今回解説していくのは応仁の乱を起こす原因となった足利義政!
この人は後に銀閣寺を建てて東山文化が発展する原点を作りだしましたが、今回はそんな足利義政について
- 足利義政の経歴と年表
- 足利義政のエピソードと応仁の乱との関係
- 足利義政が銀閣寺を建てた理由
- 足利義政と東山文化の関係
などを詳しく解説していきたいと思います!
目次
足利義政について簡単に解説!
足利義政は室町幕府第8代将軍です。
義政の父親である足利義教の三男として生まれましたが、義政が5歳の時に嘉吉の変によって義教は暗殺。
さらに兄であった義勝もすぐに亡くなってしまい、義政はわずか8歳で将軍に就任することになりました。
しかし、8歳の子に政治ができるとは思えず、政務は管領や政所所事といった偉い人たちが牛耳ってしまい、義政が政治をすることはほとんどありませんでした。
さらに日野富子を娶ると政務に完全に興味をなくしてしまい文化に傾倒。
挙げ句の果てには将軍職を弟の義視に譲ると宣言しました。
しかし、将軍職を譲るといった翌年になんと義政と日野富子の間に足利義尚が誕生。
義視と義尚の世継ぎ争いが起こってしまい、これが原因となり応仁の乱が勃発することになります。
その後はだらだらと11年間内乱が京都で頻発し、京都の街は荒廃。
義政は将軍職を義尚に譲るとさっさと別荘に隠居するようになり銀閣寺の建立も行い始めました。
しかし、残念ながら義政は銀閣寺の完成を見る事なく55歳にしてこの世を去ることになりました。
性格
義政の性格を一言で表すとしたら優柔不断。
彼は、暗愚な将軍とよく呼ばれることがあるのですが、その一つの理由となった応仁の乱は彼の優柔不断な性格が一つの理由となってしまったため、そう呼ばれるようになってしまいました。
名言
足利義政の辞世の句
『何ごとも夢まぼろしと思い知る身には うれひもよろこびもなし』
経歴年表
1436年 足利義政が生まれる
1441年 嘉吉の変 父義教が暗殺される
1443年 兄義勝が亡くなり、将軍に就任
1455年 日野富子と結婚
1464年 義視を次の将軍とする
1467年 応仁の乱が勃発
1473年 将軍職を息子の義尚に譲り隠居
1482年 銀閣寺建造開始
1490年 足利義政死去
家系図
足利義政の父は第6代将軍である足利義教。
祖父は金額を建てた第3代将軍である足利義満でした。
これだけ見ると将軍になるべくしてなったと言ってもいいほどの家系なんですが、かわいそうなことに嘉吉の変によって暗殺されてしまいます。
これによって義政は8歳にして将軍になってしまい、後に政務を放棄する一つの理由となってしまったのです。
正室の日野富子は恐妻家?
足利義政の正室であった日野富子。
日本三大悪女の一人にも数えられている一人ですが、実はこの人は恐妻家としても知られていました。
日野富子は足利義政に16歳で正室として迎えられ、19歳のときに男子を産み順調に夫婦としての関係を結んでいくかに思えましたがなんとその子は生まれたその日のうちに亡くなってしまいます。
このとき富子は義政の側室だった今参局という人がに呪いをかけられたせいで流産したと義政に進言。
今参局を琵琶湖に浮かぶ沖ノ島に流してしまい、さらには自害にまで追い込んでしまいます。
また、この時他の側室たちも全員追放されており、義政は富子に頭が上がらなかったのが見て取れます。
足利義政のエピソード
義政は文化人としては一流だったとは思いますが、政治家としてはお世辞にも良いものだとはいえず、義政は度々家臣に呆れられるような行動をしていきます。
そんな義政の行動を象徴するようなことがありまして、ちょうどこの頃日本全国で飢饉が蔓延していた時代があったそうです。
しかし、義政はそんなことには気に留めず、趣味である建築にうつつを抜かしっぱなしだったそうです。
これには当時天皇であった後花園天皇もブチ切れ。
義政にこのことをやめさせるために和歌を送ったそうで、これが彼をダメ将軍というレッテルが貼られた原因の一つだと言われているんだそうです。
足利義政が銀閣寺を建設した理由とは?
今では世界遺産の一つになっている慈照寺銀閣(銀閣寺)。
しかし、何故応仁の乱が起こっている時に銀閣寺なんて建てたのでしょうか?
私はこれには二つの理由があると考えており、一つ目は将軍としての立場を忘れてこの地で隠居をしようとしていたという理由。
まさし義政らしい理由なんですが、もう一つの理由は彼は実は足利義満に憧れたから銀閣を建てたのではないかと思うのです。
皆さんご存知かもしれませんが、義政から見ておじいちゃんである足利義満は室町幕府最盛期に在位していた将軍であり、朝廷や守護大名なんかよりもはるかに凌ぐ権力と財産が確立されていました。
もしかしたら、義政も義満のように室町幕府の権威の象徴として義満が建てた鹿苑寺金閣を真似て銀閣を建てたのかもしれません。
銀閣寺はもともと隠居場?別荘?
銀閣寺は義政が隠居するために別荘として建造された建物です。
義政は隠居してから9年後新しく別荘を作るために銀閣寺を建造を開始しましたが、義政はこの地を隠居地にして祖父の足利義満の様にしていきたいと考えていました。
そのため、銀閣寺は義政の別荘の一つで、隠居生活の本拠地であったと考えればいいかもしれませんね。
義政と東山文化の関係は?
室町時代の代表的な文化である東山文化。
義政はこの文化を大成した人ではありませんが、この文化を起こすことになる芸術家たちを支援していました。
元々芸術家たちは卑しい仕事として蔑まれてきましたが、義政はこの芸術家たちを支援して、自らも文化に傾倒していきます。
例えば、
- 後に狩野派の祖先として名が知られることになる狩野正信
- 茶の湯に禅の思想を取り入れた茶道を大成させたと言われている村田珠光
など名だたる人が義政に仕えていたと言われており、彼がどれだけ文化を保護したかが分かります。
応仁の乱が長引いた原因は義政にあり?
室町時代はおろか、日本において最も影響を与えた内乱といってもいい応仁の乱。
実はその原因の一つに足利義政の存在があったのです。
上にも書いた通り、足利義政という人物はいろいろありまして将軍になってしばらく経つと政務に全く興味をなくしてしまいます。
義政はどうにかして是が非でも政務を行わなければならない将軍職をさっさと辞めて慈照寺でのんびりと暮らしたいと将軍職をいきなり弟である義尋(のちの足利義視)に譲ると宣言。
実質的に引退を表明しました。
しかし、こんな時に富子との間に男子が誕生。
義視か生まれた男子かのどっちに家督を譲るかで大揉めになってしまい、これが原因で応仁の乱が起こってしまいました。
義政は応仁の乱の時に趣味に没頭していた?
こうして起こってしまった応仁の乱でしたが、こんな状況で義政は何をしていたのかというと、御所から室町第(花の御所)に逃げてきた後花園上皇や後土御門天皇らと共に宴会三昧。
自分が起こしたとも言える応仁の乱について全く興味を持たず、将軍としての働きを全くしませんでした。
しかし、応仁の乱がダラダラ続いていく動きを見せると義政は徐々に政務に乗り気になっていき、東軍支持と義尚に将軍職を譲るために義視を再び出家させ、西軍の討伐のために朝廷に働きかける動きを見せていきました。
こうして隠居生活のためとはいうものの、乗り気になった義政はついに将軍職を義尚に譲ることに成功。
晴れて隠居生活を送れるようになったのです。
それではまとめです。
まとめ
まとめに入ります!
- 足利義政は室町幕府第8代将軍であり、応仁の乱を起こしてしまう原因を作ってしまった
- 足利義政は隠居生活を送る地としての別荘として銀閣寺を建立し始めた
- 足利義政は芸能人を手厚く保護して東山文化が育成されるきっかけが作られた
- 応仁の乱の時義政は文化に没頭していたが、やがて政務も行うようになった
最後になりましたが、足利義政は政治家としてはダメダメでしたが、文化人としては一流だったと思います。
東山文化がのちの日本の和の文化の源流となりましたので、義政が日本にもたらした影響は計り知れないということなんですね。