板垣退助の暗殺未遂事件と名言について!経歴や自由民権運動と子孫についても

今回解説していくのは自由民権運動を推し進めた板垣退助

 

彼は、高知県を中心に民間に政治の権利を与えるように活動を行なっていくのですが、今回はそんな彼について

  • 板垣退助の暗殺事件について
  • 板垣退助の経歴と年表
  • 板垣退助の子孫と家系
  • 自由民権運動とはなんだったのか?
  • 板垣退助と坂本龍馬・西郷隆盛の関係

 

などについて詳しく解説していきたいと思います!

板垣退助の暗殺未遂事件について

1882年4月6日、この日岐阜で演説を行おうとしていた板垣退助が暴漢に襲われてしまった暗殺未遂事件のことです。

 

この当時自由党は結構今で言うところのリベラルというべき存在であり、右翼の人からはあまりよく思われていませんでした。

 

そのためこのような事件が起こってしまったのですが、板垣退助は出血多量だったものの一命を取り留めて、自由民権運動をさらに進めていくことになるのです。

名言「板垣死すとも自由は死せず」

板垣退助といえば「板垣死すとも自由は死せず」という名言が有名です。

 

ただ、実はこの名言は創作であったという説が非常に高いと言われています。

そもそも暴漢に腹部を刺されてそんな堂々としたことが言えるとは流石の明治の偉人でもいえなかったとは思います。

 

また、板垣自身もこの岐阜事件について聞かれた時にに「アッと思うばかりで声も出なかった」とも書いていることを見るとデマであることが確定しているということがよくわかります。

 

ちなみに、実際にはこれに似た様な

  • 「私を殺しても自由はなくならないぞ」と土佐弁で小さく言ったという説
  • 「痛いから医者を呼んでくれ」とかなり現実的なことを言ったという説

 

があります。

犯人は?

板垣を襲撃した犯人である相原尚褧は愛知県の小学校の教員をやっていたとされ、当時保守的な新聞であった東京日日新聞の記事を見て保守主義に傾倒していく様になりました。

 

そのため、これまでの政治体制を覆そうとする板垣退助の行動は彼にとったら邪魔でしかないため、岐阜事件という一大騒動を起こしてしまったのです。

岐阜事件の後、相原は殺人未遂の罪によって無期懲役の判決を受けてしまいます。

 

しかし、1889年に大日本帝国憲法発布の恩赦があって釈放されると板垣退助の家に訪れて謝罪したんだとか。

 

普通なら生命の危機でしたのでぶん殴ってもおかしくないのですが、板垣は過去のことは水に流そうと彼のことを許したんだそうです。

板垣退助の経歴

板垣退助
出典:(ウィキペディアより)

板垣退助は1837年、土佐藩の有力藩士の嫡男として生まれます。

板垣退助は家柄もよく、将来を約束された身分でしたが、彼は幼少期はかなりやんちゃだったそうで下々の人たちと接していき、これが彼ののちの人生の糧となることになりました。

 

その後板垣は学者であった吉田東洋の影響を受け、文武の修業に励むようになり、家柄もあいまってか土佐藩の中でも家老クラスのところまで出世し、頭角を現すようになってきます。

 

さらに板垣は谷干城らとともに迅衝隊を結成してリーダーとして戊辰戦争で活躍

明治維新がなされた後では新政府の中で参議というポジションについて西郷隆盛らとともに政府を動かしていくのですが、この当時征韓論の問題に衝突し、政府から下野。

 

故郷の高知県に戻った後は後藤象二郎らと共に民撰議院設立建白書を政府に提出し自由民権運動を開始。

愛国公党立志社を設立して民間が政治を行うシステムを作ろうと奔走していきます。

 

その後岐阜事件などの災難にあいながらも

 

  • 1890年立憲自由党を結成して第2次伊藤内閣の内務大臣を務める。
  • 1898年大隈重信と共に憲政党を結成し、第一次大隈内閣の内務大臣を務める(隈板内閣)。

 

そして第一次大隈内閣が倒れると政治から引退。

その後1914年に82歳でこの世を去りました。

年表

1837年 土佐藩の有力藩士の嫡男として生まれる

1867年 薩土密約を結ぶ

1868年 迅衝隊を結成して甲州勝沼の戦いで勝利を収める

1871年 新政府の参議になる

1873年 明治六年の政変で政府を辞職

土佐藩にて愛国公党を結成 自由民権運動の始まり

1881年 自由党を結成

1882年 岐阜事件

1898年 第一次大隈内閣の内務大臣に就任する(隈板内閣)

1919年 83歳で死去

政治結社を成立

板垣退助の功績の一つに自由党や憲政党などの政治結社を成立させたことがありました。

 

板垣退助は1874年に立志社という政治結社を設立。

片岡健吉をトップに据えて自由民権運動の先頭に立ち、民撰議院設立建白書や、天賦人権論などを主張してフランス式の急進的な自由主義を目指してら国会期成同盟の中心的役割を果たしました。

出身

板垣退助は後藤象二郎や坂本龍馬と同じ高知県を治めていた土佐藩に生まれました。

 

板垣退助は土佐藩の中でも特に有名な名家に生まれていたため、かなり恵まれていた方だったのでしょう。

死因

板垣退助はあの岐阜事件によって暗殺されたと思いの方もいるとは思います。

ですが、実はあの事件後でも板垣退助はバリバリ活動しており1919年に82歳で大往生を遂げました。

 

死因は一説によると胃がんだったと言われています。

家系図

板垣退助は土佐藩の中でも屈指の名家の生まれでした。

板垣退助のずっと前の祖先は板垣信方といって武田信玄の重臣として活躍したそうです。

 

その後息子がへまを犯したせいで武田家から追放されることになるのですが、板垣家は乾家の養子となり掛川を治めていた山内一豊の家臣となりました。

そして関ヶ原の戦いの後土佐藩を任される様になった山内一豊とともに土佐に移住。

 

その子孫が板垣退助というわけなんです。

子孫

板垣退助には10人の子供がいて、今でもその家系は続いています。

 

ちなみに、板垣退助の玄孫に当たる板垣守正という人はよりによって板垣退助が設立した自由党の流れを汲んでいる政友会のライバル政党であった立憲民政党に入党し、板垣家から勘当されるという大騒動も起こしたりしています。

銅像

板垣退助は

  • 高知
  • 岐阜
  • 日光

の三つにありました。

 

高知は彼の出身地であり、ここを起点に自由民権運動を行ったため、岐阜は彼が遭難にあったため、日光は彼が総指揮を取っていた戊辰戦争の時に旧幕府軍がこもっていた日光廟を燃やさないように説得したから建てられました。

 

特に高知ではあの坂本龍馬の銅像よりも早く建てられるなど高知県民の誇りとなっているのです。

板垣退助の墓は東京品川区にある品川神社内に眠っています。

 

元々は高源院という寺があったのでますが、関東大震災の時に世田谷区に移転したため墓だけがポツリと残っているのです。

板垣退助と戊辰戦争

板垣退助といえば自由民権運動を推し進めた人として有名ですが、実は幕末の戊辰戦争の時には板垣は新政府軍の参謀として甲州勝沼の戦いや三春城の攻略などで活躍していました。

 

しかし、彼の平等の心はこの時からあったそうで降伏した会津藩などを中心とした武士たちの名誉回復のために奔走したり、面倒を見たいするなど旧幕府側の武士たちのために尽力しており、新政府軍の参謀でありながら多くの会津の人が彼に好意を抱いているのです。

自由民権運動について

板垣退助が後半生をかけて行おうときた自由民権運動

 

明治時代に入るとこれまで武士のみが行ってきた政治体制は大きく変わることになるのですが、それでも政治を主導しているのは薩摩藩と長州藩出身の一部の人間のみ。

本当にそれでいいのかと疑問を持った板垣退助は、薩摩や長州のみではなく、一般の人々も政治に参加するべきだと考えます。

 

板垣退助は明治六年の政変によって政府を去り、その後民撰議院設立建白書を政府に対して提出。

この建白書によって自由民権運動が始まり、農民や知識人から支持を得て一時期は政府によって取り締まりが行われたものの、徐々にその動きは大きくなっていきました。

 

薩摩藩や長州藩の人は最初はこの動きを抑えようとしました。

ですが、ヨーロッパに負けない国づくりのためには民衆が政治に参加しなければいけないと考え始めます。

 

そして、国会開設の詔が発布されると、

  • 1889年には大日本帝国憲法
  • 1890年には国会が開設される

 

という流れになりました。

 

今でも日本の民主主義制度の根幹となっている制度は板垣退助が行った自由民権運動によって広まっていったのです。

板垣退助と坂本龍馬の関係は?

坂本龍馬
坂本龍馬(出典:ウィキペディア

板垣退助と坂本龍馬は同じ土佐藩出身でしたが、その接点はほとんどありませんでした。

実は土佐藩という藩は身分制度が厳しいことで有名で、上士と呼ばれる武士が通る時にはそれ以外の武士は頭を下げなければいけないほどのものでした。

板垣退助は上士の中でもかなりの名門の出でしたため、その地位はとても高く、裕福な商家に生まれたものの、郷士であった坂本龍馬とはかなりの身分の差がありました。

 

しかし、板垣は龍馬の才能を見抜いていた後藤象二郎とともに坂本龍馬の脱藩を赦免について協議するなどある程度の行動は起こしていました。

しかし、板垣退助と坂本龍馬は中岡慎太郎という共通の友達を持ちながら近江屋事件によって龍馬が暗殺されるまで会うことがありませんでした。

板垣退助と西郷隆盛との関係は?

西郷隆盛
西郷隆盛の銅像

西郷隆盛と板垣退助は生まれた藩は違いますが、二つの点で同じ考えを持っていたとされています。

 

一つ目が倒幕の時に土佐藩と薩摩藩の代表として薩土密約を結んだ点。

 

板垣退助は当時土佐藩のお偉いさんとして倒幕活動を行なっていくのですが、その一環として薩摩藩の代表である西郷隆盛と面会しました。

西郷隆盛はを20万の兵を海外に派遣すべき人物に板垣をあげ、逆に板垣は西郷隆盛のことを他の維新の三傑(木戸孝允・大久保利通)とは桁が違うほどの人物と評していました。

 

明治時代に入ると両者は明治政府の重役となるのですが、この時に危惧していたのが征韓論というもの。

板垣と西郷はこの時岩倉具視や大久保利通を始めとした使節団がアメリカやヨーロッパに使節として訪問していた時の留守として政府を任されていたのですが、韓国との国交の問題でいざこざがあり武力で朝鮮を開国させる流れとなります。

 

結局はこの案は施設から帰ってきた大久保利通によって無しとなるのですが、この時板垣と西郷は政府を辞職し民間に降ってしまいました。

これをいわゆる明治六年の政変と言うのですが、この結果西郷と板垣はそれぞれ別の形で政府に反抗することになるのです。

板垣退助と大隈重信との関係は?

大隈重信
大隈重信
(出典:ウィキペディア

板垣退助と同じように自由民権運動を推進していった大隈重信

 

この両者は明治の二大政党の自由党と立憲改進党を設立して隈板内閣を成立させることになるのですが、2人の改革の仕方は微妙に違っていたのです。

 

板垣退助はフランス式の急進的な民主主義を導入して自由主義を成し遂げようというものでした。

しかし、一方の大隈重信はイギリス式の緩やかな立憲君主制を導入して緩やかに改革をしていこうというものでした。

 

この似ているようで全く違うふたりの考えによって隈板内閣の時には騒動があって空中分解。

しかし、一度でもタッグを組んだ点では大まかに見れば日本を改革しようとした同志だったのかもしれませんね。

板垣退助と伊藤博文の違いは?

伊藤博文(出典:ウィキペディア

板垣退助とともに日本の議会政治を作ったとされる伊藤博文

 

両者とも最終的には議会を開くつもりでいましたが、この2人の違いは議会の手本とする国。

 

板垣退助は上にもあげた通り、フランスの急進的な民主主義を取り入れるべきだと主張していました。

それに対して伊藤博文は日本と非常に境遇が似ており、さらには君主制が強いプロイセン(ドイツ)の政治システムを取り入れようとしていきます。

 

伊藤博文は板垣退助とは違い政府にずっと留まっていたため、最終的には伊藤博文が主張したプロイセンの政治システムが取り入れられ、大日本帝国憲法が成立することになります。

ですが、もし板垣退助が政府の中枢にいれば日本の憲法もまた違っていたかもしれません。

板垣退助のお札の価値は?

板垣退助は自由民権運動を主導して民主主義を普及させようとした功績が讃えられ、1953年に100円札の肖像画に選ばれることになりました。

 

今では100円硬貨が流通して100円札は発行停止となってしまいましたが、そのおかげが今板垣退助の100円札は状態が良ければ20倍の価格で取引されているんだそうです。

板垣退助が日本初のルイヴィトン購入者?

板垣退助は1882年からイギリスに留学してヨーロッパの文化を学んでいくことになるのですが、板垣は同じく土佐藩の上士であり仲が良かった後藤象二郎共にパリに本店を置くルイヴィトンのトランクケースをオーダーしたと伝えられています。

 

これはちゃんと顧客名簿にも載っていることであり、シリアルナンバーを見ても一致するため板垣と後藤が始めてルイヴィトンの顧客となったと言って間違いないでしょう。

板垣退助を題材にした作品

高知県では坂本龍馬と並んで尊敬されている板垣退助。

 

戊辰戦争で活躍して、さらに明治時代の重要な運動である自由民権運動を主導したこともあり、小説やドラマなどで数々の題材としてあげられています。

大河ドラマ

板垣退助を主人公とした大河ドラマは今のところ残念ながらありませんが、幕末のテーマとした大河ドラマではたびたび登場。

『西郷どん』では渋川清彦さんが演じています。

 

それではまとめに入ります!

まとめ

まとめです。

  • 板垣退助は武田信玄の家臣の子孫であり、土佐藩の中でも偉い方の地位にあった
  • 戊辰戦争で活躍して明治新政府では参議にいたが、明治六年の政変で政府をやめると自由民権運動を行った
  • 板垣退助は岐阜事件で暗殺されかけたが、「板垣死すとも、自由は死せず」とは言っていない
  • 板垣退助は坂本龍馬の罪を許したり、西郷隆盛と薩土同盟を結ぶなどある程度の交流を持った

 

最後になりましたが、国会議事堂には彼の銅像があるほど日本における議会政治の父とも呼べる人物でした。

板垣退助がいたからこそ今の日本の民主主義があるというわけなんですね。

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