今回解説していくのは後醍醐天皇が行った建武の新政!
この建武の新政は現実的ではないとして3年で崩壊してしまいましたが、今回はそんな建武の新政について
- 建武の新政とは一体どんな政治なのか?
- 建武の新政が失敗した理由
- 建武の新政が成功するにはどうしたらよかったのか?
- 建武の新政と建武式目の関係について
- 建武の新政と足利尊氏の政治の違い
など色々なことを解説していきたいと思います!
建武の新政とは?
「建武の新政」とは、鎌倉幕府が滅亡した1333年から室町幕府が開かれる1336年まで後醍醐天皇による天皇中心の政治のことを指します。
この当時、天皇というのは後嵯峨天皇の跡継ぎ問題の関係で持明院統と大覚寺統の二つの天皇の家系が互いに天皇となる状況が続いていました。
これが後の南北朝時代の二朝分裂につながることになるのですが、後醍醐天皇はその二つのうちの大覚寺統の出身でして、彼は朝廷を影から操っている幕府の存在を非常に邪魔だと感じていました。
その中で後醍醐天皇は2度倒幕を計画して失敗するのですが、三度目の正直の言葉通り3回目でようやく幕府を打倒することに成功。
長年の悲願であった天皇自身が政治をする時代が訪れることとなったのでした。
しかし、この建武の新政はあまりにも政治の内容が酷すぎたため、三年であっさりと崩壊することとなります。
まずはどうして建武の新政が崩壊していったのかを建武の新政の政治体制とともに見ていきましょう。
建武の新政が失敗した理由は?
建武の新政の最大の特徴は天皇親政だったことにあります。
天皇親政というのはどういうものかというと簡単に言えば「政治は天皇自ら行いますよ」というもの。
飛鳥時代や奈良時代に行われていた天皇中心の政治は平安時代になると藤原家や上皇によって形骸化していきましたよね?
後醍醐天皇というのはそんな平安時代の中でも天皇中心の政治が行われていた延喜の治という時代をお手本としていました。
ちなみに、これは豆知識なんですが、この延喜の治をしていた当時の天皇は醍醐天皇。
後醍醐天皇は延喜の治をしていた醍醐天皇のような政治をしていたことから名前に醍醐天皇が入っているんですよ。
さて、後醍醐天皇は天皇が自ら政治をすることを目指していきましたが、この頃になると政治というものは武士がやるものとなっており、いきなり天皇が政治をするとなると問題がかなり浮き彫りとなってしまいます。
その代表例が倒幕に参加した武士の恩賞問題でした。
後醍醐天皇は幕府をぶっ潰すことをしてくれた武士に対して恩賞という形で土地を与えていくのですが、この頃の武士と朝廷の関係はとんでもないほど複雑。
中には足利尊氏のように、最初の頃は後醍醐天皇と敵対していたのにいつのまにか味方になることも多くあったため、その人に対しても恩賞をあげるべきなのかなどで揉めることとなります。
さらに、後醍醐天皇は幕府というものを全否定していたため、幕府が最終決定した土地問題にわざわざ介入していき、その結果を度々覆してしまいます。
こうなると御家人からしたら不満しかありませんよね?
その通り、この後醍醐天皇の天皇自ら政治をするシステムによって収まっていた土地問題が再び蒸し返させることになり、日本中が大混乱に陥ります。
さらに後醍醐天皇は足利尊氏の存在をどんどん遠ざけていき、そのかわり後醍醐天皇派である楠木正成や新田義貞などを登用。
しかし、御家人の人気はその真逆で足利尊氏という人物が人格者だったり、源氏の血を引いていたこともあって御家人の統合のリーダーとしての役割を果たしていきます。
そのため、御家人をまとめた足利尊氏と後醍醐天皇はどんどん対立。
最終的には持明院統の光厳上皇から院宣をゲットした足利尊氏がこの対立に勝利して1336年に室町幕府を開くと後醍醐天皇は吉野に移転。
建武の新政は3年で崩壊して、室町時代、そして南北朝時代の抗争へと繋がっていくのです。
どうすれば成功したのかを考察
どうすれば建武の新政が上手くいったのか?そう考えるといろいろこの当時の状況や問題などから考えるとかなり複雑です。
だとしても、まず第一に天皇中心の政治を行わなければ良かったのではないかとは思います。
まず、建武の新政の時の天皇と御家人の考えをまとめていきましょう。
後醍醐天皇という人は幕府というものを廃止して武士が政治を行えないようにして天皇中心の政治体制に戻そうと考えていました。
建武の新政はその通り後醍醐天皇を中心とした政治体制が敷かれることになるのですが、この結果天皇に刃向かう貴族や武士たちは徹底的に排除されることになります。
一方の御家人は鎌倉幕府を滅ぼしたのは北条氏の執権政治が腐敗していたため、一回幕府を倒してまた新たにリーダーに幕府を創始してもらおうと考えていました。
だから御家人たちは足利尊氏を擁立してのちに室町幕府を開くことになるのですが、ここまでを見ると後醍醐天皇の理想と御家人たちの理想はかなりかけ離れていることがわかります。
そうなると政治を上手くさせるためにはただ一つ。
どちらかが譲歩するほかありません。
後醍醐天皇のプライドをなんとか抑えて武士にも一定の地位を与えればもしかしたら建武の新政は上手くいっていたのかもしれません。
建武の新政と建武式目の関係は?
建武の新政と同じ時期に出された法律として「建武式目」というものがあります。
こうしてみると建武式目って建武の新政の方針を法律化したものかも思いがちですが、実はこの建武式目は建武の新政のための法律ではないどころか、建武の新政と敵対していた室町幕府の方針を法律化したものなんです。
ややこしいと思いますが、建武の新政の建武というのは平成や昭和と同じような元号。
元号がついている日本史な単語はいろいろありますけど、建武の新政や建武式目も例外ではないという事なんです。
そのため元号が同じ時に出された建武の新政と建武式目はややこしいと感じてしまうのですね。
建後醍醐天皇と足利尊氏でどのような政治をしていた?
建武の新政において後醍醐天皇は天皇中心とした政治体制の下に記録所、雑訴決断所、恩賞方などがおかれました。
記録所というのは簡単いえば政務担当、今の内閣みたいな役所ですね。
雑訴決断所は簡単に言えば土地問題を解消する今の裁判所の役割を行なっていました。
恩賞方というのは倒幕に参加した御家人たちに恩賞をどう与えるのかについて議論する場所のことです。
一方の足利尊氏の方はというと鎌倉幕府と同じように侍所、政所、問注所を置くなど鎌倉幕府の政治システムをそのまま踏襲したのような政治を行なっていました。
こうしてみると足利尊氏というのは鎌倉幕府を全否定したわけではなく、鎌倉幕府をバージョンアップした政治体制を目指したのかもしれませんね。
それではまとめに入ります。
まとめ
まとめに入りたいと思います!
- 建武の新政は1333年から1336年まで後醍醐天皇によって行われた天皇親政の政治体制のこと
- 建武の新政は武士のことを無視した政治だったので御家人の反感を買って失敗した
- 建武の新政と建武式目は同じ建武が付いているが、建武式目は室町幕府の法律のこと
- 建武の新政が天皇中心の政治体制だったのに対して足利尊氏は鎌倉幕府の政治をバージョンアップしたものであった
最後になりましたが、この建武の新政以降天皇自身が政治を行うことは明治維新を迎えるまで待たなければなりません。
建武の新政は終わりを迎えましたが、後醍醐天皇は日本史の中で見てもかなり異色な天皇だったのですね。