下関条約とは?場所と内容や賠償金についても詳しく解説!

今回ご紹介するのは、下関条約です。

 

明治維新後急速に発展を遂げた日本は、ついに欧米列強と肩を並べるようになります。

そこで戦争をけしかけた相手が、西洋でも「眠れる獅子」と恐れられた清国でした。

 

この戦争後結ばれた下関条約により、日本は戦争の味をしめてしまうことになります。

 

  • 下関条約では何が決められたのか?
  • 李鴻章が襲撃を受けたことでどのような影響が出たのか?
  • 韓国の教科書では下関条約の内容が伏せられている?

 

今回はこうしたことに特にスポットを当てていこうと思います!

下関条約とは?

下関条約

「下関条約」とは、日清戦争後の講和会議を経て調印された条約です。

 

日本の全権は伊藤博文陸奥宗光、清国の全権は李鴻章です。

日清戦争で勝利した日本は、この条約により清国から多額の賠償金を得ることとなりました。

 

次に、この条約が結ばれた場所を見ていきます!

条約が結ばれた場所

下関条約は、現在の山口県下関市の春帆楼という割烹旅館で締結されました。

 

次に、下関条約の全文と、主な内容について見ていきます!

条約全文

明治二八年(一八九五年)四月一七日下關ニ於テ調印

明治二八年(一八九五年)四月二〇日批准

明治二八年(一八九五年)五月八日芝罘ニ於テ批准書交換

明治二八年(一八九五年)五月一三日公布

大日本國皇帝陛下及大清國皇帝陛下ハ兩國及其ノ臣民ニ平和ノ幸福ヲ回復シ且將來紛議ノ端ヲ除クコトヲ欲シ媾和條約ヲ訂結スル爲メニ大日本國皇帝陛下ハ内閣總理大臣從二位勲一等伯爵伊藤博文外務大臣從二位勲一等子爵陸奧宗光ヲ大清國皇帝陛下ハ太子太傅文華殿大學士北洋大臣直隷總督一等肅毅伯李鴻章二品頂戴前出使大臣李經方ヲ各其ノ全權大臣ニ任命セリ因テ各全權大臣ハ互ニ其ノ委任状ヲ示シ其ノ良好妥當ナルヲ認メ以テ左ノ諸條款ヲ協議決定セリ

第一條 清國ハ朝鮮國ノ完全無●{缶へんに欠/ケツ}ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ清國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ

第二條 清國ハ左記ノ土地ノ主權竝ニ該地方ニ在ル城塁、兵器製造所及官有物ヲ永遠日本國ニ割與ス

一 左ノ經界内ニ在ル奉天省南部ノ地

鴨緑江口ヨリ該江ヲ溯リ安平河口ニ至リ該河口ヨリ鳳凰城、海城、營口ニ亙リ遼河口ニ至ル折線以南ノ地併セテ前記ノ各城市ヲ包含ス而シテ遼河ヲ以テ界トスル處ハ該河ノ中央ヲ以テ經界トスルコトト知ルヘシ

遼東灣東岸及黄海北岸ニ在テ奉天省ニ屬スル諸島嶼

二 臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼

三 澎湖列島即英國「グリーンウィチ」東經百十九度乃至百二十度及北緯二十三度乃至二十四度ノ間ニ在ル諸島嶼

第三條 前條ニ掲載シ附屬地圖ニ示ス所ノ經界線ハ本約批准交換後直チニ日清兩國ヨリ各二名以上ノ境界共同劃定委員ヲ任命シ實地ニ就テ確定スル所アルヘキモノトス而シテ若本約ニ掲記スル所ノ境界ニシテ地形上又ハ施政上ノ點ニ付完全ナラサルニ於テハ該境界劃定委員ハ之ヲ更正スルコトニ任スヘシ

該境界劃定委員ハ成ルヘク速ニ其ノ任務ニ從事シ其ノ任命後一箇年以内ニ之ヲ終了スヘシ

但シ該境界劃定委員ニ於テ更定スル所アルニ當リテ其ノ更定シタル所ニ對シ日清兩國政府ニ於テ可認スル迄ハ本約ニ掲記スル所ノ經界ヲ維持スヘシ

第四條 清國ハ軍費賠償金トシテ庫平銀二億兩ヲ日本國ニ支拂フヘキコトヲ約ス右金額ハ都合八回ニ分チ初回及次回ニハ毎回五千萬兩ヲ支拂フヘシ而シテ初回ノ拂込ハ本約批准交換後六箇月以内ニ次回ノ拂込ハ本約批准交換後十二箇月以内ニ於テスヘシ殘リノ金額ハ六箇年賦ニ分チ其ノ第一次ハ本約批准交換後二箇年以内ニ其ノ第二次ハ本約批准交換後三箇年以内ニ其ノ第三次ハ本約批准交換後四箇年以内ニ其ノ第四次ハ本約批准交換後五箇年以内ニ其ノ第五次ハ本約批准交換後六箇年以内ニ其ノ第六次ハ本約批准交換後七箇年以内ニ支拂フヘシ又初回拂込ノ期日ヨリ以後未タ拂込ヲ了ラサル額ニ對シテハ毎年百分ノ五ノ利子ヲ支拂フヘキモノトス但シ清國ハ何時タリトモ該賠償金ノ全額或ハ其ノ幾分ヲ前以テ一時ニ支拂フコトヲ得ヘシ如シ本約批准交換後三箇年以内ニ該賠償金ノ總額ヲ皆濟スルトキハ總テ利子ヲ免除スヘシ若夫迄ニ二箇年半若ハ更ニ短期ノ利子ヲ拂込ミタルモノアルトキハ之ヲ元金ニ編入スヘシ

第五條 日本國ヘ割興セラレタル地方ノ住民ニシテ右割與セラレタル地方ノ外ニ住居セムト欲スルモノハ自由ニ其ノ所有不動産ヲ賣却シテ退去スルコトヲ得ヘシ其ノ爲メ本約批准交換ノ日ヨリ二箇年間ヲ猶豫スヘシ但シ右年限ノ滿チタルトキハ未タ該地方ヲ去ラサル住民ヲ日本國ノ都合ニ因リ日本國臣民ト視爲スコトアルヘシ

日清兩國政府ハ本約批准交換後直チニ各一名以上ノ委員ヲ臺灣省ヘ派遣シ該省ノ受渡ヲ爲スヘシ而シテ本約批准交換後二箇月以内ニ右受渡ヲ完了スヘシ

第六條 日清兩國間ノ一切ノ條約ハ交戰ノ爲メ消滅シタレハ清國ハ本約批准交換ノ後速ニ全權委員ヲ任命シ日本國全權委員ト通商航海條約及陸路交通貿易ニ關スル約定ヲ締結スヘキコトヲ約ス而シテ現ニ清國ト歐洲各國トノ間ニ存在スル諸條約章程ヲ以テ該日清兩國間諸條約ノ基礎ト爲スヘシ又本約批准交換ノ日ヨリ該諸條約ノ實施ニ至ル迄ハ清國ハ日本國政府官吏商業航海陸路交通貿易工業船舶及臣民ニ對シ總テ最惠國待遇ヲ與フヘシ清國ハ右ノ外左ノ讓與ヲ爲シ而シテ該讓與ハ本約調印ノ日ヨリ六箇月ノ後有效ノモノトス

第一 清國ニ於テ現ニ各外國ニ向テ開キ居ル所ノ各市港ノ外ニ日本國臣民ノ商業住居工業及製造業ノ爲メニ左ノ市港ヲ開クヘシ但シ現ニ清國ノ開市場開港場ニ行ハルル所ト同一ノ條件ニ於テ同一ノ特典及便益ヲ享有スヘキモノトス

一 湖北省荊州府沙市

二 四川省重慶府

三 江蘇省蘇州府

四 浙江省杭州府

日本國政府ハ以上列記スル所ノ市港中何レノ處ニモ領事官ヲ置クノ權利アルモノトス

第二 旅客及貨物運送ノ爲メ日本國汽船ノ航路ヲ左記ノ場所ニ迄擴張スヘシ

一 揚子江上流湖北省宜昌ヨリ四川省重慶ニ至ル

二 上海ヨリ呉淞江及運河ニ入リ蘇州杭州ニ至ル

日清兩國ニ於テ新章程ヲ妥定スル迄ハ前記航路ニ關シ適用シ得ヘキ限ハ外國船舶清國内地水路航行ニ關スル現行章程ヲ施行スヘシ

第三 日本國臣民カ清國内地ニ於テ貨品及生産物ヲ購買シ又ハ其ノ輸入シタル商品ヲ清國内地ヘ運送スルニハ右購買品又ハ運送品ヲ倉入スル爲メ何等ノ税金取立金ヲモ納ムルコトナク一時倉庫ヲ借入ルルノ權利ヲ有スヘシ

第四 日本國臣民ハ清國各開市場開港場ニ於テ自由ニ各種ノ製造業ニ從事スルコトヲ得ヘク又所定ノ輸入税ヲ拂フノミニテ自由ニ各種ノ器械類ヲ清國ヘ輸入スルコトヲ得ヘシ

清國ニ於ケル日本國臣民ノ製造ニ係ル一切ノ貨品ハ各種ノ内國運送税内地賦課金取立金ニ關シ又清國内地ニ於ケル倉入上ノ便益ニ關シ日本國臣民カ清國ヘ輸入シタル商品ト同一ノ取扱ヲ受ケ且同一ノ特典免除ヲ享有スヘキモノトス

此等ノ讓與ニ關シ更ニ章程ヲ規定スルコトヲ要スル場合ニハ之ヲ本條ニ規定スル所ノ通商航海條約中ニ具載スヘキモノトス

第七條 現ニ清國版圖内ニ在ル日本國軍隊ノ撤回ハ本約批准交換後三箇月内ニ於テスヘシ但シ次條ニ載スル所ノ規定ニ從フヘキモノトス

第八條 清國ハ本約ノ規定ヲ誠實ニ施行スヘキ擔保トシテ日本國軍隊ノ一時山東省威海衛ヲ占領スルコトヲ承諾ス而シテ本約ニ規定シタル軍費賠償金ノ初回次回ノ拂込ヲ了リ通商航海條約ノ批准交換ヲ了リタル時ニ當リテ清國政府ニテ右賠償金ノ殘額ノ元利ニ對シ充分適當ナル取極ヲ立テ清國海關税ヲ以テ抵當ト爲スコトヲ承諾スルニ於テハ日本國ハ其ノ軍隊ヲ前記ノ場處ヨリ撤回スヘシ若又之ニ關シ充分適當ナル取極立タサル場合ニハ該賠償金ノ最終回ノ拂込ヲ了リタル時ニ非サレハ撤回セサルヘシ尤通商航海條約ノ批准交換ヲ了リタル後ニ非サレハ軍隊ノ撤回ヲ行ハサルモノト承知スヘシ

第九條 本約批准交換ノ上ハ直チニ其ノ時現ニ有ル所ノ俘虜ヲ還附スヘシ而シテ清國ハ日本國ヨリ斯ク還附セラレタル所ノ俘虜ヲ虐待若ハ處刑セサルヘキコトヲ約ス

日本國臣民ニシテ軍事上ノ間諜若ハ犯罪者ト認メラレタルモノハ清國ニ於テ直チニ解放スヘキコトヲ約シ清國ハ又交戰中日本國軍隊ト種々ノ關係ヲ有シタル清國臣民ニ對シ如何ナル處刑ヲモ爲サス又之ヲ爲サシメサルコトヲ約ス

第十條 本約批准交換ノ日ヨリ攻戰ヲ止息スヘシ

第十一條 本約ハ大日本國皇帝陛下及大清國皇帝陛下ニ於テ批准セラルヘク而シテ右批准ハ芝罘ニ於テ明治二十八年五月八日即光緒二十一年四月十四日ニ交換セラルヘシ

右證據トシテ兩帝國全權大臣ハ茲ニ記名調印スルモノナリ明治二十八年四月十七日即光緒二十一年三月二十三日下ノ關ニ於テ二通ヲ作ル

大日本帝國全權辨理大臣

内閣總理大臣從二位勲一等伯爵

伊藤博文 (記名) 印

大日本帝國全權辨理大臣

外務大臣從二位勲一等子爵

陸奧宗光 (記名) 印

大清帝國欽差頭等全權大臣

太子太傅文華殿大學士北洋大臣

直隷總督一等肅毅伯

李鴻章 (記名) 印

大清帝國欽差全權大臣

二品頂戴前出使大臣

李經方 (記名) 印

(註)附屬地圖ハ之ヲ略ス

議定書

明治二八年(一八九五年)四月一七日下ノ關ニ於テ署名

明治二八年(一八九五年)五月一三日公布

大日本國皇帝陛下ノ政府及大清國皇帝陛下ノ政府ハ本日調印シタル媾和條約中ノ意義ニ付將來誤解ヲ生スルコトヲ避ケムト欲スル目的ヲ以テ雙方ノ全權大臣ハ左ノ約定ニ同意セリ

第一、本日調印セシ媾和條約ニ附スル所ノ英譯文ハ該條約ノ日本文本文及漢文本文ト同一ノ意義ヲ有スルモノタル事ヲ約ス

第二、若該條約ノ日本文本文ト漢文本文トノ間ニ解釋ヲ異ニシタルトキハ前記英譯文ニ依テ決裁スヘキコトヲ約ス

第三、左ニ記名スル所ノ全權大臣ハ本議定書ハ本日調印シタル媾和條約ト同時ニ各兩帝國政府ニ提供シ而シテ該條約批准セラルルトキハ本議定書ニ掲載スル所ノ諸約定モ別ニ正式ノ批准ヲ要セスシテ亦兩帝國政府ノ可認セシモノト看做スヘキコトヲ約ス

右證據トシテ兩帝國全權大臣ハ之ニ記名調印スルモノナリ

明治二十八年四月十七日即光緒二十一年三月二十三日下ノ關ニ於テ二通ヲ作ル

大日本帝國全權辨理大臣

内閣總理大臣從二位勲一等伯爵

伊藤博文 (記名) 印

大日本帝國全權辨理大臣

外務大臣從二位勲一等子爵

陸奧宗光 (記名) 印

大清帝國欽差頭等全權大臣

太子太傅文華殿大學士北洋

大臣直隷總督一等肅毅伯

李鴻章 (記名) 印

大清帝國欽差全權大臣

二品頂戴前出使大臣

李經方 (記名) 印

別約

明治二八年(一八九五年)四月一七日下ノ關二於テ調印

明治二八年(一八九五年)四月二〇日批准

明治二八年(一八九五年)五月八日芝罘ニ於テ批准書交換

明治二八年(一八九五年)五月一三日公布

第一條 本日調印シタル媾和條約第八條ノ規定ニ依リテ一時威海衛ヲ占領スヘキ日本國軍隊ハ一旅團ヲ超過セサルヘシ而シテ該條約批准交換ノ日ヨリ清國ハ毎年右一時占領ニ關スル費用ノ四分ノ一庫平銀五十萬兩ヲ支拂フヘシ

第二條 威海衛ニ於ケル一時占領地ハ劉公嶋及威海衛灣ノ全沿岸ヨリ日本里數五里ヲ以テ其ノ區域ト爲スヘシ

右一時占領地ノ經界線ヲ距ルコト日本里數五里ノ地内ニ在リテハ何レノ所タリトモ清國軍隊ノ之ニ近ツキ若ハ之ヲ占領スルコトヲ許ササルヘシ

第三條 一時占領地ノ行政事務ハ仍ホ清國官吏ノ管理ニ歸スルモノトス但シ清國官吏ハ常ニ日本國占領軍司令官カ其ノ軍隊ノ健康安全紀律ニ關シ又ハ之カ維持配置上ニ付必要ト認メ發スル所ノ命令ニ服從スヘキ義務アルモノトス

一時占領地内ニ於テ犯シタル一切ノ軍事上ノ罪科ハ日本國軍務官ノ裁判管轄ニ屬スルモノトス

此ノ別約ハ本日調印シタル媾和條約中ニ悉ク記入シタルト同一效力ヲ有スルモノトス

右證據トシテ兩帝国全權大臣ハ之ニ記名調印スルモノナリ

明治二十八年四月十七日即光緒二十一年三月二十三日下ノ關ニ於テ二通ヲ作ル

大日本帝國全權辨理大臣

内閣總理大臣從二位勲一等伯爵

伊藤博文 (記名) 印

大日本帝國全權辨理大臣

外務大臣從二位勲一等子爵

陸奧宗光 (記名) 印

大清帝國欽差頭等全權大臣

太子太傅文華殿大學士北洋

大臣直隷總督一等肅毅伯

李鴻章 (記名) 印

大清帝國欽差全權大臣

二品頂戴前出使大臣

李經方 (記名) 印

東京大学東洋文化研究所 日清媾和條約より)

内容

下関条約の主な内容は以下の通りです。

 

  • 清国は、朝鮮が独立自主の国であると確認すること。
  • 遼東半島・台湾全島・澎湖列島を日本に割譲すること。
  • 2億両(テール)の賠償金を日本に支払うこと。
  • 沙市・重慶・蘇州・杭州の市港を開くこと。
  • 日本に最恵国待遇を与えること。

 

次の章では、下関条約と李鴻章の関係について見ていきます!

下関条約と李鴻章の関係は?

李 鴻章
李 鴻章

李鴻章は、下関条約締結時の清国の全権です。

 

李鴻章は清国末期の外交を担った人物であり、1860年代には西洋の兵器などを取り入れて国力増強を図る洋務運動を推進しました。

 

次に、その李鴻章が狙撃された事件について見ていきます!

李鴻章狙撃事件の真相

李鴻章は、日清戦争中の会議をしていた時期に、狙撃を受けています。

 

日清戦争の末期、欧米列強は休戦を求めてくるようになります。

ですが、日本としては台湾を占領してから停戦に持ち込み、台湾割譲をスムーズに行うことを目指していました。

 

そのため、講和会議が開かれつつも停戦はしておらず、李鴻章が下関に来た頃に日本は兵を澎湖諸島に上陸させていたのです。

そんな折に、李鴻章が小山豊太郎という人物に襲われます。

 

この事件が起きたことで各国の清国への同情が集まることとなりました。

結果、日本としては「やむを得ず」休戦せざるを得なくなり、講和条約締結に向かいます。

 

ちなみに李鴻章は顔面の負傷のみで済んだため、その後会議に復帰しています。

 

次の章では、日本の受け取った賠償金の使途について見ていこうと思います。

日本がもらった賠償金の使い道は?

日本は下関条約後に三国干渉を受け、遼東半島を譲渡するのですが、この時に代償を受け取りました。

 

この金額と、日清戦争の賠償金を合わせると、当時の日本の国家予算の4倍ほどになりました!

 

これにより日本が、金本位制(一国の貨幣価値を金に裏付けられた金額で表すこと)に復帰したことが最大のポイントと言えるでしょう。

 

当時欧米諸国では金本位制が確立してきており、日本はこれに追随することができました。

 

また、賠償金の半分ほどは軍事費にも割り当てられています。

 

国民のために直接使われた金額は実はあまり多くなかったわけですが、八幡製鉄所はこの賠償金をもとに作られています。

 

次に、下関条約の韓国の教科書内での記述について見ていきます。

下関条約について韓国の教科書では真実は伏せられている?

韓国の教科書では、下関条約により韓国の独立自主が認められたという事実が伏せられているものが多いようで、下関条約の記述すらないものもあるようです。

 

むしろ、この条約から日本の進出が加速し、韓国へ多くの悪影響が出たことにスポットが当てられています。

 

ここ20年ほどの間に、韓国内の学者たちの中で、こうした思い違いを正す動きが出てきているようです。

しかし、まだ教科書に完全に反映されるには至っていません。

まとめ

それでは、下関条約についてもう一度振り返ってみます。

 

  • 下関条約は日清戦争の講和条約として、現在の山口県下関市で結ばれた。
  • 清国の全権は李鴻章、日本の全権は伊藤博文と陸奥宗光。
  • この条約により、朝鮮の自主独立、清国から日本への台湾などの割譲、賠償金2億両の支払い等が決まった。
  • 日本は当初武力での台湾占領を目論んでいたが、李鴻章狙撃事件を受け、やむなく休戦に向かう。
  • この戦争で得た賠償金は、金本位制への資金や軍事費などに使われていた。
  • 韓国の教科書では下関条約の内容は伏せられていた。
  • 賠償金により日本経済は一時潤った。

 

国内の状況にも目を向けてみてください!

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