山崎の戦いをわかりやすく解説!明智光秀の最後と場所や勝因についても

山崎の戦いといえば、明智光秀が命を落とした戦いですね。

 

しかし、あの織田信長を討ったほどの人物は、なぜあっけなくやられてしまったのでしょうか。

彼ほどの知略の持ち主ならば、この戦いも十分に予期できたはずです。

 

それでも、後に天下人となる羽柴秀吉には敵わなかった、そこにはある決定的な差が!

 

今回は、そんな山崎の戦いの概要と敗因、主要な登場人物や、起きた場所や跡地の現在などについてもまとめてご紹介していきます!

山崎の戦いをわかりやすく解説

明智光秀
明智光秀

この章では、山崎の戦いのきっかけと、両軍の形成過程について見ていきます。

 

ことの発端は、京都に滞在していた天下人・織田信長に対し、家臣である明智光秀が謀反を起こしたことです。

有名な本能寺の変です。

 

この事件の報を受け、羽柴秀吉は打倒光秀に向けて動き出します。

光秀を討ってしまえば天下人の地位が手に入るわけですからね、燃えますね。

 

秀吉は当時、高松城で毛利軍と交戦中でした。

秀吉が本能寺の変を知ったのは天正10年の6月3日ですが、その8日後には尼崎に来ていました。

これを「中国大返し」といいます。

 

その間に毛利軍との和議の締結、守将の自刃の検分、撤兵を行なっているわけですから、驚くべきスピーディさですね。

 

また、秀吉は各地の武将を味方につけて兵力を整えるのにも一工夫していました。

中川清秀という武将からの書状に対し、秀吉はなんと、信長が存命中で、信長に従った者が功績を立てた、と返したのです!

このような虚報まで流して尽力した結果、秀吉の兵力は2万を超えました。

 

その一方、光秀側は織田家の中の有力武将への対策を固めようとしていました。

最も有力と考えられたのが、当時上杉軍と交戦中にあった柴田勝家です。

光秀は近江を無事平定して、柴田氏対策に成功しますが、次に兵力を整えきれないという問題が浮上します。

 

細川氏は、信長の喪に服すとして光秀への加勢を拒否、筒井氏は秀吉側に寝返ってしまいます。

両者とも実は光秀と縁戚関係にありました。

 

そんな親密な関係性の武将たちを味方につけられなかったことが災いして、結果的に羽柴軍と明智軍の兵力差は2倍ほどになってしまいました。

 

次の章では、両軍の布陣と戦闘の模様について見ていきます!

山崎の戦い布陣

まずは戦時の両軍の布陣について見ていきます。

 

羽柴軍には、中川清秀・高山右近・織田信孝・池田恒興といった武将がいました。

一方の明智軍は、斎藤利三・柴田勝定のほか、旧足利幕府の幕臣などです。

 

当初、大軍が通過できる場所が天王山と沼地の間の狭い空間しかなく、明智軍はその出口を封鎖するように陣形をとりました。

そのため最初の奇襲により、羽柴軍の中川・高山両隊は一時大ピンチになりました。

 

そこに羽柴軍本陣から名将・堀秀政が登場、羽柴軍は危機を脱します。

秀政は部下への気配りや戦時の判断に長けた武将で、ここでも大活躍しました。

 

戦局が大きく動いたのは、池田恒興を中心とした手勢が奇襲作戦をとった場面です。

これを機に、苦戦を強いられていた中川・高山両隊も巻き返しを見せ、明智軍は混乱に陥りました。

 

次の章では、羽柴軍の追っ手から逃げる光秀の、最期に迫ります!

明智光秀の最後

両軍とも戦力の消耗がかなり進んでいきましたが、光秀側はそれに加えて士気の低下が著しく、兵の離散や逃走が相次ぎました。

 

光秀は居城である坂本城を目指す途中、落ち武者狩りに遭って命を落としたとも、生き延びるものの力が尽きて自刃したとも言われています。

 

しかし、ここに一つの説があります。

実は光秀は生き延びて、出家して南光坊天海となった、という説です。

 

この天海という人物は、とても長寿の僧侶として有名で、徳川家光時代まで、幕府の朝廷政策に深く関わりを持ちました。

光秀と天海両者の生年が近いこと、天海の墓所である日光に明智平という地名が残っていることなどが根拠とされています。

 

また、天海という人物、出自がはっきりしていないのです。

自らの生い立ちを語らなかったと言われています。

 

謎が多い両者ですので、もしかしたら事実かもしれないですね。

 

次の章では、山崎の戦いの場所について見ていきます!

山崎の戦いの場所

山崎は、当時の摂津国と山城国の境、現在の大阪府と京都府の境にあります。

羽柴・明智両軍は、現在の小泉川を挟んで陣形を取っていました。

 

この川から見て羽柴軍の方に天王山があるのですが、この天王山とは何なのか、次の章で詳しく見ていきます。

天王山とは?

この山崎の戦いは、天王山の戦いとも呼ばれます。

 

天王山は、現在の京都府にある山の名前であり、地峡を扼していたことから、応仁の乱などにおいても戦略上の要点とされていました。

山崎の戦いでも、この山を制した方が戦いに制するとされていました。

 

このことを由来として、現在「天王山」という言葉は、勝敗を決する大事な機会、という意味で用いられています。

地図

山崎の戦い両軍布陣図(出典:小学館)

山崎の戦い古戦場跡

山崎の戦い 石碑
出典:ウィキペディア

山崎の戦いは、現在の大山崎JCTあたりを挟んで行われたと言われています。

京都府大山崎町の、天王山夢ほたる公園には、山崎合戦の地であることを示す石碑が建てられています。

 

この石碑付近に行くと、この町の観光アプリで山崎合戦の様子を簡単に紹介した動画を見ることができるようです!

この石碑は、高速道路の高架下にあるので、ぜひ目印にしてください。

 

また、この町にある旗立松展望広場からは、山崎の戦いの古戦場が一望できます。

まとめ

いかがでしたでしょうか。

それでは最後にもう一度、山崎の戦いについておさらいの意味も込めて振り返ってみます。

 

まず、光秀が本能寺の変を起こしたことが戦いの発端でした。

それに対し、秀吉は「中国大返し」ですぐに畿内にやってきます。

 

秀吉は工夫を凝らして上手く兵を集められましたが、光秀は近江方面を盤石にしておく必要性から、戦いにおける兵力が秀吉軍に劣っていました。

その兵力差がもとで、光秀軍は完敗し、秀吉が天下人としての地位を得ます。

 

また、光秀の最期には謎が多く、出家して徳川家に仕えたという説もありましたね。

戦いにおいては、天王山をどちらが制するか、が大きなポイントであり、この「天王山」という言葉は現在一般的に用いられています。

 

この戦いの古戦場は、地元大山崎町が大きくPRする場所であり、見所が満載でしたね。

皆さんぜひ古戦場を訪れてみてください!

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