今回解説していくのは江戸時代の貿易政策である鎖国!
鎖国のせいで日本は文明を遅らせてしまったというイメージがあるのですが、今回はそんな鎖国について
- どうして江戸幕府は鎖国をしたのか?
- 鎖国のデメリットとメリット
- なぜオランダは貿易が許されたのか
- 貿易が許された4つの国
など詳しく解説していきたいと思います!
目次
鎖国とは?簡単に解説!
鎖国とは1639年に完成した日本の貿易の体制のことです。
この頃になると江戸幕府はキリスト教の普及を恐れるようになっていき、最終的に一部の国以外は貿易することを禁じました。
さらに幕府以外の人は貿易するどころか、海外に行くことすら禁じられるようになるのです。
ちなみに、このせいで日本は文明が遅れることになったと言われることがあります。
ですが、オランダを通じてある程度の西洋文化は分かっていた模様。
ヨーロッパで起きている出来事もオランダ風説書という報告書である程度理解はしていたんですよ。
今では幕府自体は貿易したこともあり、鎖国ではなく四つの口ともいうようになりました。
ただ、今でも鎖国は通用しますので安心してくださいね。
理由
日本が鎖国に走るようになったのは前述の通りキリスト教の普及を恐れてのことでした。
日本という国はご存知かもしれませんがキリスト教を信仰している国ではありません。
しかし、1549年にフランシスコ・ザビエルが薩摩国に到着してその地で布教を開始したこともあってか九州地方を中心に爆発的に広まっていくようになりました。
特に豊後の府内館(現大分市)では一万人以上のキリシタンがいたそうでそれはそれは大変な賑わいだったそうです。
戦国大名からしてもキリスト教を容認することによって南蛮貿易を円滑に進められるという理由から容認。
信長なんかもキリスト教の宣教師は保護していますし、それほど大事な存在だったでしょう。
しかし、時代が秀吉の頃になると日本におけるキリスト教の認識ががらりと変わります。
秀吉も最初は南蛮貿易のためにある程度はキリスト教を黙認していました。
ですが、余りにもキリスト教徒が増えすぎで危機感を抱いたのか1587年にバテレン追放令を発令。
さらに1596年にサン=フェリベ号事件においてとある人が「スペインはキリスト教を通じてメキシコやフィリピンを支配している」という書簡を秀吉にあげると大激怒。
キリスト教を認める=ヨーロッパの国に侵攻を受ける可能性が高いという構図がこの時点で確立されてしまいました。
そのため、日本は一気にキリスト教を拒絶していくようになりました。
そして時代は江戸幕府に入っていくことになるのですが、この頃になるとオランダやイギリスなどのプロテスタントの国も日本と貿易をするようになります。
キリスト教も強要してくるスペインやポルトガルを疎ましく感じ始め1612年江戸幕府はキリスト教の信仰を禁止。
さらに、極め付けには1637年にキリスト教徒が結びついて起こった一大一揆である島原の乱が勃発。
これのおかげでついに江戸幕府もキリスト教を認めると島原の乱みたいな暴動が頻発するようになると感じ始めついに鎖国体制に踏み切った訳なのです。
期間
鎖国が行われ始まったのは一般的にはポルトガル船の入港を禁止した1639年と言われています。
ちなみにオランダが出島に移転したのは1641年ですので注意してください。
そして鎖国が完全に終わったのは江戸幕府がアメリカとの間で結ばれた日米修好通商条約の締結年である1858年。
つまり219年間も日本は鎖国体制を維持していたのですね。
メリットとデメリット
鎖国のメリットといえばやはり「外国の影響を受けづらい」ということにあると思います。
鎖国が行われて海外との関係が一部を除き全てシャットアウトしたからこそ江戸時代はとても平和な時代だったのではないかと考えています。
後、鎖国をすることによって国内の資源の流失を防ぐことができて日本独自の文化もこの頃一気に発展しました。
ではデメリットはなんなのかというとシンプルに「近代化が遅れること」です。
たしかに江戸幕府は中期ぐらいになるとオランダの本を輸入するようになり、ヨーロッパの技術や文化にある程度触れ合えることができました。
ですが、江戸時代の半ばに産業革命が起こっていたこともあってかオランダの本ではどうしてもついていけないというものがあったのです。
貿易を認められた国
鎖国体制が敷かれていた日本において貿易が認められていた国は4つありました。
- 琉球王国
- 中国
- オランダ
- 李氏朝鮮
です。
琉球王国は1611年に薩摩藩が支配してから琉球王国との貿易が始まりました。
ちなみに、この琉球王国の場合は一対一ではなく、琉球王国を中継地点として貿易を行ういわゆる中継貿易の形がとられていました。
中国とオランダは長崎にて貿易が行われていました。
ですが、この二国の場合は幕府が独占的に貿易を行い、中国とオランダにある程度の制限をかけて貿易をしていたそうです。
残りの李氏朝鮮ですが、朝鮮の場合だと対馬を治めていた宗氏が貿易を担当していました。
鎖国令の原文
一 日本国御制禁成され候吉利支丹宗門の儀、其趣を存知乍ら、彼の法を弘むる者、今に密々差渡るの事。
一 宗門の族、徒党を結び邪儀を企つれば、則御誅罰の事。
一 伴天連同宗旨の者、隠れ居る所え、彼(ポルトガル)の国よりつゝけの物送り与ふる事。
右茲に因り、自今以後、かれうた渡海の儀、これを停止せられ訖んぬ。此の上若差渡るニおゐてハ、其船を破却し、并びに乗来る者速に斬罪に処せらるべきの旨、仰せ出さるる者也。仍執達件の如し。
寛永十六年卯七月五日
鎖国中にオランダはなぜ貿易できたのか?
鎖国によってヨーロッパの国々はほとんど追放されてしまいましたが、なぜかちゃっかりとオランダが貿易を許可されていました。
なんでとは思いますが、これには実は訳があります。
オランダはキリスト教を信仰しているのはしているのですが、追放されたスペインやポルトガルとは違ってプロテスタントが多い国だったのです。
元々日本はキリスト教を入ってこないようにするために鎖国をしていました。
ですが、キリスト教というのは厳密には色々な種類があって、追放されたポルトガルやスペインはカトリックという宗派を信仰していました。
この宗派は16世紀に行われた宗教改革でヨーロッパでの勢力が揺らぎ始めたことを理由に当時密かに行われていた大航海に便乗して各国にキリスト教を広めるという活動をしていました。
この人たちが日本にキリスト教を伝えていくのですが、一方のプロテスタントはあまり貿易国に対してキリスト教を広めるということには興味がありませんでした。
プロテスタントの国であるイギリスとオランダはシンプルに貿易で金儲けをしたかった訳なんでね。
そのため、シンプルに貿易したいプロテスタントとキリスト教抜きで貿易をしたい日本の思惑が見事に合ってオランダは制約はあるものの、貿易が許された訳なんです。
鎖国から開国にあたって日本への影響は?
こうして日本は江戸時代を通じて鎖国を行なった訳なんですが、もちろん200年以上鎖国状態を続けているとやはりブランクが起こってしまいます。
しかも19世紀に入ると世界各国が日本との通商を求めるようになる始末。
それでも江戸幕府は鎖国は幕府始まってからの祖法だとして突っぱねていたのでした。
しかし、ペリーが来航したことによって一気に開国へと進んでいきついには日米修好通商条約が結ばれ開国。
幕末という動乱に突入しながらも、日本はようやく近代化への道を歩んでいくことになったのでした。
さて、まとめに入りましょう!
まとめ
- 鎖国とは1639年から始まった江戸幕府による貿易の体制のこと
- 鎖国をした理由の一つにキリスト教を日本に広めさせたくなかったことがあった
- 貿易を認められたのは琉球王国、中国、朝鮮、オランダ
- オランダはプロテスタントの国で貿易しかしてこなかったから貿易を続行した
- 日米修好通商条約によって鎖国体制は終わりを告げた
最後になりましたが、鎖国は日本の近代化を遅らせたという事実もありますが、その一方でヨーロッパからの侵略を防いだという事実もありました。
いろんな出来事には一概に悪いとはいえないと思いますが、その代表例がこの鎖国ではないかと思いますね。