源平合戦とは?わかりやすく解説!場所や年表と屋島の戦いについても言及!

今回解説していくのは日本史の中でも特に人気のある源平合戦について!

この合戦があったことによって時代は平氏の時代から源氏に移り変わっていくことになるのですが、今回はそんな源平合戦について

 

  • 源平合戦とは一体どんな合戦なのか?
  • 源平合戦の年表と場所
  • 源平合戦の屋島の戦いと扇の的伝説について
  • どうして紅白戦は源平合戦が由来なのか

 

などなど源平合戦のことについて詳しく解説していきたいと思います!

源平合戦とは?

源平合戦とは、1180年の以仁王の反乱から1185年の壇ノ浦の戦いまでの5年間の源氏と平氏の争いのことを指します。

 

ちなみに、この時の元号である治承と寿永から治承・寿永の乱と呼んだりすることもあります。

 

平治の乱以降源氏を倒した平氏たちは平清盛が太政大臣に就任したことに始まり、清盛の親族たちがどんどん公卿(従三位以上の官位についた人のこと)に就任していき朝廷の役職を独占し始めます。

さらにはその領地も日本の全領土の3分の2を占めるほどだったとか。

 

このため、平氏たちは自分たちが日本を動かしていると感じ始め、「平氏にあらずんば人にあらず」という名言(?)も言うほど、どんどん朝廷をないがしろにし始めます。

 

こんなことされちゃ朝廷も黙ってはいられません。

 

この平氏の横暴に怒った後白河上皇の息子以仁王は源氏の残党に対して平氏打倒の綸旨を発令。

伊豆に流されていた源義朝の息子である源頼朝を始め各地の源氏が立ち上がり戦が始まりました。

年表

源平合戦を年表でまとめてみると、このようになります。

 

1180年5月 以仁王が挙兵 宇治で敗死するがこの戦いによって源平合戦が始まる

1180年6月 平清盛が福原へ遷都する

1180年8月 源頼朝が挙兵 石橋山の戦い

1180年10月 富士川の戦いで平氏が大敗

1181年1月 南都焼討 これによって興福寺と東大寺が焼失する

1181年2月 平清盛が死去 平宗盛が家督を継ぐ

1183年5月 倶利伽羅峠の戦い 平氏が大敗して北陸道の支配圏を失う

1183年8月 平氏か都落ちし、義仲が上洛

1184年1月 宇治川の戦い 義仲が近江国にて敗死

1184年2月 一ノ谷の戦い

1185年2月 屋島の戦い

1185年3月 壇ノ浦の戦い 平氏滅亡

場所

源平合戦は全国各地の源氏が一斉に挙兵したことから全国各地が戦の舞台となりました。

 

そんな源平合戦でも特に規模が大きかったのが、前半だと富士川の戦い倶利伽羅峠の戦い。

後半戦となると一ノ谷の戦い屋島の戦い壇ノ浦の戦いなどが特に有名です。

 

源氏は頼朝や義仲などを始め東国を本拠地としていた武士たちが多かったこともあり、源平合戦の主戦場も富士川(静岡県)や倶利伽羅峠(石川県・富山県)のように中部地方や北陸地方から、一ノ谷(兵庫県)や壇ノ浦(山口県)のように東から西へと攻めるというパターンが多かったです。

最終戦地の舞台の屋島

源平合戦の戦いの一つである一ノ谷の戦いで、平氏は鵯越の逆落としと呼ばれる義経の奇襲戦法によって敗北。

この戦いによって平氏方は一門を多く失ってしまい、再起不能一歩手前の深手を負って屋島へと撤退。

屋島で本拠地を置いて瀬戸内海の制海権を確保してなんとか勢力を保とうとしました。

 

しかし、源氏は強力な水軍はなくても軍事力にて中国地方を制圧。

さらに平氏の勢力基盤がある九州地方や四国地方にも手を伸ばそうとします。

 

義経は後白河上皇の綸旨を受けて屋島へと出撃。

 

水軍が強かった平氏を倒すには無理矢理陸戦に持ち込まなければならないと感じた義経は、屋島を海から襲撃するのではなく陸路から攻めるという手段を取り、屋島がある讃岐の南側にある勝端(徳島県徳島市)に上陸。

 

そこから平氏の背後をつき義経は決定的な勝利を収めました。

 

この戦いによって平氏の崩壊は確定的なものになり、さらに源範頼による九州地方制圧も相まって平氏は下関海峡に浮かぶ彦島に孤立する状態となり、壇ノ浦の戦いへと繋がっていくことになるのです。

屋島の戦いで活躍した那須与一とは?

こうして源氏の勝利に終わった屋島の合戦なんですが、この屋島の戦いの中で有名になったのが那須与一の扇の的伝説でしょう。

 

当時、合戦というものは夕方になると休戦状態となるのが常識であり、屋島の戦いでも夕方になると休戦するようになります。

 

そんな時、平氏のある女性が竿の先についている扇の的を撃ち落とせと挑発し、源氏方の武将は弓に自信がある人を連れて来いと命令をかけます。

 

その時満を持して現れたのが那須与一。

那須与一は扇の的を鏑矢という矢で見事に撃ち落とし、平氏と源氏の武将から賞賛を受けたそうです。

 

元々那須与一の生まれた家は平氏側についていたんですが、この扇の的伝説もあって所領は倍増。

本拠地であった那須家を最盛期に導くなどの業績を残しました。

紅白戦の由来は源平合戦?

今では紅白歌合戦や運動会などは一般的には紅色と白色が使われるのがほとんど。

でもどうしてわざわざ赤色ではなく紅なんでしょう?

 

実はこの紅白の由来は源平合戦が由来だと言われています。

源氏というのは昔から白旗を掲げ戦っており、一方の平氏は紅旗を掲げて戦っていました。

 

武士というのは時代が下って江戸時代になったとしても源氏か平氏のどちらの末裔なのかにすごくこだわっており、源氏の子孫ではなければ征夷大将軍にはなれないというジンクスも生まれるほど、源氏と平氏の二つの家系は非常に重要な意味合いが込められていました。

 

ちなみに、どうして赤色ではなくわざわざ紅色にしたのかというと元々紅は中国では幸運をもたらす色として信仰されており、その一方で赤は赤っ恥や赤裸々や赤ちゃんのように「何にもない」や「むき出し」という意味があったのです。

 

そのため、運気を呼び込もうと赤色ではなく紅色がわざわざ持ち出されたのですよ。

 

また、薔薇戦争におけるランカスター家(赤いバラ)とヨーク家(白いバラ)や、共産主義の赤色革命と資本主義の白色革命などのように世界的にも紅色と白色は対立関係にあるんだとか。

源平合戦図屏風

源平合戦は後世にも平家物語などに代表される軍記物語に書き記されているように、多くの武士や民衆が知っている有名な合戦でした。

 

そんな中、江戸時代に入るとこの源平合戦の一部始終を屏風に描写しようとしたのです。

そんな源平合戦を描写した屏風の中でも特に有名なのが、こちらの狩野吉信作の源平合戦図屏風です。

 

この屏風は、一ノ谷の戦いにおける鵯越の逆落としを始め、那須与一の扇の的伝説、そして壇ノ浦の戦いにおける平氏方の武将の入水などをエネルギー溢れる武将を表現しています。

 

源平合戦は江戸時代になってもとても人気だったということが分かったところでまとめに入りましょう。

まとめ

それでは、最後にまとめに入ります。

 

  • 源平合戦とは1180年から1185年まで続いた源氏と平氏の争いのこと
  • 源平合戦は以仁王の命令によって立ち上がった源氏が平氏と戦ったこともあって主戦場も東から西へと変わっていった
  • 屋島の戦いにおいて源義経は平氏が得意としていた水軍で戦わず、あえて陸路で奇襲作戦を行い勝利を収めた
  • 屋島の戦いでは那須与一の扇の的伝説が有名
  • 源平合戦は江戸時代でも有名であり、屏風などに合戦の様子が描写されている

 

最後になりましたが、源平合戦は平家物語にも書き記されているように、後の世にも影響を与える日本史の中でも特に重要な合戦でした。

その後、源氏は幕府を開き鎌倉時代が始まりますが、源平合戦はその時代を築いたのですね。

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