今回は、豊臣秀吉の一番の功績といっても過言ではない「太閤検地」について、わかりやすく解説していきたいと思います!
- 太閤検地とは、なんなのか?
- 何を目的に行われたのか?
- なぜ歴史上で重要な扱いを受けるのか?
秀吉が何を目指して検地を行い、後の世にどんな影響を与えたのか!?
そんな疑問を、全部まとめて解決しちゃいます!
太閤検地とは?わかりやすく解説
太閤検地とは、一言で言ってしまえば「秀吉が行った田畑の土地調査」のことです。
検地というのは、田んぼや畑の面積や収穫量をその土地の領主が調査をすることをいいます。
そして、太閤とは関白を辞めた人の尊称ですが、秀吉が好んで使っていたために秀吉の別称ともなりました。
太閤すなわち秀吉が行った検地だから、「太閤検地」なのです。
検地自体は、秀吉が行う前から各大名がそれぞれ行ったりしていました。
織田信長はもちろん、今川氏や武田氏、毛利氏なども行っていたことです。
ですが、太閤検地以前の検地はそれぞれが自分たちの基準や方法を用いて行っていました。
つまり、信長が行った検地と今川氏が行った検地では基準も方法も違っていた、ということです。
同じく土地の面積を測り、収穫量を調査しているはずなのに、結果を見せ合ったところで基準が異なっては比べようがありません。
そこで秀吉は、太閤検地を全国で行うにあたり、統一のルールを決めました。
それが、面積単位の統一、京枡の使用、土地単位の統一です。
秀吉が面積の単位を統一するまでは、実にさまざまな単位が使用され、統一されていませんでした。
同じように、米などの収穫量を測る枡も場所によって様々なサイズのものが使用されていました。
これでは、面積の表記もわかりにくいでしょうし、枡ひとつ分も場所によってまちまちではわかりにくくて仕方ありません。
そこで秀吉は曲尺(かねじゃく)の6尺3寸を1間と定め、誰が測っても同じ面積単位で把握できるようにしました。
枡も、当時京都を中心に使用されていた京枡にすることで、簡単に比較できるようになりました。
そして、土地単位もそれまで石高と貫高が使用されていたものを、石高のみに統一しました。
こうすることで、秀吉は全国の土地を正確に把握し、その土地の良し悪しを簡単に比較できるようにしたのです。
さらに秀吉は、土地の所有権もはっきりとさせました。
太閤検地が行われるまでは、平安時代から続く荘園制でした。
貴族や寺社が支配している土地を荘園と言いますが、そこは大変複雑な権利関係になっていました。
所有者である貴族や寺社だけでなく、そこを管理する人や実際に耕している人に至るまで、何人もの人が「ここは自分のかかわる土地だから、所有権や収穫物をもらう権利がある」と主張したのです。
そのため、誰が納税をすべきなのかわからない上に、収穫物も「これは自分の取り分である」と言って持っていってしまっていました。
こんな状態が続いては、天下を治めたとしても税の徴収が上手くいきません。
そこで秀吉は、「土地を耕すものに所有権があり、納税者とする」と決め、検地帳に登録していきました。
これを「一地一作人」といいます。
農民はこれによって土地を耕す権利を保障されましたが、その土地に縛り付けられることになりました。
こうして秀吉は、年貢がきちんと納められるシステムを作り上げ、さらには兵農分離を進めていくのでした。
では、ここで一度太閤検地についてまとめておきましょう。
- 「太閤検地」とは豊臣秀吉が行った全国的な検地
- 面積単位、枡、土地単位を統一した
- 土地権利を単純化し、一地一作人と定めた
- 農民は耕作権を保障されたが、土地に縛り付けられることになった
とはいえ、全国で検地を行い、耕作者を納税者と決めただけでは兵農分離は完了しません。
それに、全国の検地を行うには、時間もたくさんかかります。
秀吉はいつからいつまで検地を行い、その間にどんなことが起きたのか?
次は、その疑問を解消します。
太閤検地が行われた年号は?
秀吉が検地を始めたのは、1582年(天正10年)のことでした。
この年には、本能寺で信長が死に、山崎の戦いで明智光秀が敗走し、亡くなりました。
信長と光秀の死により全国統一への主導権を握ったことで、秀吉は全国で検地を行うことにしました。
そして、1588年(天正18年)には兵農分離を進めるため、刀狩令が発令されました。
京都に大仏を建立するという口実で、農民から刀や槍、鉄砲などの武器を没収したというのは有名な話ですね。
その後、身分統制により武士は農民や商人になることができなくなり、またその逆で農民や商人も武士になることはできなくなりました。
こうして秀吉による兵農分離は進められ、江戸時代に完成されたと考えられています。
もちろん、この間にも太閤検地は進められていきました。
特に1594年(文禄3年)には検地条目を制定し、翌年にかけて行われた検地は秀吉が行った検地の中でも大規模なものでした。
そのため、文禄検地と呼ばれることもあります。
文禄検地から4年後の1598年(慶長3年)に、秀吉は伏見城でなくなりました。
それと同時に、1582年から続いた太閤検地も終わりを迎えたのです。
秀吉は、天下への主導権をその手にしてから亡くなるまで、ずっと太閤検地をしていました。
秀吉の死後、この太閤検地は江戸幕府の土台となり、江戸の検地は秀吉のやり方をほぼ踏襲して行われました。
明治政府が年貢制を廃止するその時まで、秀吉の検地は連綿と受け継がれていったのです。
統一のルールを作ったということが、こうして後の世にまで広く普及していく重要なポイントだったのでしょう。
そのため、大化の改新や地租改正、農地改革と並ぶ土地制度上の重要な変革であったと評価されています。
この太閤検地は、長い年月をかけて政治や経済、社会、文化などに多大な影響を与えていったのです。
では、次は太閤検地から江戸時代まで引き継がれていった、貫高から石高への統一について詳しくみてみましょう。
貫高制から石高制へ
石高という言葉は、みなさん耳にしたことがあると思います。
よく宣伝などで聞くのが、「加賀百万石」ではないでしょうか?
その「百万石」というのは、お米の総生産量のことです。
どのくらいの量かというと、150,000,000kg。
お金に換算すると約600億円という、とんでもない経済力だったのです。
では、秀吉が石高制に統一する前まで並行して使われていた貫高とは一体なんでしょうか?
貫高とは土地の単位でした。
例えば、2000貫の土地というのは「年貢が銭で2000貫とれる土地」という意味です。
その土地の実際の面積や、生産量などははっきりとわからない大雑把なものでした。
そのため、貫高制では農民が収穫量をごまかすことが可能だったのです。
きちんと把握されていないのですから、実際より少ない収穫量を報告してもわかりませんよね。
「それでは困る!」ということで、秀吉は実際の土地の面積を測り、単位面積当たりの標準生産高(石盛)を基準にして石高を調査しました。
これにより農民は収穫量をごまかすことができなくなり、領主は領地と農民を正確に把握できるようになったのです。
そして、この石高制は江戸幕府に継承され、幕藩体制の主軸となったのです。
それにしても、加賀百万石、とんでもない量でしたね。
では、最後に太閤検地の目的と意義についてさらに詳しくみていきたいと思います。
太閤検地の目的と意義
太閤検地の目的は、それまでの複雑な土地権利関係を単純化することでした。
先に述べたように、太閤検地以前は荘園制でひとつの土地にとても複雑な権利関係がありました。
そのままでは税の徴収に支障があると秀吉は判断し、一地一作人を定め税を確実に徴収できるように権利関係を整理しました。
それは土地に農民を縛り付けることにもなりましたが、同時に小農民の自立を促す革新性もあったのです。
土地の権利関係を整理することは、税の徴収を確実なものにする以外にも意義がありました。
それが、中間搾取者であった地侍の廃止でした。
地侍とは、村では有力農民だが領主の前では侍という、農民でもあり武士でもある人たちのことです。
太閤検地はこの地侍たちに「農民になるか、武士になるか、どちらかを選べ」と迫ったのです。
その結果、農民を選んだ地侍たちは検地帳に登録され、兵農分離の基礎が固められていきました。
同時に刀狩を行うことで、秀吉は農民たちの一揆を防ごうとしたとも考えられています。
また、太閤検地で把握した石高は農民への徴税の基準だけでなく、その土地を治める大名や家臣たちの知行給付や家格などの基準となりました。
太閤検地によって進められた兵農分離や、石高制の導入などがそのまま江戸時代に引き継がれていくこととなります。
こうしたことから、太閤検地は江戸時代の基礎を築いたとも考えられ、歴史上でも重要な出来事であったと考えられているのです。
では、最後に全体をまとめましょう。
まとめ
今回は、秀吉の行った太閤検地について解説しました。
- 「太閤検地」とは豊臣秀吉が行った全国的な検地
- 面積単位、枡、土地単位を統一した
- 土地権利を単純化し、一地一作人と定めた
- 農民は耕作権を保障されたが、土地に縛り付けられることになった
- 刀狩などを並行して行うことで兵農分離を進めた
- 石高に応じて農民の納税額が決まり、大名の家格なども決まった
- 太閤検地で定められていったことが江戸幕府の土台となった
こうしてまとめたことで、少しわかりやすくなったかと思います。
全国の土地を調べるだけでなく、統一ルールを作ったということは、確かに歴史上でも大変な偉業ですね。
そしてそれが、後の穏やかな徳川の世を作る礎となったのです。
ですが、実は太閤検地も秀吉の当時の家臣たち全員に支持されていたわけではありませんでした。
中には、「老後の楽しみがなくなり、人の気味が卑しくなる」と政策に反対していた人もいたそうです。
「老後は農業を楽しみたい」と思う人は、いつの世の中にもいるものなんですね。