃を仕掛けて一歩リードしていました。
ですが、さすが戦略家で有名な秀吉です。
戦で負けたのであれば戦をできない状態にすればいいじゃ無いかと小牧や長久手で戦を行わず、あえて家康と同盟関係を結んでいた織田信雄の領地を狙ったのです。
これにびっくりした信雄はさっさと秀吉と仲直り。
実は信雄は家康の相談も受けずに戦を辞めてしまいました。
情けないです本当に...。
こうして信雄と同盟関係を結んだことによって戦う理由があった家康はもうこれ以上戦争しても意味はないと判断。
小牧長久手の戦いはこんな後味の悪い結果で幕を閉じたのでした。
その後家康は小牧長久手の戦いの後に関白となった秀吉にどうにかしても従わなければいけなくなってしまいました。
家康が再び天下を狙えるチャンスが来るのは16年後の関ヶ原の戦いまで待たなくてはなりません。
小牧長久手の戦いはこれによって終結しますが、次はその2年後に起こった、家康を救ったとされる巨大地震について解説します。
小牧長久手の戦いと大地震
小牧長久手の戦いから2年後の1586年。
秀吉が前の年に朝廷のとても偉い役職である関白に就任して天下人へのステップをどんどん登っていきます。
しかし、本能寺の変から3,4年て関白まで登っちゃうんですから凄いですよね秀吉って。
それはともかく、こんな時に日本をいろんな意味で揺るがす大きな出来事が起こってしまいます。
それはなんと戦や飢饉や一揆でもなく、なんと大地震だったのです。
この地震のことを当時の元号からとって天正大地震といいます。
この大地震によって織田信雄の城であった長島城や清洲城などが崩れ落ちてしまいました。
さらには秀吉や家康に全く関係ないのですが、今の高山という場所を治めていた内ヶ島さんの一族がこの地震によって引き起こされた山崩れに巻き込まれてしまい、一族みんな死んでしまうという戦国大名で一番悲しいパターンで滅亡したりもしていました。
でも、この地震によって当時再び家康を攻めようとしていた秀吉は断念。
家康は滅亡のピンチから救われたということもあったそうです。
地震が起こらなかったら家康が天下を取っていなかったと考えると歴史って面白いものですね!
さて、日本では小牧長久手の戦いや天正大地震などで大忙しですが、次は再び小牧長久手の戦いに戻って小牧長久手の戦いの激戦地や名跡などを紹介していきます!
小牧長久手の戦いの場所と地図
小牧長久手の戦いはこのようにして行われていきましたが、次はその激戦地となった舞台を名所とともに紹介していきましょう。
血の池公園
まず最初にご紹介するのは愛知県長久手市にある血の池公園。
こんな物騒な公園近くにあったらなんか怖いですが、こんな物騒な名前がついたのはやはり小牧長久手の戦いが原因でした。
どうしてこんな名前になったのかというと戦争が起こった時、家康側の武将がこの池で敵を倒した時についてしまった血をこの公園がある池で洗っていました。
そうするとなんと怨霊とかお化けがいたのかは知りませんが、その戦いが起こった時期間限定でその池があの時血を洗った時に真っ赤になってしまった時と同じ色に戻ったのです。
とても恐ろしい話ですが、残念ながら今はこんな怨霊住民にかかってしまったらめんどくさいと思ったのかこの池は埋め立てられてしまい、今では記念碑が建っているだけだそうです。
長久手古戦場
今ではリニモの駅名にもなっている長久手古戦場。
この地で豊臣側ののちにあの綺麗な姫路城の天守閣を作る池田輝政の父の池田恒興と本能寺の変で信長と一緒に死んでしまった森蘭丸の兄である森可成がこの戦いによって討死してしまいました。
実はこうなった原因は秀吉が「なんからちあかないからいっそのこと家康の本拠地の岡崎や浜松を奇襲しよう!」といい、羽柴秀次という秀吉の甥に対して2万の大軍を与えて奇襲してこいと命令します。
しかし考えてくださいよ、2万の大軍がコソコソ動いたらどんなヘッポコな忍者でもバレますって。
しかも相手は武田信玄と死闘を繰り広げてきた家康です。
こんな小細工効くはずもなくあっさりとバレてしまい、逆に秀吉側に対して奇襲を仕掛けられてしまい奇襲は失敗に終わってしまいます。
その結果2万の軍は全滅。
長久手一帯は血で覆われてしまうというすさまじい光景が広がっていたそうです。
今ではこの古戦場跡にはその時の様子を記録している手紙やどのようにして戦いが行われていったのかを知ることができる記念館が建っており、小牧長久手の戦いの重要な記録を見ることができます。
もし、この辺りを観光することがあれば一回行ってみてはどうでしょうか?
長久手城址跡
小牧長久手の戦いで重要であった城の一つに長久手城という城があります。
長久手城は元々家康側についていた武将がこの城を守っており、秀吉の軍は一斉にこの城に向かって攻撃を仕掛けます。
この時の秀吉軍はまだ奇襲をする前だったこともあり、結局はこの城は陥落して秀吉のものになってしまいます。
しかし、今ではこの城の面影はほとんどなく、平成以降に愛知万博が開催された時に建てられた新興住宅が建てられています。
昔は激戦地でも今では平和な家族たちが仲良く暮らしていると思うと時代の流れを感じますね。
それではまとめに入りたいと思います。
まとめ
秀吉と家康が戦った小牧長久手の戦い。ここでひとまずポイントを絞ってみてみましょう。
- 小牧長久手の戦いは1584年に秀吉と家康織田信雄の間で起きた戦のこと
- 秀吉と家康の本陣の距離はわずか10キロ。しかもその間に13万の兵士がいてとてもぎゅうぎゅうだった
- 秀吉は家康の領地に侵攻しようとしていたが、逆に家康に奇襲を受けてしまった
- この戦は信雄が秀吉と和睦したことによって終わった
- 小牧長久手の戦いの2年後には天正大地震という地震が起こり、信雄の城などが倒壊した
- 小牧長久手の戦いの激戦地は今では平和な住宅街が広がっているが、今でも戦いの痕跡は見ることができる。
最後になりましたが、小牧長久手の戦い以降、秀吉は関白に就任して敵対する勢力をどんどん潰していきそして6年後には天下統一を果たしました。
この戦いは秀吉にとって重要な試練の一つだったのかもしれませんね。