御成敗式目とは?わかりやすく解説!内容や目的と原文と作った人について

今回解説していくのは武家社会で初めて制定された御成敗式目

この法律によって鎌倉幕府の制度が確立しましたが、今回はそんな御成敗式目について

 

  • 御成敗式目とは一体どんな法律なのか?
  • 御成敗式目の内容
  • 御成敗式目の原文と現代訳文
  • 御成敗式目の語呂合わせについて
  • 御成敗式目を作った人ば誰?

 

など詳しく解説していきたいと思います!

御成敗式目とは?わかりやすく解説!

御成敗式目とは1232年に制定された日本初の武士政権の法令のことです。

ちなみに、この当時の元号から貞永式目とも呼んだりします。

 

1185年に鎌倉幕府が成立すると武士が政治をするようになり、さらに1221年に承久の乱が起こってこれまでは貴族の土地であった西国の領地を手に入れると元々この地域を治めていた貴族たちと武士の間でいざこざが起こるようになり、それを抑えるための法律が必要不可欠な状態となりました。

 

さらに、1232年に入ると寛喜の飢饉お米が全く取れず餓死者が続出することが原因となり社会不安が日本中で渦巻くことになります。

そのため幕府は土地問題や武士に関する様々ないざこざを終結させるために御成敗式目を制定したのでした。

内容

御成敗式目は全部で51条で構成されており、その中には守護の仕事や地頭の仕事、殺人や暴力などの一般人に向けての法律も制定されていました。

 

そんな御成敗式目ですが、その中でもとくに大事にされていたのが、土地に関する問題。

御成敗式目の51条のうちの18条が土地関連に関する規定でした。

ここから見ればわかる通り、鎌倉幕府は土地に関する問題の解決に力を注いでいたことがわかりますよね。

 

武士にとっては土地があることによって生活しているようなものですし、さらには御恩と奉公といって土地をあげたりすることで御家人は鎌倉幕府に忠誠を誓っていました。

 

また、御成敗式目は源頼朝の頃からの慣例も盛り込まれており、例えば源頼朝と義経が敵対する原因となった官位を勝手に取得しないことを取り決めて幕府がトップにいることを明確に示したりもしています。

 

ちなみに、御成敗式目はかなり前の法律で現在とはあまり接点はないかもしれませんが、今の世の中でも強盗殺人や放火殺人が死刑になる可能性があるように、この御成敗式目には強盗殺人や放火殺人をした人はもれなく死刑にされたようです。

 

こう考えてみると結構法律として残っている部分もあるのですね。

目的

この御成敗式目が制定された目的の一つに、これまで裁判の基準としてきた道理が複雑化してきたことがありました。

 

道理というのは今で言うところの道徳や良心のことを言うのですが、人々の道徳はそれぞれにばらつきがありますし、さらに言えば裁判官によって判決が変わるというありえないことが起こり始めるようになってしまいます。

 

そこで幕府はその道理を統一するために御成敗式目を制定したのでした。

原文

御成敗式目は全部で51条あると書きましたが、全部書くとなるととんでもなく長くなってしまうのでここではとくに重要な2つの条文の原訳と現代語訳について書いていこうと思います。

 

第三条 諸国守護人奉行事

右々大將家御時所被定置者、大番催促謀叛殺害人〈付、夜討強盜山賊海賊〉等事也、而至近年分補代官於郡鄕、宛課公事於庄保、非國司而妨國務、非地頭而貪地 利、所行之企甚以無道也、抑雖爲重代之御家人、無當時之所帶者、不能驅催、兼又所々下司庄官以下、假其名於御家人、對捍國司領家之下知云々、如然之輩可勤 守護所役之由、縱雖望申一切不可加催、早任大將家御時之例、大番役并謀叛殺害之外、可令停止守護之沙汰、若背此式目相交自餘事者、或依國司領家之訴訟、或 就地頭土民之愁鬱、非法之至爲顯然者、被改所帶之職、可補穩便之輩也。

第七条 右大將家以後代々將軍并二位殿御時所宛給所領等、依本主訴訟被改補否事

右或募勳功之賞、或依宮仕之勞拜領之事、非無由緖、而稱先祖之本領於蒙裁許、一人縱雖開喜悅之眉、傍輩定難成安堵之思歟、濫訴之輩可被停止、但當時給人有 罪科之時、本主守其次企訴訟事、不能禁制歟、次代々御成敗畢後擬申亂事、依無其理被弃置之輩、歴歳月之後企訴訟之條、存知之旨罪科不輕、自今以後不顧代々 御成敗、猥致面々之濫訴者、須以不實之子細被書載所帶之證文

現代語訳

第三条 守護の権限について

源頼朝が決められてた守護のお仕事は大番催促と、謀反人と、殺人犯の取りしまりである。

さらにそれに加えて夜討ち、強盗、山賊、海賊の取り締まりもするように。

守護の中には代官を村々に送って村人たちをこき使うこともあるし、また国司でもないのに地方を支配して地頭についていないにも関わらず税をとったりする者がいる。

それらは全て違法であり、厳しく禁じる。

また、どれだけ代々の御家人として活躍していても所領を持たない者は、勝手に大番役につくことはできないことにする。

荘官の中には御家人と勝手に名乗って、国司や領主の命令に従わない者がいるが、このような者はどれだけ望んでいても役人に就任させてはならない。

源頼朝が決めたときのように守護がやるべきことは謀反人の逮捕や殺人事件の調査や犯罪者の逮捕であり、それ以外のことを絶対にしてはしてはならない。

この取り決めにそむく守護が国司や領主に訴えられたり、あるいは地頭や庶民に対してその不法な行が明らかになり次第辞めさせて適切な者を守護に任命する。

 

第七条 与えられた領地について

源頼朝をはじめ源家将軍のとき、および北条雅子の時に御家人に与えられた領地は訴えがあっても権利を奪われることは絶対にない。

所領は戦の活躍や役人としての働きによって御家人にあげたされたものであり、きちんとした理由があるものである。

にもかかわらず、領主が御家人に配せられた領地を指して「先祖の土地」だとと言い訴えることは、御家人にとってはとても不満なことである。したがってこのような訴訟は絶対に扱わない。

しかし、その御家人が罪を犯した場合には領主が訴えることは一部認める。

しかし、判決が出た後に再び訴えることは禁止する。

以前の判決を無視することは絶対に抱き内容にするうえで、判決について書類に記録する。

語呂合わせ

御成敗式目の語呂合わせはたくさんありますが、その中でも御成敗式目とは武家社会初の法律であることもわかって欲しいので

『裁判を いつ(12)観に(32)行こう 御成敗式目』

と覚えておくのがオススメです!

御成敗式目を作った人は誰?

御成敗式目を制定したのは鎌倉幕府第3代執権である北条泰時という人です。

 

北条泰時は源頼朝の妻であり尼将軍と呼ばれ恐れられていた北条政子の甥にあたる人物で、承久の乱の時には幕府側の総大将として御家人を率いていました。

 

そんな北条泰時ですが、彼の特筆したい点は鎌倉幕府の政治体制を取り決めて鎌倉幕府を安定させたこと。

北条泰時は御成敗式目の制定の他にも評定衆や執権や連署が政治に関する取り決めに対して議論を交わす合議制を確立。

 

1242年に60歳で亡くなるまで幕府の安定に力を注ぎ、その模範的な立ち振る舞いから後世の武士たちにもお手本とされていたようです。

まとめ

それではまとめに入りたいと思います!

 

  • 御成敗式目とは1232年に制定された日本初の武士政権の法律のこと
  • この御成敗式目は武士政権の法律のお手本となったり、今につながるような条文が残っている
  • この御成敗式目は51条のうち18条が土地関連であったほど土地に関する問題解決に重きを置いていた
  • 御成敗式目は北条泰時によって制定されたもの
  • 御成敗式目の語呂合わせは『裁判を いつ(12)観に(32)行こう 御成敗式目』

 

最後になりましたが、この御成敗式目は日本初の武士政権の法律であったことからここから先の武士政権の決まりごとの一つの基準となりました。

それほど御成敗式目は武士にとって適している法律だったのかもしれませんね。

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