桜田門外の変とは?井伊直弼が暗殺された場所と状況や起きた理由を解説

2004年NHK大河ドラマ『新選組!』において、新選組筆頭局長の芹沢鴨が「天地がひっくり返る」と言った、桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)

 

その通り、江戸幕府で将軍に次ぐ政権ナンバー2である高い地位の大老(たいろう)・井伊直弼(いいなおすけ)が、浪人、今でいうと無職でプラプラしている人間に暗殺されるという、前代未聞の事件が起こってしまいました。

 

近年でもアメリカ第43代大統領、ジョン・F・ケネディがダラスで遊説中に暗殺されるという事件が起き、その時の日本もテレビにくぎ付けの人間が多かったと言われていますが、当時の社会に与えた衝撃はそれぐらいのものだったといえるでしょう。

 

今回は、

  • なぜ、このような事件が起きたのか!?
  • 暗殺計画開始から、実行に至るまで何が起きたのか!?
  • なぜ江戸幕府の政務拠点にある江戸城の桜田門外で暗殺が実行されたのか!?

 

などなど、詳しく解説していきます!

桜田門外の変とは?

桜田門外の変
桜田門外の変

1860年3月24日、江戸幕府の政務拠点であった江戸城の桜田門のすぐそば(現代の東京都千代田区霞ヶ関))で、大老・井伊直弼が、水戸藩を脱藩(だっぱん。藩主に許可なく藩士をやめ、なおかつ領地から出て行くこと。重罪で、捕まった場合はほぼ死罪)した浪人17人と、薩摩藩士1人に襲撃され暗殺された事件のことです。

 

  • 天皇の意向を無視して、徳川将軍の跡継ぎを決める
  • 諸外国と不平等条約を結ぶ
  • 条約に反対する人間を次々と極刑にした井伊直弼の独裁

 

これらに対し、尊皇派(天皇を敬い、天皇をトップに世の中を納めるのが理想とする考えの人間)の不満が爆発し、暗殺という違法手段で行動が実現した結果でした。

 

幕府ナンバー2の大老が、浪人という今で言う無職でぷらぷらしている人間に暗殺されたことは、幕府のイメージを一気に傷つけ、天保の改革失敗やペリー来航で弱まっていた幕府の力をさらに弱めていきます。

 

次に、起こった年号を見ていきます。

年号

1860年は安政(あんせい)7年。

幕政を牛耳る井伊直弼の批判運動をする者たちを、武士や公家のみならず、僧侶や学者、町人等の庶民まで100人以上捕え処罰した、『安政の大獄(あんせいのたいごく)』が始まったのは2年前。

当時もその真っただ中。

 

しかしながら、この事件において直弼自身が討ち取られたことで、急に大獄も終結しました。

 

次に、起きた場所について解説します。

起きた場所

事件が起こったとされる桜田門は今日にもあり、国の重要文化財『旧江戸城外桜田門(きゅうえどじょうそとさくらだもん)』と呼ばれております。

 

桜田門と呼ばれた江戸城の門には、より江戸城中心近くにある『内桜田門(うちさくらだもん)』があるのですが、こちらは『桔梗門(ききょうもん)』と呼ばれることが多く、一言で桜田門というと、こちらの外桜田門をさすことが当時も多かったようです。

 

ここから西500mのところに、当時直弼が江戸勤務にあたり宿泊していた井伊邸がありました。

 

歴史にもしもはありませんが、この井伊邸に夜襲を仕掛けて寝込みを襲おうとしても、警備の頭数は駕籠による移動の時よりきわめて多く、しかも直弼自身が居合(いあい。一撃目は鞘に収めている刀を抜く形で直接相手に攻撃するか相手の攻撃をかわし、二撃目で相手を確実にしとめる剣術)の達人のため、失敗する可能性のほうが高かったと思われます。

 

当時の人々は今の人より感覚が発達しており(寺の鐘で起床する人が多かったようですが)、まして政治に携わる人間はいつの時代も人々から憎まれやすいのです。

 

大老たちは寝首を掻かれる可能性が高いことは百も承知であり、多くの幕府の重職は『ぐっすり眠る』のではなく、今の消防士と同じ『仮眠(かみん)』という形で眠っていたと考えられます。

(もっとも今の議員も、多忙さ故『仮眠』という形の短い睡眠をとることが多いんだとか)

 

桜田門外のほうが、襲撃者側からすればうってつけの場所だったといえましょう。

 

次に、起きた理由について説明していきます。

起きた理由

井伊直弼
井伊直弼

最大の理由は、大老であった井伊直弼の天皇をも無視した独裁的な態度に、天皇を崇拝し、天皇をトップに天下を収めるのが理想とする『尊王(そんのう)』の考えを持つ武士たちの不満が爆発したからでした。

 

まずは、将軍の跡継ぎ問題で、直弼が当時の天皇である孝明天皇(こうめいてんのう)の意向を無視したこと。

 

当時の13代将軍・徳川家定(とくがわいえさだ)は病弱で長男もおらず、後継ぎをだれにするかが当時の幕府の大きな問題でした。

候補は2人。

 

利発で知られていた当時21歳の一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ。のちの江戸幕府最後の将軍である15代将軍・徳川慶喜)。

家定の従弟で、当時12歳の徳川慶福(とくがわよしとみ。のちの14代将軍・徳川家茂)。

 

直弼は慶福のほうが家定に血縁が近かったということと、家定自身の意向も考えて慶福を押し、結局は慶福が次期将軍ということに決まりましたが、これは「時節柄、次期将軍は年長のほうがいい」という孝明天皇の意見に反するものでした。

 

次に、1853年のペリー来航以来、その強大な武力を背景に貿易条約を結び、アジア進出の拠点にしようとするアメリカとの修好通商条約(しゅうこうつうしょうじょうやく)をどうするかの問題。

 

孝明天皇は異人(いじん。外国人)嫌いで、鎖国を続けるよう頼んでいました。

元々鎖国は天皇の許可である『勅諚(ちょくじょう)』が出されないまま行われており、その責任を取ってほしいと思っていたのでしょう。

 

しかしながら外国の圧力に耐えかねた直弼は、病弱で十分に政治にかかわれない家定に代わって動き回り、天皇の意見を無視して1858年7月19日、日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)をはじめとする不平等条約をアメリカ等五か国と結んでしまいます。

 

天皇の許可も意向も無視した直弼の独断専行に怒った孝明天皇は、1858年8月『戊午の密勅(ぼごのみっちょく。『戊午』とは当時の干支のことで、『密勅』とは天皇を助ける関白の承認を得ないまま出す非公式の天皇の命令のことで)』を発令。

 

内容は

  • 天皇の許可なく日米修好通商条約を結んだことへの叱責。
  • 水戸藩や薩摩藩を含む諸藩は幕府と協力し、攘夷に力を入れろ、つまり異人を打ち払えという命令。
  • 上の2つの命令は幕府からではなく、尊王攘夷派の多い水戸藩から諸藩に回せという命令。

 

朝廷が幕府ではなく、諸大名に直接命令するという事態は江戸幕府が始まって以来異例だったため、この密勅は幕府に大きな衝撃を与えます。

 

直弼はこの密勅を水戸藩の陰謀と判断。

ついに自身の反対派への武力弾圧に踏み切ります。

安政の大獄(あんせいのたいごく)』の始まりです。

 

水戸藩と親しかった公家たちを次々と捕縛して断罪、さらに全国津々浦々の自分を批判する政治運動とかかわった武士たちをとらえ、その数は100人以上に上りました。

 

攘夷運動の急先鋒であった吉田松陰もまた、この大獄により処刑されてしまいます。

人間は理想を求めても、結局は損得、つまり利益と恐怖で動くものだから、より多くの人間を統率しようとすれば厳罰等の力技もやむをえないでしょう。

 

しかしながら、今回はそれが裏目に出ました。

『正義の象徴』である天皇の勅諚を直接受け取った水戸藩士たちは『自分たちこそ正義』と思い、天皇の意向を無視して政治を続け、反対するものを皆々極刑とする直弼を『巨悪』とみていくようになるのです。

 

水戸脱藩浪人・金子孫二郎(かねこそんじろう)や高橋太一郎(たかはしたいちろう)を中心に、尊攘派で直弼を巨悪とみていた志士たちは、1860年2月に江戸に潜入、直弼の暗殺計画を議論しあいます。

 

幕府の警戒が強くなっていたことや、水戸・薩摩からの参加者は見込めないことを知った金子たちは、暗殺決行の日を当時の暦で3月3日、つまりひな祭りの祝いで直弼が確実に登城すると見る日に決定。

いよいよ実行に踏み切ります。

 

次に、桜田門外の変において生き残った18人中17人の志士についてみていきます。

生き残りは?

直弼襲撃時に唯一戦死した稲田重蔵(いなだじゅうぞう)以外の17人は生き残りました。

ですが、襲撃の際に重傷を追って自害したものも少なくありませんでした。

 

・広岡子之次郎(ひろおかねのじろう)

襲撃の際の争いで深手を負い、江戸城辰の門(えどじょうたつのもん。現代の江戸城大手門当たり)で力尽きて自害。

 

・山口辰之助(やまぐちたつのすけ)、鯉渕要人(こいぶちようと)

直弼護衛の反撃で致命傷を負い、織田兵部少輔邸(おだひょうぶしょうすけてい。現代の東京都千代田区丸の内2丁目の丸の内二丁目ビル当たり)で2人とも自害。

 

・佐野竹之介(さのたけのすけ)、斎藤監物(さいとうかんぶつ)、黒沢忠三郎(くろさわちゅうざぶろう)、蓮田一五郎(はすだいちごろう)

やはり手負いながらも連れ立って移動し、当時老中だった脇坂安宅(わきさかやすおり)の藩邸で(現代の東京丸の内一丁目あたり)、『斬奸趣意書(ざんかんしゅいしょ。悪人とされるものを成敗した折、相手の過去の所業と、正義は我にありという意思表示を示す陳述書)』を出した後、佐野は夕方に死亡。

 

この後熊本藩・細川家に4人とも預けられ(佐野の遺体も回収)、斎藤は5日後に死亡。

黒沢は命を取り留めた後、4か月後に病死。

蓮田は取り調べののち、翌年の1861年7月26日、罪人として打ち首になります。

 

・大関和七郎(おおぜきわしちろう)、森五六郎(もりごろくろう)、杉山弥一郎(すぎやまやいちろう)、森山繁之介(もりやましげのすけ)

熊本藩に斬奸趣意書を提出した後、1861年7月26日、4人とも打ち首となりました。

 

・岡部三十郎(おかべさんじゅうろう)

襲撃者のうち戦闘不参加で事件後京へ向かおうとしますが、不可能と分かりいったん水戸に潜伏した後、江戸に再び出ます。

しかし江戸吉原で1861年2月に捕まり、ほかの同志たちと一緒に1861年7月26日に打ち首となりました。

 

・広木松之介(ひろきまつのすけ)

計画通り京へ向かおうとしますが、幕府の警戒で行けず、曲折の末鎌倉の上行寺(じょうぎょうじ)で僧侶となります。

そして襲撃から3年後の1862年に、寺の墓地にて切腹します。

 

・関鉄之介(せきてつのすけ)

襲撃において現場を総指揮した人間で、後に話す2010年映画『桜田門外ノ変』の主人公。

3月5日に江戸を出発した後諸国を転々。

1861年10月、持病の治療のために来ていた湯沢温泉においてとらえられ、翌年4月5日に江戸に護送。

 

そして1862年5月11日、打ち首となりました。

 

・有村次左衛門(ありむらじざえもん)
直弼にとどめを刺し、彼の首を掲げて鬨の声を上げた張本人ですが、引き上げの途中に瀕死状態から息を吹き返した直弼の護衛に頭を切られ、それが致命傷となって若年寄の江戸屋敷で力尽き、自害しました。

(彼に関しては後で詳しく説明します。)

 

・増子金八(ますこかねはち)、海後磋磯ノ介(かいごさきのすけ)

桜田門外の変襲撃者の中で、この2人だけが明治維新後も生き残ります。

 

増子は軽傷だったため、事件後商人に化けて幕府の目を逃れ、維新後水戸に帰り、同士の冥福を祈りながら読書と狩りの日々を過ごし、1881年に死去。

海後は指を切り落とされながらもしぶとく生き、維新後茨城県庁や警視庁に勤務し、退職後、1903年に亡くなりました。

 

この同志たちは、事件前の様々な申し合わせは一切他人には言わないよう約束しており、皆々見事守り切ることができました。

幕末のような動乱期には戦国と同じで、誓紙や口約束なんて何の役にも立たない可能性が高いことを考えると、非常に彼らの結束力が高かったことがうかがえます。

 

なお、事件計画者の金子孫二郎(かねこそんじろう)は襲撃には参加せず、事件の後3月9日に伊勢で捕縛。

1861年7月26日に仲間たちと打ち首となりました。

 

もう一人の首謀者、高橋太一郎(たかはしたいちろう)は先に京へ上っていましたが、3月4日、幕府の追っ手から逃げる形で大阪の四天王寺(してんのうじ)へ行き、そこで自害。

 

以上述べた事件関係者のうち、高橋以外の関係者は一度、江戸両国(りょうごく)の回向院(えこういん)に埋葬されています。

 

回向院は天保年間から、春と秋の十日間の相撲が行われた場所として有名ですが、もともとはそれより前の明暦の大火(めいれきのたいか。振袖に火が付いたことで火が広まったことから『振袖火事(ふりそでかじ)』とも)における無縁仏(むえんぼとけ)を葬る場所として作られています。

 

つまり大老暗殺という重罪を犯したことから、皆々家族に引き取られることもなく無縁仏として葬られたようですが、やがて故郷に埋葬されることを許され、水戸の常盤共有墓地(ときわきょうゆうぼち)などに埋葬されております。

 

次に、事件後の現場の状況についてみていきます。

現場の状況

直弼が暗殺された後の現場は、その惨劇を生々しく表現していました。

 

襲撃者側の稲田の死体が横たわり、その横に直弼護衛担当の彦根藩士、さらには首のない直弼の死体があり、直弼が乗っていた駕籠(かご)の周辺の雪は鮮血で真っ赤に染まっていたと記録されています。

 

襲撃後の現場には次々に諸大名の駕籠が通りかかり、血にまみれた井伊家紋の駕籠と雪は多くの大名に目撃され、噂を知った庶民もまた、その日のうちの午後に見物のために桜田門に我も我もと来たといいます。

 

彦根藩と井伊家の取りつぶしを免れるため、当時の記録では『大老直弼は急病で死亡した』と届け出られています。

ですが、もはや隠すことはできず、当時の川柳でも『遺言は 尻でなさるや ご大病(訳:首を取られたというのに急病で亡くなったと言い張るなんて、遺言は口ではなく尻でしたとでもいうのか?)』と皮肉られています。

 

この事件の数奇さを強調するかのように、折しも時は春なのに雪が降っていたという説は有名ですが、次にこの説についてみていきます。

春なのに雪が降っていた?

奇しくも、この日は3月だというのに雪模様。

一時期は牡丹雪が真っ盛りに降り、辺り一面銀世界。

 

当時は太陽の動きではなく月の満ち欠けで暦を知る『太陰暦(たいいんれき)』を使っていて、太陰暦上この時は『3月3日』、つまりひな祭りの日。

井伊直弼を含む諸大名が全員江戸城に顔を合わせる予定でした。

 

諸大名が8時頃に皆登城した後、襲撃が行われた午前9時は雪で視界が悪く、直弼が乗る駕籠を護衛する60人は雨合羽を着て、刀の柄と鞘に袋までかけていたので、動きづらく刀も簡単に抜けない服装になっていました。

 

彦根藩はこの状態で襲撃を受けたため、鞘のまま抵抗したり、素手で刀をつかんだりして、耳や手を切り落とされる者たちが多かったといいます。

天候もまた、江戸時代以降なかった大名駕籠の襲撃・暗殺に味方したとみていいでしょう。

 

次に、この戦いで実際に直弼の首をとったとされる浪人・有村次左衛門について解説します。

有村次左衛門の活躍

有村次左衛門
有村次左衛門

直弼の首を自ら取ったとされる、襲撃者の中では唯一の薩摩藩士・有村次左衛門(ありむらじざえもん)。

 

明治維新において子爵や貴族院議員を務めた有村俊斎(ありむらしゅんさい)、のちの海江田信義(かいえだのぶよし)の弟でもあります。

剣の腕は立ち、故郷・薩摩で薬丸自顕流(やくまるじげんりゅう)を学んだあと、江戸において当時一番理論的な剣法といわれた北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)についても学んでいます。

 

1858年に薩摩藩を脱藩した後、攘夷志士の多い水戸藩と交流を深め、1860年に安政の大獄が始まった折には非常に憤慨。

同志とともに直弼暗殺の計画を練り、そして暗殺の日、左翼側(現代の警視庁方面)から直弼の駕籠に突進します。

 

ピストルに撃たれ動けなくなったところを、他の浪人から駕籠を突き通される形でめった刺しにされ、瀕死の重傷を負っていた直弼。

有村は直弼の駕籠を開けて、力づくで引きずり出し、無意識に雪の中を這っていた彼の首を、ついに打ち落とします。

 

襲撃開始から直弼の首がとられるまで、わずか十数分。

『煙草二服ばかりの間』と後に記録されています。

 

直弼の首を有村の刀の先に掲げ、勝ちどきの声を上げて有村達が引き上げようとした時、斬られて倒れていた彦根藩士の一人がその声で蘇生し、直弼の首を掲げて神輿のように担いでいた有村の後頭部を斬りつけました。

 

その彦根藩士も他の襲撃者からめった刺しにされて殺されますが、深手を負った彼は、当時幕府の若年寄(わかどしより)を勤めていた遠藤胤統(えんどうたねのり)の藩邸前で力尽きて倒れ、自害して果てました。

22歳でした。

 

襲撃者はもちろん、主君である井伊直弼を守れなかった彦根藩も処分を受けましたが、次に処分内容について説明します。

襲撃を受けた彦根藩側も処分を受けた?

井伊直弼が領主であった彦根藩(ひこねはん。今の滋賀県北部にあった藩)も、60人も駕籠の周りにいながら、主君を守れなかった罪を糾弾されます。

 

この事件で彦根藩側は8人死亡、5人が重軽傷を負ったのですが、事件から2年後の1862年に処分が決まり、重傷者は彦根藩の領地であった下野国佐野(しもつけこくさの。今の栃木県佐野市)に流され幽閉。

軽傷者は武士として切腹。

そして無傷の護衛達は罪人として、打首の上お家取りつぶしとなりました。

 

今も日本社会は結果より過程を重んじたがり、結果より馬力が評価されることが多いですが(昨今の働き方改革で変わろうとしていますが)、この時代は本人の剣術や腕力、根性がものを言う時代。

主君を守れなかったあたり、やはり彦根藩の藩士たちも、260年の太平の世に慣れきって腐ってしまっていたのでしょうか。

 

しかしながらこの影響で彦根藩は幕府を憎むようになり、のちの戊辰戦争においては新政府軍に与するようになります。

 

ちなみに、この事件を取り上げた2010年の映画『桜田門外ノ変』は有名ですが、これについてみていきます。

映画「桜田門外ノ変」

2010年に吉村昭(よしむらあきら)の小説をもとに作られた映画・『桜田門外ノ変(さくらだもんがいのへん。『ノ』となっているのは当時の資料から)』

主役は襲撃総指揮者の関鉄之介で、彼を大沢たかおが演じています。

 

『水戸藩開藩400年』と銘打ち、茨城県の地域振興と郷土愛を目的に時代劇として実現しました。

キャッチコピーは『幕末リアリズム。日本の未来を変えた、史上最大の事件』。

見せ場である桜田門外襲撃事件に約2億5000万の費用が使われております。

 

冒頭から全体の1/3ほどで桜田門外の変が発生し、残りの2/3は襲撃に至るまでの経緯と襲撃者たちの逃亡を交互に描き、最後に関の捕縛と斬首、明治維新によって桜田門に新政府軍の行進が行われたところで幕を下ろします。

 

2010年10月16日と17日の初日2日間で興行収入9172万6200円となり、動員は8万390人。映画観客動員ランキングで初登場6位となりました。

茨城県内の自治体・企業・市民団体の全力協力がとられたらしく、それが実った結果といえましょう。

 

実は茨城県は『都道府県魅力ランキング』で2010年時点でほとんど、最下位の47位なのです。

水戸黄門で有名な水戸や、近年ではアニメ『ガールズ&パンツァー』の舞台・聖地である大洗(おおあらい)で魅力をアピールしていますが、それでも効果は出てないらしく、2018年度ランキングでは最下位。

しかしこの映画を見れば、茨城県民全体が力を結集すればどのような映画ができるかわかるものと思います。

 

次に、この映画のキャストについてみていきます。

キャスト

関鉄之介(大沢たかお)…主人公で、井伊直弼襲撃の総指揮者。

関ふさ(長谷川京子)…鉄之介の妻。

金子孫二郎(柄本明)…桜田門外の変の首謀者。

高橋太一郎(生瀬勝久)…桜田門外の変の首謀者。

岡部三十郎(渡辺裕之)…井伊直弼襲撃の見届け役。

関誠一郎(加藤清史郎)…鉄之介の息子。

井伊直弼(伊武雅刀)…彦根藩16代当主で、江戸幕府大老。鉄之介たちの襲撃で暗殺。

徳川斉昭(北大路欣也)…水戸藩前藩主。安政の大獄で永蟄居(えいちっきょ。無期の自宅謹慎)の処分を受けていた。

まとめ

  • 井伊直弼が政策や徳川将軍の跡継ぎ決定のために、天皇の意向も無視して急ぎすぎてしまったこと
  • 急激な政策決定や不平等条約で人々や天皇が反発したのを、力づくで抑えようとしたこと
  • 3月に起きた季節外れの雪が、井伊家の駕籠の警備の力を弱めてしまったこと

 

それが、井伊直弼が討ち取られてしまった大きな原因といえましょう。

 

この事件によって徳川の一族である水戸徳川家と、大老等の重職を務めた譜代大名である井伊家は一気に対立し、江戸幕府の力は急速に弱まり、7年後の大政奉還につながります。

 

やがて井伊家が治める彦根藩は、のちの戊辰戦争でこの時の恨みから、水戸藩の生まれの徳川慶喜に敵対して新政府軍につきます。

天皇を尊び、外国を打ち払えという考え『尊皇攘夷(そんのうじょうい)』を持つ武士たちはこの後急速に勢いづき、天皇に味方する勢力は急成長。

 

方や幕府はあらためて、『生まれついての正義の象徴』である天皇の意向を無視できなくなり、朝廷と徳川を姻戚等で一つとさせるという『公武合体(こうぶがったい)』という妥協案に修正せざるを得なくなっていきます。

それまで幕府が上で朝廷が下だったという力関係が、この辺りから名実ともに逆転します。

 

しかしながら一方、尊皇攘夷の考え方を持つ武士たちが比較的多い水戸藩は、この事件以降急速ににらまれ、かつ人材をこのようにしてどんどん失ったことで、後の倒幕・明治維新の中枢からは一気に遠ざかっていきます。

 

この事件は幕府の力を弱め、明治維新の起点になると同時に、明治維新における中枢の人材を決定付けることにもなったのです。

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