弥生時代の暮らしとは?衣食住の謎と争いが始まった理由についても!

今回解説していくのは日本のコメ文化の始まりである弥生時代について!

今もなお謎が多い弥生時代ですが、今回は、

 

  • 弥生時代とは一体どんな時代だったのか?
  • 弥生時代の衣食住や髪型、道具などについて
  • 弥生時代の争いごとや住居について
  • 弥生時代の重要な遺跡

 

などについて、詳しい解説と考察をしていきたいと思います!

弥生時代とは?

弥生時代とは紀元前5世紀ごろから3世紀まで続いた日本において農耕が始まり、弥生土器という土器が多用された時代のことです。

 

ちなみに、弥生時代の弥生とは初めて弥生土器が見つかったとされる東京都の弥生町(東京大学の近く)から取られています。

弥生時代は何年前?

弥生時代とは大陸から日本に農耕の技術が伝来してきた時から始まったとされていますが、その年が紀元前3世紀から紀元前10世紀までバラバラな状態です。

 

しかし、最新の研究では出土した弥生土器に付着していたお米を調べたお陰で紀元前5世紀から紀元前10世紀までには日本に農耕の技術が伝来したと断定されています。

西暦で言うと?

弥生時代が存在していたのは紀元前5世紀ごろ。

これは世界史でみると中国では諸侯たちが争っている春秋戦国時代、ヨーロッパでは古代ギリシャ文明が発達していました。

 

まぁ、日本にそんな高度な文化はありませんので、この文化が伝来してくるのはもう少し後なんですけどね。

弥生時代の暮らし

さて、弥生時代という時代はどんな時代だったのかをざっくりと解説してきましたが、次はそんな弥生時代では日本人というのはどのような生活を送っていったのかをみていきましょう。

住居

弥生時代の住居は縄文時代と同じく竪穴式住居という穴を掘ってそこに屋根をつけるという家が使われていました。

 

また、大体の建物が縄文時代と同じ形式のものが使われていましたが、農作が行われ始めると集落にその年に取れたお米を蓄えるために倉庫が建てられるようになりました。

これがいわゆる高床式倉庫と呼ばれる倉庫なんですが、この高床式倉庫にはねずみ返しというお米を食べるネズミを追い返すために使われており、さらには高いところに建てられているため浸水や温度の管理がやりやすいというメリットがありました。

 

また、この頃になると農作を共同で行うために人々が集まって生活をするようになり、集落が誕生。

襲撃に備えるために集落の周りに堀や柵を建てる環濠集落と呼ばれる形式が誕生しました。

食事

弥生時代に入ると農耕が始まったのでお米を食べ始めたのはもちろん、縄文時代から食べられていたどんぐりや肉も継続して食べられるようになりました。

 

また、この頃になると桃や柿などの果物の栽培が開始されて食事のバリエーションが増えていきました。

さらに、弥生時代に使われていた土器である弥生土器は高温で割れにくいという性質が利用され焼く・煮るなどの縄文土器から使われていた調理用法だけではなく、蒸すなどの高度な技術も使えるようになったのも特徴です。

道具

弥生時代の初期の頃はお米を作るために主に木でできた木製農具というものが使われていました。

木製だからあまり耐久性は求められませんが、さらに弥生時代前期には収穫する時に石包丁と呼ばれる磨製石器を使って稲を刈り取っていました。

 

また、取れたお米はもみという殻に包まれているためそれを脱穀しなければなりません。

そこで使われたのが木臼と竪杵。

木臼に稲を入れて竪杵でつきまくるという非常に気が遠くなるぐらいの方法を使って脱穀をしていました。

 

しかし、弥生時代も中期に差し掛かってくると大陸の方から鉄が伝来。

木なんかよりもはるかに耐久性があり、便利な鉄は一気に重要なものとなり、かつて木製だった農具は鉄製に変わり、石包丁を使っていた頃から打って変わって鉄鎌が使われるようになりました。

服装

弥生時代の服装については日本の弥生時代のことを記録している中国の魏志倭人伝に書かれています。

 

そこには弥生時代の男性は一枚の布を体に巻きつけて紐で締めた巻布衣を着て、女性は布に頭の部分を開けて今のワンピースみたいな形に整えた貫頭衣という服を着ていました。

 

また、魏志倭人伝には弥生時代の日本人は慣習的に入れ墨を入れていたとされているんだとか。

髪型

弥生時代の髪型なんですが、これについてはそれを表す証拠がないためあまり確証としたものではありません。

 

しかし、魏志倭人伝には男性は美豆良(みずら)と呼ばれる髪型をしており、女性はすべしもとどりと呼ばれる垂髪をしていたそうす。

弥生時代の土器

弥生時代の時に使われていた弥生土器は縄文土器の作り方である野焼きに対して焼成法という藁や土などを被せて温度を上げるという方式がとられたことによって、より仕上がりが良くなり薄く丈夫な土器だったそうです。

 

縄文土器との最大の特徴は土器のシンプルさ。

縄文土器は脆いこともあってかなり装飾に特化したものが多かったのですが、弥生土器の場合は丈夫になったことによってかなりシンプルで実用的な土器となっています。

弥生時代に戦争が始まった?

弥生時代に差し掛かってくると稲作が伝来するようになり、人々は定住するようになり集落を形成するようになりました。

 

しかし、これによって人々の間では農業がしやすい土地としにくい土地で貧富の差が生まれるようになり、貧しい土地に住んでいる人は豊かな土地に住んでいる人を襲うようになりました。

 

これが日本でいうところの争いの始まりなんですが、この争いによって集落は強い集落に統合されていき、これがいわゆるクニと変化するようになりました。

 

そんなでかいクニで一番メジャーなのが皆さんご存じ、邪馬台国でした。

魏志倭人伝によると日本中が戦争で明け暮れていた時に各地のクニの代表が女王卑弥呼を擁立して30のクニが連合したと書かれているんだとか。

弥生時代と縄文時代の違い

弥生時代と縄文時代は似て非なる時代でありますが、非常に混乱する人が多くいます。

 

大まかに解説すると、弥生時代というのは上にも書いた通り稲作が伝来してきて農耕生活が始まり人々が環濠集落という集落を形成したという時代です。

その一方で縄文時代という時代は打製石器などの石器や縄文土器を使って主に狩猟生活を行なっていました。

 

人々の生活が農耕していたか、狩猟していたかというのが縄文時代と弥生時代の最大の違いですのでチェックしておきましょう。

現存する弥生時代の遺跡

弥生時代における最大の遺跡といえばもしかしたら知っているかもしれませんが、佐賀県にある吉野ヶ里遺跡が一番有名ではないのでしょうか?

もちろん、吉野ヶ里遺跡は今見つかっている弥生時代の遺跡の中では最大級の遺跡であるのですが、そのほかにも弥生時代の遺跡で代表的なものに静岡県の登呂遺跡奈良県の唐古遺跡、さらには弥生時代では最古の遺跡ともいわれている佐賀県の菜畑遺跡が有名です。

 

さて、それではまとめに入りましょう。

まとめ

まとめに入ります!

 

・弥生時代とは前5世紀から3世紀にかけて日本で行われていた弥生土器を使い農耕生活を送っていた時代のこと

・弥生時代によって衣食住は縄文時代から大きく変わったが、貧富の差も出てきてしまい争いごとが起こるようになった

・魏志倭人伝には弥生時代中期ごろに邪馬台国というクニの連合体が支配しており、卑弥呼が統治していた

・弥生土器と縄文土器の違いはその使い勝手の良さや装飾が派手なのかシンプルなどの差があった

・弥生時代の重要な遺跡は吉野ヶ里遺跡と登呂遺跡と菜畑遺跡

 

最後になりましたが、弥生時代はあまり現代と接点がないかと思いますが、この頃に伝来してきたコメは日本の主食となっています。

弥生時代とは日本の原点の時代だったのかもしれませんね。

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