征夷大将軍とは?簡単に解説!歴代の人物と徳川家康や坂上田村麻呂についても

今回解説していくのは鎌倉時代から江戸時代まで武士のリーダーとなっていた征夷大将軍について!

昔は蝦夷という民族を倒すために置かれた役職でした。

 

今回はそんな征夷大将軍について

  • 征夷大将軍とは一体どんな役職なのか?
  • 歴代の征夷大将軍に就任した人一覧
  • 本当の初代征夷大将軍は誰なのか?
  • 徳川家康が征夷大将軍になった理由
  • 征夷大将軍と太政大臣の違い

 

などなど将軍のことに詳しくなれるように解説していきたいと思います!

征夷大将軍とは?

征夷大将軍とは今の北海道や東北地方に住んでいた蝦夷を討伐するために置かれた官職のことです。

 

昔は坂上田村麻呂に代表されるように本当に蝦夷を追討する役目を果たしていました。

ですが、鎌倉時代以降になると武士のリーダーがつく役職へと変貌を遂げていくようになりました。

歴代の将軍一覧

大伴弟麻呂(初代征夷大将軍となったとされる人)

坂上田村麻呂(皆さんご存知蝦夷を追討したとされる人 一般的にはこの人が初代とされている)

文室綿麻呂

鎌倉幕府の征夷大将軍

源頼朝(源氏の棟梁として初めて征夷大将軍となった。ここから征夷大将軍の意義がガラリと変わる)

源頼家(二代将軍となったが、北条時政によって幽閉された)

源実朝(和歌が得意で金槐和歌集という和歌集も残している)

九条頼経(日本初の摂家将軍 ただしここからしばらく征夷大将軍はお飾りとなる)

九条頼嗣

宗尊親王

惟康親王

久明親王

守邦親王

室町幕府の征夷大将軍

足利尊氏(室町幕府初代将軍 観応の擾乱でしばらくもめた)

足利義詮(二代目だけど陰が薄い)

足利義満(金閣寺を建てたことでも有名 日本の武士で一番出世したもいっても過言ではない)

足利義持(義満の政策から真っ向から反発した人 もみあげがすごい)

足利義量(酒浸りで亡くなった可哀想な人)

足利義教(くじ引き将軍で有名 嘉吉の乱で暗殺)

足利義勝

足利義政(応仁の乱の元凶 ここからしばらく征夷大将軍はお飾りとなる)

足利義尚

足利義材(義稙) (日本唯一2度将軍となった人)

足利義澄

足利義晴

足利義輝(永禄の変で暗殺された 剣術がうまいらしい)

足利義栄

足利義昭(信長に反抗したことによって京都を追われて室町幕府は滅亡)

江戸時代の征夷大将軍

徳川家康 (江戸幕府初代将軍 しかし2年しか在職していない)

徳川秀忠(地味だけど江戸幕府の基盤を確立した将軍 ちなみに秀忠の秀は秀吉の秀)

徳川家光(参勤交代の制度を創始して武断政治を行った)

徳川家綱(優柔不断な性格からさようせい公方と呼ばれる ここから文治政治へと切り替わる)

徳川綱吉(生類憐みの令で犬公方と呼ばれる ちなみに儒学大好き)

徳川家宣(元々甲府藩主だったが急遽就任 新井白石と共に正徳の治を敷いた)

徳川家継

徳川吉宗(皆さんご存知暴れん坊将軍 享保の改革を行った)

徳川家重

徳川家治 (田沼意次を登用した 将棋が得意)

徳川家斉(50年在職したとんでもない人 子供の数も53人ととんでもない)

徳川家慶

徳川家定

徳川家茂

徳川慶喜 (大政奉還を行った最後の将軍 江戸幕府滅亡後に征夷大将軍は廃止)

坂上田村麻呂が初代征夷大将軍というのはウソ?

坂上田村麻呂
坂上田村麻呂

将軍一覧を見たらわかるように初代征夷大将軍となったのは坂上田村麻呂ではなく大伴弟麻呂とされています。

 

なんで坂上田村麻呂が初代とされてきたのかというとやはりアテルイという蝦夷のリーダーを討伐したという実績があったからだと思います。

人間やはりキャリアよりも実績の方を優先するのが常。

 

初代征夷大将軍となった大伴弟麻呂も覚えて欲しいですけどやはり坂上田村麻呂には敵わないのかもしれませんね。

徳川家康が征夷大将軍になった理由は?

徳川家康
徳川家康

徳川家康が征夷大将軍になったわけ。

それは何と言っても家康自身が源頼朝のことを強く憧れていたことが深く関係していました。

 

征夷大将軍というのは一般的には源氏しかなれないと思っている人もいると思いますが、これは単なる結果論。

たしかに家康は関ヶ原の戦い以降、源氏の棟梁となって天下を取ったのですが、家康からしたら朝廷からなるべく離れようとした源頼朝と同じく、朝廷とは距離を置いた政治を行おうとしていたのです。

 

家康が征夷大将軍に就任した当時はまだ豊臣家は健在でした。

そのため武士のリーダーの役職である征夷大将軍に就任することによって天下は徳川家のものと知らしめたかったのかもしれませんね。

豊臣秀吉は征夷大将軍ではなくなぜ関白になったのか?

豊臣秀吉
豊臣秀吉

基本的に武士のリーダーは征夷大将軍ということは皆さんご存知な通りだと思いますが、このルールに乗っ取らなかった人が一人いました。

その人こそが関白となって天下を統一した豊臣秀吉です。

 

秀吉は元々尾張の農民生まれだったので源氏ではなかったから征夷大将軍になれなかったとするのが今では一般的な内容となっていますが、実は源氏ではなかったから征夷大将軍になれなかったのではなく、ただ単に朝廷が身分の低い秀吉に征夷大将軍をあげる気が無かったというのが正しいとされています。

 

ちなみに、秀吉が関白に就任した1585年の時にはまだ足利義昭は征夷大将軍として在職中です。

一般的には1573年に室町幕府は滅亡したとされていますが、実際には義昭はただ単に信長によって京都から追放されただけ。

征夷大将軍を本格的に辞職したのは1588年だったそうですよ。

 

そこで秀吉は自分の低い身分をなんとかカバーする為に近衛前久という五摂家でも一番偉い近衛家出身の人の猶子(継承権を持っていない養子のこと)となり、関白という征夷大将軍を超えるような権力を代わりに手に入れたのでした。

征夷大将軍と太政大臣の違いは?

征夷大将軍太政大臣

どちらも武士からしたら憧れとなる朝廷の官職なんですが、この2つにはとある大きな違いがありました。

 

征夷大将軍という官職は元々最初に朝廷が定めた大宝律令の中には存在していない官職でした。

これら元々律令に存在していなかった官職のことを俗に令外官というのですが、征夷大将軍が制定されたのは奈良時代のかなり終盤でしたのでかなり後付けされたと言ってもいいですね。

 

一方の太政大臣は大宝律令の頃からあった朝廷の最高職。

征夷大将軍が存在する前から朝廷で一番偉いとされており、どちらかといったら太政大臣の方が偉いとされています。

 

ちなみに、生前に征夷大将軍になった上で太政大臣になった例は、

  • 足利義満
  • 徳川家康
  • 徳川秀忠

 

この3人しかいません。

その他の人は大体太政大臣の一個下の右大臣か左大臣で止まっています。

 

あと、これは余談なんですが、大宝律令には近衛府という征夷大将軍とは別の武官がなる官職がありました。

その中でも一番偉い近衛大将はのちの室町幕府や江戸幕府では征夷大将軍のついでに任官されるというのが恒例となっていきました。

 

それではまとめに入りましょう。

まとめ

まとめに入りたいと思います!

 

  • 征夷大将軍とは蝦夷を討伐するために置かれた役職だったのだが鎌倉時代以降には武士のリーダーの役職に変わった
  • 初代征夷大将軍は大伴弟麻呂
  • 徳川家康は源頼朝に憧れており、また全国に徳川家の天下を知らしめるために征夷大将軍になった
  • 豊臣秀吉は朝廷から征夷大将軍の役職を与えられなかったのだが、近衛前久の猶子となって関白となった
  • 征夷大将軍は大宝律令の制定後に新しくできた令外官という役職であり、太政大臣の方が偉い役職だった

 

最後になりましたが、征夷大将軍は武士のリーダーとしての役職として700年もの間認知されていくようになります。

日本史の中でも征夷大将軍に就任した人はよく出ますのでしっかりと覚えておくようにしましょう!

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