今回解説していくのは戦国一のやられ役である今川義元!
よく油断して討死してしまった大名と思われがちなんですが、今回はそんな今川義元について
- 今川義元の生涯と年表
- 今川義元の家系図と家紋について
- 今川義元の居城とお墓
- 桶狭間の戦いと今川義元の壮絶な最期
などなど詳しく解説していきたいと思います!
目次
今川義元の生涯を解説!
今川義元は駿河の有力大名今川氏親の五男として生まれます。
しかし、五男ということもあり家督は望めず家督争いが起きないように義元は僧侶として出家することになりました。
しかし、この僧侶としていた期間に義元の軍師となる太原雪斎と出会い、また上洛したこともあってか京都にて学識を深めていくことになります。
こうして僧侶としての人生を歩むと思いきや、1536年に当主であった今川氏親が急死。
さらには家督を継ぐはずである今川氏輝が氏親と同じ日に亡くなるというなんとも不可解な死を遂げてしまいます。
義元の母である寿桂尼の口添えもあってか運良く義元に家督の座が転がり込んできたのですが、これに反対したのが兄である玄広恵探。
「兄よりも優れた弟はいない」と言わんばかりに義元に反抗していわゆる花倉の乱が勃発。
結果は義元の勝利に終わるのですが、これによって今川家は若干混乱状態となってしまいました。
新体制となった今川家ですが、義元は太原雪斎や寿桂尼と共に政治を行い、1537年には甲斐の武田信虎との間に同盟が締結。
後北条氏が駿河の東半分(河東)に侵攻してきた時には関東公方である山内上杉家と連携を取り和睦。
河東の地を見事に取り返しました。
一方で義元は西にも目をつけ始め三河に侵攻を開始。
この頃お家騒動によって当主が暗殺されていた松平家の弱体化に漬け込んで三河に進出し、1540年からは尾張の織田家と抗争を繰り広げながら徐々に全土を支配するまでになります。
内政の方も義元は盤石なものにしようとこれまで発布されていた今川家の分国法今川仮名目録に追加法を制定。
駿河の金山も独占的に支配して財政も潤っていきます。
外交の方もこれまでの武田家だけではなく後北条氏とも同盟を締結。
東の方を確固たるものとしてついに西上を開始。
織田信秀がなくなってすぐの織田家を攻め滅ぼし尾張まで自分のものにしようと計画していきます。
しかし、この西上の時に義元は桶狭間の地にて織田軍の奇襲を受けてしまい大混乱に陥ります。
天下に近い大名といってもおかしくなかった今川義元でしたが、豪雨の中桶狭間で42歳にて討死しまうことになります。
ちなみに、合戦の時に戦国大名の当主が討死を遂げることはほとんどなく、この桶狭間の戦いか肥前の大名である龍造寺隆信が討死した沖田畷の戦いぐらいのものだったそうです。
経歴と年表
1519年 今川氏親の五男として生まれる
1536年 花倉の乱 今川家の当主に就任する
1537年 甲駿同盟締結
1549年 松平広忠の暗殺を機に西三河に進出
1553年 今川仮名目録の追加法を制定
1554年 甲相駿三国同盟締結
1560年 桶狭間の戦い 今川義元が討死
家系図
今川義元の出身である今川家は実は室町時代では一二を争うほどの名門として知られており、その祖先は足利尊氏に繋がるとされています。
今川家は足利家の分家である吉良家(吉良上野介はこの家の当主)の分家として誕生。
その家柄は「足利将軍家が絶えたら吉良が継ぎ、吉良が絶えたら今川が継ぐ」と言われていたように、万が一足利将軍家の血脈が途絶えたら吉良家と今川家は将軍として就任できるほどだったそうです。
そして今川家は足利一族として駿河国の守護に任ぜられ、駿河を本拠地として戦国大名に変化。
父である今川氏親の代で遠江を手に入れ、今川義元の代には三河を含めた三カ国を収める大名となりました。
しかし、桶狭間の戦いで今川義元が討死すると徐々に統治力は低下。
最終的には今川義元の息子である今川氏真が駿河から追われてしまい、大名としての今川家は滅亡してしまいました。
しかし、その後は徳川家の客将として活躍。
最終的には高家として江戸時代を生き抜き、明治時代を迎えました。
家紋の意味について
今川家は二つの家紋を使用していました。
その一つが足利二引両という家紋。
これは足利将軍家も使っている由緒正しい家紋で今川家が足利一門であることを証明している家紋でもありました。
もう一つが赤鳥紋という家紋。
赤鳥には見えないと思いますが、実はこれは当て字で本当は「垢取り」という意味でした。
赤鳥紋は今川家の祖先である今川範国という人が赤い鳥と共に戦うと良いことが起こる啓示を受けたとか、垢取りの道具など女性が使う道具は縁起がいいから採用したなどいろいろな説があって採用されたんだそうです。
居城だった駿府城の場所はどこ?
今川義元が本拠地とした駿府城は今の静岡県静岡市にあります。
今川家が滅亡してあとは武田家の居城となり、最終的には徳川家康の隠居先となり臨終の地となるなど様々な戦国大名ゆかりの地としても知られています。
墓の場所は?
今川義元は首を取られた後、今川家の武将によって胴体が駿河国まで運ばれることになりましたが、その遺体の傷むスピードがとても早かったこともあり、三河国牛久保の大聖寺にとりあえず埋葬することにしておきました。
一方の首の方は織田軍によって首実検が行われた後、鳴海城と引き換えに今川家に変換。
その後は東向寺に埋葬されました。
今川義元の壮絶な最期
信長本隊の決死の奇襲によって今川本陣は大混乱。
桶狭間の戦いは大将同士が槍を手にとって奮闘する大混戦となりました。
信長公記によると今川義元はこの混戦の最中500人の供回りとともに退却することとなったのですが、その部隊が信長の親衛隊である馬廻りに捕捉されてしまい、今川義元は毛利良勝によって首を討ち取られてしまいます。
しかし、単に今川義元は討ち取られたわけではなく、首を切られる際に義元は毛利良勝の指を食いちぎったとも言われており、最後まで東海一の弓取りの意地をみせた最期だったと思います。
享年41歳。
今川義元vs織田信長の桶狭間の戦いについて
1560年、前年から東の情勢を盤石なものにした今川義元は二万五千人の兵を持って尾張国に侵攻開始。
当時織田信秀の跡継ぎであった織田信長はうつけと呼ばれる人であり、さらには動員できる兵力もわずか五千人だったそうです。
普通に考えたら5倍の戦力差がある戦争なんてどちらが勝つかは最初からわかっているも同然。
義元自身は油断せずに行軍していったと思いますが、味方の兵士自身は油断していたことでしょう。
今川軍は先鋒を務めていた松平元康(徳川家康)が大高城を落としたのを始め、鷲津砦や丸根砦などを順調に落としていきます。
その一方織田信長は清洲城に籠るかどうかで揉めていたそうですが、信長自身は動揺することもせず、義元が大高城に向かっているという情報を聴くと直ちに出陣。
途中熱田神宮に参拝して鷲津砦と丸根砦の中心にある桶狭間に向かって急行します。
桶狭間という地域はとても道が狭く大群で行動するのには不向きでして、信長はこの地であれば今川軍に打撃を与えられると判断したのです。
さらに追い風のように豪雨が降ったことによって織田軍の行動を察知されることなく、今川本陣に接近。
休息を取っていたところを急襲されたこともあり今川本陣は大混乱。
義元は信長の親衛隊の1人であった毛利良勝によって討ち取られてしまいました。
かつて東海一の弓取りと呼ばれた三ヶ国の当主が討ち取られたことで今川家は大混乱。
当主の座はこの頃今川氏真に譲っていたのですが、これによって松平信康は独立。
遠江では領主が次々と離反を起こし最終的には今川家は滅ぶことになるのでした。
今川義元の逸話
今川義元といえば必ず思いつくのがお歯黒をしている公家みたいな格好。
戦国時代にはふさわしくない格好としてやられ役の代表格として知られることになるのですが、実はしたくてしているわけではなくて当時戦乱で逃げてきた公家たちを保護して文化を育成していく内に自然とお歯黒をするようになったのが実際のところだったそうです。
また、彼のエピソードとして桶狭間の戦いの出陣前寝ていた時に花倉の乱の時に家督を争った玄広恵探が夢に現れ桶狭間の戦いの出陣を見送るように告げたんだとか。
しかし、今川義元は亡霊だということで無視。
その結果桶狭間の戦いによって討死したと考えると玄広恵探も親切な人だったのでしょうね。
徳川家康へのむごい教育とは?
今川義元は三河を治めていた領主である松平広忠の息子である竹千代(のちの徳川家康)を人質として取り三河国を支配しました。
ですが、この頃の人質というのは今みたいな身代金の担保のために拉致した人のことを指しているのではありませんでした。
大名が自身の家の庇護を求めるために出して、ある程度の教育を施す大切な客将として預かるものだったのです。
例えば真田信繁は上杉家や豊臣家などに人質として出されていたのですが、彼はその後、立派な武将に成長して大坂の陣で活躍することになります。
徳川家康の場合も同じく、彼は故郷の三河には帰れなかったものの、今川義元の軍師である太原雪斎という人から教育を施されたりしながら大切に育て上げ、桶狭間の戦いでは今川家の立派な家臣として臨んでいます。
家康自身もこの頃ことはある程度は感謝しており、のちに彼が江戸幕府を開くと今川義元の息子である今川氏真を高家(旗本の中でも特に偉い家のこと)にさせたりしていました。
それではまとめに入ります!
まとめ
まとめに入ります!
- 今川義元は元々は五男であったため、家督を継ぐことはなかったが、兄がなくなると花倉の乱が起こりながら今川家の当主となった
- 今川義元は同盟を結びながら三河や尾張に進出したが、桶狭間の戦いで討死してしまった
- 今川家は足利家の一族であり、家紋も足利家と同じものを使っていた
- 今川義元はただ単にお歯黒をしていたわけではなく、公家文化を保護していたという事情があった
- 今川義元は徳川家康を人質にしたが、義元は家康を立派な武将にするために家康は太原雪斎から教育を施された
最後になりましたが、今川義元は戦国時代でも特に暗愚だと誤解されてしまった大名だと思います。
義元は三ヶ国を治める大名としての器量は十分にあり、東海一の弓取りとしての名は彼にふさわしいものだったと思います。