今回ご紹介するのは、楠木正成です。
日本史上屈指の軍事的天才と目される彼は、どんな生涯を送り、どんな戦いを繰り広げてきたのでしょうか。
そして、同時代の実力者たちとは、どのような関係にあったのでしょうか。
- 楠木正成の生涯とは
- 足利尊氏・新田義貞・後醍醐天皇との関係とは
- 正成の像が皇居前に置かれている事情とは
今回はこうした点について特に詳しく見ていきますので、ぜひご注目ください!
目次
楠木正成とは?
楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将です。
1331年に始まった元弘の乱において後醍醐天皇を奉じ、その後日本全土で反乱を誘発することで鎌倉幕府打倒に貢献しました。
後醍醐天皇による建武の新政では、最高政務機関である記録所の寄人(よりうど/よりゅうど、職員の意)に任じられます。
ともに鎌倉幕府打倒に貢献してきた足利尊氏が後醍醐天皇から離反したのちも、新田義貞らとともに南朝を支えますが、1336年の湊川の戦いにおいて尊氏の軍に敗れて自害しました。
彼は日本史上最大の軍事的天才と評価されるほどの名将であり、ゲリラ戦や情報戦などを戦に導入した革新的な軍事思想家だったのです。
明治以降は「大楠公」と称され、1880年に正一位を追贈されています。
次に、正成の経歴を年表とともに見ていきます。
経歴と年表
楠木正成の出自は、実ははっきりしていません。
- 河内(大阪府南東部)の土豪であったとする説
- 駿河国(静岡県中部)出身で北条氏に仕えていたとする説
- 悪党(既存支配体系へ対抗した者)であった説
などがあります。
1322年には、当時の幕府の執権北条高時の命を受けて動いており、彼は阿弖河荘を与えられています。
その後、鎌倉幕府打倒を目指す後醍醐天皇は、正成を反乱計画に引き入れます。
1331年に後醍醐天皇は笠置山で挙兵し、幕府滅亡まで続く一連の戦い(元弘の乱)が始まります。
正成はこの時笠置山に参向しており、その後河内に戻ると赤坂城で挙兵します。
笠置山の戦いも赤坂城の戦いも、幕府軍が勝利しましたが、その翌年に正成は赤坂城を奪還し、和泉(大阪府南西部)・河内の制圧に成功します。
正成の行動に呼応して、各地で反幕運動が展開され、その結果鎌倉幕府は倒れました。
後醍醐天皇が建武の新政を開始すると、正成は記録所のほかにも恩賞方や雑訴決断所といった重要機関に名を連ね、新政下の中心人物となります。
その後鎌倉幕府打倒にともに貢献した足利尊氏が、鎌倉方の残党による中先代の乱の鎮圧に向かったのち、独自の武家政権を作る姿勢を見せると、以後正成は尊氏追討のため戦いを繰り返します。
そして、1336年の湊川の戦いにおいて激戦を繰り広げるものの、最期は追い詰められて、自害して果てました。
以下の年表もご覧ください。
年 | 月 | できごと |
---|---|---|
1294 年? | 楠木正成誕生か | |
1322年 | 北条高時の命で渡辺党を討つ | |
1331年 | 8月 | 元弘の乱始まる |
9月 | 赤坂城の戦い | |
1332年 | 4月 | 赤坂城奪還 |
1333年 | 2月 | 千早城の戦い |
5月 | 新田義貞により鎌倉幕府滅亡 | |
6月 | 建武の新政始まる | |
1335年 | 中先代の乱 | |
1336年 | 湊川の戦い、正成自害 | |
1338年 | 義貞戦死 | |
1339年 | 後醍醐天皇崩御 |
次の章では、楠木氏の家系図と、正成の子孫について見ていきます。
家系図
子孫について
正成の子孫は、その後も南朝に仕えました。
正成の孫である正勝の時代に南北朝が合一されますが、その子である正顕をはじめ、正成の子孫は代々旧南朝皇族とつながりを持っていました。
正成の嫡流の子孫である正顕は、伊勢楠木氏の初代とされており、この血統は第8代当主の楠木盛信が1584年の小牧・長久手の戦い中に敗死したことで途絶えます。
ただ、伊勢楠木氏第2代当主の正重(刀工としては千子正重)の系統は1662年までは少なくとも存続していたようです。
また、伊勢楠木氏の庶流はその後も続いており、実業家として活躍した山下太郎氏は、盛信の祖父である正具の子孫であるとされています。
次に、正成の家臣について見ていきます。
家臣について
楠木正成にとって最期の戦いとなった湊川の戦いにおいて、彼とともに戦った武士たちを見ていきます。
正成たちはこの戦いの途中で、味方である新田義貞と分断されてしまい、正成の隊は孤立してしまいます。
そんな状況下で、正成の弟・正季は兄とともに奮戦し、足利尊氏の弟・直義があと一歩のところまで追い詰められるほどになりました。
しかし、逃げ延びる直義を討たせまいと、尊氏の命により新たな軍が正成らの行く手を阻みます。
正成と正季は敵軍に幾度も突撃を行いましたが、その度に兵力を消耗していきました。
そして、疲弊し民家に駆け込んだ彼らですが、正成と正季は刺し違えて自害しました。
この時に彼らとともに自害した人物に、和田正隆がいます。
彼は正季と並ぶ正成の配下の人物で、軍記物『太平記』によると、正成の挙兵に当初から従い、赤坂城の戦いにも参加していたようです。
彼は建武の新政の際、軍事政務機構である武者所の官僚に選ばれましたが、武者所の全65名のうち、彼だけが無位無官であり、謎の存在です。
それでも、『太平記』では彼の活躍が多く描かれており、彼が正成の片腕的存在であったことは確かでしょう。
次に、正成の家紋について見ていきます。
家紋の意味
楠木正成の家紋は、「菊水紋」と呼ばれるものです。
「菊紋」は鎌倉時代の初期に後鳥羽上皇に愛され、それ以降皇室のシンボルでした。
足利尊氏は後醍醐天皇より恩賞として「菊紋」を下賜されて用いるようになったとされ、正成も同様に下賜されました。
しかし、正成はこれを畏れ多く感じ、「菊紋」の下半分を水に流した「菊水紋」にしたのです。
次の章では、正成の愛用したとされる刀について見ていきます。
愛刀
正成が愛用した刀として伝わるのが、小竜景光(こりゅうかげみつ)という刀です。
鎌倉時代に景光という刀工により製作されたこの刀は、景光の作品の中でも特に優れたものであり、国宝に指定されています。
- 南北朝時代の公卿である万里小路藤房が正成に贈った
- 豊臣秀吉が徳川家康に贈った
という伝説もありますが、この真偽は疑わしいようです。
江戸時代に入り、この刀は色んな人物の間にわたり、江戸時代末期には大老・井伊直弼も所持していました。
長らく宮内庁から門外不出であったため、刀剣研究家でさえなかなか本作を目にすることはできなかったのです。
次に、正成の墓について見ていきます。
墓
楠木正成の墓は、現在の大阪府河内長野市にある観心寺にあります。
ここには、湊川の戦いの後、足利尊氏の命によって送られた正成の首級が葬られています。
観心寺は、日本で唯一の北斗七星を祀る寺であり、西暦701年に建てられたと伝えられています。
観心寺は楠木氏の菩提寺であり、南朝ゆかりの寺でもあります。
次の章では、正成の残した名言をご紹介します!
名言
正成の名言として2つほどご紹介します。
- 「合戦の勝負 必ずしも大勢小勢に依らず ただ士卒の志を一つにするとせざるとなり。」
これは、戦いは必ずしも兵の数で勝敗が決まるのではなく、兵の心を一つにできるかどうかで決まることを述べています。
赤坂城の戦いでは、幕府軍が1万人であったのに対し、正成側はわずか5百人ほどであったと伝えられていますが、彼はこれでも奮戦し、幕府軍を苦戦させたのです。
- 「大将は大なる知恵も細なる知恵もなくてはかなわぬものなり。知恵は生まれつきにありというも、その知恵を磨かざれば正智(正しい知識)いずることなし。知恵に自慢おごりて、磨かざる大将はみな代々持ち来る国を失い、家をなくすものなり。」
これは、大将たる者は知恵を自慢するのではなく、知恵を磨き続けなくてはならない、といういことを意味しています。
次に、正成像が皇居前にある事情について見ていきます。
楠木正成の像が皇居の前にある理由と真実
現在の皇居の前に、楠木正成の像があります。
これは、明治期に住友家が開発した別子銅山の開坑200年記念事業として製作されたもので、別子銅山の銅が用いられています。
正成の像が皇居前に置かれたのは、当時の大日本帝国の国策からのようです。
湊川の戦いのあと、尊氏は後醍醐天皇との和解を図り、京都で光明天皇を擁立するのですが、後醍醐天皇は吉野に逃れ、この地で別の朝廷を開きます。
光明天皇のほうの朝廷を北朝、後醍醐天皇のほうの朝廷を南朝と言い、これら2つの朝廷が並立した時代を南北朝時代と言います。
南北朝は、1392年に南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡したことで合一し、以降歴代天皇は北朝の子孫となっています。
明治時代に入ると、三種の神器の所在などから南朝を正統とする見方が強まり、南朝天皇に忠義を尽くした楠正成は正義である、という考えが生まれたのです。
そのこともあり、楠正成の銅像は皇居前に置かれたようです。
像は高村光雲ら著名な彫刻家により製作されており、今日まで見事な存在感を放っています。
次に、正成にとって最期の戦いとなった湊川の戦いについて見ていきます。
湊川の戦いについて
湊川の戦いは、
- 楠木正成・新田義貞の軍
- 足利尊氏・足利直義の軍
との戦いです。
尊氏は九州に敗走しており、勢力を回復したのちに東上してきたため、正成らはこれを迎え撃つ形となりました。
しかし、正成の思うように事が運びません。
正成は一度京都を明け渡し、兵力を整えてから進撃する、という案を出しますが、却下されます。
また、正成の軍勢催促に対し、一族は難色を示します。
こうしたことから、やむなく正成は子の正行を河内に帰した後、腹心の部下約700騎で決死隊を構成します。
和田岬(神戸市兵庫区)に尊氏軍の先発が上陸し、戦いは開始されます。
しかし、ここでも正成に不利な出来事が起こります。
戦いが始まる前、義貞は退路を絶たれる危険を感じて戦線を離脱していたのです。
楠木軍は孤立してしまいましたが、ここから彼らは奮戦し、足利軍を蹴散らし、直義をあと一歩のところまで追い詰めるのです。
それでも足利軍との兵力差は明らかであり、最終的には正成らは民家に逃げ込み、自害しました。
その後、義貞も命がけの戦いを繰り広げるのですが状況は覆らず、後醍醐天皇は京を離れ、尊氏は室町幕府創設への道を開くこととなりました。
次に、正成が用いた戦術について見ていきます!
最強の武将と言わしめた楠木正成の戦術とは?
1331年に始まった赤坂城の戦いから、彼の華麗な戦術を見ていくことができます。
この戦いは、鎌倉幕府軍の勢力は1万であったのに対し、正成の勢力はわずか5百でした。
1日で決着がつくと考えた幕府軍はすぐに攻撃を開始しますが、まさかの事態となります。
正成は、城に敵が接近すれば弓矢で応戦し、城外の塀でも奇襲を仕掛けます。
また、敵が堀に手をかければ、あらかじめ作っていた偽の堀を切って落として敵を退けたうえ、大石を投げ落としました。
敵が楯を用意して攻めてくると、今度は熱湯をかけて追い払うのです。
こうした一連の攻撃を受けて、幕府軍は手詰まりとなってしまいました。
正成の知将っぷりがよく分かる戦いと言えるでしょう。
次に、正成と足利尊氏との関係について見ていこうと思います。
楠木正成と足利尊氏の関係
湊川の戦いでは敵味方に分かれてしまう正成と尊氏ですが、始めはともに鎌倉幕府打倒に向けて戦ってきました。
尊氏は鎌倉幕府滅亡に大きく貢献していたにもかかわらず、家臣を要職に送り込んだだけで、自らはそうした職には就きませんでした。
これは、天皇が尊氏を敬遠したとする見方や、尊氏が政権と距離をとったとする見方があります。
正成は、尊氏に徳があることをよく認識していたという話があります。
南北朝時代の軍記物語・歴史書である『梅松論』によれば正成は、尊氏が建武の新政から離反後、九州に落ち延びる際に多くの武将が彼に従ってついていったことが、彼に徳があることの証であり、尊氏とは和睦すべきであると、天皇に奏上していたというのです。
このことが事実であるかどうかは確かではありませんが、正成が尊氏に一目置いていたことは確かと言えるでしょう。
次に、正成と後醍醐天皇との関係について見ていきます。
楠木正成と後醍醐天皇の関係
生涯後醍醐天皇のもとで活動した正成ですが、朝廷と確執があったこともあるのです。
前章で触れた『梅松論』の正成の奏上内容は、単に尊氏との和睦を提案しただけのものではありませんでした。
正成は、新田義貞を討ち、その首を手土産に尊氏と和睦すべきだとしたのです!
義貞は鎌倉武士こそを理想像とする傾向があり、畿内で活動してきた正成らの理解に乏しかったようで、正成と義貞は肌が合わなかったようなのです。
また、正成は武将の器量の面でも、義貞よりも尊氏の方を高く評価していました。
前章で述べたように尊氏に徳があるのに比べ、義貞の方は人望や徳が欠けていると見たのです。
そのうえでこのような奏上を行ったようなのですが、和睦を進言したことで朝廷の不信を買ってしまい、謹慎処分を受けてしまいます。
そのため、次の尊氏征討の軍からも、彼は外されてしまいました。
湊川の戦いの前にも、尊氏軍を一度京に入れて、兵力を整えてから戦うべきだとした正成の意見は、天皇に受け入れられませんでした。
こうした確執のあったまま、正成は湊川の戦いに臨むこととなったのです。
次に、正成の子・正行について見ていきます。
息子「楠木正行」について
正成は、義貞の下で戦うように命ぜられ、兵庫に向かうこととなります。
その道中、西国街道の桜井駅で、正成は息子の正行(まさつら)に「今生にて汝の顔を見るのも今日が最後かと思う」と述べ、正行を河内に帰しています。
これは「桜井の別れ」と呼ばれ、古典文学『太平記』の名場面の一つとなっています(史実がどうかは定かではありません)。
正行は、湊川の戦いで父が亡くなると、衝撃のあまり自刃しようとしますが、母に諭されて改心し、その後は正成の遺志を継いで南朝政権下で戦いました。
正行は、1348年に行われた四条畷の戦いで敗北し、弟の正時とともに自害して果てました。
次の章では、正成と新田義貞との関係について見ていきます。
楠木正成と新田義貞の関係
先の章で見てきたように、正成と義貞は相性があまりよくなかったようです。
しかし、尊氏征討に向けた正成が兵庫で義貞と合流すると、その夜2人は酌み交わしています。
義貞はここに至るまでに尊氏に敗北を喫しており、強い自責の念を持っていたようで、このことを正成に打ち明けているのです。
正成はこれを聞くと、義貞を慰めています。
義貞は正成よりも年下であり、正成を頼りにしたことも多かったのかもしれません。
ただ、この時正成は、義貞が周囲の悪評や恥を気にして、頑迷に勝負に向かおうとしたことに同情しつつ、落胆していたのではないかとも言われています。
いずれにしても、正成にとっては義貞と酌み交わしたこの夜が最後の夜となってしまったのでした。
次の章からは、正成ゆかりの地について見ていきます。
楠木正成ゆかりの地
楠木正成ゆかりの地として、今回は正成を祀った神社と、正成ゆかりの地である千早赤阪村をご紹介します!
まずは正成を祀っている神社からです。
楠木正成を祀る神社
楠木正成が祭神となっている神社としては、湊川神社や南木神社があります。
湊川神社は神戸市中央区にあり、楠木正行や湊川の戦いで斃れた一族の神霊を祀っています。
ここにはもともと、徳川光圀によって建立された墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」があり、神社として創建されたのは1872年のことです。
神社としては、比較的新しくできたものなのです。
南木神社は大阪府南河内郡千早赤阪村にある、正成を祀る最古の神社です。
南木神社の本社である建水分神社は楠木氏の氏神とされています。
このほかにも、
- 神社の横に正成夫人の墓のある長滝七社神社(岐阜県山県市)
- 「楠正成公墓碑」のある平泉寺白山神社(福井県勝山市)
などがあります。
次は、千早赤阪村です!
千早赤阪村
『太平記』によれば、正成は現在の大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたとあります。
この千早赤阪村は、正成ゆかりの地なのです。
2016年11月現在、大阪府で唯一の村であり、自然豊かな歴史と観光の村となっています。
奈良県御所市との境には金剛山があり、この金剛山の周辺に正成の城であった千早城、上赤坂城、下赤坂城の城跡があります。
前述の南木神社も、ここ千早赤阪村にありましたね。
次の章からは、正成を題材とした作品について見ていきます!
楠木正成を題材にした作品
正成を題材とした作品について、今回はNHK大河ドラマから1作品、小説から2作品をご紹介します!
まずは、NHK大河ドラマです!
ドラマ
正成を題材としたドラマとしてご紹介するのは、『太平記』(NHK大河ドラマ、1991年)です。
原作である『私本太平記』(吉川英治著)をもとに、足利尊氏の挙兵から鎌倉幕府滅亡、建武の新政、南北朝の動乱期を経て尊氏の死までが描かれています。
現在のNHK大河ドラマでは、番組の終了後に、各回にちなんだ名所を紹介するコーナーがあるのですが、それが始まったのがこの時からなのです。
それでは、キャストについて見ていきましょう。
キャスト
主人公である足利尊氏を真田広之氏が、楠木正成を武田鉄矢氏が、それぞれ演じています。
武田氏は当初、正成役を務めることにためらったそうですが、本作品での扱いが「河内の気のいいおっさん」であると聞いて承諾したようですよ。
他の主要人物としては、後醍醐天皇役に片岡孝夫氏、新田義貞役に萩原健一氏(途中から根津甚八氏)が充てられています。
次に、正成の登場する小説をご紹介します!
小説
正成を扱った小説として、前述の『私本太平記』のほかに2作品をご紹介します。
まずは、『楠木正成(上下)』(北方謙三、2003年、中央公論新社)です。
上下巻にわたり正成の活躍が描かれていますが、有名な湊川の戦いはあえて描かれておらず、読者を引き込む作風に仕上がっています。
もう1作品は、『道誉と正成』(安部龍太郎、2009年、集英社)です。
ここで正成と共に活躍するのが、足利尊氏と行動を共にし、のちに室町幕府でも活躍する佐々木道誉です。
道誉は強い者につく「変節漢」とされても我が道を貫いた人物であり、天皇への忠節を貫いた正成とは一見対照的に見えますが、この作品ではそんな両者の意外な共通点を見出していきます。
まとめ
いかがでしょうか。
それではもう一度おさらいを兼ねて、楠木正成について振り返ってみましょう。
楠木正成は1331年に始まる後醍醐天皇の挙兵に続き、赤坂城で挙兵して鎌倉幕府の倒幕を目指します。
日本史上屈指の軍事的天才との評価を受ける彼は、寡兵であっても偽の堀や熱湯まで駆使して幕府軍を苦戦させ、一度は敗れるもその後巻き返し、各地で倒幕運動を誘発させました。
後醍醐天皇による建武の新政が始まると、正成は政府の重要機関に名を連ねます。
その後、倒幕に貢献した足利尊氏が離反すると、正成は天皇に、新田義貞を討って尊氏と和睦すべきだ、という奏上を行ったとされています。
これは正成が、義貞には徳がなく、九州に逃げても多くの武将が従っていった尊氏には徳がある、という見方をしていたことに起因するようです。
正成が尊氏に一目置いていたことがうかがえます。
しかしこの奏上は受け入れられず、朝廷の不信を買ってしまします。
湊川の戦いの前にも、正成は京を一度明け渡してから再度攻めるべきだと提案しますが、これも採用されず、正成は兵庫に向かうこととなります。
この道中、正成が子の正行を河内に帰す「桜井の別れ」というシーンがありましたね。
義貞と肌の合わなかったとされる正成ですが、兵庫で二人は酌み交わしており、義貞は正成に胸中を明かしていました。
正成は湊川の戦いでも奮戦しましたが、最期は弟の正季や腹心の和田正隆らとともに自害しました。
正成の子孫はその後も南朝に仕えており、刀工として活躍した正重の系統は少なくとも江戸時代中期まで存続しています。
正成の家紋は、「菊紋」の下半分を水に流した「菊水紋」です。
また、小竜景光という刀を愛用していたとされています。
正成の名言としては、戦いでの兵の心を一つにすることの大切さや、大将が知恵を磨き続けることの大切さを述べたものがありましたね。
正成ゆかりの地としては、彼の墓のある大阪府河内長野市の観心寺や皇居前の像、神戸市中央区の湊川神社、千早赤阪村の南木神社などがありましたね。
像が皇居前に置かれたのは、明治期の大日本帝国の国策によるもののようです。
正成が題材となった作品としては、大河ドラマの『太平記』や、小説の『楠木正成(上下)』や『道誉と正成』などがありましたね。
南北朝の合一後も、南朝の影響は随所に現れてくるので、楠木氏の動きと合わせて注目してみてください!