本能寺の変というと誰もが一度は耳にした事がある有名な事件ですよね。
「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス。」で有名な織田信長が、家臣の明智光秀に裏切られて自害に追い込まれた事件です。
しかし、この事件、知れば知るほど謎だらけの事件なんです。
そこで今回は、
- なぜ明智光秀は謀反を起こしたのか?
- 織田信長の遺体はどこへ行ってしまったのか?
- 本能寺の変には黒幕がいる?
など様々な謎がある本能寺の変について、徹底的に解説していきたいと思います!
目次
本能寺の変とは?簡単に解説!
●登場人物
- 本能寺の変でやられっちゃった人→織田信長
- 本能寺の変を起こした人→明智光秀
- 信長の仇を討った人→羽柴(豊臣)秀吉
- 本能寺の変に巻き込まれないように必死で逃げた人→徳川家康
それではまず、本能寺の変はどんな事件だったのか解説していきますね!
●端的に言うと
羽柴(豊臣)秀吉の備中高松城攻撃を救援するために、京都本能寺に滞在していた織田信長が重臣である明智光秀に急撃され、命を落とした事件です。
信長は応戦するも少人数の近従しかおらず、光秀の大軍に包囲されたのを悟ると、本能寺に火を放つよう指示し、自害して果てました。
光秀は信長を自害させた後、ついで二条御所の織田信忠を襲い、信忠も自害させました。
二人の非業の死により織田政権は崩壊。
天下人になった光秀ですが、本能寺の変で主君の死を知った秀吉が、速やかに毛利氏と和睦を結びます。
主君の仇討ちのために備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約200キロをたった10日で踏破した、いわゆる“中国大返し“をして、この行軍の後、摂津・山城国境付近の山崎の戦いにおいて光秀を撃破しました。
このことは「光秀の三日天下」と言われています。
このころ信長の勧めにより堺を見物していた徳川家康は本能寺の変を知り、次は自分が狙われるだろうと取り乱しました。
光秀の支配下にある知恩院に駆け込んで自刃すると主張。
しかし、本多忠勝をはじめとする家臣たちに説得されて伊賀国を経由して、三河国へ命からがら帰還をしました。
これが世に言う”神君伊賀越え” です。
これから戦国時代の大事件、本能寺の変があった場所について書いていきたいと思います!
本能寺の変の場所
本能寺の変で焼却した本能寺は、現在の寺町御池ではなく、1582年(天正10年)頃は堀川四条の近くにありました。
寺域は東西150メートル、南北300メートルありました。
本能寺の変後、豊臣秀吉が現在地に再建。
現在本能寺跡には本能寺小学校が建っています。
本能寺の変があった年号、日付、時間について書いていきたいと思います。
本能寺の変の年号は?
天正十年(1582年)6月2日の早朝と言われています。
次はもし本能寺の変が起こらなかったら、織田政権はどうなっていたのかを解説していきたいと思います!
本能寺の変がなかったら?
もし本能寺の変がなかったら、どうなっていたでしょう。
織田家の家督は、当然のごとく息子の織田信忠に引き継がれ、秀吉は織田家に仕える一武将として、その一生を終えたことでしょう。
秀吉が関白になることもなく、日本を左右する関ヶ原の戦いも起きなかったかもしれません。
越後の上杉景勝は西から柴田勝家、南から森長可、滝川一益、東から新発田重家らに攻め込まれて風前の灯火。
本能寺の変がなければ、早くて1ヶ月、長くて年内には滅亡していた可能性が高いです。
中国の毛利輝元は、秀吉との長年の戦いですでに限界に近い状態で、そこに信長の軍が加わったら、もはや勝ち目はなく、降伏の道を選べば中国攻めは終了。
四国の長宗我部元親は当時はようやく土佐国を統一して、阿波に勢力を伸ばしつつある状態に過ぎず、本能寺の変のあった6月2日に、予定通り四国攻めを遂行されていれば、すぐに攻め滅ぼされていたでしょう。
そうなると残るは関東を制する北条氏と九州で勢力を伸ばしていた島津氏や龍造寺氏がいますが、織田軍の兵力があれば、天下統一は3年から5年あれば実現できたのではないかと考えます。
しかし、光秀が裏切らなくても他の誰かが、謀反を起こしていた可能性もあるのです。
金子拓氏の著書「織田信長 不器用すぎた天下人」で記されているように、信長はむしろ信頼を寄せた人間に裏切られることの多い武将でした。
義弟である浅井長政の突然の裏切りで、もう少しで死にそうになった話は有名です。
ただ、信長の裏切られ履歴はこれだけではありません。
武田信玄が突然、信長との同盟を破棄して西上作戦を開始すると、信長は驚倒激怒しています。
松永久秀が反逆した時も理由を問いただすために使者を派遣しているし、荒木村重の謀反に至っては、信長ははじめ信じなかったほどです。
信長の対人関係構築はお世辞にも上手とは言えませんでした。
「こちらがよくしてやればいい相手は感謝するだろう」という独善的な傾向が見てとれるのです。
信長は非常に有能な政治的・軍事的指導者だったことは間違いありません。
ですが、他人の心理を読み取る能力はさほどあったようには見えず、光秀以外の人物が謀反を起こして、織田家を滅亡させる可能性も大いにあったと考えられます。
このあとは本能寺の変の犯人について明智光秀や、その他の黒幕まで深く掘り下げていきます。
本能寺の変の真実と黒幕
本能寺の変の真実については、未だに解明されておらず、そのため諸説が山のようにあります。
諸説は大きく分けると2つあります。
- 「光秀単独説」
- 「黒幕存在説」
があり、さらにそこからいくつか枝分かれしていきます。
「光秀単独説」には、
- 「怨恨説」
- 「四国説」
があります。
「黒幕説」は光秀は踊らされていただけで、実は黒幕がいるのではないかという説です。
- 豊臣秀吉
- 徳川家康
- 斎藤利三
- 森蘭丸
- 長宗我部元親
- 足利義昭
- 朝廷
- イエズス会
といった組織的な黒幕まで疑いだしたらきりがない程の黒幕説があります。
もう少しで天下人になる信長は色々な人に命を狙われる可能性があったのですね。
このあと本能寺の変の謎について徹底解説していきたいと思います。
本能寺の変の謎
本能寺の変の謎とは一体なんなのでしょうか。
一つ目の謎は、なぜ明智光秀は織田信長を裏切ったのかということです。
先ほど出てきた「光秀単独説」には
- 「怨恨説」
- 「四国説」
があります。
「怨恨説」の光秀の恨みとして指摘されたのは以下の5点です。
①丹波八上城攻めの際、光秀は母を人質にして開城させたが、信長は城主の波多野兄弟を殺してしまったので母は城兵によって殺された。
②信長は光秀に徳川家康の饗応を命じたが、出された魚が腐っていたのに腹を立てて、光秀を罷免した。
③斎藤利三は稲葉一鉄の元を去り、光秀に仕えていた。
信長は利三を一鉄に返すように光秀に命じたが、光秀が従わなかったため、信長は暴力を振るった。
④武田を滅ぼした後の諏訪の陣中で、光秀が「骨を折った甲斐があった。」と語っているのを聞き咎めた信長が光秀を折檻した。
⑤信長は光秀に羽柴秀吉救援のため山陰地方への出陣を命じたが、その際、丹波・近江志賀郡から出雲・石見への国替えを命じた。
出雲・石見は未征服地であり、光秀が実力で勝ち取らなくてはならず、事実上の本領没収だった。
このような多くの恨みを爆発させた結果が本能寺の変という考えが「怨恨説」です。
「四国説」は長宗我部元親と関係が深い光秀が、信長の四国征伐を回避するための信長を討ったというものです。
最初、土佐国(今の高知県)統一を果たした長宗我部元親は信長と良い関係を築き、所領安堵されていました。
「四国は好きなようにしていいぞ。」という感じだったのです。
そう言われれば、元親も四国残り3国にまで勢力を伸ばそうとしますが、阿波国(今の徳島県)、讃岐国(今の香川県)を治めていた三好康長が信長と戦をして破れると名物「三日月の葉茶壺」を信長に献上、喉から手が出るほどその茶壺が欲しかった信長は一転して家臣として厚遇したのです。
三好氏は秀吉にも接近しており、秀吉の姉の子(豊臣秀次)を養子に貰い受けていました。
領土を元親に奪われると、信長にこれを訴えて、織田家の方針を撤回させるように仕向けます。
信長は「四国は好きにしていいぞ。」と元親に伝えていたが、「やはり土佐国と阿波国の半分のみで、他の領土は返せ。」と考えを変えてしまったのです。
突然の方針転換で元親は激怒し、不服とし要求を拒絶します。
そして、信長は三男・織田(神戸)信孝を大将にして四国征伐を行う計画を立てました。
その日にちが奇しくも本能寺の変と同じ天正十年6月2日だったと言われています。
光秀の家臣である斎藤利三の妹が長宗我部元親に嫁いでおり、もし信長の四国征伐が実行に移されれば斎藤利三は妹と甥(長宗我部信親)を一緒に失うことになります。
もし、四国征伐の担当が光秀であれば、なんとかできたかもしれませんが光秀は四国の担当を外されてしまいました。
そして、助けるためには信長を殺すしかないと考え、本能寺の変を起こしたというのが「四国説」です。
二つ目の謎は、信長の遺体はどこに行ったのかということです。
このあと信長の遺体はどこへ行ってしまったのか?を一つ一つ考えていきたいと思います。
信長の遺体は?
信長の遺体は最後まで見つかりませんでした。
イエズス会のルイス・フロイスは信長がどのように死んでのかを記録していました。
それは、信長は切腹して生きたまま焼死したと書かれています。
もしこれが本当ならば、遺体は見つかるはずです。
ではなぜ見つからなかったのでしょうか。
最も一般的な説は、全てが焼け落ちてしまったため信長の遺体がどれか判別できず、信長の遺体を発見することが不可能になってしまったという説です。
木造建築の火災で全てが灰になってしまうほどの状態になるかどうかは検証の余地がありますが、残された遺体の損傷がどれも激しくて、どれが信長のものなのか特定することを諦めたのかもしれません。
本能寺に織田軍の火薬が貯蔵されていたため、寺に火をかけたことでそれが爆発してしまったと言う説もあります。
その他の説として、
- 原宗安は首だけ持ち出し、駿河国の西山本門寺に埋葬したという説
- 黒人従者の弥助が、本能寺から信長の首を持ち出され、遺灰になって京都阿弥陀寺に埋葬されているという説
- 本能寺の地下通路を使って脱出し、生存していたのではないかという生存説
などがあります。
次に豊臣秀吉(羽柴秀吉)の黒幕説について、秀吉の本能寺の変後の行動を考えながら解説していきたいと思います。
黒幕説1,豊臣秀吉(羽柴秀吉)
これは羽柴秀吉が明智光秀と共謀、もしくは、光秀をそそのかしたという説です。
なぜ秀吉が疑われているかというと、本能寺の変勃発で最も利益を得た人物が秀吉であるからです。
そして、事前に準備していなければ中国大返しは不可能だと感じられることも根拠に挙げられています。
本能寺の変後、秀吉は毛利方と迅速に講和を結んでいます。
本能寺の変が6月2日、講和成立が6月4日だから、確かに異様に早いです。
信長が討たれることを事前に知っていたため、秀吉が小早川隆景・安国寺恵瓊などへ根回しを行なっていたからできたのではないでしょうか。
しかし、秀吉の水攻めにより備中高松城救援が事実上不可能になった毛利側は、秀吉に和睦を申し入れていました。
主君信長から出馬の連絡を受けた秀吉は、備中・備後・美作・伯耆・出雲の5ヶ国割譲という強気の要求をしたため交渉は難航しましたが、本能寺の変を知った秀吉は備後・出雲を除く備中・美作・伯耆の3ヶ国の割譲と備中高松城主清水宗治の切腹に譲歩しました。
本能寺の変を知らない毛利氏がこれをあっさり飲むのは当たり前ではないでしょうか。
なお、秀吉が本能寺の変をいち早く知った点を重視して秀吉を疑う人がいますが、信長の出馬を知った秀吉は信長の動向(いつ到着するか)を探る必要がありました。
信長軍到着の時期次第で、毛利氏とぼ交渉方針も変わってくるからです。
情報網を張り巡らせていた結果、光秀謀反の報に素早く接することができたと考えることもできます。
次に徳川家康の黒幕説です。
黒幕説2,徳川家康
織田信長と徳川家康は桶狭間の合戦後、同盟(清洲同盟)を結び、それ以降は共に信長の掲げる「天下布武」に邁進していました。
甲斐の武田信玄の死後、織田、徳川連合軍は急速に衰えてきた武田氏を滅ぼすために猛攻撃をかけ、ほぼ滅亡寸前まで追い込みます。
そんな中、家康の元へ信長から文が届きます。
その文には、家康の長男信康と家康の正室の築山殿が武田氏と内通しているので殺せという内容が書いてありました。
信康は信長の娘である徳姫と夫婦関係でした。
徳姫が信長に宛てた「信康は非道な人間で妻として近くにいるのが辛い。」というような内容の文を理由として、戦上手で人々の信頼にも厚い家康を恐れて、自分への忠誠の心を試そうとしたのではないかと考えられています。
家康の家臣は、信長と一戦交えるべし!と主張したそうですが、家康は長男と妻を切腹させたのでした。
このときの家康の心中を考えると信長に対する恨みは相当だったのではないかと想像できます。
そんな折に、京都本能寺で大勢の武将を招いて茶会が開かれることになったのです。
信長は光秀にその茶会に家康を招き、そこで襲撃して家康を討つよう指示しており、光秀が信長の意に反して謀反を起こしたという説があります。
これは、光秀の子孫である明智憲三郎氏の著書「本能寺の変 431年目の真実」で披露された説で、現在多くの人の注目を浴びています。
信長が家康を暗殺するということは、いずれ自分も滅ぼされるのではないかという危機感を覚え、悩んだ末に謀反に踏み切ったのではないかというのが動機として言われています。
その他にも、文武両道に優れ、義理人情にも厚い光秀は、これまでの信長の理不尽な命令にも従い、天下統一に協力してくれていた家康をだまし討ちにすることなどできなかった。
なので、全てを家康に打ち明け、主君織田信長を討つ決意をしたのではないかという説もあります。
家康は暗殺のことを知りながら、知らないふりをして茶会に出席するため三河から堺まで出てきて、信長の死を予感しながら、堺見物をしていたということになります。
「神君伊賀越え」も計画されていた作戦だったのかもしれませんね。
その後、家康は三河に帰り光秀への援軍を出そうとしましたが、秀吉のあまりの速さに遅れをとり、断念せざるを得なかったのではないでしょうか。
このように徳川家康黒幕説は積極的な黒幕というよりは、信長の殺害計画を知っていて、光秀の作戦を容認したという消極的黒幕という考えになっています。
本能寺の変の真実
前述した様に数々の説があり、しかもどれも確たるものが今ひとつなく、今でも真実ははっきりとはしない本能寺の変。
ですが時は戦国時代、下克上は当たり前の世の中なので、いつ本能寺の変のような事件があってもおかしくない時代でした。
そんな時代に天下人に一番近い織田信長が何故少人数しか連れずに本能寺に入ってしまったのでしょうか。
前述した通り、裏切りには何度も会い、もっと警戒し、警備の人数を増やしてせいれば本能寺の変は起きなかったのではないでしょうか。
しかし、安土城から琵琶湖を挟んですぐの坂本城の城主で、最も織田信長に信頼されていた明智光秀がまさか裏切るとは思いもよらないことだったのでしょう。
歴史作家・恵美嘉樹氏による、明智光秀高齢説のアプローチからすると、本能寺の変の時、これまでは55歳前後と考えられてきた光秀が実は67歳だったとする見方から、「老い先短かきゆえに実力行使に出たのではないか?」という考えもでてきました。
佐久間家のような譜代の重臣といえども働きが満足でないと躊躇なく解雇してきた信長を間近で見てきた光秀。
それだけに、残された明智一族と家臣たちがいかなる末路を過ごすのか。
その将来を悲観した老将がいたとしてもおかしくはないという見方もあります。
「四国説」や「徳川家康暗殺説」の観点からも、信長がいて不利益になる人物はたくさんいて、老将光秀が自分を犠牲にそれを止めるために信長を殺す決断をしたという考え方もできます。
最後に本能寺の変を簡単にまとめていきたいと思います!
まとめ
最後に本能寺の変についてまとめていきますね。
- 本能寺の変は天正10年(1582年)6月2日早朝に起きた
- 織田信長の重臣明智光秀が、織田信長を京都本能寺で謀反を起こして自害に追い込んだ事件
- 明智光秀は信長の息子織田信忠も自害に追い込み、天下を取ったが、中国大返しで素早く戻ってきた豊臣秀吉と戦をして負けてしまい「三日天下」に終わった
- 明智光秀が謀反を起こした理由として「怨恨説」「四国説」がある
- 本能寺の変の犯人は明智光秀以外に黒幕がいたという説もある
- 豊臣秀吉、徳川家康をはじめ斎藤利三、森蘭丸、長宗我部元親、足利義昭、朝廷、イエズス会といった組織的な黒幕説も浮上
- 織田信長の遺体は最後まで見つからなかった
- 本能寺の変の真実は今でも多くの説がありすぎて、どれが真実なのか明確な答えが出ていない
まとめてみると少しわかりやすくなりましたかね?
本能寺の変は明智光秀が主君の織田信長を裏切り、死に追いやった事件として世に広まっています。
そして、織田信長は被害者で、明智光秀は非道な裏切り者として描かれ、日本中に悪名轟く武将として語り継がれてきました。
しかし、本能寺の変について調べれば調べるほど、明智光秀はとても優秀で仁義にも厚く素晴らしい武将であったことがわかってきました。
そして、前述した「怨恨説」「四国説」「徳川家康暗殺説」を知ると、織田信長は部下にかなり無理をさせているところがあり、それに対する反発もかなりのものがあったと感じます。
本能寺の変以前も信長は裏切りに会い、何度も命を落としそうになっています。
ですから、
- 信長が油断して本能寺に少人数の従者のみで行ってしまったこと
- 信長は非常に有能な政治的・軍事的指導者だったこと
は間違いありませんが、
- 人の心を掌握する能力に欠けていた
- 日本統一をしたいがために他の武将たちに無理を強いた
その結果が本能寺の変に結びついたのだと考えます。
本能寺の変の謎は、本能寺に信長が火を放ったことで、全てが灰になり闇の中へ葬られてしまいましたが、因果応報という言葉もありますから、信長のそれまでの行いが、本能寺の変という結果を招いてしまったのだと思います。