今回ご紹介するのは、岩倉使節団です。
明治維新直後、日本は欧米列強に張り合える国力の増強を目指していました。
その期間の一大イベントとも言えるのが、この岩倉使節団の派遣です。
一国の政府首脳がまとまって長期の外遊をするというこの異例の出来事。
いったいどのようなものであり、そこから彼らは何を得たのでしょうか。
- 岩倉使節団の目的とは?
- 岩倉使節団のメンバーは?
- ビスマルクの影響を大きく受けた?
- 女子留学生も参加した?
今回はこのような点を特に詳しく見ていくので、ぜひご注目ください。
目次
岩倉使節団の目的は?
岩倉使節団が派遣された主目的としては以下の2つがあります。
- 条約を結んでいる各国の元首に国書を渡し、友好関係を築くこと
- 西洋文明を視察すること
またこの機会に、幕末に結ばれた不平等条約を改正するための、予備交渉を行うことも使命でした。
しかし、日本にはまだ近代的な法整備が行われていないとされ、条約改正には至りませんでした。
次に、岩倉使節団のメンバーをご紹介します。
岩倉使節団のメンバー
使節・随員・留学生から構成された、岩倉使節団の主要なメンバーをご紹介します。
リーダーである特命全権大使は岩倉具視です。
当時の政府の中心人物としては、
- 木戸孝允
- 大久保利通
- 伊藤博文
- 山口尚芳
らが代表的です。
岩倉は公家出身として明治維新に大きく貢献した人物ですね。
使節としては、木戸や大久保といった薩長の出身者が多く選ばれました。
こうした幕末期に活躍した雄藩出身者ばかりで構成されたイメージのある当使節団ですが、実際には様々な人物が参加していました。
書記官には、福地源一郎などの旧幕臣が多く選ばれたほか、留学生の中にも公家出身者や元藩主がいたのです。
次に、使節団の航路をご説明します。
ルート(航路)と年表
岩倉使節団は、横浜港を出港するとまずサンフランシスコに向かいます。
西海岸に到着後は合衆国を横断し、ワシントンD.C.へ向かいました。
アメリカでの滞在は、実に約8か月にも及びました!
その後大西洋を横断し、ヨーロッパ各国を訪問します。
ヨーロッパではイギリス・フランス・ドイツをはじめとして、12カ国を訪れました。
その後、地中海を出てスエズ運河を通過し、紅海を経て当時植民地となっていたアジア各国を訪問しました。
そして、1年10か月の長旅の末、一行は横浜港へ帰ってくるのです。
年 | 月日 | 出来事 |
---|---|---|
1871年 | 11月12日 | 岩倉使節団、横浜港を発つ |
12月6日 | サンフランシスコ到着 | |
1872年 | 1月21日 | ワシントン到着 |
8月17日 | リヴァプール到着 | |
11月6日 | ウィンザー城にてビクトリア女王に謁見 | |
11月16日 | パリ到着 | |
3月9日 | ベルリン到着 | |
1873年 | 3月15日 | ビスマルク主催の夕食会に参加 |
7月22日 | 帰国の途につく | |
9月13日 | 横浜到着 |
次に、使節団の見聞をまとめた書物について見ていきます。
米欧回覧実記とは?内容など!
『米欧回覧実記』は、久米邦武という人物により編纂された、岩倉使節団による見聞の報告書です。
これは5編5冊、全100巻で構成された超大作と言えるのです。
実録的な記述ももちろん、久米の意見も交えて構成されており、300を超える銅版画を用いて外国の文物を分かりやすく紹介しています。
この実記には、各国の地理や気候から、学校から博物館、上下水道まであらゆるものが載っています。
とりわけ、使節団が訪れた工場については、原料や工程などが詳しく紹介されているのです。
こうした点から、この実記は百科事典的であるとも称されるのです。
しかし、この実記の普及は長らく限定的であり、20世紀後半に現代語訳がなされてから、ようやく一般にも普及してきたのです。
次の章では、岩倉使節団がビスマルクに受けた影響について見ていきます!
岩倉使節団がビスマルクに受けた影響とは?
岩倉使節団はドイツを訪問した際、ビスマルクの夕食会に参加しています。
そこでビスマルクは、次のような趣旨の話をし、使節に感銘を与えることとなります。
- イギリス・フランスといった国は、帝国主義のもとで植民地の拡大に努めているが、ドイツはこれ以上の領土の拡大を望んでいるわけではない。
- ドイツは当初は小国であり、富国強兵によってようやく列強と対等な地位を得た。
- イギリス・フランスは、国際法である万国公法に従った法整備を各国に求めているが、これは列強に有利に働くものであり、植民地化の波に呑まれないためにも、ドイツのように富国強兵を優先させるべきである。
ビスマルクは、小国として列強の後塵を拝していた頃のドイツを知っており、その上で日本とドイツの状況は似ていると判断したのです。
このビスマルクに、日本の政府首脳は大きな影響を受けました。
- 大久保利通:ビスマルク・ドイツを参考にしつつ富国強兵・殖産興業を進めることが大事と考える
- 伊藤博文:ビスマルクを尊敬し、のちには彼自身が「日本のビスマルク」と呼ばれるようになる
まさしくビスマルクは、当時の日本の政治家のお手本となっていたのですね。
次に、そんなビスマルクはどのような人物であったのかについて見ていきます!
ビスマルクはどんな人物?
ビスマルクは、ドイツ統一を主導した19世紀を代表する政治家です。
1862年にプロイセン首相となると、1867年に普墺戦争に勝利、1871年に普仏戦争に勝利し、ドイツ帝国を樹立します。
彼は富国強兵・対外強硬策を推進し、ドイツ統一は鉄と血(武器と兵士)によってなされるという鉄血演説を行ったことから、「鉄血宰相」の異名をとります。
彼は反体制分子を取り締まる一方、世界に先駆けて全国民強制加入の社会保険制度を創出するなど、社会政策も行っています。
また、外交力も優れており、彼が中心となって構築された19世紀後半のヨーロッパ国際関係は「ビスマルク体制」とも呼ばれます。
次に、岩倉使節団に参加した女子留学生について言及していきます。
岩倉使節団には女子留学生もいた?
岩倉使節団には、留学生として女学生も数名参加していました。
彼女らの留学先はいずれもアメリカです。
当時開拓使次官の地位にあった黒田清隆は、女子教育にも関心があり、女子留学生の募集を行っていました。
そこに5人の女子が参加し、岩倉使節団に帯同することとなったのです。
到着後、女子留学生はワシントン市内に住まわされることとなります。
- 上田悌子
- 吉益亮子
の2名は5か月ほどして帰国します。
しかし、
- 津田梅子
- 山川捨松
- 永井繁子
の3名は現地に残りました。
彼女らは日本帰国後、主に教育者として多大な活躍を見せていくこととなります。
次の章では、女子留学生のうち最年少であった、津田梅子という人物について見ていこうと思います!
当時最年少だった津田梅子とは?
女子留学生のうち当時最年少であったのが、津田梅子です。
彼女は当時、なんと満6歳でした!
黒田清隆の女子留学生の募集に、梅子の父親が彼女を応募させたことで、彼女は岩倉使節団に参加することとなります。
横浜を出発後、サンフランシスコを経たあとワシントンに到着し、その地で暮らすこととなります。
梅子はその後長くアメリカに滞在しており、1882年に帰国しています。
日本では女子教育の先駆者として、日本の教育に大きな影響を与えました。
彼女が設立した女子英学塾は、現在津田塾大学となっています。
次に、岩倉使節団がイギリス滞在中に起きた、とあるエピソードをご紹介します!
岩倉使節団のエピソード
使節がイギリス滞在中に起きた、とんでもない出来事についてご紹介します。
イギリスといえば当時世界第一の工業国であり、使節のイギリスへの関心はとても高かったようです。
イギリス国内各地を見て回っており、ウィンザー城ではヴィクトリア女王にも謁見しています。
そんなイギリスにおいて、彼らは事件に巻き込まれます。
それはイギリスに滞在していた、とある銀行の取締役である南貞助という者が、使節にその銀行での預金を勧めたことに始まります。
お金は銀行に預けるのが一番安全だ、利息も良い、と言われて、最も多い人で2600ポンド以上預けたようです。
岩倉や大久保も預金しており、留学生の中にも預金した者がいました。
すると、まもなくその銀行が倒産してしまったのです!
当然彼らが預けたお金は戻ってこないので、その被害はなんと2万5千ポンド、当時の日本円で12万5千円であると言われています!
この銀行倒産事件は、資本主義社会に疎い日本人を利用した、という見方もあります。
なんにせよ、彼らはその資本主義社会を身をもって知ることとなったのでした。
次に、西郷隆盛が岩倉使節団に参加しなかった経緯について見ていきます。
西郷隆盛はなぜ岩倉使節団に参加しなかったのか?
当時の日本を代表する政治家の一人、西郷隆盛は、この時何をしていたのでしょうか。
西郷は岩倉使節団には参加せず、留守政府を任されることとなります。
この経緯を見てみましょう。
そもそも西郷自身に外遊への興味があったのかは謎ですが、西郷が日本に残ったのは大久保利通にも関わりがあります。
当初、使節団は佐賀藩出身の大隈重信を中心としたものでした。
しかし、大久保は大隈が不平等条約改正の主役となることに不信感を覚え、また自身が外遊中に木戸孝允ら長州出身の勢力が増すことも危惧していました。
そこで、大久保は大隈使節団案を潰し、木戸を外遊に同行させることとしたのです。
そして、大久保と同じ薩摩出身の西郷を留守政府の中心とすることで、大久保の勢力を国内で維持させようとしたのです。
大久保の西郷に対する、強い信頼感が伺えますね。
次に、岩倉使節団について書かれている書籍をご紹介します!
岩倉使節団について書かれている本
岩倉使節団について書かれた書籍をご紹介します。
『岩倉使節団 誇り高き男たちの物語』(泉三郎、2012、祥伝社)です。
岩倉使節団の物語を壮大に書き上げた著者の泉氏は、8年かけて岩倉使節団の足跡を訪ねたという経歴があります。
この数年前にも岩倉使節団に関する書籍『堂々たる日本人―知られざる岩倉使節団』(2004、祥伝社)を出版しており、それは石原慎太郎氏にも絶賛されています。
ぜひ手に取ってみてください!
まとめ
いかがでしょうか。
それではもう一度、岩倉使節団について振り返ってみましょう。
1871年から海外視察を開始した岩倉使節団は、岩倉具視をリーダーとして、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文ら当時の政府首脳が参加した使節団です。
当使節団は、諸国と友好関係を持つことや西洋文明に触れること、条約改正の予備交渉を行うことを目的としていました。
横浜港を出発した一行は、アメリカ、イギリスからヨーロッパ各国、そしてアジア諸国を視察し、出発から1年10か月して日本に戻ってきます。
この使節団の見聞は、『米欧回覧実記』にまとめられています。
岩倉使節団はドイツ滞在中、当時のドイツ帝国首相であったビスマルクによる夕食会に参加しました。
ビスマルクは「鉄血宰相」の異名の通り、富国強兵政策を推進してドイツを大国へと発展させた人物です。
ここでのビスマルクの発言に使節は深い感銘を受けており、ドイツを手本とした政策を考えるようになりました。
また、岩倉使節団には女子留学生も加わっており、最年少で参加した津田梅子をはじめとして、各人はのちの日本で主に教育者として大きな足跡を残します。
しかし、使節団が持ち帰った話は美味しいものばかりではありませんでしたね。
イギリス滞在中に、預金をしていた銀行が倒産し、大きな損失を出してしまいました。
当時の日本を代表する政治家の一人であった西郷隆盛は、大久保の信頼の下、留守政府を任されており、岩倉使節団には参加しませんでした。
岩倉使節団について書かれた本としては、『岩倉使節団 誇り高き男たちの物語』をご紹介しました。
使節団が帰ってきたあと、日本の政治は一度大きく揺れ動きます!
そちらもぜひご注目ください!