今回は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と柴田勝家が激突した、賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)について詳しく解説していきます!
これによって秀吉は、織田信長の後継者および天下人として頭角を現すことになります。
ただ、其れまで織田家の筆頭家老で、秀吉に比べて由緒正しい家柄だった柴田勝家はなぜ敗れたのでしょうか!?
また、秀吉はどのような戦略で勝家を出し抜いたのでしょうか。
さらに、この戦の舞台の功労者、伝説の七本槍(ななほんやり)とは何者なのでしょうか?
賤ヶ岳の戦いの裏に潜むドラマに迫ります!
賤ヶ岳の戦いとは?
この戦いの遠因は、本能寺の変にまでさかのぼります。
天正10年(1582年)6月、明智光秀の裏切りによって織田信長が本能寺で討たれ、長男で跡継ぎの信忠も光秀に攻められて自害します。
山崎の合戦で光秀が秀吉に討たれた後、主君の仇を討った英雄となった秀吉は、
- 柴田勝家(しばたかついえ)
- 丹羽長秀(にわながひで)
- 池田恒興(いけだつねおき)
を招き入れて、織田家の跡継ぎと、信長の遺産をどう分けるかの議論を開始します。
長男が親の財産を1人で相続する形は江戸時代になってから。
当時は子供1人が単独相続することになっていたのですが、それだと遺産をもらえない兄弟の不満が高まるということでこうなったわけです。
信長の孫の三法師(のちの織田秀信)はまだ3歳。
次男の信雄(のぶかつ)も三男の信孝(のぶたか)も信長に比べて才能の乏しい人物でした。
なので、実力のあった秀吉や勝家といった面々に頭が上がりませんでした。
秀吉は跡継ぎに三法師を推し、勝家は信孝を推します。
勝家が次男の信雄を推さなかったのは、信長が生きていたころ信雄は失敗が多く、親子の縁を切られる寸前まできており、無能とみなしていたからでしょう。
しかし秀吉は百姓上がりながら、主君の仇を討った忠義の士となっていました。
そのことから、勝家は由緒正しい家柄でありながら、信長が討たれたときに何もできなかったということで、皆秀吉になついてしまいました。
結局最後は、三法師が信長の跡継ぎ、信雄と信孝が後見人として彼を補佐することが決まったようです。
人たらしと呼ばれる秀吉のすごいところは、パフォーマンスもうまかったということ。
引継ぎの儀式の際に玩具で三法師を手なづけ、抱きかかえて勝家達の前に姿を現したことで、勝家達はひれ伏さざるを得なかったとしております。
このうわさが巷に広まれば、三法師は織田のトップ、さらに彼に気に入られた秀吉は幼い三法師の一番の補佐役として見られるというもの。
たとえて言うなら、秀吉は天皇に代わって政治を行う総理大臣のように見られるようなものでしょうか。
平安時代の藤原家も、自分の娘を天皇の后にして、その子を次期天皇とし、幼い天皇に代わって摂政として政務を担っていましたが。
結果、織田家一番の家臣であった勝家の影響力は低下し、秀吉の影響力が一番となります。
秀吉のしたたかな点は、敗れた勝家たちの恨みが募ることを理解し、会議後に柴田以外の織田家の実力者を集めて自身の派閥を作ります。
さらには10月11日から15日までの信長の葬儀に自分が信長の位牌を持って現れ、名実ともに信長の後継者としてアピールしている点です。
これによって、さらに秀吉が亡き信長の後を継いで、天下人となるというイメージが公私ともに広まったことは想像に難くありません。
さらには、三法師を抱えて離さない信孝に対抗するため、信孝と勝家を謀反人と決め、11月1日に清須会議の内容を破棄、織田信雄を後継者として定めます。
あっさりと会議内容が破棄されたあたり、この時の秀吉にとって、三法師も信雄も信孝も、自分が天下を取るための『担ぐ神輿』としか見ていなかったと考えられます。
あっさり会議の内容を破り、信長の後継者をあっさり変える秀吉を見て信孝も勝家も、『秀吉は主君の後継者を神輿に、それも軽くてパーな人間を担ぎ上げ、それを隠れ蓑に天下を取ろうとする極悪人』にしか見えなかったのでしょう。
自分が逆賊でないことを証明するのと、秀吉の不義を訴えるために、ついに力技という形で挙兵します。
3月12日に勝家は家臣の佐久間盛政、かねてから彼と親しかった前田利家とともに3万を近江国柳ヶ瀬(おうみのこくやながせ)に布陣させます。
かたや秀吉軍は3月19日に5万の兵を木ノ本に布陣。
しばらくの間は砦を固めて睨みあっていました。
しかし4月16日に、一度秀吉に降伏していた信孝が挙兵して岐阜城、つまり秀吉の本拠地に向かったことから、秀吉はそちらの対策を打たねばならず、近江を離れます。
勝家は大将がいなくなった秀吉軍のスキを突き、盛政を大将として4月19日に秀吉方の黒田孝高(官兵衛)、高山右近の軍に攻め入り、右近を敗走させることに成功。
勝家は盛政に撤退を命じますが、血気盛んな盛政は退こうとしませんでした。
4月20日、秀吉方の丹羽長秀は琵琶湖を渡っていましたが、家臣の「待て」という意見を押しのけて進路を変更し、大将がいなくなって劣勢に立たされていた秀吉軍と合流し、盛政の軍の撃破に成功。
これが勝家第1の誤算といえるでしょう。
同日、勝家方の攻撃を美濃の大垣城(おおがきじょう)で知った秀吉は14時に出発、大垣城から木ノ本までの52キロを5時間で移動。
これは後世に『美濃大返し』と呼ばれ、山崎の戦いで秀吉の勝因ともなった『中国大返し』の小型版といえるもの。
現代のオリンピックのマラソンが、1日かけて約40キロのルートを走るものであることを考えても驚異的な速度です。
中国大返しの時と同じで連絡もしっかりしており、盛政はその軍の機動力と情報伝達の速さに仰天したといわれます。
浮足立った盛政は翌日早朝の秀吉の攻撃を、少数の兵で迎撃しなければならなくなります。
これがおそらく、勝家第2の誤算。
盛政が何とか秀吉の攻勢を食い止めているさなか、なぜか、柴田側の前田利家の軍が突然戦線離脱します。
かねてから勝家と親しかった利家ですが、秀吉軍の驚異的な移動速度を見て、「これは勝てない」と思ったのでしょう。
勝家の勢力の5分の1を率いていた利家までもが勝ち馬についた結果、後方の守りの陣形が崩れて盛政軍の士気が下がり、柴田軍全体の士気も下がります。
これが勝家第3の誤算。
加えて、利家軍と対峙していた軍が盛政への攻撃に加わり、ついに盛政軍は退却。
これを機に秀吉軍は勝家の陣に殺到し、多勢に無勢となった勝家は越前・北庄城に退却。
4月23日には北庄城(きたのしょうじょう)が利家を先陣とする秀吉の軍に包囲され、翌日、勝家は妻のお市とともに自害(義理の娘であった茶々、初、お江は秀吉のもとに引き取られます)。
佐久間盛政は孝高の軍に捕らえられて打ち首、罪人として首を京の六条河原(ろくじょうがわら)にさらされます。
勝家の後ろ盾を失った信孝も、岐阜城を秀吉の神輿であった信雄に包囲されて降伏、4月29日に自害します。
『報いを待てや羽柴筑前』という辞世を残して。
賤ケ岳の戦いによって勝家の勢力は一掃され、名実ともに秀吉が天下を取るための下地が出来上がりました。
次に、賤ケ岳の戦いの布陣を見ていきたいと思います。
賤ヶ岳の戦いの布陣図
上図のように
- 堀秀正、小川裕忠、木下一元×柴田勝家
- 木下一元、木村隼人正×前田利家、不破勝光
- 丹羽長秀、羽柴秀吉、羽柴秀長×柴田和正、佐久間盛政
という風に激突したものと考えられます。
前田利家と不破勝光(ふわかつみつ)の戦線離脱が、木下と木村の盛政・勝家本隊に攻撃を移すことに成功。
人たらしで人を集めるのがうまく、なおかつ主君の仇を売った秀吉に、ただでさえ数で劣る勝家が敗れるのは当然だったのかもしれません。
次に戦の分岐点となった、前田利家の裏切りについて話します。
敗因は前田利家の裏切り?
もちろんそれも勝家側にとっては誤算だったのでしょうが、先ほども述べたように、勝家の誤算を挙げていくならば
- 丹羽長秀の予想外の合流
- 秀吉の美濃からの猛スピードの帰還
- 利家の裏切り
といったところでしょう。
もともと利家は勝家と若い頃から親しく付き合っていたされています。
ですが、『犬と猿』と呼ばれて親しく交流していた秀吉との板挟みに苦しんでおり(利家の幼名は犬千代、『猿』はもちろん秀吉の仇名)、複雑な立場にいたようでした。
そのなかで秀吉の近江からの予想外の速さの期間が、利家の肝を冷やしたんだと思われます。
人はみな勝ち馬につきたがるもので、これは勝てないと利家は見たのでしょう。
賤ケ岳の戦いで5000、つまり勝家の勢力の5分の1を率いていた利家の戦線離脱はそれでも大きかったのは確か。
勝家は敗北して北庄城に逃げる際、彼に湯漬けを所望したといわれています。
のちの関ヶ原の小早川秀秋のように『風見鶏、裏切り者』とされないあたりは利家自身の人望でしょうか。
やがて越前府中城にこもった利家は堀秀正に従って降伏、本領を安堵されることになります。
次に、この戦いで一躍有名になりスターとなった、賤ケ岳の七本槍について話します。
賤ヶ岳の七本槍とは?
「賤ヶ岳の七本槍」とは、賤ケ岳の戦いで活躍した七人の兵士のことを指します。
ですが、彼ら以外にも石田三成、大谷吉継といった面々が先陣で活躍しています。
しかも七本槍は自前の配下を持たない、現代でいうと二等兵といったところであり、普通はあまり注目されない立場。
これは百姓出身で、先祖代々の家臣を持たない秀吉が、自分の子飼いの武将のデモンストレーションのために作り上げたものだといわれています。
デモンストレーションは人を魅了するもので、七本槍の実力、七本槍の武器、スポークスマン秀吉の才能、人々の興味、それら一つ一つはそこそこでも、デモンストレーションの場で一つに重なって大きな雰囲気を作り上げる、この雰囲気というのが曲者。
今でいうなら、『劇場型政治』の前身というべき代物です。
当の七本槍たちは有名人になることは好きではなかったようで、福島正則も『脇坂などと一緒にされるのは嫌だ』と言っており、加藤清正も七本槍扱いされるのを嫌っていたとか。
メンバーは
・加藤清正(1562年 - 1611年)
虎退治で有名ですが、こののち秀吉の家臣として活躍します。
しかし関ヶ原で東軍として石田三成を討ち、結果として親代わりの豊臣の弱体化をもたらしてしまい、豊臣の行方を案じながら病死します。
この後、徳川時代において加藤家はとりつぶされました。
・福島正則(1561年 - 1624年)
酒豪で有名で、関ヶ原の戦いでやはり東軍に属しますが、大阪の陣ではなぜか豊臣を裏切って徳川につきます。
やがて徳川幕府の世になって城を無断で直したということで、取り潰しとなるのです。
・脇坂安治(1554年 - 1626年)
関ヶ原の戦いにおいては早い段階で家康と連絡を取っており、小早川秀秋の裏切りとともに彼も西軍の大谷吉継の陣に攻撃をかけます。
秀秋と違って裏切り者とみなされず、当初から家康の味方と評されて伊予5万石を与えられます。
・片桐且元(1556年 - 1615年)
豊臣姓を許された直参で、関ヶ原の戦い以降も育て役として豊臣秀頼に仕えました。
しかし『真田丸』で『ぬけ作(幼名「助作」のもじり)』と呼ばれたように、コミュ力と人望は今一つ。
方広寺鍾名事件で徳川方に裏切ったと疑いをかけられ豊臣を去り、大阪の陣で徳川方となります。
・加藤嘉明(1563年 - 1631年)
豊臣家恩顧の大名で、関ヶ原の戦いでは東軍にくみしますが、加藤清正の子孫や福島正則が没落していくのに対し、こちらは会津43万石の大大名となりました。
・平野長泰(1559年 - 1628年)
所領は5千国と小さいものでしたが、関ヶ原の戦いでは東軍、大阪の陣においても徳川の江戸城留守居役となり、以降は幕府旗本として生きるようになります。
・糟屋武則(1562年 - 不詳)
関ヶ原の戦いでは七本槍で唯一西軍に属した人間ですが、戦後取り潰し。
その後は浪人時代を経て旗本に召し抱えられたなど諸説あり、正確なことはわかってません。
さて、戦いに勝利した秀吉は徳川家康から戦勝祝いを与えられ、派手好きの秀吉から気に入られることになるのですが、ちょっと紹介します。
徳川家康からの戦勝祝い
1583年5月、当時三河を領地にしていて、賤ケ岳の戦いに参加できなかった家康から使者石川数正が訪れ、戦勝祝いとして茶器「初花肩衝(はつはなかたつき)」が献上されます。
茶器として名高いもので、派手好きの秀吉は特にこれを気に入り、大阪城初の茶会からたびたびこれを飾ったといわれています。
これは秀吉は初花を使用して見せることで、自分が風流人で、信長-信忠-秀吉と続く織田政権の後継者と周囲に示そうとしたものと考えられます。
家康は信長配下の秀吉と異なり、三河松平の村の支配者の家に生まれ、信長とは『家臣』ではなく『同盟相手』という関係でした。(表向きであり、力関係では信長のほうが上でしたが)
賤ケ岳の戦いは織田家家臣の権力争いであり、織田家の外にいる家康は参加もできないし、する必要もなかったと思っていたのでしょう。
戦勝祝いを秀吉に渡すことで、秀吉との結びつきを強くすると同時に、天下人となる秀吉の傘の下に収まろうとする意識が見えます。
ここで、賤ケ岳の戦いの場所を紹介します。
賤ヶ岳の戦いの場所
賤ケ岳は現代の滋賀県長浜市(しがけんながはまし)に位置しております。
北陸を領地とする勝家にとって、冬は雪で埋もれやすく、行動しにくかったことが想像できます。
一時は利家を使者として秀吉と見せかけの同盟を結び、時間稼ぎを図っていたという形を下あたり、相当雪が移動に不利だったことがうかがえます。
そのため雪が解けて春になる4月を見計らって戦を起こしたと考えられます。
下が地図です。
地図
まとめ
賤ケ岳の戦いは、主君である信長の後継者選びを隠れ蓑とした、羽柴秀吉と柴田勝家の権力闘争といえるでしょう。
その中で秀吉が勝てたのは、
- 『人たらし』と呼ぶべき彼の人心掌握力
- 人々へのスポークスマンとしての力とパフォーマンスのうまさ
- 美濃大返しで見せた、自分の軍隊の統率力
- 目的のためならば、主君の子ですら用済みの神輿として自害に追いやろうとする合理性
この4つといえましょう。
調略と懐柔の名手であった秀吉の天下取りへの道が、ここから開いていくのです。