生類憐れみの令は蚊もNG?発布の理由や真相を解説!悪法は誤解?

江戸時代、江戸幕府5代将軍徳川綱吉によって出された『生類憐みの令』。

 

後に日本史最大の悪法の一つとされ、綱吉が『犬公方(いぬくぼう)』呼ばわりされて評価を大きく下げる原因にもなったのですが、なぜこのような法令が出されるに至ったのか!?

 

  • 生類憐の令が発布された年号と発布した人について
  • 生類憐の令の原文と内容
  • 発布した理由と背景
  • 生類憐れみの令は蚊も処罰の対象だった?
  • 東京ドーム20個分の広さの犬小屋を設置した?

 

などなど、詳しく解説していきます。

 

果たして、悪法というのは誤解なのでしょうか?

その真相について探っていきます。

生類憐れみの令とは?

生類(しょうるい)、つまり生き物すべてを憐れむのを理想として、動物、赤子、怪我人や病人を保護するのが目的の法令の『総称』です。

 

つまり正しくは、『生類憐みの令』という一本の法律で出されたわけではなく、生き物を憐れむために綱吉の時代に複数出された一連の法令のことを指します。

 

1687年に出された法案では、当時江戸のいたるところにいた捨て子や病人を保護せよという内容も含んでいたのですが、それ以降人間以外の動物、魚・貝・鶏を食べることを禁じたほか、蛇・犬・猫・ネズミに芸を覚えさせて見世物にするという行為も禁止されます。

 

特に犬を莫大な費用をかけて過保護するという間違った方向にエスカレートしてしまい、幕府の財政を圧迫したほか、人々の不満を高める大きな原因となってしまいました。

 

一本ではなく複数の法案と書きましたが、次に、いつ頃始まったかについて紹介します。

生類憐れみの令が発布された年号は?

先ほども言いましたが、もともと生類憐みの令は一本の法律ではなく、数年かけて複数の法令で出されてきております。

通説上は、1687年からが始まりとされていますが、近年諸説あることがわかってきました。

 

・1682年、犬を虐殺したものを極刑にしてからが始まり。

ただし、これ以前にも許可なく犬を殺すものは追放や流罪にされており、この説には疑問も少なくありません。

 

・1684年、徳川の一族でもある会津藩が老中から「鷹を献上する必要はない」という通達をもらった時からが始まり。

ただしインパクトとしては小さく、疑問の声も大きいようです。

 

・1685年、将軍お成りの際に、犬や猫をつなぐ必要はないという法令。

つまり野良犬や野良猫が将軍に危害を加えてもお咎めなし、と公式に認めたものですが、最近はこの法令から始まったという向きが多いようです。

 

・1687年、病気の牛馬を捨てることを禁じた法令。

長い間、この法令から生類憐みの令が始まったといわれていますが、2000年代に入って研究が進むと、むしろ疑われるようになってきています。

いずれにしても生類憐みの令は、儒教の理念に基づく政治『文知政治(ぶんちせいじ)』を理想とした綱吉が、段階を得て発令したというのは事実でしょう。

 

そして、

  • 生類憐みの令が出されてから24年間で、違反者として主に病馬を捨てた罪で69件が出されている
  • そのうち13件が極刑で前期に集中している

 

ということを考えると、罰としては最初に厳罰を多くして示しをつけ、徐々に緩くしていったということが推測できます。

 

次に、発布した人及び、政策の最高責任者である徳川綱吉についてみていきます。

発布した人

徳川綱吉
徳川綱吉

もちろん名義は五代将軍・徳川綱吉名義ですが、1687年に江戸の町に出された広告『町触(まちふれ。今でいう政府広報)』では、

「人々が仁心(じんしん)を育むように(『仁心』については後で説明します)」

と説明されており、1692年には将軍に次ぐ政権ナンバー2である老中(ろうじゅう)が諸役人に対して話しています。

 

発布した徳川綱吉は1646年、3代将軍徳川家光の四男として生まれました。

幼名(ようみょう)は『徳松(とくまつ)』。

 

1680年、4代将軍であった兄の家綱に子供がおらず、他の兄達も亡くなっていたので、儒教における『長幼の序(ちょうようのじょ。年上の人間が優先されること)』に従って、5代将軍に就任します。

 

このころ、江戸幕府の政治は一つの転換点を迎えていました。

それまでは江戸幕府ができたばかりで、その力を示して天下を安定させるために、武力や厳罰等の力技(ちからわざ)で人々や諸大名を治めていくという『武断政治(ぶだんせいじ)』が主流でした。

 

しかし、やがて幕府の支配が安定してきたのと同時に、武断政治による厳罰である諸大名の取りつぶしを乱発したことによって浪人(ろうにん。主君を持たない武士で、生活費がもらえず困窮することが多かった)が増加し、不満が高まってきていました。

 

そこで力技をなるべく控え、儒教の道徳に従って教育を重視し、人々の良心をはぐくむという『文治政治(ぶんちせいじ)』がいいということになってきており、綱吉は一番その考えを持っている人でした。

 

(今でも力技を主に主張する強硬的な武断政治型政治家を『タカ派』、人々の良心を信じて教育を重視する融和的な文知政治型政治家を『ハト派』といいます。

ちなみに相手の痛いところを突く調略や懐柔、つまり『寝技(ねわざ)』は、文治主義政治においてはあまり褒められたものではなく、相手の良心に訴える正攻法が一番の理想とされております。)

 

綱吉は将軍就任後、自ら越後高田藩(えちごたかだはん。今の新潟県上越市あたりにあった藩)の跡継ぎ問題の裁判を見直したり、積極的に政治にかかわっていきました。

 

先代の家綱は病弱だったこともあって、『左様せい様(さようせいさま。下から出された意見に考えもなく何でも「そうしろ」という上様ということ)』呼ばわりされて馬鹿にされていたのですが、綱吉の代から綱吉自ら積極的に動くトップダウン型になったことで、将軍の権威も高まり、行政の仕事もスピーディーに、かつ責任者が明確になっていきました。

 

また綱吉は、儒教を中心に学を好み、今の東京上野に湯島聖堂(ゆしませいどう。今の東京大学や筑波大学にもつながっています)を建てて、人々の教育に努めたほか、将軍自ら家臣に儒教の講義をしたり、儒教の学者を進んで招き入れて儒学について討論したりしています。

 

1682年に跡継ぎをなくすあたりまでの綱吉の政治は『天和の治(てんわのち。天和とは当時の元号)』として善政とされております。

 

ところがそれ以降、後継ぎをなくしたり信頼する側近を失ったりしたあたりから(これに関しては後で詳しく話します)、今回の生類憐みの令等の悪法とされる法を出したほか、その政策で切迫した幕府財政を補うために貨幣の価値を下げて物価高騰を招き、人々を混乱させてしまいます。

 

さらには、1695年の東北の飢饉、1703年の地震と火事、さらにその翌年の浅間山噴火などの折の天変地異が相重なって、後期の綱吉の政治は悪政とみなされるようになるのです。

(当時の天変地異は天罰、つまり主君の徳がないために起こった罰、という見方が強かったのです)

 

さらにその折『忠臣蔵(ちゅうしんぐら)』で有名な松の廊下事件が起き、それまでの裁判原則『喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい。争いには双方に責任があるという考え方)』を破って、怒りに任せて浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)を切腹させ、吉良上野介(きらこうずけのすけ)にはお咎めなしとし、原則破りの独裁者とみなされます。

 

さらに『水戸黄門(みとこうもん)』で有名な徳川光圀(とくがわみつくに)と同じ時代に生き、光圀が生類憐みの令において抗議のしるしとして犬の毛皮を送ったエピソードから、悪役・暗君としてのイメージがより強くなってしまいました。

 

結局、天罰だったのかどうか、これ以降綱吉は跡継ぎの長男に恵まれず、1704年に甥の家宣(いえのぶ)を6代将軍と決めた後、1709年1月10日、成人麻疹により亡くなります。

64歳でした。

 

次に、原文と内容についてみていきます。

生類憐れみの令の原文と内容は?

それまでの通説である『1687年に出された』時の発令によると、

 

『捨て子これ有り候(そうろ)はば、早速届けるに及ばず、その所の者いたはり置き、直に養ひ候か、または望みの者これ有り候はば、遣はすべく候。急度付け届けるに及ばず候事

(訳:捨て子があるなら真っ先に届け出ようとはせず、その場所の人間がいたわり、余裕があるなら自ら養子にして養うか、あるいは別の人間が育てたいというのならば、その人間に渡して育てさせること。必ずしも真っ先に届け出る必要はない)』

 

つまりあくまでも、『捨て子や病人を法令に従って真っ先に届け出るのではなく、仁心を持って町の人自らが育てるように』というものであり、最初は人々の仁心を育てたいという思いと、殺生(せっしょう。生き物を殺すこと)をなるべく禁じたい思いで出されたようです。

 

しかしながら時間がたつにつれ、これが人のみならず他の動植物にまでエスカレートし、それまで食用にされてきた動物も殺すことが禁じられ、その食事に慣れていた人々の大きな反発を招いてしまいます。

 

特にオランダ人や中国人の商館があった長崎では、昔から豚や鶏の肉を食べる習慣があり、町年寄(まちどしより。今でいう市長)の命令があっても、生類憐みの令は徹底しませんでした。

長崎の人たちからの反発が物凄かったことが推測できます。

 

さらには、蛇・犬・猫・ネズミに芸を教えて見世物にすることも禁止。

それで生計を立てていた人間は当時少なくなく、暮らしが立ち行かなくなった彼らの怒りはものすごいものだったでしょう。

 

なぜこのような現実の人々の習慣にそぐわない法令が出されたのか、それにはもちろん理由があり、これから説明します。

発布の理由と背景

このような法律が出された背景には、それより以前、綱吉自身にとって立て続けに起きた不幸がありました。

 

まず1682年、綱吉の長男で跡取りでもあった徳松(とくまつ)が、わずか5歳の若さで病死してしまいます。

 

医学や栄養学が当時発達していないこともあり、この時代の男性の平均寿命は約48歳(つまり五十年にも満たない)、しかも半数以上が成人することなく死亡したと言われていますが、次の将軍になるはずだったわが子を幼くして亡くした親の悲しみはいかばかりであったでしょう。

 

さらに2年後の1684年には、綱吉が最も信頼していた大老(たいろう)の堀田正俊(ほったまさとし)が、若年寄(わかどしより)の稲葉正休(いなばまさやす)に刺し殺され、正休自身もその場で成敗されてしまうという事件が起こります。

 

大老は臨時の時にしか出されない役職ですが、常に置かれる老中(ろうじゅう)より格上。

老中に代わって寺社奉行以外の全ての奉行の人事権を持って政策を打つ他、諸大名の監視も行う、いわば将軍に次ぐ行政ナンバー2のポジション。

今でいうなら副総理。(老中が今の官房長官といったところでしょうか。)

 

若年寄は老中より格下で、幕臣(ばくしん)だけを管理する側近という色彩が濃いですが、それでも幕臣全員を監視する役を持つ目付(めつけ)や、緊急時に将軍自ら指揮する将軍親衛隊・五番方(ごばんがた)の人事権を持っていましたから、こちらも重要な役職で、今でいうなら都知事。

 

その重要な役職についている人材2人を同時に失ったのですから、綱吉自身、および世間に与えた衝撃は計り知れないものだったでしょう。

 

なぜこうも不幸が立て続けに起きるのか悩んだ綱吉は、母桂昌院(けいしょういん)の相談役であった僧侶・隆光(りゅうこう)に相談したところ、

 

「綱吉公が前世で生き物をたくさん殺したから不幸が起きている。これからは生き物を大切にして、なるべく殺さないようにしないといけない。特に綱吉公は戌(犬)年なのだから、犬を大切にしないといけない」

 

それを真に受けた綱吉が発令したといわれるのが通説。

 

しかしながら、『生類憐みの令』関連の一連の方策は1685年から開始したとされており、隆光が江戸に滞在し始め、綱吉に召し抱えられたのは1686年であることを考えても、この通説は作り話だったという向きが近年強いのです。

 

ではなぜ、出されたのか。

それは綱吉自身の理想とする方策が、彼自身に起きた度重なる不幸によって過剰になってしまった結果とする向きが近年強くなってきています。

 

もともと綱吉は孔子の儒教に基づいた理念で政治を行う『文治政治(ぶんちせいじ)』を理想としていました。

儒教において最大の美徳は『仁(じん)』、つまり思いやりや慈しみの心。

 

孔子自身の教えでもある、「己(おのれ)の欲せざるところ、人に施すことなかれ」つまり『自分がされて嫌なことはするな』。

これが当時、端的に仁を表したものとして有名な言葉でした。

 

(ちなみにこの言葉は、今日の世界全体でも『銀の聖訓(ぎんのせいくん)』として有名で、対して黄金律(おうごんりつ)と呼ばれるのがイエス・キリストの言葉「人にしてほしいと思うことは何でも、貴方達も人にしなさい」。)

 

一番『自分がされて嫌なこと』が、『自分の命を奪われること』。

今でもそう思う人は少なくありませんが、綱吉自身もそう考え、それ以前に起こった度重なる不幸と重なって、生き物を殺す殺生(せっしょう)を禁止する法令が、現実にそぐわない方策として出てしまったものと思われます。

 

それで『蚊を殺した人間も処罰の対象となった』というエピソードが有名になったのですが、次にこれについて取り上げます。

生類憐れみの令は蚊も処罰の対象?

蚊を殺した人間を閉門(へいもん。簡単に言うと自宅謹慎)にした』というエピソードは有名です。

 

ただ、これは『御当代記(おんとうだいき)』という記録の中に『2つある噂の1つとして』と書かれており、つまりあくまで噂で、後世の作り話という見方が強いようです。

 

ただし裏を返せば、『それだけ人々が、蚊を含む生き物の命を奪うことに慎重になった』のは事実でしょう。

 

次に、生類憐みの令の象徴であり、評価を下げる一因にもなった、犬を隔離・保護するために建てられた『犬小屋(いぬごや)』についてみていきます。

東京ドーム20個分の広さの犬小屋を設置

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江戸時代の川柳に『火事・喧嘩、伊勢屋(いせや。江戸時代流行った店)・稲荷(いなり。稲荷神社)に、犬の糞(くそ)』と歌われたように、江戸時代の江戸において、いたるところに野良犬が多かったのは事実。

 

生類憐みの令前後に、殺生を嫌う綱吉が鷹狩(たかがり。飼って鷹を利用して空の鳥を狩る、戦国時代ではよく行われたスポーツの一種)を禁止して、鷹の餌として使われる犬の需要がなくなったこと、犬を食用とする奇人『かぶき者』がいなくなったことによって、江戸の町に爆発的に犬が増加し、捨て子を食べる犬もいたといいます。

 

  • 野良犬が人間に危害を加えないようすること
  • 雌犬と雄犬を隔離して繁殖を防ぐということ
  • 特に『人に荒き犬(獰猛な犬)』を隔離して、狂犬病を防ぐこと

 

このために犬を隔離して犬小屋を建てたというのが真実。

 

しかしながらその政策はものすごいスケールの大きいものでした。

現代の東京・中野区役所には犬の銅像があるのですが、かつてそこは『囲町(かこいまち)』と言われていました。

ここに、生類憐みの令において犬を保護するための最大の犬小屋が設置されていたのです。

 

その大きさは約30万坪、現代で言うと約100ha(ヘクタール)。

東京ドーム20個分がすっぽり入るぐらいの大きさで、その中に約10万匹の犬が収容されていたといいます。

 

他に大久保(現代の東京都新宿区のJR大久保駅あたり)にも25000坪、現代でいうと約10haで、最盛期にはその中に約4万匹の犬が押し込められました。

 

若年寄という重職を使ってまでその施設の維持を担当させ、人足(にんそく)と呼ばれた従業員には毎日5000人から6000人担当させました。

 

その維持費に千両以上、現代価格でいうと3億円以上使われたという記録が残っています。

(ちなみに現代の宝くじで、一等が3億円であるのは千両にあやかった名残。)

 

しかも、これでも犬にとってはぎゅうぎゅうで生きづらい場所。

今でも犬は、散歩等動き回る機会がないとストレスをためてしまう習性があり、まして密度の高い当時の犬小屋です。

 

記録には、『是に於て群狗相闘ひ、或ひは傷つき、或ひは死す。奴之を救ふて亦た傷つく者あり(訳:ここでぎゅうぎゅう詰めになってストレスをためた犬たちがお互いに争い、傷つくものも、それが悪化して死ぬものもいた。さらに傷ついた犬を助けようとしてまた傷つく犬もいた)』と書かれています。

犬小屋の現場がいかに仁の理想と矛盾していたかが分かりますね。

 

このようなこともあって生類憐みの令は悪法とされているのですが、次に誤解の理由と本当の目的について記します。

生類憐れみの令の本当の目的と悪法と誤解されている理由

  • 犬を過剰に保護し、東京ドーム20個分の広さの犬小屋を設置して幕府財政を悪化させたこと。(ただし江戸の伝通院門前町(でんつういんもんぜんちょう)においては、野良犬を犬小屋に移動させるよう町人が請願していたらしく、町人から総スカンではなかったようです)
  • 人々の食習慣を考慮せず、『生き物を殺すのはよくないから、食用のための屠殺(とさつ。食べるために家畜を殺すこと)もダメ』とし、不満を高めたこと。
  • 動物に芸を教えて生計を立てている人間も多いにもかかわらず、動物の芸による見世物を禁止し、彼らの生活を立ち行かなくしたこと。

 

これが、生類憐みの令が悪法と誤解されている理由でしょう。

本当のところは

 

『自分がされて嫌なこと』の一番である『自分の命を奪われること』を防ぐために、なるべく人々が仁心をはぐくみ、なるべく生き物を殺さないようにさせる

 

そのような目的で作られたといわれたとみていいですが、現実にそぐわない部分が多すぎたのもまた事実。

 

最近でもフランスのマクロン大統領が、地球温暖化の原因となる二酸化炭素排出を減らすために『炭素税(たんそぜい。車の排ガスにかかる税金)』を上げようとしました。

 

しかしながらフランスは失業率(しつぎょうりつ。全国民のうち仕事に就きたくてもつけない人のパーセンテージ)も10%近くで、『ガソリン車から電気自動車に変えたくても変えられない』、貧しい人間がほとんど。

 

結果、怒った彼らが黄色いベストを着てデモと暴動を起こす『黄色いベスト運動』が2万人近くに発展する形で数回も起こり、大統領は炭素税増税をやめざるを得なくなりました。

 

いつの時代も理想ばかり見て現実を顧みないのが、大失敗の原因となるのは同じなんですね。

まとめ

  • もともと理想主義で文治政治を理想とした綱吉が、度重なる不幸で精神的に追い詰められていたこと。
  • 文治政治の理想が暴走してしまい、『生き物を全く殺すな、いじめるな』という当時の人間社会では人間が行うには極めて難しい法律になってしまったこと。
  • 野良犬による犠牲者を防ぐためとはいえ、犬の習性に逆らってたくさんの犬を犬小屋にぎゅうぎゅうに押し込め、幕府財政を悪化させたうえ、たくさんの犬を苦しめ死なせてしまったこと。
  • 少なくとも悪意ではなく、「人を含む生き物をなるべく殺さない」という理想で生類憐みの令が出されたこと。

 

これが真相でしょう。

 

とはいえ、『大仁(だいじん)は仁ならず』、つまり仁も過ぎれば仁でなくなるというのは、まさにこのことでしょうか。

 

1709年に綱吉が亡くなる際、彼の甥で次期将軍となる家宣(いえのぶ)に「生類憐みの令はいい法律なので、自分がなくなった後も引き継いでくれ」と言い残したエピソードは有名。

ですが、彼の死後、犬小屋は事実上廃止され、動物を食べることの規制の廃止等、現実に合った政策に代わっていきます。

 

ただ、病気の牛馬を棄てることの禁止や、捨て子や病人の保護等、家宣の代でも引き継がれた政策がありました。

つまり正しくは、家宣の代で生類憐みの令は『廃止』ではなく『緩和』されたとみていいでしょう。

 

家宣のブレーンであった学者・新井白石(あらいはくせき)は生類憐みの令を批判しており、それで今日まで生類憐みの令は悪法という向きが強いようですが、『生き物をなるべく殺さない、殺させない』という理想で出されたのは確かでした。

ただしそのために巨大な犬小屋の設立等、莫大な費用をかけたのも事実で、このあたりから、江戸幕府の財政は貧窮していきます。

 

これがやがて、8代将軍徳川吉宗による享保の改革につながっていくのです。

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