日米和親条約とは?わかりやすく解説!開港の内容とアメリカの本当の目的とは?

今回ご紹介するのは、日米和親条約です。

ペリー来航の際に結ばれたこの条約により、日本は200年に及ぶ鎖国体制を転換することとなります。

 

今回は特に、

  • アメリカの真の狙いとは?
  • 日米和親条約は実は日本にとって不平等だった?
  • 日米修好通商条約との違いとは?

 

この3つの観点にご注目ください!

日米和親条約とは?わかりやすく解説!

日米和親条約の英語版原文
日米和親条約の英語版原文

それでは早速、日米和親条約の概要について見ていきます。

 

ことの発端は、1853年にアメリカのペリー提督が浦賀沖に現れたことでした。

彼は当時の大統領であるフィルモアの命を受けて日本にやってきたのです。

当時の幕府の外国船に対する方針は、「薪水給与令」に基づいており、外国船には必要な分の食料・薪水を与えて速やかに退去させ、上陸はさせない、というものでした。

 

しかし、アメリカも黙って引き下がるわけにはいきません。

そこでペリーは、武力をもってしてでも上陸するとしたのです。

 

幕府側としては、西洋の最新兵器で攻撃されることは避けたく、穏便に解決したいと考えたため、結局上陸を許可します。

この年は大統領の親書を渡すにとどまりましたが、この翌年にペリーは再び日本にやってきます。

この際約1か月の協議が行われ、その結果締結されたのが、日米和親条約です。

 

また、この条約の細則を定めた条約として下田条約が結ばれています。

日米和親条約の主な内容は以下の通りです。

 

  • 下田と箱館の開港
  • 下田及び箱館に一時的に居留する米国人は、その行動を制限されない
  • 米国に片務的最恵国待遇を与える
  • 米国政府は下田に領事を置くことができる

 

次に、この条約が誰によって、いつ、どこで締結されたのかについて見ていきましょう。

条約を締結した人物

「合衆国提督口上書」
「合衆国提督口上書」(ペリーと三人の使節が話し合う様子)

今回の条約の締結者は、

  • アメリカ側:ペリー
  • 日本側:林復斎

 

という人物でした。

 

林復斎は朱子学者の林家の人物であり、昌平黌の学問所で塾頭にもなった秀才だったようです。

ペリー来航の際も、その有能ぶりが買われて交渉役を任命されました。

年号

ペリーが初めて来航したのが1853年、日米和親条約の締結はその翌年の1854年のことでした。

締結の地

場所は横浜村字駒形というところで、現在の神奈川県横浜市中区にあたり、そこに応接所を設置して締結がなされました。

 

次にこの条約の原文を載せましたので、ご一読ください。

その次はいよいよ、この条約を結ぼうとした、アメリカの本当の狙いについて見ていきます!

日米和親条約の原文

この条約は全12カ条から成っています。

その12カ条分の原文は以下の通りです。

 

第一條 日本と合衆國とは其人民永世不朽の和親を取結ひ場所人柄の差別無之事
第二條 伊豆下田松前箱館の兩港は日本政府に於て亞墨利加船薪水食料石炭欠乏の品を日本人にて調候丈は給し候爲め渡來の儀差免し候尤下田港は約條書面調印の上即時にも相開き箱館は來年三月より相始候事
第三條 合衆國の船日本海濱漂着の時扶助致し其漂民を下田又は箱館に護送致し本國の者受取可申所持の品物も同樣に可致候尤漂民諸雜費は兩國互に同樣の事故不及償候事
第四條 漂着或は渡來の人民取扱の儀は他國同樣緩優に有之閉籠候儀致間敷乍併正直の法度には伏從致し候事
第五條 合衆國の漂民其他の者共當分下田箱館逗留中長崎に於て唐和蘭人同樣閉籠窮屈の取扱無之下田港内の小島周り凡七里の内は勝手に徘徊いたし箱館港の儀は追て取極候事
第六條 必用の品物其外可相叶事は雙方談判の上取極候事
第七條 合衆國の船右兩港に渡來の時金銀錢並品物を以て入用の品相調候を差免し候尤日本政府の規定に相從可申且合衆國の船より差出候品物を日本人不好して差返候時は受取可申事
第八條 薪水食料石炭並缺乏の品求る時には其地の役人にて取扱すへく私に取引すへからさる事
第九條 日本政府外國人へ當節亞墨利加人へ不差免候廉相免し候節は亞墨利加人へも同樣差許可申右に付談判猶豫不致候事
第十條 合衆國の船若し難風に逢さる時は下田箱館兩港の外猥に渡來不致候事
第十一條 兩國政府に於て無據儀有之候時は模樣に寄り合衆國官吏の者下田に差置候儀も可有之尤約定調印より十八箇月後に無之候ては不及其儀候事
第十二條 今般の約定相定候上は兩國者の堅く相守可申尤合衆國主に於て長公會大臣と評議一定の後書を日本大君に致し此事今より後十八箇月を過きすして君主許容の約定取扱せ候事

(引用:WIKISOURCE 「日本國米利堅合衆國和親條約」

日米和親条約におけるアメリカの本当の目的とは?

この章では、日米和親条約を締結させた、アメリカの目的に迫ります。

 

その1つ目は、太平洋航路の開拓です。

アメリカは列強の中でも新しく建国された国であり、対外政策などではとりわけイギリスやフランスなど他の列強国に後れをとっていました。

新たな貿易路の開拓が必要だったのです。

 

そのうちのひとつとして、アメリカは中国をはじめとする東アジア諸国と貿易を進めるために太平洋航路を欲していました。

アメリカは日本と異なる最新の蒸気船を保持してはいましたが、当時の技術ではまだ大量の燃料・食料が積み込めるほどの蒸気船は開発できていませんでした。

そこで、燃料・食料補給のために、日本の存在が注目されたのです。

 

2つ目は、捕鯨を円滑に行うことです。

当時は、鯨油は灯火用の油として高い需要を誇っていました。

19世紀半ば頃は、世界的にも捕鯨がピークとなった時期でした。

 

もちろんアメリカも当時競うように捕鯨を進めており、日本と国交がある状況のほうが漂着した捕鯨船員の引き渡しがしやすくなることもあって、日本とこの条約を結ぼうと考えたのです。

 

次の章では、日米和親条約の日本にとっての不平等要素について見ていきます。

日米和親条約は日本にとって不平等すぎた!?

日米和親条約は、日米間の対等な条約である、という見方が多いです。

しかし、実はこの条約も、日本にとって不平等なものであったことをご存じですか?

 

まず、この条約は日本が果たすべき義務のみに焦点が当てられています。

つまり、日米間の貿易体制がないまま、日本が自らの首を絞めるルールだけを作ってしまったのです!

 

次に、米国に片務的最恵国待遇を認めたことです。

最恵国待遇とは、日本が米国以外の国と、米国よりも有利な条件で条約を結んだとき、その条件が米国にも自動的に適用される、というものです。

 

これが「片務的」であることがミソです。
(契約当事者の片方だけが義務を負うこと)

 

つまり、この最恵国待遇は米国だけに与えられた特権であり、日本にとっては微塵の利益もないのです!

仮に米国が他国と有利な条件で条約を結んでも、日本はその国と改めて条約を結びなおさなければならないのです。

 

次の章では、当時の日本国内の様子を見てみます。

当時老中首座にいた阿部正弘は、どのように動いたのでしょうか?

老中阿部正弘って何者?和親条約後に辞表を出した真相は?

阿部正弘
阿部正弘(出典:ウィキペディア

ここで、日米和親条約締結時に老中首座であった、阿部正弘という人物にクローズアップしてみます。

 

彼は1843年に、25歳という若さで老中となり、そのわずか2年後には、天保の改革の際に不正を行ったとしてあの水野忠邦から老中首座の地位を奪い取ります。

若い時から辣腕を振るってきたことがうかがえますね。

 

しかし、激動する海外事情には、さすがの彼もその対応にあくせくしました。

 

  • 1840年のアヘン戦争
  • 1846年のアメリカのジェームズ・ビドルの浦賀への来航
  • 1853年のロシアのプチャーチンの長崎への来航

 

などがそれです。

 

今回のペリー来航もそうした重大な出来事のひとつでした。

しかし結果的に、彼は日米和親条約の締結後に老中首座を譲ってしまいます。

 

なぜでしょうか?

それは、

  • 当時の国内での意見が分かれ、衝突していたこと
  • 彼自身がなるべく争いを避けようとして動いてきたこと

 

に関連します。

 

彼は、積極的な政策案が見いだせなかったので、せめてアメリカとの関係を穏便にしておきたく、和親条約の締結に至らせました。

しかし、当時は水戸藩の徳川斉昭をはじめ、攘夷派が一定数いたのです。

 

攘夷派の意見をまったく汲みとらないわけにもいかないので、斉昭の圧力により、彼は開国派の老中を罷免します。

すると今度は、開国派が憤ります。

開国派には、後に日米修好通商条約を結ぶ井伊直弼がいました。

 

彼は攘夷・開国両派の関係改善のため、開国派の堀田正睦という人物に老中首座を譲ったのです。

 

次の章では、日米和親条約と日米修好通商条約を比較します。

どちらも日本にとって不平等な内容を含んでいましたが、日米修好通商条約のほうはさらに凄かった・・・!?

日米和親条約と日米修好通商条約の違いは?

この章では、幕末期を代表する二つの条約、日米和親条約日米修好通商条約について、比較しながら見ていきたいと思います。

 

まず、日米和親条約では、下田・箱館を開港したのみであって、自由貿易は認めていませんでしたが、日米修好通商条約では自由貿易が認められます。

 

これによりアメリカからの輸入品が大量に入ってきて、国内産業がすたれてしまうのでは?と思いきや、日本側も黙ってはいません。

高い関税率の設定に成功したのです!

 

しかし、一般的に日米修好通商条約は日米和親条約よりも、日本にとって不平等とされています。

 

その理由は大きく2つあります。

1つ目は、アメリカに領事裁判権が認められたことです。

 

領事裁判権とは、外国人が他の国において、自国の領事による裁判を受ける権利のことです。

つまり、アメリカに領事裁判権を認めたということは、日本はアメリカ人の日本における犯罪を取り締まれなくなったのです!

 

2つ目は、日本に関税自主権がなかったことです。

関税自主権とは、国家が輸入品の関税を自主的に決めることのできる権利です。

これがなかったということなので、以降日本は関税を設ける際、当該国との交渉が必要となってしまいました。

 

この2つの不平等要素は、明治以降も日本にとってかなりの重荷になってしまったのです。

 

ちなみに、アメリカ代表のハリスは、関税を高く設定することを認めることと引き換えに、総務的最恵国待遇を撤回しました。

日米和親条約での不平等項目すら取り除くことができなかったということですね。

まとめ

いかがでしょうか。

それでは、もう一度日米和親条約について振り返って見てみようと思います。

 

1853年にペリーが浦賀に来航・上陸したことがことの発端でした。

この翌年1854年に再び来航したペリーは、日本全権林復斎と、横浜村字駒形に設置された応接所で日米和親条約を締結することに成功します。

 

この条約の主な内容は、下田・箱館の開港、米国に片務的最恵国待遇を与えることなどでしたね。

 

この条約を結んだアメリカの本当の狙いは、主に2つです。

1つは、太平洋航路の開拓に伴う、燃料・食料の補給地として日本が重要であったことであり、もう一つは、捕鯨を円滑に行うことでした。

 

また、日米和親条約は、実は日本にとって不平等な内容を含んだものでした。

それが、前述の米国の片務的最恵国待遇の承認です。

また、その当時国内では攘夷派・開国派に分かれてもめており、老中首座の阿部正弘は両派の融和のためにその地位を譲ることとなりました。

 

日米修好通商条約では、自由貿易を認めたことと高い関税の設定、米国に領事裁判権を認めることと日本に関税自主権がないことなどが決められ、日米和親条約よりもさらに日本にとって不平等なものとなりました。

 

今回登場した2つの条約は、明治以降の日本史にかなり重要な地位を占めているので、ぜひ見直してみてください!

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