今回解説していくのは日本が条約改正に大きく歩み出すきっかけとなったノルマントン号事件!
この事件によって民衆は日本に課せられていた不平等条約に対して関心を持つようになりました。
今回はそんなノルマントン号事件について
- ノルマントン号事件とは?
- ノルマントン号事件の船長の判決
- ノルマントン号事件の風刺画について
- 日本に課せられていた領事裁判権とは
- ノルマントン号事件のその後
についてわかりやすく解説していきたいと思います!
ノルマントン号事件
「ノルマントン号事件」とは、1886年に横浜から神戸に向かっていたイギリス商船が潮岬付近で座礁した際に日本人25人が全員溺死した事件のことです。
この事件において、イギリス人船長は日本人に対して十分な救助活動を行っていないにもかかわらず、十分な刑を受けませんでした。
このことから、日本が背負っていた不平等条約を改正する動きが活発化するようになりました。
船長は無罪?有罪?
ノルマントン号事件において、イギリス人であったドレーク船長は26人の外国人と共に座礁していた船からなんとか脱出してことなきを得ました。
ですが、日本人は全員溺死してしまいます。
しかし、普通に考えて「外国人が助かって日本人が誰1人助からなかった」というのはいささかおかしいですよね。
この事件を電報で聞いた当時の日本の外務卿であった井上馨は日本人が助からなかった事に疑問を抱いて調査。
事件の全貌を知ろうとしましたが、これはイギリスの妨害もあって不十分な結果に終わってしまいます。
そして11月に入るとドレーク船長の裁判が始まります。
この当時日本は領事裁判権があったため、ドレーク船長は在日英国総領事によって裁かれるようになります。
その裁判の結果は「ドレーク船長は日本人を助けようとはしたものの、日本人が英語を理解することができなかったため救出できなかったことであり、これは仕方のないことだった」として無罪判決が下ってしまいます。
もちろん日本国民はこの判決に大ブーイング。
国内の猛烈な反対を受け本当なら司法権の独立やなんやらであり得ないことである裁判のやり直し。
これをなんとか取り付け禁錮3ヶ月の有罪判決に持ち込ませることに成功したのでした。
でも、それにしたって禁錮3ヶ月は短すぎですよね。
ノルマントン号事件の風刺画の真相
ノルマントン号事件を始め明治時代の重大事件を学校で習った人ならば必ず一回見たことがあるであろうジョルジュ・ビゴーの風刺画。
そもそも風刺画というものは、風刺という名前もあって何かの批判やメッセージが隠れているものです。
しかし、このノルマントン号事件の場合はちょっと違った面がありました。
よくビゴーが描いた『メンザレ号の救助』という風刺画には船や船長はフランス人だとして、さらに板書には『こんなことをするから日本は領事裁判権の撤廃をするようになったんだ!』と書かれています。
ビゴーはノルマントン号事件の翌年に上海で起こったフランスの郵便物を運んでいたメンザレ号が遭難したニュースを聞きつけます。
それに対し、一年前に起こったノルマントン号事件と合わせて「イギリス人は横暴でさらにこの事件のせいで日本は条約改正に乗り出してしまった」という風に批判したのでした。
ビゴーはフランス人。
つまり日本が不利な権利を持っている側の人間なんですから、条約改正には消極的な立場を取っていたのです。
そのためビゴーはイギリス人が下手な対応をしたことを痛烈に批判したのでした。
ノルマントン号事件から考える不平等条約
ノルマントン号事件によって日本人は改めて日本に課せられていた不平等条約について考えるようになりました。
日本が外国と結んでいた不平等な内容は「領事裁判権」と「関税自主権の喪失」。
これが日本国民に関わることはこれまではほとんどありませんでした。
しかし、このノルマントン号事件が起こったことにより日本国民は「日本人がこのような惨めな思いをするようになったのは不平等条約があるからだ!」と思うようになりました。
そして、ついにこれまで外務卿(のちの外務大臣)を始め政治家のみが考えていた不平等条約の改正を意識するようになったのです。
領事裁判権
ノルマントン号事件の焦点の一つとなっている「領事裁判権」。
この領事裁判権とは、外国人が犯罪を犯した時に日本の裁判官が裁くのではなく、駐在している領事が犯人の出身国の法律で裁くというものです。
これが決められたのは江戸時代末期の1858年に結ばれた安政の5カ国条約(日米修好通商条約はここに入っています)でしたが、日本と結んだ国たちはとある言い分を持っていました。
この当時、日本では攘夷思想といって「外国人を日本から追い出そう!」とする危険な思想を持っている人が江戸や京都を始め日本中にたくさんいました。
よって、ヒュースケン襲撃事件や東禅寺事件など外国人の襲撃事件や殺害事件が横行していたのでした。
さらにこの当時日本の法律は未発達。
法治国家としての体をなしておらず、ヨーロッパからしたら斬りつけられても日本の法律で裁かれれば犯人がまともな判決を受けないという事態が起こりかねないとイギリスを始めヨーロッパの国々は思っていたのです。
「ならば、どうしてノルマントン号事件は船長がまともな判決を受けないんだよ!」と日本人は思うかもしれませんね。
ただ、この日本の法律が未発達なことを根拠にアメリカやイギリスを始めヨーロッパの国々は日本に対して日本の法律ではなく領事が外国の法律にて裁く領事裁判権を認めさせたのです。
つまり逆を返せば日本はちゃんとした法律を作って法治国家としての機能を果たせることができれば領事裁判権が撤廃されることもあり得るということとなります。
その通り、日本はこれから先急いで法整備をやることになるのです。
次はノルマントン号事件以降日本ではどのようなことが起こったのかを見ていきましょう。
その後の影響は?
ノルマントン号事件以降、日本国内では領事裁判権が日本にとって不当なものとして思われるようになりました。
そして、当時日本で巻き起こっていた大同団結運動も合わさるように当時外務卿として活躍していた井上馨の外交に対して「弱腰外交」という形で一大政府批判へと繋がっていきました。
もちろん政府からしてもこの不平等条約を急いで撤廃すべきとして、これまでのような鹿鳴館外交から条約改正のために法整備を進める形に変更。
1889年には大日本帝国憲法を制定し、さらに民法や刑法を制定。
さらには、ヨーロッパやアメリカとの条約改正の手始めとしてアメリカのお隣の国であるメキシコと1888年に日墨修好通商条約を締結。
さらにこの頃大津事件というロシア皇太子が大津にて日本人に斬りつけられた時に当時の大審院(今の最高裁判所)の長官であった児島惟謙が政府の圧力をはねつけて法に基づいて判決を出した事件が起こりました。
この事件により、日本は近代国家・法治国家の最低限の条件である『司法の独立』を証明したことが後押しとなり徐々にヨーロッパと日本との条約改正が進展。
ノルマントン号事件から8年後の1894年にはノルマントン号事件の当事国であるイギリスとの間で日英通商航海条約を締結したことにより、事件以後の悲願であった領事裁判権の撤廃が実現したのでした。
それではまとめに入ります!
まとめ
まとめに入りたいと思います!
- ノルマントン号事件とはノルマントン号が海で遭難した時に船長が日本人を助けなかった事件のこと
- 船長は最初は無罪だったのだが、結局禁錮3ヶ月の実刑判決となった
- 領事裁判権とは領事が犯人の出身国の法律で裁くこと
- ノルマントン号事件によって日本国内では条約改正の要望が高まった
- ノルマントン号事件の8年後にはイギリスとの間で領事裁判権が撤廃された
最後にノルマントン号事件は日本の条約改正の歴史の中で大きな意義を果たすほど重要な出来事でした。
そんな事件だからこそ、日本人はしっかり学ぶことが重要だと思いますね。