今回は、徳川家康が天下を取る重要なポイントとなった天下分け目の戦い!関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)について、わかりやすく解説していきたいと思います!
- 関ヶ原の戦いが起きたきっかけはなんだったのか?
- 戦いに参加していた有名な武将は?
- 小早川秀秋はなぜ石田三成を裏切ったのか?
さらに、これまでの通説を変える、関ヶ原の戦いの真実とはなんなのか!?
そんな疑問を、全部まとめて解決しちゃいます!
目次
関ヶ原の戦いとは?
天下分け目の戦いと呼ばれる関ヶ原の戦いとは、どんなものだったのでしょうか?
1600年、美濃の関ヶ原で行われた合戦ということは皆さんもご存知だと思います。
また、一日とかからずに決着した、短い戦いであったことも有名ですね。
実はこの関ヶ原の戦いは、6時間から7時間程度で決着したといわれています。
秀吉亡き後、徳川家康が大将の東軍と石田三成が大将の西軍が関ヶ原で行った合戦が、関ヶ原の戦いです。
先に関ヶ原に陣を構えたのは、西軍・石田三成でした。
関ヶ原の西側一面に陣を構え、さらには松尾山に小早川秀秋、南宮山に毛利軍や長宗我部軍が陣を構えていました。
あと少しで東軍を包囲できる状態のため、西軍がはじめのうちは有利でした。
しかし、いざ合戦が始まってみれば毛利軍や小早川軍は動かず、西軍はどんどん東軍に押されていきました。
そして、関ヶ原といえばはずせない、小早川の裏切りによって西軍は逆に包囲される側になってしまい、東軍が勝利する形で決着がつきました。
この関ヶ原の戦いでは、東軍西軍あわせて6000人~7000人の戦死者を出したともいわれています。
この戦いで東軍が勝利したことにより、徳川家康の天下がはじまるのです。
次は布陣図を見ながら、さらに詳しく関ヶ原の戦いを紐解いていきましょう。
布陣図
関ヶ原の戦いは、このような布陣で行われました。
西に石田三成を含む西軍が陣を構え、向かい合うように徳川家康ら東軍が陣を構えました。
そして、家康の背後を取るような形で、毛利軍や長宗我部軍がいたのです。
当初の三成の思惑通り、毛利軍たちが動いていれば東軍は挟撃される形になり、敗北またはかなりの苦戦を強いられることになったでしょう。
ですが、先に述べたとおり、毛利軍は動きませんでした。
長宗我部軍は早く出撃したいと思っていたそうですが、毛利軍は東軍が勝ったときの保険などを理由になかなか動こうとしなかったのです。
この時代、お家を守ることはとても大切なことだったのですね。
毛利軍以外にも西軍では多くの武将たちが戦に参戦することはなく、結局総数10万といわれていた西軍は3万程度まで戦力を削がれる形となりました。
それに対し、東軍はさまざまな策略をめぐらせ、小早川秀秋をはじめ何人もの武将を西軍から東軍へと寝返らせました。
東軍を追い詰めるはずだった毛利軍たちが動かなかったため包囲することもできず、味方がどんどん減っていく中で西軍は大谷吉継の討ち死になど、壊滅的な被害を受けて崩壊していきました。
この布陣を見ただけで、有名な武将が何人も参加したことがわかると思います。
次は、関ヶ原に参戦していた主な武将と東軍・西軍の戦力についてみていきたいと思います。
関ヶ原の戦いに参加した人数と主な武将
まず、勝利した東軍からみていきましょう。
東軍の大将は徳川家康でした。
家康の家臣である本多忠勝も、もちろん参戦しています。
その他にも、井伊直政や松平忠吉、細川忠興、福島正則、藤堂高虎などの有名武将が名を連ねていました。
名前はそこまで有名ではないですが、意外なことに織田信長の末弟・織田有楽斎(長益)も東軍として参戦し、功績を挙げています。
東軍の兵は、総勢7万ほどだったといわれています。
それに対し、西軍は反徳川勢力であった石田三成が大将を務めました。
西軍に参加した有名武将は、島左近や島津義弘・豊久親子、宇喜多秀家、大谷吉継などです。
このほかに、戦いには参加しなかった毛利秀元や長宗我部盛親ら、東軍に寝返った小早川秀秋や脇坂安治、朽木元綱などがいました。
西軍の兵は、本来なら東軍を上回る総勢10万のはずでした。
すべての武将が参戦し、寝返る者もいなかったとしたらあるいは、西軍が勝っていた戦いだったのかもしれません。
そもそも、この関ヶ原の戦いはなぜ起きたのでしょうか?
次は、戦いが起きたその原因について解説していきます。
戦いが起こった原因
1598年にそれまで天下を治めていた秀吉が死去すると、跡を継いだのは6歳の息子・秀頼でした。
当然のことですが、6歳の子どもに国を治めることはできません。
そのため、代わりに日本を運営していくことになったのが豊臣五大老と豊臣五奉行でした。
豊臣五大老は、各地の有力な大名から選ばれた権力者の代表で、
- 徳川家康
- 前田利家
- 毛利輝元
- 宇喜多秀家
- 上杉景勝
の五人のことです。
そして、豊臣五奉行は豊臣家の中で実際に政務を取り仕切っていた上層部で、こちらは
- 石田三成
- 増田長盛
- 浅野長政
- 前田玄以
- 長束正家
の五人でした。
この時点で、なんとなく家康と三成は仲が悪そうな気がしますよね。
実際、秀吉の死後に家康はそれまで禁止されていた大名たちの結婚の斡旋や、領地の授与などを許可なく行い、三成にひどく非難されることになります。
こういった家康の行いがきっかけで、武将たちはそれぞれ家康派、三成派に分かれていくことになりました。
この分裂が直接の原因か、と思われるかもしれませんが、実はこれ以前から豊臣家では内部分裂が発生していました。
それが、
- 三成ら官僚を中心とした戦場にはあまり赴かない文治派
- 最前線で戦っている武将を中心とした武断派
の対立です。
実は関ヶ原の主な原因は、こちらの豊臣家の内部分裂でした。
分裂が決定的なものとなったのは、それまで仲裁役を担っていた前田利家が亡くなった後のことです。
なんと、武断派の武将である福島正則や加藤清正、細川忠興、藤堂高虎などが、三成の暗殺を計画したのです!
結局この計画は未遂に終わりましたが、一時的に三成は失脚することとなりました。
この失脚をチャンスと捉えた家康は、天下を治めるための邪魔者を排除し始めます。
そして、上杉討伐のため家康が出兵すると、今度は大阪で三成たちが家康を打倒しようと動き始めます。
これは家康も承知のことでしたが、三成の監視を任せていた鳥居元忠が討ち死にした知らせを受けると、小山評定を開き三成を討伐することを決心したのでした。
こうして、関ヶ原の戦いへと続いていくのです。
三成は自身の立場上仕方のないことだったとはいえ、実はたくさんの武将たちに嫌われている存在でした。
そのこともまた、関ヶ原の戦いを起こすきっかけのひとつだったのかもしれません。
さて、ここまでは通説とされている関ヶ原の戦いについて解説してきました。
歴史小説などの題材にもよく選ばれる関ヶ原の戦いは、本当に西軍が有利な状態で始まった合戦だったのでしょうか?
関ヶ原の戦いの真実
関ヶ原の戦いという呼称は、合戦後の書状から使用されるようになります。
合戦当時の書状には関ヶ原より西側、三成が布陣していた山中と記されているのです。
これはつまり、関ヶ原の戦いの主戦場は山中であったということを示しています。
従来の関ヶ原の戦いのイメージのように、西軍がはじめは優位であったということは間違いで、実際ははじめから防戦一方の不利な状態だったのではないでしょうか。
そう考えると、三成が山中まで布陣してきた理由も、従来の戦力差が圧倒的だったため勝利できると思ったから、というのは腑に落ちません。
当時の史料である『吉川広家直筆書上案』によると、三成は山中にいる大谷吉継の救援のために大垣城から出陣したと記されています。
実はこの時、三成は小早川秀秋の裏切りをある程度知っていたといいます。
布陣図を見るとわかるように、大谷吉継のすぐ近くには小早川秀秋が布陣しています。
裏切り者がすぐ近くにいるということは、それだけ危険が増すということです。
古くからの親友であった大谷吉継を助けに行くという選択は、三成からしたら当然のことだったのかもしれません。
東軍にも当然、通説とは違う真実があります。
そのひとつが、小山評定は実際に行われていたのか、という疑問です。
家康が三成討伐を決心したという小山評定。
ここで家康は、「東軍西軍どちらにつくも、自由に決めるように」と武将たちに伝えます。
それに対し、福島正則が率先して東軍につくと表明し、それをきっかけに次々と武将たちが東軍への参加を決めたといいます。
しかし、実際にはこの小山評定を裏付けるような一次史料は発見されていないのです。
小山評定という言葉が登場するのは、1740年に幕府がまとめた『武徳編年集成』であり、それも書状の写しなのです。
これでは実際に行われていたというには証拠に乏しく、今後の史料発見が待たれるところです。
そしてもうひとつの真実が、小早川陣営への威嚇射撃はなかった、ということです。
もともと西軍として参加していた小早川秀秋は、本当に東軍に寝返っていいのかどうか迷っていました。
なかなか行動に移さない小早川に業を煮やした家康が行ったのが、小早川陣営への威嚇射撃、問鉄砲です。
これにより、家康が怒っていると慌てた小早川は寝返りを決意し、隣に陣を構えていた大谷吉継へ攻撃をし始めます。
しかし、実際には家康のいた陣営から小早川陣営は結構な距離があり、しかも小早川は標高293メートルある松尾山の山頂近くにいたというのです。
当時の火縄銃ではとても届く距離ではないため、実際にはなかったのではないかと考えられています。
史料によると、三成は関ヶ原の戦いが始まる前から小早川の裏切りをある程度知っていたようです。
しかし、本当に関ヶ原の戦いは武将たちの裏切りによって勝敗が決まったのでしょうか?
はじめから知っていれば対策ができそうですが、本当のところはどうだったのでしょう?
関ヶ原の戦いは裏切り者によって勝敗が決まった?
実は史料研究の点から考えると、関ヶ原の戦いははじめから西軍が総崩れ状態であったのではないかといわれています。
確かに、こんな短時間で決着がつくには、どちらも万全の状態では難しいかもしれません。
ほとんど勝敗が決まっているような状態からはじまったからこそ、短い時間で決着がついたのでしょう。
イエズス会の宣教師がまとめた『1600年日本年報』にも、合戦がはじまってすぐに西軍から東軍へ寝返った武将が何人もいたことが記されています。
東軍の策略というのもありますが、もともと西軍は結束が固いわけでもなく、統率も上手くいっていなかったのかもしれません。
また、合戦当日は関ヶ原に濃い霧が出ていたことが複数の史料からもわかっており、視界が不明瞭であったことも西軍の混乱に拍車をかけていたと考えられています。
西軍には寝返った武将が何人もいますが、その中でも小早川秀秋は有名な武将でしょう。
彼はなぜ三成率いる西軍を裏切ったのか?
次はその理由に迫りたいと思います。
小早川秀秋の裏切りの理由は豊臣秀吉への復讐だった!?
小早川秀秋は、実は秀吉の妻・ねねの甥でした。
3歳の頃に当時子どものいなかった秀吉の養子となりますが、秀頼が生まれた途端に豊臣家を追われることになり、小早川家の養子となりました。
その後、朝鮮の役へ従軍するも軽率な行動を咎められ、帰国後に三成によって領土を半分にされてしまいました。
この領土は家康の仲裁によって取り戻し、これをきっかけに家康に恩を感じるようになります。
幼い頃に秀吉に裏切られた上に、三成に領土を取り上げられ恨んでいた小早川秀秋が西軍を裏切るのは、当然のことだったのかもしれません。
関ヶ原の戦いでの寝返りばかりが注目され、悪人と勘違いされやすい小早川秀秋ですが、大名としては領民を大切にしていたことがわかっています。
小早川秀秋は関ヶ原の戦いの後、20歳という若さでこの世を去りました。
跡を継ぐ子もいなかったため、小早川家は断絶することとなります。
根っからの悪人というイメージがあるかもしれませんが、周囲に振り回されただけの優しい青年だったのかもしれません。
時代を大きく変えることになった関ヶ原の戦い。
実際にその場所に行って、思いをはせてみるのもいいかもしれませんね。
関ヶ原の戦いの場所
家康が率いる東軍と三成が率いる西軍が激しくぶつかった関ヶ原は、現在の岐阜県関ケ原町にあります。
この関ケ原町は、関ヶ原の戦い以外にも壬申の乱など歴史に関する魅力的なスポットがたくさんあります。
自然も多いため、季節ごとに違った景観を楽しむこともできます。
地図
https://goo.gl/maps/EYET8N5RpM72
地図で確認すると、広い範囲にわたって陣が構えられていたことがわかりますね。
関ヶ原の戦いは合戦跡地だけでなく関連のスポットがたくさんあるので、その中でもおすすめを紹介します。
関ヶ原の戦いの跡地散策おすすめスポット
各武将の陣跡だけでなく、開戦の地にも石碑が建てられています。
中でも三成が陣を構えた、笹尾山の展望台からは三成が見ていたであろう関ヶ原を見渡すことができます。
音声ガイドつきの地図が設置されているので、各武将がどの辺りにいたかも確認することができます。
また、関ケ原町歴史民俗資料館には関ヶ原の戦いの資料が展示されているので、当時の史料を見ながらじっくりと楽しむのもおすすめです。
天下分け目の戦いとして創作の題材によく選ばれる関ヶ原の戦いですが、小説や漫画、ゲームだけではなく映画もあります。
関ヶ原の戦いを描いた映画
2017年8月に公開になった映画「関ヶ原」。
なんと、構想に25年かけるという超大作になっています!
原作はあの有名な司馬遼太郎作の『関ヶ原』。
三成を中心に描かれるこの映画は、迫力のある合戦シーンなど見所が満載です。
「愛」と「正義」を貫く三成と野望に燃える家康の戦い、この映画は必見です!
構想に25年もかけた映画ですから、もちろんキャストも豪華!
映画関ヶ原のキャスト
物語の中心となる石田三成役には、多くの映画やドラマで主演を務める岡田准一さん。
そのライバルともいえる徳川家康役には、役所広司さんが抜擢されています。
他にも、有村架純さんや平岳大さん、東出昌大さん、松山ケンイチさんなど豪華なキャストさんが勢ぞろいしています。
2018年2月にはBlu-rayとDVDが発売、レンタル開始されていますので、是非見てみてください!
では、ここまでの内容をまとめてわかりやすく整理しましょう。
まとめ
最後に、関ヶ原の戦いについてまとめます。
- 1600年に関ヶ原で起きた徳川家康が率いる東軍と石田三成が率いる西軍の戦いを「関ヶ原の戦い」という
- 「関ヶ原の戦い」の原因は、豊臣家の武将たちによる内部分裂である
- 西軍の武将の中には、東軍への寝返りや参戦をしない者もいた
- はじめから西軍は崩れた状態であり、東軍が勝利した
- 小早川秀秋の裏切りの理由は、秀吉や三成を恨み、家康に恩を感じていたから
まとめてみると、案外あっさりした天下分け目の戦いだったようですね。
解説の中では触れませんでしたが、実はこの当時の日本は世界的に見てもすごい国だったことをご存知ですか?
なんとこの頃、日本には世界のおよそ70%を占める量の鉄砲があったそうです。
軍事力的に考えると、実は日本が世界一位だったともいえるのです。
今の日本からは考えられない、ものすごい状況だったようですね。
これでヨーロッパ並みの造船技術があったら、あるいは日本人が世界を手にしていた、なんてこともありえたのかもしれません。
それにしても、私たちにもこの頃の戦闘民族のような血が流れていると思うと、なんだか不思議な感じですね。