榎本武揚と土方歳三の関係とは?箱館戦争や小樽に尽くした生涯と子孫について

今回ご紹介するのは、榎本武揚です。

 

明治新政府に追われ、箱館で決戦することとなった彼は、この窮地にどう対処し、その後の人生をどのように生き抜いたのでしょうか。

薩長出身者を中心として動くこの時代を駆け抜けた、一人の旧幕臣の生涯に迫ります。

 

  • 榎本武揚の生涯とは。
  • 榎本武揚と土方歳三との関係とは。
  • 小樽の発展に寄与した?
  • 榎本武揚の子孫には意外な人物がいる?

 

今回は特にこうした点について詳しく見ていくので、ぜひご注目ください!

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榎本武揚と土方歳三の関係とは?

榎本武揚

榎本武揚
(出典:ウィキペディア

新選組の副長として戊辰戦争を戦った土方歳三は、戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争において、榎本武揚と共闘しています。

 

当時新選組は分裂しており、土方の側の隊士たちは仙台において榎本の率いる旧幕府海軍と合流します。

反維新政府同盟である奥羽越列藩同盟が崩壊すると、土方は榎本や新選組の生き残り隊士たちとともに蝦夷地に渡ります。

榎本を総裁として、五稜郭を本陣とする「蝦夷共和国」が成立すると、土方は幹部として陸軍奉行並となります。

 

土方は箱館の地でも冷静であったと言われています。

政府樹立を祝して榎本らが祝杯を交わしていた際も、彼は「今は騒ぎ浮かれるときではない」として沈黙を保っていたのです。

 

新政府軍襲来の報がもたらされると、新政府軍の軍艦を奪取することを目的として宮古湾海戦に参加、作戦は失敗が続き、多数の死傷者が出るものの、土方は生還しました。

 

1869年の5月には新政府軍による箱館総攻撃が始まります。

土方は孤立した味方部隊救出のために出陣しますが、乱戦のさなかに銃弾が腹部に命中し、亡くなりました。

土方は蝦夷共和国の8人の閣僚のうち、唯一の戦死者となったのです。

 

なお、土方は箱館戦争後にロシアに渡り、生き延びたという説もあります。

 

次に、箱館戦争について見ていきます。

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箱館戦争(五稜郭の戦い)について

「箱館大戦争之図」永嶌孟斎画

「箱館大戦争之図」永嶌孟斎画

蝦夷地に着いてすぐの旧幕府軍には勢いがあり、各地で新政府軍を撃破して五稜郭を占領することに成功します。

しかしそれから約2ヶ月後、局外中立であったたアメリカが、新政府への支持を表明し、旧幕府軍が引き渡されるはずだった装甲艦が新政府のもとに渡ります!

 

その装甲艦を奪取するために宮古湾海戦をしかけますが、失敗に終わります。

その後は新政府軍の上陸と進撃が続き、旧幕府軍は敗北しました。

 

なお、戦争の末期に榎本は自刃しようとし、近習にそれを制止されています。

 

次の章では、箱館戦争後の榎本について見ていきます!

黒田清隆は命の恩人?

黒田清隆

黒田清隆
(出典:ウィキペディア

箱館戦争に敗北し拘禁されていた榎本を救ったのが、黒田清隆です。

 

当初、新政府内では榎本の処分をどうするか、議論が分かれていました。

厳罰に処すべきだとしたのは、木戸孝允をはじめとする長州勢です。

 

これに対し、黒田清隆は榎本の才能を評価していたこともあって、彼の助命を要求しました。

黒田は、そうした厳罰を求める者と長らく対立しており、榎本のために剃髪して彼の助命を求めたのです。

 

その甲斐もあって、1872年に榎本は放免となりました。

その後、榎本は黒田が次官を務めていた開拓使に任官しました。

 

また、榎本の助命活動を行った者として、ほかに福澤諭吉もいました。

 

次に、榎本の生涯について概説していきます。

小樽の発展に尽くした榎本武揚の生涯とは?

それでは、榎本武揚の生涯について概説していきます。

 

1836年に江戸で生まれた榎本は、1851年に昌平坂学問所に入り、修了後に一時蝦夷地・樺太の巡視に随行します。

その後長崎海軍伝習所に入学したほか、ジョン万次郎の私塾で英語を学ぶなどします。

1862年にはオランダに留学し、砲術や造船術などを学びます。

 

1868年に幕府海軍副総裁に就任した彼は、鳥羽・伏見の戦い後の官軍による軍艦の接収を拒み、奥羽越列藩同盟の支援のために北上します。

そして箱館五稜郭に入り、「蝦夷共和国」の樹立を宣言します。

 

しかしその後の戦いを経て政治的にも軍事的にも壊滅状態となり、1869年に降伏しました。

 

戦後は禁固処分を受けた後、黒田清隆の北海道開拓事業に出仕。

そのほか、1875年には海軍中将兼駐露特命全権公使として樺太・千島交換条約を締結します。

 

以降も外務大輔や海軍卿、駐清特命全権公使、逓信・文部・農商務の各大臣を歴任しました。

1898年には、富山県で発見された隕石から製作させた日本刀「流星刀」を皇太子(のちの大正天皇)に献上し、その製造技術を論文で発表しています。

 

1905年に海軍中将を退役となり、1908年に73歳で亡くなりました。

 

次に、榎本と小樽の町との関係について見ていこうと思います。

小樽の発展に貢献

榎本は開拓使時代、小樽の発展に貢献しました。

 

1873年に小樽の地20万坪の払い下げを受け、土地の管理をします。

彼がこの地の管理のために設立したのが「北辰社」です。

この北辰社の活動により、現在の小樽の街並みが出来上がっていったのです。

 

榎本のことを「小樽に京都を造ろうとした人物」と言う地元の人もいるくらいなのです!

 

次に、榎本の創設した大学についてご紹介します。

東京農業大学を創設

1885年、榎本は旧幕臣の子弟への奨学金を支給することを目的として徳川育英会を設立します。

これを母体として、彼は1891年、東京・飯田橋に「育英黌」を設立し、管理長に就任しています。

この育英黌には農業科・商業科・普通科があり、このうちの農業科が現在の東京農業大学の前身です。

 

当初は生徒がなかなか集まらず、彼は廃校しようと考えたこともあったようです。

 

次に、榎本家の家系図と榎本武揚の子孫について見ていきます。

家系図

榎本家の家系図

子孫について

榎本武揚の長男・武憲は、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業し、貴族院子爵議員を務めました。

武憲の孫である榎本隆充さんは、武揚が創設した東京農業大学の客員教授を務めています。

 

また、武揚の兄である武与の子孫として、俳優として活躍している石黒賢さんがいます!

 

次に、榎本武揚と資生堂との関係について見ていきます!

榎本武揚は資生堂の名付け親?

榎本は、箱館戦争に敗れたのち投獄されました。

 

獄中で彼は、自身の兄の生計を助けるため、鶏やカモの人工孵化器や焼酎・石鹸の製法などを示した本を書き上げます。

その本を読んだ彼の遠い親戚が、製造販売を家業として会社を設立し、その社名を資生堂としたという話があります。

 

ただ、資生堂が販売して当時大きな反響を得たのは歯磨き石鹸であり、榎本の製法による石鹸と同一かは分からず、この話の真偽は定かではありません。

 

ちなみに「資生堂」の名前は、中国の古典・四書五経の一つである『易経』中の言葉「至哉坤元 万物資生(大地の徳はなんと素晴らしいものであろうか。すべてのものは、ここから生まれる。)」から来ています。

(参考:SHISEIDO 社名の由来 より)

 

次に、榎本が晩年に作らせた刀をご紹介します!

榎本武揚が隕石で作った「流星刀」がかっこいい!

榎本は1898年、富山県で発見された隕石から作らせた日本刀「流星刀」を皇太子に献上しています。

そして、この製作技術を論文『流星刀記事』として発表しています。

 

彼はロシア大使時代、サンクトペテルブルクに鉄隕石からできた刀があることに感動しており、いつかはそんな刀を手にしてみたいと考えていたようです。

 

刀は大小4振り製作され、2振りが皇太子に献上されました。

残り2振りのうち、長刀1振りは東京農業大学に、短刀1振りは富山市天文台に寄贈されています。

 

次に、榎本が描かれている作品について見ていきます。

榎本武揚が描かれてている作品

幕末期の幕臣を代表する人物だけに、榎本が登場する作品は多く存在しています。

今回はその中で、NHK大河ドラマと小説から1作品ずつ紹介していきたいと思います。

 

まずはNHK大河ドラマです!

大河ドラマ

NHK大河ドラマ『新選組!』(2004年)では、草彅剛演じる榎本武揚が登場します。

この作品は近藤勇を主人公とし、新選組の活躍が描かれています。

 

榎本は、新選組が上方から江戸へ引き上げる際、軍艦頭として登場します。

しかし、近藤は江戸に戻ったあと官軍と戦って敗れ、処刑されてしまい、ドラマはここで完結します。

つまり、その後の会津戦争や箱館戦争は描かれていないのです!

 

このことに不満の声が多く寄せられたこともあり、2年後の正月に続編として『新選組!! 土方歳三 最期の一日』が放送されました。

これはNHK大河ドラマ初の続編となりました。

ここでは榎本を片岡愛之助が演じており、彼はより主要な人物として描かれていきます。

 

次に、榎本が描かれている小説をご紹介します!

小説

小説としてご紹介するのは、安部公房『榎本武揚』(1964年)です。

 

安部公房は前衛的な作品が多いことで知られていますが、これは異色とも言える歴史小説です。

当時の世間が勤皇か佐幕かと騒ぐ中、そのどちらでもない立場があることを信じた榎本の姿を描き出しています。

 

また、この作品の続編的な戯曲が1967年に創作されています。

まとめ

いかがでしょうか。

それではもう一度、榎本武揚について振り返ってみます。

 

1836年に江戸で生まれた榎本武揚は、オランダ留学を経て、幕府海軍副総裁に就任します。

 

戊辰戦争時、新選組の副長・土方歳三らとともに箱館五稜郭に入ると「蝦夷共和国」の樹立を宣言、土方は陸軍奉行並となります。

 

新政府軍に引き渡された装甲艦を奪取するための宮古湾海戦では敗北し、戦争末期に土方は戦死し、榎本も降伏しました。

新政府内では榎本の処分をどうするかについて意見が分かれていましたが、黒田清隆らの助命活動が実り、1872年に榎本は放免となります。

 

そして黒田が次官を務める開拓使に任官し、1875年には海軍中将兼駐露特命全権公使として樺太・千島交換条約を締結します。

その後も外務大輔や海軍卿、駐清特命全権公使、逓信・文部・農商務の各大臣を歴任した榎本は、1908年に73歳で亡くなりました。

 

開拓使時代の1873年には小樽の地20万坪の払い下げを受け、北辰社を設立して土地の管理を行い、現在の小樽の町づくりに貢献します。

 

また、1891年に榎本は育英黌を設立しており、この農業科が現在の東京農業大学の前身です。

 

榎本武揚の長男・武憲は貴族院子爵議員として活躍し、武憲の孫・榎本隆充さんは東京農業大学の客員教授を務めているほか、武揚の兄の子孫として俳優の石黒賢さんがいます。

 

また、榎本武揚は戊辰戦争後に獄中で石鹸の製法などを示した本を書き上げており、それを読んだ彼の遠い親戚が会社を設立した時、その社名を資生堂としたという話がありますが、確かではありません。

 

榎本は晩年に、隕石から作らせた日本刀「流星刀」を皇太子に献上しています。

 

そんな榎本が描かれている作品として、NHK大河ドラマとしては『新選組!』(2004年)が、小説としては安部公房『榎本武揚』(1964年)などがありましたね。

 

薩長土肥の雄藩出身者ばかりが活躍しているように見える明治期の政治ですが、榎本をはじめとした幕臣出身者や公家も多く活躍していますので、ぜひ調べてみてください!

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