今回は、織田信長が今川義元を破り、戦国時代の世の流れを一気に変えていくきっかけとなった戦い、桶狭間の戦いについてです!
- 桶狭間の戦いの登場人物は?
- 桶狭間の戦いの勝因は?
- この戦いで鉄砲は使われたのか?
- 実はこの戦いで徳川家康の運命も変わった!?
- 桶狭間の戦いの場所は?跡地の現在は?
などなど、わかりやすく解説していきます!
桶狭間の戦いをわかりやすく解説
●登場人物
駿河、遠江、三河の3国(現在の静岡県と愛知県東部)を治めていた有力武将である今川義元と、尾張国(現在の愛知県西部)を治めていた織田信長が主な登場人物です。
今川方の先鋒として江戸幕府を開いた徳川家康(当時の松平元康)も参戦しています。
次に、桶狭間の戦いを簡単に紹介していきたいと思います。
●端的に言うと
桶狭間の戦いとは1560年に行われた、織田信長が今川義元を破った戦いです。
その当時は尾張国(現在の愛知県西部)を治めていた織田信長が、駿河、遠江、三河の3国(現在の静岡県と愛知県東部)を治めていた有力武将である今川義元を破ったことは、多くの武将に影響を与えました。
次に、多くの武将に影響を与えた織田軍の勝因について見ていきたいと思います。
桶狭間の戦いの勝因
今川方の兵力は25000から45000ほどで織田方の兵力は多くても5000ほどだったとされていますが、少数でも勝てたのは信長が今川義元の本陣が置かれていた場所を把握していたことが大きな要因であったと言えます。
もちろん後で説明する奇襲も勝利に関わると言えますが、本陣の場所をしっかりと把握していなければ奇襲は行えません。
そのことは、今川義元の本陣の場所を報せた簗田出羽守に戦功第一が与えられているところからも察することができます。
次に、2つ目の勝因ともいえる奇襲について説明していきたいと思います。
奇襲
1560年5月19日、今川義元は織田信長の部下と戦い勝利を治めており、桶狭間で休息をとっていました。
ちょうどそのとき桶狭間は豪雨であり、その豪雨に紛れる形で信長の軍は奇襲を仕掛けます。
豪雨で陣形が乱れていたことに加えてさらにこの奇襲攻撃によって義元の軍は混乱し、義元は退却しようとしましたが討ち取られてしまい、義元の軍は降伏することになりました。
次に、織田信長の主要武器である鉄砲が使われていたかについて見ていきたいと思います。
鉄砲
桶狭間の戦いでは鉄砲は使われていませんでした。
というのも豪雨で鉄砲が満足に使える状況ではなく、また当時は用意に時間がかかる火縄銃しかなかったため、電撃戦である今回の戦いには向かなかったからです。
次に、江戸幕府を開いた徳川家康がどのように桶狭間の戦いに関わっていたのか説明したいと思います。
徳川家康の運命が変わる
当時はまだ松平元康であった徳川家康ですが、今川方として参戦していました。
しかし桶狭間に同行していたわけではなく、先鋒を任され織田方に包囲されている大高城へ兵糧を入れることを命じられており、その任務を全うした後は大高城で休んでいました。
そのため織田方の奇襲に巻き込まれることはなかったのですが、義元戦死の報告を聞いた家康は切腹しようとしたと言われています。
しかし、逃げ込んだ先の松平氏の菩提寺である大樹寺の住職に止められ、家康は乱れた戦国の世を沈める決意を固めました。
そんな家康のもとに松平氏のかつての居城である岡崎城を捨てて今川方が退却したという知らせが届き、その機会を逃すことなく空となった城に乗り込み、自分のものとしました。
こうして家康は今川家からの自立のきっかけを手に入れることができたのです。
次に、家康の運命をも変えた桶狭間の戦いの場所を見ていきたいと思います。
桶狭間の戦いの場所は?
「桶狭間」は名古屋市の東南部にある、平地とゆるやかな丘陵地で形成される緑区にあります。
ただしこれは地名であり、実際に主戦場であった桶狭間があった場所はわかっていません。
主戦場はわかっていませんが、跡地についてはどうなっているのでしょうか。
跡地の現在
名古屋市に隣接する豊明市に「桶狭間古戦場伝説地」(昭和12年国指定史跡)があります。
ここには、明治時代に作られた今川義元のお墓や、今川義元やその臣下たちが戦死した場所として江戸時代に作られた7つの石碑などがあります。
しかし、前述の通り実際に戦いが行われた場所は現在に至ってもわかっていません。
もっと意外な場所で行われていたのかもしれませんね。
まとめ
ここまで桶狭間の戦いについて見てきましたが、いかがでしたか?
桶狭間の戦いとは、織田信長が今川義元を討ち取った戦いでした。
織田信長が勝利できたのは、しっかりと本陣を把握しておりなおかつ豪雨によって奇襲がしやすい環境だったからでした。
しかし豪雨であり、電撃戦であったため鉄砲を使う機会はありませんでした。
また、今川方の先鋒として参戦していた徳川家康の運命もここで大きく変わり、自立の機会を得ることができた戦いでもあります。
そんな桶狭間の戦いですが、未だにどこが主戦場だったかはわかっておらず、人々のイマジネーションを刺激するものになっています。
「桶狭間」の地名を冠する場所や跡地を巡って思いを馳せてみるのもいいかもしれませんね。