六波羅探題とは?簡単に解説!場所や目的と役割についても!

今回解説していくのは鎌倉幕府が京都に置いた機関である六波羅探題

六波羅探題によって朝廷の監視や西国の御家人の統率が行われるようになりました。

 

今回はそんな六波羅探題について

  • 六波羅探題とはどんな役職なのか?
  • 六波羅探題が置かれた場所
  • 六波羅探題が置かれた目的と内容
  • 六波羅探題を創設した人物
  • 京都所司代との違いについて

 

など六波羅探題に対するいろいろな疑問を解説していきたいと思います!

六波羅探題とは?簡単に解説!

二条帝が内裏から六波羅へ脱出する場面。『平治物語絵巻』から。
二条帝が内裏から六波羅へ脱出する場面。『平治物語絵巻』から。

六波羅探題は承久の乱が起こった1221年から足利尊氏によって滅ぼされる1333年まで存在した鎌倉幕府の出先機関のことを指します。

 

元々京都には後白河上皇が源頼朝の倒幕命令を出したことがきっかけで置かれた京都守護という京都の治安維持や朝廷との交渉役をするための役職が置かれていました。

 

しかし、時代が降って1221年に鎌倉幕府を倒そうとした後鳥羽上皇が兵を挙げると幕府軍は鎮圧したついでに京都守護の役職に加えて朝廷の監視や西国の出先機関としての役職が置かれることとなりました。

これがいわゆる六波羅探題という役職です。

 

六波羅探題は西国をまとめているだけあって北条家の中でも特に有能な人が就任することになっていました。

ですが、1333年に入って後醍醐天皇が倒幕計画を起こすと六波羅探題は足利尊氏を始めとして西国の御家人により攻められることになりました。

こうして六波羅探題は鎌倉幕府の滅亡とともに廃止されることとなったのでした。

 

ちなみに、武家社会とか武士社会の中心には必ず武家とつきますが、これは元々六波羅探題のことを指しています。

鎌倉幕府の将軍に就任した人は一旦この六波羅探題にしばらくの間居住してから鎌倉に行くのが慣例となっていました。

場所

六波羅探題が置かれていた六波羅は今の五条大路から七条大路にかけての一帯のことを指しており、951年に浄土教を民衆に広めた空也によって建てられた西光寺が六波羅蜜寺と改名したことによって名が付けられたと言われています。

 

そして時代が降り平安時代後期になるとこの六波羅一帯には伊勢平氏の本拠地が置かれることになり、平氏が都落ちするまでここに屋敷が置かれていました。

その後、源頼朝の時代がやってくると妻の北条政子の父である北条時政が京都守護として派遣された時に屋敷を建ててそこに居住しました。

 

この京都守護のために置かれた六波羅の館が六波羅探題を創始した時に本拠地としたので六波羅と言う名前が付けられることになりました。

目的

六波羅探題の最大の目的は承久の乱で幕府を滅ぼそうとした朝廷が再び幕府に歯向かってこないように監視することでした。

 

さらに、承久の乱の戦後処理の時に平安時代から京都の警備を任されていた検非違使を務めている北面の武士の勢力が一気に落ち込んだことから、六波羅探題は検非違使の役割も果たすようになり京都の治安維持のために働くことになりました。

 

また、鎌倉幕府からは情報が伝わりづらい西国の御家人の統率も任されており、西国の御家人たちが土地問題とかで争っている時に間に入ってそのことについて仲裁するなどの役割もありました。

 

六波羅探題は朝廷の監視機関としてや、京都の警備役や鎌倉幕府の西国の出先機関など様々な分野に渡る目的があったのです。

 

ちなみに、六波羅探題という役職は鎌倉幕府のNo.2である連署の次に偉い役職であり、長年北条家の人物が就任していました。

役割

六波羅探題の最大の役割は朝廷が幕府に歯向かわないようにする為だといいましたが、時代が立っていくにつれて朝廷のトップである天皇の問題にも介入するようになります。

その代表例となったのが、後嵯峨天皇の跡継ぎ問題

 

この当時後嵯峨天皇の跡を継げる天皇は2人いました。

その人物が後深草天皇亀山天皇です。

 

鎌倉幕府は後嵯峨天皇の遺書に幕府の意向に従うようにと書いてあったことを理由に朝廷の跡継ぎ問題に介入。

幕府は後深草天皇と亀山天皇の家系が交互に天皇になれるようにするいわゆる両統迭立を取り決めてここから先鎌倉幕府の滅亡までこの状態が続きました。

 

また、六波羅探題は西国の御家人たちの問題などを解決したこともあり、北条家の跡継ぎ候補が六波羅探題に就任することがほとんどでした。

六波羅探題は京都守護や治安維持などの執権には欠かせないスキルが必要不可欠ですので幕府からしたらここを任せれるのは将来有望な人だけだったのかもしれませんね。

六波羅探題を設置した人物

北条泰時
北条泰時

六波羅探題が置かれたのは1221年、北条泰時と北条時房が幕府によって京都に派遣されたことが始まりでした。

北条泰時はのちに第3代執権となって武家社会初の法律である御成敗式目を制定したことでも有名ですよね。

 

ちなみに、六波羅探題の一つの特徴として基本的に北と南の二つに分かれていることにあります。

どうしてわざわざ二つに分かれているのかというと元々六波羅探題が置かれる理由となった承久の乱の総大将が北条泰時と北条時房だったことにあります。

 

そのため、承久の乱の後処理やすぐさま朝廷のことを監視するためには総大将2人が京都に駐留した方が良いという形となって最終的には鎌倉幕府滅亡までこれが慣例となりました。

六波羅探題と京都所司代の違いは?

幕府が京都に対して置いた機関として他にも江戸時代の時に置かれた京都所司代というものがありました。

 

京都所司代という役職は1568年に織田信長が上洛した時に室町幕府の将軍が暴れ出さないようにするための監視や京都の治安維持のために設置した機関です。

江戸時代に入ると禁中並公家諸法度に違反していないかどうかをチェックする監視や、西国の外様大名たちが幕府に対して敵対しないかを監視する役目としておかれました。

 

ここだけ見るとなんだか六波羅探題の役割とほとんど似ている気がしますが、実はこの京都所司代は元々六波羅探題をならって設置されたもの。

鎌倉幕府は日本初の武士政権ですので、色々お手本にすることが多かったようです。

 

そんな六波羅探題と京都所司代の違いなんですが、その最大の特徴は

  • 六波羅探題:京都よりも西を本拠地としている全ての御家人を統率したり、裁判を担当
  • 京都所司代:動かせる兵員や裁判を管轄する範囲が幕府の領地(天領)のみ

 

こういう違いがあることです。

 

それではまとめに入りましょう!

まとめ

それではまとめに入りたいと思います!

 

  • 六波羅探題は1221年に起こった承久の乱に後に置かれた朝廷の監視や西国の御家人の統率などを行なった機関のこと
  • 六波羅探題が置かれた六波羅は元々平氏の本拠地であった
  • 六波羅探題は朝廷の監視や西国の御家人の統率の他にも京都の治安維持や鎌倉幕府の出先機関などの役割を果たしており、幕府のNo.3の位置にいた
  • 六波羅探題は北条泰時と北条時房によって創始され、さらに基本的には長官が2人置かれていた
  • 六波羅探題と京都所司代の最大の違いは六波羅探題の方が西国の御家人全員を統率しているのに対して、京都所司代は幕府の領地のみを管轄していた

 

最後になりましたが、この六波羅探題は江戸幕府の京都に対する対策のお手本として応用されるようになりました。

このように鎌倉幕府の機関は後の世につながることもあるんですよ。

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