今回解説していくのは朝廷と幕府の関係が大きく変わった承久の乱!
この承久の乱によって武士が朝廷を凌ぐ権力を手に入れました。
今回はそんな承久の乱について
- 承久の乱とはどんな内乱だったのか?
- 承久の乱が起こったわけとは?
- 起こった年号と年号の語呂合わせ
- 承久の乱の兵員差と結果
- 後鳥羽上皇が負けた原因
- 承久の乱のことをよく知れる本の紹介
などなど承久の乱の色んなことについて詳しく解説していきたいと思います!
承久の乱とは?
承久の乱とは1221年に起こった後鳥羽上皇が幕府に対して討伐しようとした内乱のことです。
この承久の乱によって朝廷は初めて武士に敗北。
元々、この頃までは武士というものは朝廷に仕えるという形がとられていたのですが、この承久の乱が起こったことによって武士が朝廷を凌ぐ権力を持つようになりました。
年号
承久の乱が起きたのは1221年。
この年は元号に直すと承久3年だったこともあり、この朝廷と幕府の全面対決のことを承久の乱と呼ぶようになったのですよ。
原因
1185年に鎌倉にて幕府を開いた源頼朝。
しかし、まだこの時は幕府の権力は元々源氏の勢力圏であった関東地方を中心とした東国のみであり、西国の方ではまだ朝廷の勢力の方が大きいという状態でした。
流石の頼朝でも朝廷の権力を削ぐということはできませんので鎌倉幕府はこの状態を放置。
- 東国は武士の政権
- 西国では朝廷の支配が行われる
という幕府と朝廷の二元政治が行われるようになりました。
この頃に院政を行っていた後鳥羽上皇は東国を支配していた源氏を目の上のたんこぶだとし始めました。
そして、朝廷の権力増大に努めようと西国に西面の武士を設置したり、幕府と仲が良かった九条道家を左遷したりするなど朝廷の巻き返しを図ります。
さて、一方の幕府の方はというと1199年に源頼朝が亡くなると第2代将軍として源頼家が将軍として就任します。
しかし、この頼家がまぁ頼りない人だったそうで御家人の反感を買い、最終的には頼朝の奥さん北条政子によって東禅寺に幽閉されてしまいました。
頼家を継いで第3代将軍となった源実朝はこれまでの将軍とは一味違い、朝廷と関係がよく後鳥羽上皇とも仲が良いなど朝廷との融和を始めます。
しかし、朝廷と仲良しし過ぎたことが仇となり御家人の反感を買ってしまいこれまた暗殺されてしまいます。
朝廷とのパイプ役になっていた実朝が暗殺されたことで源氏の将軍は断絶。
幕府ではピンチヒッターとして北条政子とその父親であった北条時政が代わりに政治を代行することになりました。
これに後鳥羽上皇は目をつけて幕府を潰すために挙兵。
こうして実朝の死や朝廷の権威回復のために動いてきた後鳥羽上皇の思惑が重なり、朝廷と幕府の全面対決となったのです。
結果
さて、こうして始まった承久の乱ですが、最初はもちろん後鳥羽上皇の方が優勢でした。
まぁ、元々朝廷に刃向かう人は全員朝廷として倒されてきましたので今回もそうなるかと思いきや結末はとんでもない方向へと向かっていきます。
なんと、朝敵となっているはずの幕府側につく武士が急増。
最終的には19万人まで膨れ上がり京都へと突入するという結果となったのでした。
元々武力というものを持っておらず武士ありきであった朝廷側はあっさり敗北。
後鳥羽上皇は降伏して隠岐島に配流。
順徳上皇は佐渡島へ、土御門上皇は土佐国に流されるようになり、さらには仲恭天皇は無理矢理天皇を辞めさせられ代わりに後鳥羽上皇とは全く違う後堀河天皇が即位しました。
これによって朝廷が持っていた権威は完全に失墜。
幕府側はこれから先朝廷が幕府にはむかえなくするために六波羅探題を設置。
西国と朝廷を監視する役職を置いたことによって朝廷よりも武士の方が強いという長年の体制が確立されたのでした。
年号の語呂合わせ
承久の乱が起こったのは1221年ですが、この戦いによって日本の武家社会は大きく変わったと言ってもいいほど重要な転換点ですのでしっかりと覚えて欲しいです。
そこで年号の語呂合わせで覚えるというのが一番なんですが、特にオススメなのが『人に(12)不意(21)打ち承久の乱』です。
これは定番といってもいいほどのものなんですけど、幕府に好意的な公家からしたら後鳥羽上皇の倒幕計画は不意打ちの何者でもなかったのでしょうかね。
朝廷側と幕府側で戦力差はどのくらい?
承久の乱の序盤の方は朝廷側が2万騎を動員できる力はあったそうです。
2万騎を兵数に換算すると大体8万人。
普通に考えたら多いですけど、後半になっていくにつれて幕府側に寝返る武士も出始め最終的には幕府軍19万、朝廷側2万ちょいぐらいの差になっていたそうです。
その差なんと9倍。
こんなんで朝廷軍が勝てるはずもありません。
後鳥羽上皇側の敗因は?
後鳥羽上皇の最大の敗因はなんだったのかというとやはり朝廷が武士のことを見くびり過ぎたことにあると思います。
朝廷からしたら幕府の討伐の宣旨を出した瞬間に全国の武士たちは幕府を倒すために働いてくれるだろうと楽観的な考え方をしていました。
しかし、幕府側のリーダーである北条政子は
「誰のおかげで昔馬鹿にされていた武士の地位が上がったのですか!頼朝公のおかげでしょう!その恩は山よりも高く海よりも深いものではないのでしょうか!?
朝廷に負ければ頼朝が作り上げたこれまでの武士の地位は消えて平安時代に逆戻りです!だから皆さん頑張りましょう!」
という決死の訴えもあったことによって朝廷の宣旨をはるかに超える団結力を手に入れ、最初は本当に3騎しかいなかった幕府軍が最終的には19万人まで膨れ上がったのです。
楽観的な考えで全く現実を顧みない集団と本気で立ち上がって団結した集団とどっちが強いのかを考えると火を見るよりも明らかです。
この朝廷と幕府の承久の乱に対する意識の差が朝廷側の敗北に繋がった大きな要因ではないのでしょうか?
承久の乱の新書や小説
承久の乱をもっと知りたいと思っている人には小説を読むことをお勧めします!
特に中公新書の承久の乱には承久の乱がなぜ起こったのかをより詳細に書いており、承久の乱についてマスターしたいと思っている人にはぴったりだと思います。
また、後鳥羽上皇がどういう心境で承久の乱を起こしたのかを知りたいのであれば関幸彦著作の承久の乱と後鳥羽院もオススメです!
まとめ
さて、まとめに入りたいと思います!
- 承久の乱とは1221年に起こった北条政子率いる幕府を後鳥羽上皇が討伐しようとした内乱
- 朝廷側は宣旨を出して朝敵にすることで幕府はすぐに潰れると思ったが、幕府側は徹底抗戦を行い勝利を収めた
- 承久の乱が終わったのち後鳥羽上皇は隠岐島に流され、さらに天皇も廃された
- 承久の乱以降京都に朝廷と西国の武士の監視を行う六波羅探題が置かれ、武士は朝廷を超える権力を手に入れた
最後になりましたが、この承久の乱以降朝廷が再び権力を持つようになるには1333年に鎌倉幕府が滅んで後醍醐天皇が建武の新政を行うまで待たなければなりません。
承久の乱は朝廷と武士の権力の差を大きく変えた重要な戦だったのですね。