源頼朝の死因と生涯について!北条政子と結婚したワケや鎌倉幕府を開いた理由も

今回解説していくのは日本初の幕府を開いた源頼朝

 

頼朝が武家社会の基礎を築いたことによってここから700年に渡る武士の時代となりましたが、今回はそんな彼について

  • 源頼朝の死因について
  • 源頼朝の人物像
  • 源頼朝の肖像画と家紋について
  • 義経と清盛との関係

 

などについて解説していきたいと思います!

源頼朝の死因は諸説あり?

鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝ですが、実は一番大切なところでもある死因というのがあまり正確には分かっていない状態であるのです。

 

一応、頼朝は落馬によって亡くなったというのば代表的な説となっています。

ですが、頼朝のみならず鎌倉時代の代表的な史料である吾妻鏡にも死因ところが、葬儀のことについても書いていません。

暗殺説も

そんな謎が多い頼朝の死ですが、そのせいもあってか暗殺説というのも存在しています。

 

頼朝は冷徹な政治家というイメージの通り義経を始めとしてかなり政敵を排除している業績も残っており、その恨みによる暗殺説や、幕府を開いたことによる公家たちの恨みによって暗殺したという説などその根拠さまざま。

 

しかし、結局は死因すらわからないので暗殺説は未だに謎のままです。

頼朝の墓はなぜ小さいのか?

頼朝といえば後の世でも武士の代表格として描かれることが多いのですが、頼朝の墓は見る限り簡素なものです。

 

この墓は江戸時代末期に島津家によって白旗神社の傍に建てられたものでして、実はそれ以前の頼朝の墓は墓所すらはっきりしていません。

源頼朝の人物像

頼朝といえば義経を倒したいわゆる憎まれ役としても知られていますが、日本初の幕府を成立させたこともあってか、その評価はさまざま。

 

果たして頼朝は本当に憎まれ役だったのか?

次はそんな頼朝の人物像に迫りたいと思います。

家系図

源頼朝は武士の家系に生まれましたが、源氏というのはさかのぼれば天皇に行き着くまさしく名門の家系。

頼朝の祖先は清和天皇であったことから、頼朝の家系のことを清和源氏といったりします。

 

ちなみに、頼朝の六代前の棟梁である源頼信が河内国を本拠地にしていたため、頼朝の家系は河内源氏と言ったりもします。

東国のイメージが強い源氏ですが、東国を本拠地とするのは四代前の源義家からなんですよ。

子孫について

源頼朝には源頼家と源実朝を含めて3人の息子がいました。

 

しかし、残念なことに頼家と実朝は将軍に就任してのちに暗殺、なんとか生き残った一人も僧侶となったことによって子供を残すことなく死去したため、頼朝の家系どころか河内源氏自体が断絶することになりました。

経歴と年表

源頼朝は1147年に河内源氏の棟梁であった源為朝の息子として生まれました。

 

しかし、この頃の源氏は不遇の時代で、さらに1159年に平治の乱が起こると父の為朝は敗北。

父は尾張国で暗殺され、頼朝自身は池禅尼による嘆願によって処刑はされなかったものの、伊豆に流刑されることになりました。

 

しかし、1180年に以仁王の反乱が起こると、妻であった北条政子とともに挙兵。

石橋山の戦いで敗れたものの、関東での基盤を固めていき、富士川の戦いにて頼朝は大勝利。

 

この頃から弟であった義経に平氏の追討任せることになるのですが、1185年に壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼすと義経と頼朝は対立。

この対立がきっかけで頼朝は全国に守護・地頭を置くことに決定し、そしてこれがいわゆる鎌倉幕府の成立となりました。

 

その後、1192年に征夷大将軍に任命されると朝廷と離れな権力を構築することに成功し、独立した武家政権を樹立するに至ったのでした。

年表
1147年 源義朝の子供として生まれる。
1159年 平治の乱がおこるが、平氏の平清盛に敗れる。義朝が殺され、伊豆に流刑となる。
1180年 平氏を打倒するために挙兵
石橋山の戦いにて平氏軍に敗北
富士川の戦いにて平氏軍に勝利
1185年 義経が壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼす。地頭と守護を設置する(鎌倉幕府の成立)
1192年 征夷大将軍に任命
1199年 源頼朝がなくなる。

肖像画

源頼朝
源頼朝

鎌倉時代を習った人であれば一回見たことがある源頼朝の肖像画。

この肖像画は神護寺という京都の寺に収められており、鎌倉時代初期の大和絵(日本風の絵)の代表作として知られていました。

 

しかし、下で紹介するように実は室町時代初期の絵だとも言われています。

源頼朝の像は別人?

最近の日本史では聖徳太子はいなかったのではないか?や、鎌倉幕府の成立は1192ではなく、1185ではないかとか色々従来の歴史からかなり離れているものが増えています。

その中の一つによく頼朝を表している像だと思われていたものが実は違うのではないかという説が出ているのです。

 

実はこの像に描かれている頼朝には鎌倉時代成立時にはなかったであろう部品が数多くあり、さらにこの像が収められている神護寺にも頼朝が収めたという証拠がないというのです。

 

また、この絵の構造や、絵が作られた背景など見ると実はこの絵は室町幕府を開いた足利尊氏の弟である足利直義なのではないかと言われているのです。

家紋について

源頼朝の家紋はなかったと言われています。

源氏といえば笹竜胆の家紋が有名ですが、この家紋を使っていたのは源氏は源氏でも村上源氏という村上天皇の家系の源氏(この家系は公家として名前が残っています)。

 

頼朝自身は家紋よりも無地の白旗が頼朝の家系の印と考えていたため、家紋を使わなかったんだそうです。

頼朝の性格

頼朝の性格はいわゆる『冷静沈着』といってもいいような性格でした。

 

頼朝は自分のことを気に入っていない御家人のことをボロカスに言ったりとか、弟の義経を死に追いやったりしたこともあってか性格が悪いと思われがちなのですが、冷静に政治運営したことによって日本初の幕府を開いたという点もあります。

愛用していた刀

源頼朝の愛刀と言われているのが髭切という刀。

 

変な名前ですが、実はこの刀は源氏にものすごいゆかりのある刀で先祖である源頼光の家来であった渡辺綱が大江山の酒呑童子を斬った刀という形でいわば伝説化しており、その後名前がコロコロ変わりながら源氏の棟梁に伝わっていったとされているのです。

北条政子と結婚した理由

北条政子
北条政子

頼朝の妻であり、のちに執権となる基礎を打ち立てた北条政子

元々北条氏は伊豆国の豪族であり中々の家系ですが、政子との結婚の理由は平安時代末期には珍しく恋愛結婚だったとか。

 

しかし、結婚した当時は頼朝の身分は流罪を受けた罪人。

北条政子の父である北条時政は結婚に猛反対したそうです。

父 義朝との関係

頼朝は三男でありながらも正室の子であったために長男と次男を差し置いて父の義朝から最初から嫡男として見られて大切に育てられました。

 

しかし、頼朝が12歳の時に平治の乱が勃発し、乱に敗れた義朝は尾張国で暗殺。

頼朝は父親を慕っていたそうですが、12歳で別れてしまったのです。

弟 源義経の関係

源義経
源義経

頼朝と義経は兄弟として知られていますが、実際にはこの2人は面識がほとんどない関係でした。

それもそのはず、義経が生まれた年に平治の乱が起こったため会おうにも会えないという事情があったのです。

 

義経は平治の乱の後鞍馬寺で育てられたと言われていますが、その後頼朝と面会したのは頼朝が富士川の戦いで勝利した後ぐらいだったそうです。

頼朝が義経を殺した理由

頼朝が義経を死に追いやった理由は主に二つ。

  • 三種の神器の一つである天叢雲剣(草薙剣)を紛失したこと
  • 頼朝に無断でで官位を得たこと

にありました。

 

義経は壇ノ浦の戦いで見事に平氏を滅亡に追い込みましたが、頼朝からしたら平氏の滅亡よりも三種の神器を全部返すことの方が大事だと思っていました(そのため平氏との和解も考えていたんだとか)。

しかし、結果は平氏を滅ぼすというよりどちらかといえば業績を挙げた一方で、一番大事である三種の神器の一つを失ってしまうという大失態を犯してしまったのです。

頼朝からしたら計画が一気に崩れたので気に入らなかったのでしょうね。

 

もう一つの理由なんですが、義経は平氏を滅ぼした後にその報告をするために京都にて後白河上皇と面会。

そこで義経は後白河上皇から左衛門尉と検非違使の官職に就くことになったのですが、このことに頼朝は大激怒。

この頃から頼朝は朝廷とは少し距離を置く政策を取り始めていたのですが、実の弟が後白河上皇から官位をもらったことによって再び自身の計画をぶっ壊す結果につながりかねない状態だったのです。

 

さらに極め付けに頼朝が対立していた源行家の討伐をラストチャンスとばかりに義経に命令するのですが、これに対して仮病を使って拒否

もう我慢できないと考えた頼朝はついに義経の討伐に乗り出したのです。

源頼朝と平清盛との関係

平清盛
平清盛

源頼朝とライバルとして描かれている平清盛

 

清盛は頼朝の父親である義朝と平治の乱にて争い、のちに頼朝によって反乱を起こされるのですが清盛は義朝が暗殺された後に捕縛された時には池禅尼の意見を取り入れて頼朝を伊豆に流刑にしたのみにもしています。

清盛はこれに大きく後悔したそうで、亡くなる時には「俺の供養はいらぬ。ただ墓前に頼朝の首を備付けるのだ」と言いつけたんだとか。

ちなみに、この時の教訓は頼朝にも受け継ぎ、のちに義経の子供を皆殺しにする原因にもなったそうです。

 

しかし、清盛は朝廷に取り入って政権を握ったのに対して、頼朝はどうして征夷大将軍となったのでしょうか?

次は頼朝が征夷大将軍になった理由について解説していこうと思います。

源頼朝はなぜ征夷大将軍になりたかったのか?

頼朝が征夷大将軍になったきっかけはなんといっても「朝廷とは違った権力を確立したかった」ということがあったと思います。

 

清盛は摂関家のように自分の孫を天皇にするなど外戚政策を行なっていましたが、頼朝は本拠地である鎌倉から離れることはしたくなかったのでした。

そのため、頼朝は権大納言・右近衛大将(吾妻鏡の右大将殿はこれが由来)を即座に辞任。

そして1192年に征夷大将軍に任命され、完全に朝廷の指示を受けない権力が確立したのでした。

 

ちなみに、頼朝は朝廷の指示を受けなくてもいい役職であればなんでもよかったらしく、最終的に滅ぼされてしまった源義仲がもらった征東将軍などを除いた結果、征夷大将軍がいいのではないかとして選ばれたそうです。

鎌倉に幕府を開いた理由

頼朝がどうして鎌倉という地に幕府を開いたのか?

 

その理由は単純。

要するに敵から攻めにくい土地を選んだというわけなんです。

 

鎌倉に旅行したことがある人ならわかるかもしれませんが、この地域は三方に山がそびえ立って、南は由比ヶ浜があるため敵からしたら天然の要塞ともいうべき土地でした。

頼朝は武士ですから攻められたら終わりですので、土地の広さよりも敵から攻めにくいというところに重きを置いたというわけなんです。

 

さて、頼朝といえば鎌倉に幕府を開いたことが有名なんですが、実は頼朝ゆかりの地は全国各地にあるのです。

源頼朝ゆかりの地

鎌倉時代を開いた源頼朝はその壮絶な人生も相まってか、いろんなところにゆかりの地がありました。

伊豆『蛭ヶ島公園』

頼朝は平治の乱の後に伊豆国に流されましたが、そんな彼が暮らしていたのが蛭ケ島と呼ばれる場所。

現在では静岡県伊豆の国市となって、頼朝が幽閉されていた痕跡はほとんどありませんが、今でも推定地には公園として残されています。

熱田神宮

源頼朝といえば鎌倉のイメージが強いですが、なんと生まれた場所は尾張国の熱田神宮近く

実は頼朝と尾張国には深い因縁があり、母は元々熱田神宮の大宮司の娘。

 

さらに父が殺された場所も熱田神宮からほど近くの鳴海と呼ばれる場所だったそうで、頼朝はご縁があるとして度々参拝に訪れたそうです。

鶴岡八幡宮

頼朝ゆかりの地として有名なのが鎌倉にある鶴岡八幡宮

先祖である源頼義が石清水八幡宮の一部を鎌倉のき移したことが始まりとなったこともあって、頼朝だけではなく源氏ゆかりの地としても知られています。

 

ちなみに、河内源氏が滅亡した後でも関東の武士の崇敬を集めて相模国に本拠地を置いた後北条氏によって再建されて今に至ります。

三島大社

平治の乱に敗れ伊豆国へ流されていた頼朝。

そんな頼朝が崇敬していた神社であり、以仁王の挙兵とともに旗揚げをしたのがこの三島大社と言われています。

 

次は頼朝を題材とした作品についてみていきましょう。

源頼朝を題材にした作品

次は源頼朝を題材とした作品についてみていきましょう。

大河ドラマ「草燃える」

頼朝の生涯を描いた大河ドラマが『草燃える

放送されていた時期が1979年とかなり前の作品なんですが、この作品はこれまで平家や源義経などといった人気者を主役にした作品ではなく、頼朝と頼朝の息子の2人にスポットライトを当てた作品となっています。

キャストも石坂浩二・岩下志麻・松平健など非常に豪華となっていますので是非一回見てみてはいかがでしょうか?

小説

頼朝の生涯を表した小説の中でいちばんのオススメは元木泰雄作の『源頼朝 武家政治の創始者』。

1180年に平氏の追討の挙兵をあげ、最終的には伊豆の流人から鎌倉幕府初代将軍になるまでのストーリーを克明に描いた作品となっています。

漫画

漫画のオススメはなんといっても『日本の歴史 源平武将伝 源頼朝』。

この作品も頼朝の生涯について描いた作品なのですが、漫画ということもあってか子供にもわかりやすい内容となっています。

 

それではまとめに入りたいと思います!

まとめ

まとめです。

  • 源頼朝の死因は記録が乏しくよくわかっていない
  • 源頼朝は冷静沈着な性格で御家人をまとめ上げた
  • 源頼朝の肖像画は実は足利直義だと言われており、一般的な源氏の家紋も使っていなかった
  • 頼朝は義経とは壇ノ浦の戦いから一気に仲が悪くなっていった

 

最後になりましたが、頼朝は義経を滅ぼしたせいで非情な人というイメージがついてしまいました。

しかし、彼が頑張ったからこそ武士の時代が訪れ、日本の歴史は大きく変わっていったのです。

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