今回は、豊臣秀吉が発令した「バテレン追放令」について、わかりやすく解説していきたいと思います!
もともとキリスト教の布教に寛容な態度をとっていた秀吉が激怒した、バテレン追放令の元となったある事件とはなんだったのでしょう。
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- バテレン追放令とは、どんな内容だったのか?
- そもそも、「バテレン」とは何を指すのか?
- 江戸時代に出された禁教令とは何が違うのか?
さらに、教科書やメディアでは触れられない、バテレン追放令の史料に記された秘密とはなんなのか!?
教科書だけでは解決しない疑問を、全部まとめて解決しちゃいます!
目次
バテレン追放令とは?詳しく解説!
「バテレン追放令」とは、豊臣秀吉が出した法令で、主にキリスト教宣教師に国外退去を命じたものです。
もともと、秀吉は織田信長と同じくキリスト教の布教には寛容な態度をとっていました。
キリスト教の布教も信仰も特に禁じていませんでした。
なので、ポルトガル船との貿易が盛んだった九州には、この頃からキリスト教に改宗し、宣教師の活動を助けていたキリシタン大名などキリスト教徒が多くいました。
しかし、九州平定のため出陣していた秀吉は、そこで驚愕の事実を知ることとなります。
なんと、大名の大村純忠が治めているはずの長崎が、イエズス会に寄付されていたのです!
この時代、大名は一時的に土地を治めているだけであり、すべての領地は秀吉のものであるという考えが一般的でした。
そのため、自分の土地を勝手に寄付された秀吉はこれに怒り、キリスト教布教の規制に乗り出したのです。
そこで発令されたのが、バテレン追放令でした。
秀吉はバテレン追放令でキリスト教の布教を禁止し、宣教師たちにキリスト教国(自国)へ退去することを命じました。
ですが、キリスト教国からの貿易船での商人の往来や、布教目的ではない外国人の来国は特に禁止しなかったのです。
それゆえに、帰国せずに国内に潜伏している宣教師たちも多く、あまり徹底された法令ではありませんでした。
また、国内での布教は禁止されましたが個人の信仰は禁止されていなかったため、自身の判断でキリスト教に改宗することも一部の大名を除いて可能でした。
この時代を生きた細川ガラシャは、キリスト教を信仰していたことが有名ですよね。
秀吉がキリスト教を規制した理由は、長崎がイエズス会に寄付されていたからだけではありません。
ポルトガルとの交易が盛んだった九州にはキリシタン大名が多くいましたが、その中には領民である百姓たちに入信を強制するような大名もいたのです。
さらに過激な行動として、その土地にあった神社や寺を破壊することもあったといいます。
この頃秀吉は一向宗の勝手な行動にも悩まされていました。
そのため、一向宗のようにキリスト教徒が団結して反乱を起こすことを恐れていたことも理由のひとつとして考えられます。
これは、その後の江戸時代で島原・天草一揆が起きていますので、秀吉の時代に起きる可能性も十分にあったかもしれません。
その他にも、
- キリスト教が日本の宗教や伝統を否定するものであったから
- ポルトガル人が日本で人身売買を行っているのをやめさせるため
- 秀吉の側近施薬院全宗(せやくいんぜんそう)などの反キリシタン勢力による画策
など、さまざまな理由があったのではないかといわれています。
そして、この法令はその後撤回されることはなく、徳川政権の禁教令まで受け継がれていくこととなりました。
ここで一度、バテレン追放令について整理しておきましょう。
- 「バテレン追放令」とは、豊臣秀吉が出したキリスト教宣教師たちに国外退去を命じた法令
- キリスト教の布教は禁止されたが、信仰の自由は保障されていた
- 布教目的以外の貿易船や外国人の往来は許可されていた
- 発令された主な理由は、キリシタン大名による領地の寄付や改宗の強制、寺社破壊、教徒たちの団結を恐れたから
秀吉はバテレン追放令を出すことで、キリスト教自体を否定したかったわけではないことがわかりますね。
ところで、このバテレン追放令が発令された時代はどんな時代だったのでしょう?
次はバテレン追放令が発令された年と、その前後にはどんな出来事があったのかを解説していきます。
バテレン追放令が行われた年号は?
バテレン追放令は、1587年(天正15年)の九州平定直後に秀吉が博多で出しました。
日本にキリスト教が伝わったのは1549年(天文18年)のことでしたから、約40年でその布教は規制されたことになります。
九州平定とは、1586年(天正14年)から行われていた秀吉と九州諸将との戦いで、大友宗麟(おおともそうりん)が秀吉に助けを求めたことで起きた戦いでした。
この九州平定のきっかけともなった大友宗麟も、熱心なキリシタン大名だったといわれています。
そして、バテレン追放令が出された9年後の1596年(文禄5年)にはサン=フェリペ号事件が起こりました。
この事件は土佐にスペイン船のサン=フェリペ号が漂着したものですが、そこに乗っていた水先案内人が「スペイン国王がキリスト教布教により他国を征服していく」といった話をしたそうです。
水先案内人の話には諸説ありますが、これを聞いた秀吉はキリスト教に対してさらに強固な姿勢をとるようになります。
その後、秀吉は京都にいたサンフランシスコ会などの教徒を捉え、長崎に連行して磔の刑に処しました。
現在では、長崎で磔にされた26人はローマ法王によって日本人二十六聖人に列せられ、資料館が建てられています。
そもそも、バテレン追放令の「バテレン」とは何を指す言葉なのでしょうか?
バテレンとは?
バテレンとは、ポルトガル語の「パードレ」(padre:父という意味)がなまってできた言葉で、「伴天連」などの漢字を当てます。
キリシタン宣教師の中でも司祭のことを指しました。
キリスト教伝来で有名なフランシスコ・ザビエルもバテレンに含まれます。
また、バテレン以外の宣教師たちは「イルマン(伊留満)」と呼ばれていました。
江戸時代から明治にかけては、キリスト教とその信者たちに対する偏見を含んだ言葉として使用されていました。
バテレン追放令やバテレンについて解説したところで、このバテレン追放令に隠された秘密について触れたいと思います。
これは教科書に載っていないため授業で教わることはなく、またメディアで取り上げられることもあまりない内容です。
バテレン追放令の史料に隠された秘密とは?
実は、バテレン追放令が出されたことには、もうひとつの大きな理由があったのです。
それが史料に隠された秘密、日本での人身売買です。
九州のキリシタン大名たちは、ポルトガルなどとの貿易のために同じ日本人を奴隷として売っていたといいます。
特に熱心な教徒だった大村純忠は領民への改宗を積極に行っており、それを拒否した領民を海外へ売り飛ばしていました。
その中でも、日本人の女性は火薬と交換され海外に連れて行かれたのです。
火薬をほしがる大名たちはたくさんいました。
天正少年使節団がローマ法王のもとに行った際の報告書には、行く先々でたくさんの日本人女性が奴隷としてひどい扱いを受けていたことが書かれています。
秀吉はこの人身売買をやめさせようとし、バテレン追放令を出しました。
この時代、土地だけでなくそこに住む民もすべて、天下人・秀吉のものだったのです。
また、秀吉はこの人身売買の横行している様子を、「南蛮人による日本の植民地化のはじまり」と捉えていたようです。
植民地化を阻止する、という意味でもキリスト教の布教はこれ以上認めることができない状況でした。
自分の治める地や民を守るために出されたバテレン追放令は、ある意味で筋の通った法令だったのですね。
この秘密も踏まえ、バテレン追放令の史料を見ていきましょう。
伊勢神宮から発見された11ヶ条と松浦家文書の5ヶ条
バテレン追放令というと、一般的には松浦家文書の5ヶ条の方をさします。
学校の教科書で習うのも、松浦文書の方になります。
ですが、1933年(昭和8年)に松浦文書の5ヶ条とは別に、伊勢神宮の神宮文庫から11ヶ条の覚書が発見されました。
場合によっては、こちらの11ヶ条も含めて「バテレン追放令」と呼ぶこともあります。
ここでは、おおよその訳で解説をしていきますので、原文そのままではありません。
では、発行された順に内容を見ていきます。
11ヶ条の覚書(1587年6月18日発令)
1.キリスト教徒であることは、その者の思い次第である
2.大名が領地内の寺や百姓たちにキリスト教の信仰を強制してはならない
3.大名がその領地を治めているのは一時的なことなので、大名が変わることはあっても百姓は交代するものではないので、領民に対して理不尽なことを行えば罰する
4.200町、2000貫(治める領地面積の単位)以上の大名がキリシタンになるには、朝廷や幕府に報告し、許可を得なければならない
5.領地が200町、2000貫より少ないものは本人の思い次第でよい
6.一向宗徒が寺領を置いて勝手にしており、それが天下を治める障害になっていることは隠しようのない事実である
7.一向宗徒のような寺領は以前から許したことはない
8.大名がその家臣たちをキリスト教徒にさせようとすることは、一向宗徒が寺領を置くこと以上にけしからぬことであるから、そのようなものは処罰する
9.大名などよりも下の身分の者が自分の思いでキリスト教徒になることは何の問題もない
10.中国や南蛮、朝鮮半島に日本人を売ってはならない、日本では人の売買を禁止する
11.牛や馬を売買して食べてはならない
こちらでは、広い領地を治めている大名以外は、キリスト教を信仰することは個人の自由とされています。
また、先ほど触れた人身売買の禁止も教科書に載っている5ヶ条ではなく11ヶ条のほうに書かれています。
キリスト教徒の多くは牛や馬を食肉として食べていましたが、日本人にとっては大切な労働力でした。
この文化の違いが、「11.牛や馬を売買して食べてはならない」という項目を作った理由でした。
戦国時代では馬は特に大切な足でしたから、むやみに食べることは避けたかったのでしょうね。
この11ヶ条の覚書が出された翌日、6月19日に5ヶ条のバテレン追放令も発令されました。
5ヶ条のバテレン追放令(1587年6月19日発令)
1.日本は自らの神々に護られている国なのだから、キリスト教は邪法であるのでその布教を不法行為とする
2.その土地のものをキリスト教の教えに近づけて信者にし、寺社を破壊させていることは前代未聞のことで、大名がその領地を治めているのは一時的なことなのだから、秀吉の発した法令を守り、許可を得るべきであり、土地を勝手に教会に寄付することは許されない
3.キリスト教の宣教師を日本に置いておくことはできないので、20日以内に支度をしてキリスト教の国に帰ること
4.貿易船は商売をしに来ているのだから特別扱いとし、今後も貿易は許可する
5.今後も国法を妨げないものは商人以外でもキリスト教の国から往来することは問題ない
教科書にも載っているので、なんとなく内容を知っている人もいるかもしれません。
11ヶ条の覚書が主に大名たちを対象としていたのに対し、5ヶ条のバテレン追放令では宣教師が主な対象になっています。
また、11ヶ条の覚書の方もキリスト教を規制するにはそこまで厳しくなく、どちらかというと日本人全体への布告のようなものだったと考えられます。
ですが、神宮文庫で発見された11ヶ条の覚書は、神宮のみに通達されたものである可能性も否定できません。
こういった事情からも、この11ヶ条の覚書の歴史的な取扱は慎重にならざるをえないのです。
では、最後にバテレン追放令と禁教令の違いを解説します。
バテレン追放令と禁教令の違いとは?
ここまで解説してきたのは秀吉の発令したバテレン追放令でした。
ですが、これとよく混同されやすいものとして江戸時代の禁教令があげられます。
禁教令というと一般的には江戸時代に出されたキリスト教規制の法令をさします。
ただ、広義の「禁教令」には「キリスト教規制の法令」という意味もあり、バテレン追放令も含まれることがあります。
江戸時代に徳川幕府が出した禁教令は、鎖国政策の一環でもありました。
徳川幕府も当初は秀吉と同じように、貿易のためにキリスト教を容認していました。
しかし、次第にその布教がスペインやポルトガルからの侵略を招く可能性や、教徒が信仰のために団結することを恐れました。
秀吉もそうでしたが、他国からの侵略、植民地化や教徒の団結はその時の指導者にとっては心配の種だったのですね。
そのため、徳川幕府は1612年(慶長12年)に禁教令を直轄領に出し、翌年にはこれを全国にまで広げました。
こうしてみていくと、バテレン追放令も禁教令もどちらも似たような経緯で発令されていることがわかりますね。
ですが、最大の違いはその法令の厳しさでした。
バテレン追放令は何度も見てきたとおり、信仰は一部の大名を除いて個人の自由であり、外国との往来も禁止せずどちらかというとゆるい規制でした。
それに対し、禁教令は信者に改宗を強制したり、宣教師やキリスト教信者に対して処刑や国外追放などの激しい迫害などを加えるようになりました。
また、日本から外国に行くことも禁止され、外国から来た日本人は死罪となったのです。
そして、最終的にはポルトガル船の来航も禁止されました。
特に1637年(寛永14年)に島原・天草一揆が起きたことをきっかけに、宗門改めが制度化されるなど個人の信仰すらも許さなかった点は、バテレン追放令との大きな違いになります。
こうした厳しい禁教令が、世界遺産に登録され話題となった隠れキリシタンやその関連遺産を構築したのでした。
それでは、最後に全体の情報をまとめて整理しましょう。
まとめ
今回は、秀吉の発令したバテレン追放令について解説しました。
- 「バテレン追放令」とは、豊臣秀吉が出したキリスト教宣教師たちに国外退去を命じた法令
- キリスト教の布教は禁止されたが、信仰の自由は保障されていた
- 布教目的以外の貿易船や外国人の往来は許可されていた
- 発令された主な理由は、キリシタン大名による領地の寄付や改宗の強制、寺社破壊、教徒たちの団結を恐れたから
- キリスト教布教の裏では、日本人の人身売買も行われていた
- 「バテレン追放令」と江戸時代の「禁教令」の違いは、その規制の厳しさにある
こうしてまとめたことで、少しわかりやすくなったかと思います。
秀吉は自分の治める日本の領土やそこに住む人々を守るため、このバテレン追放令を発令しました。
授業では教わることのない、キリスト教布教の裏で行われていた人身売買などについて知ると、バテレン追放令も「宗教の弾圧」というだけではない別の側面がわかると思います。
もしかしたら、この時秀吉がバテレン追放令を出したことで、日本は他国の植民地にならずにすんだのかもしれません。
そう考えると、秀吉は今の私たちの生活も守ってくれたのかもしれませんね。