最澄とは?比叡山延暦寺で天台宗を開いた経緯と空海との関係や違いについて

空海と並び、伝教大師として、腐敗した奈良仏教に変わって新たなる仏教『天台宗』を開き、平安仏教の礎を築いた最澄。

天台宗は後に平安仏教の一角となって行きました。

 

今回は、そんな最澄について、

  • 最澄と空海の違いは!?
  • 延暦寺ってどんな寺!?
  • 弟子のせいで最澄と空海は袂を分かつに至ったのか!?

 

などなどを詳しく解説していきます!

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最澄とは?

最澄

最澄

平安時代、空海とともに唐(とう。今の中国)にわたり、密教(みっきょう。悟りを開くことを最終的なゴールとする仏教において一気に悟りを得る方法)と結びついた『天台宗』を開いた僧侶です。

 

奈良時代、仏教が大変盛んで国の保護も扱ったため、僧侶は政治に口出しをしたり、道鏡(どうきょう)の様に自ら政治のトップである天皇になろうとする僧侶まで現れ、仏教も政治も大きく乱れていました。

そこで、最澄は腐敗した古い仏教とは別の道を探そうと、仏教の本場である唐にわたり、本来の仏教と深く結びついていると思しき密教を学んで帰ります。

 

留学仲間で7歳年下の空海とは真の仏教を求めるために交流を繰り返して切磋琢磨しつつも、やがてそれぞれの仏教の考えの違いや、最澄の弟子が空海の元へ去ってしまったこともあって、最終的には絶交してしまいます。

 

それでもめげず、最澄は

『厳しい修行を重ねていけば、生きている人間のすべてが悟りを開くことができる』

という天台宗を完成させていくことになるのです。

 

真言宗の総本山である金剛峯寺がいわば『密教の単科大学』なのに対し、天台宗の延暦寺は『仏教の総合大学』として(井沢元彦氏の比喩)、天台宗は従来の仏教と密教を取り入れた新しい仏教として、人々の間に大きく広まっていきます。

 

次に、最澄の経歴についてみていきます。

最澄の経歴

神護景雲(じんごけいうん)元年(767年)8月18日、近江国滋賀郡(おうみのこくしがぐん。現在の滋賀県大津市坂本の一帯)を統治する豪族(村の支配者)の三津首百枝(みつのおびとももえ)を父として古市郷か現在の生源寺の地で誕生します。

 

幼名は広野(ひろの)。

(ちなみに、神護景雲という四文字熟語の元号は、これ以降使われなくなりました。

称徳天皇(しょうとくてんのう)の時代にこの元号になりましたが、このころは自ら天皇になろうとする僧・道鏡が政治を牛耳っていた時代でもあり、大きく天下が乱れていました。)

 

778年、地元の国分寺(こくぶんじ。聖武天皇が仏の助けがあるようにと建てた全国津々浦々の寺)に入り、出家します。

 

785年7月10日、18歳にして晴れて僧侶のプロとなり、名を『最澄』とします。

785年7月、やがて自分が天台宗を開くこととなる京都比叡山にて修行、仏教の大本である経典を読破します。

 

788年には、比叡山に修行のための一乗止観院(いちじょうしかんいん)を作って自身の修行の場とし、これがのちに国宝となる延暦寺根本中堂の原型となります。

 

797年、都が平安京に移ってから3年後には、桓武天皇に気に入られ、天皇側近の高貴な僧侶である内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)になります。

この時最澄は30歳でしたが、今でいうといわば『仏教を研究する、有名国立大学の大学教授』となったわけで、引き続き貴族や弟子に教え続けます。

 

802年には桓武天皇名義で入唐求法(にっとうぐほう。唐に留学して最新の仏教や制度について学ぶこと)の還学生(げんがくしょう。短期留学生)になります。

 

804年には弟子を通訳係として、空海(この時は無名の僧侶、現在で言うと無名のポスドクでしたが)も加えて9月上旬には唐に到着します。

10月には中国三大霊山(修行の場所として有名な中国の三つの山のこと)とよばれる天台山(てんだいさん)に入り、修行と読経を続けます。

 

翌年の805年帰国。

現代の神戸市である和田岬に到着し、最初の密教の寺である能福護国密寺(のうふくごこくみつじ。後の能福寺で、太平洋戦争時に解体され武器となるまで、三大大仏の一つである兵庫大仏がおかれました)を建立しました。

 

修行の一つとして、中国で模写した経典は230部460巻。

これをみとめられ、最澄はようやく悟りを開いた僧侶とみなされます。

 

翌年の806年、桓武天皇がなくなり、後ろ盾を失いつつも、空海からもらった経典を研究し、仏道を極めようとします。

また、この年が天台宗を開いた年とみなされております。

 

813年には弟子の泰範(たいはん)ら3人を空海の元に派遣させ、密教について学ばせようとします。

ところが、泰範だけは空海の元に行ったまま、最澄が再三再四戻ってくるよう言っても戻らなくなり、この辺りから最澄と空海の仲が急速に悪化したといわれます。

 

さらに11月には、密教の経典を最澄は空海に求めますが、『文章ではなく行動で密教の悟りは得られる』と断られ、これを皮切りに、最澄と空海は絶交となったといわれています。

(元々仏教では、『言語道断(ごんごどうだん)』、つまり悟りを言葉で表す道はないといわれてきました。)

 

815年には、旧来の奈良仏教の僧侶との論争を繰り返し、これを機にさらに自身の天台宗を高めようとします。

さらには東国に旅立ち、唐から来日して仏教思想や文化を伝えた鑑真ゆかりの寺などで伝道をします。

 

818年には、天台宗を完成させるため、今までの奈良仏教のしきたりを破り『天台宗で僧侶となったものは、12年間比叡山で修行する』ことを義務付けます。

 

天台宗を完成させた後、弘仁(こうじん)13年6月4日(西洋暦時法で822年6月26日)、入寂(にゅうじゃく。僧侶が死ぬこと)。

享年56歳。

 

最澄の死から翌年の823年、天台宗の修行の場だった一乗止観院が、建てられた時の元号を取って『延暦寺』と名付けられ、日本仏教の礎が出来上がります。

さらに彼の死から44年後、貞観(じょうかん)8年(866年)、清和天皇によって最澄に『伝教大師』の名が贈られます。

日本の僧侶に送られた初めての高貴な僧侶に対する異名でした。

 

次に、比叡山延暦寺で天台宗を開いたことについてみていきます。

比叡山延暦寺で天台宗を開く

比叡山延暦寺

  • 空海の和歌山県にある高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)
  • 最澄の弟子である慈覚大師(じかくだいし)こと円仁(えんにん)が開いた青森県の恐山菩提寺(おそれざんぼだいじ)

 

この2つとともに、日本三大霊山と呼ばれる比叡山、および延暦寺。

日本仏教の母』と呼ばれます。

 

百人一首で有名な慈円(じえん)は

『世の中に 山てふ山は 多かれど 山とは比叡の 御山(みやま)をぞいふ(訳:世の中に自称山というものは多いが、本当に山と呼ぶべきものは比叡山だけだ)』

と歌ったとされています。

 

1994年に世界遺産にも登録されたこの山は、頂上からは琵琶湖なども見え、修行には絶好の場所といっていいでしょう。

 

ちなみに、延暦寺は一棟の寺からなっているのではなく、

  • 東側:東塔(とうどう)
  • 西側:西塔(せいどう)
  • 北側:横川(よかわ)

 

の、それぞれ本堂を持つ3つのエリアからなっており、総面積は約500ヘクタール。

東京ドーム100個がすっぽり入るほどの大きさです。

 

井沢元彦氏が『真言宗は密教の単科大学に対し、天台宗は仏教の総合大学』といっていましたが、今の国立総合大学にも負けず劣らずの広い土地と規模を持っていたといえましょう。

 

最澄以降、延暦寺は1200年間、仏教の最高位に位置づけされます。

 

のちに平安中期になって平安京も荒廃し、『念仏を唱えると極楽浄土へ行ける』という説が流行ってくるのですが、僧の源信(げんしん)はこれについてまとめ、その書物を比叡山に収めることになります。

また、後に鎌倉仏教を開くこととなる法然、栄西、親鸞、道元、日蓮といった面々も、一度はこの比叡山で修行し、鎌倉時代の世の中に合った仏教をここから派生していくことになるのです。

 

次に、最澄の名言についてみていきます。

最澄の名言

因(いん)なくして果を得、この処(ことわり)あることなく、善なくして苦を免(まぬ)がる、この処あることなし

 

つまり『何もせずにいい結果が出ることは全くないし、良いことをせずに苦しみを免れる方法も全くない』ということ。

 

生きている間にはたゆまぬ不断の努力と善行を主張しております。

それで『因果応報』、つまり人間は良いことをすればよい結果を招くし、悪いことをすれば悪い結果を招くというのです。

(ちなみに因果応報は、のちの南総里見八犬伝の世界観の重要なキーワードとなります)

 

次に、最澄と空海の関係や違いについてみていきます。

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最澄と空海の関係や違いについて

空海

空海

伝教大師こと最澄と、弘法大師こと空海は、共に平安仏教を作った仲ですが、一緒に唐に留学した時は、最澄は天皇側近でもある高名な僧侶、空海は無名の僧侶でした。

 

しかし、唐留学を通して空海の才能に気づいた最澄は、帰国後空海が京に戻れるよう手続きをしたり、天台宗と真言宗をそれぞれ開いた後は、手紙を通じてお互いの仏教を高めるよう努力していきます。

(彼らの手紙は、その筆のうまさと美しさから国宝になっているものが少なくありません)

 

いわばこの2人は

当初は恩師と教え子のような関係で、平安仏教を開いてからは親友でありライバル的な関係(北斗の拳で言うと『強敵(とも)』といったところでしょうか)だったのだが、後に絶交する

という関係になったわけです。

 

当初はお互い深く交わりあって切磋琢磨に努めようとした2人ですが、やがて考え方の違いや、これから話す最澄の弟子が空海の元へ行ってしまったことも相まって、813年にはついに絶交になってしまいます。

後の勝海舟と福沢諭吉の例にもれず、『両雄、並び立たず(同時期に現れた2人の英雄は必ずお互い争うもの)』がこの2人にも当てはまったといえましょう。

 

元々最澄が開いた天台宗と、空海が開いた真言宗は様々な違いがありました。

 

その1。

天台宗は『釈迦如来(しゃかにょらい。仏教を開いたとされる釈迦ことゴーダマ・シッダールタその人)』を一番敬えという教えに対し、真言宗は『大日如来(だいにちにょらい。マンダラの中心となる仏)』を一番敬えという持論の持ち主でした。

 

日本では八百万の神々がいるとよく言われているように、仏教でも数多くの仏がいて、経典の一つには、ガンジス川の砂粒の数と同じくらい仏がいると教えられているほど。

その中でもどの仏を崇拝するというのかは、宗派によって数多く分かれていました。

天台宗は釈迦如来と大日如来を同一人物として考えていましたが、真言宗は別人と考えていました。

 

その2。

他の宗派に対する考えも違います。

 

天台宗は奈良仏教を含む他の宗派も『天台宗の一部』としており、よく言えば包容力があり、悪く言えば八方美人とも取れる考えの持ち主でした。

それがやがて比叡山を『仏教の総合大学、日本仏教の母親』として、大きく発展させていく一因となるのです。

 

かたや真言宗は、奈良仏教を含むほかの宗派に対して一定の評価をしつつも『一番いいのは真言宗』としており、よく言えばわかりやすく、悪く言えば独善的

(なお、後に日蓮は自分の宗派こそ一番という考えをさらに強めていき、「念仏は無間地獄(むけんじごく。親殺しなど重罪を犯した者が落ちる最悪の地獄)に落ちる教え、禅は天魔の教え、真言宗で国は滅び、律宗など奈良仏教は国賊の教え」と主張するようになっていきます)

 

この違いがやがて、最澄と空海を絶交させるに至ってしまったと私は推測しています。

もちろん、共通するのは『悟りを開くものがいない「像法の時代」だからこそ、厳しい修行で自らを律し、生きている間に悟りを開くことを目指すべきだ』という考えといえましょう。

 

次に、2人の絶交となった一因である、最澄の弟子が空海の元へ行ってしまうという事件についてみていきます。

弟子のせいで最澄と空海の間に確執が?

最澄と空海の絶交の原因となった大きな要因といわれる、『最澄の弟子が、空海の元に行ったまま戻らなくなったこと』についてですが、このエピソードで重要なキーパーソンが、泰範(たいはん)という僧侶。

 

778年ごろ生まれた彼は、奈良で出家した後最澄の弟子となり、813年に病気になった最澄に変わり、比叡山の管理者を任されていますが、このことで争いが起きて辞退しています。

このあたりからも、泰範が最澄にどれだけ信頼されていたかがわかります。

 

812年秋から、当時は最澄と切磋琢磨する仲だった空海のもとに、他の弟子2人と共に高野山へ向かいます。

残りの2人はすぐに比叡山に戻りましたが、泰範は最澄から再三再四戻るよう催促があっても戻らず、やがて816年、空海が手紙を書く形で、泰範が最澄と仏教の考え方が違うということ、比叡山に戻る気がないという思いを最澄に送っています。

 

これ以降最澄と空海の仲は急速に悪化したといわれていますが、最澄は最後まで泰範が戻ってくれることを期待していたようです。

 

泰範はその後は天台宗ではなく真言宗の僧侶として、空海の十大弟子となり、彼が高野山を開くにあたって活躍しています。

なお、837年には真言宗の僧侶として、60歳になった泰範の名が記録されていますが、その後の消息についてはわかっておらず、亡くなった年も明確になっていません。

まとめ

  • 密教の教え以外に、戒律や禅、念仏など修行に必要な手段全てを重んじ、釈迦如来を一番崇拝したのが最澄、密教の教え一つを最上級とし、マンダラの中心である大日如来を一番崇拝したのが空海。
  • 延暦寺は一つの寺からなるものではなく、東京ドーム100個分の面積の中に複数の寺が設けられた仏教の総合道場。
  • 最澄から愛されていた弟子の泰範が空海の元へ行ってしまったという事で、急速に最澄と空海の仲が悪化した。

 

これが真実といえましょう。

 

最澄が開いた天台宗及び延暦寺は、仏教の総合道場としてこののち大きく発展し、鎌倉仏教を開く者たちも、若いときはここで修行することになります。

後に他の宗派を激しく攻撃することになる日蓮も、元々延暦寺で修行した経歴もあってか、天台宗については悪く言っておりません。

 

しかしやがて、延暦寺自ら武力を持つほど腐敗していくようになり(白河天皇が自分の思い通りにならないたった3つのものとして、『京都加茂川の水』と『すごろくのサイコロの目』とともに、延暦寺の僧兵をあげています)、戦国時代は僧自ら周辺に圧力をかける独立国のようになった結果、織田信長の比叡山焼き討ちにつながっていきます。

 

しかしこうした腐敗と崩壊を経験しつつも、江戸時代に再び比叡山は再建され、やがて比叡山は日本仏教の総本山として、1994年には世界文化遺産にも登録されることになるのです。

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