今回解説していくのは源平合戦の最終決戦となった壇ノ浦の戦い!
この戦いによって平氏が滅び、源氏が天下を取りました。
今回はそんな壇ノ浦の戦いについて
- 壇ノ浦の戦いとはどんな合戦だったのか?
- 壇ノ浦の戦いか起こった場所
- 壇ノ浦の戦いで沈んだ三種の神器とは?
- 壇ノ浦の戦いで活躍した源義経のその後について
わかりやすく解説していきたいと思います!
壇ノ浦の戦いをわかりやすく解説!
壇ノ浦の戦いは1185年に長門国(山口県北部)で起こった源氏と平氏の最終決戦の戦です。
平氏は治承・寿永の乱という一連の戦いの中で源義仲や源義経などに大事な戦で負け続けていました。
そして屋島の戦いで義経に敗れてからは西国ですら源氏になびき、壇ノ浦の戦いが起こる直前には長門国と周防国をなんとか維持しているに過ぎない状態までに落ちぶれていました。
そして壇ノ浦の戦いが起こることになるのですが、流石元々水軍には自信のあった平氏なだけあって最初は潮の流れに乗り、源氏を圧倒し始めます。
でも、義経の水夫を射殺するという当時としたら考えられない卑怯な手や戦が長引きすぎたせいで潮の流れが大きく変わってしまうなどの不測の事態が起こったことにより平氏の負けは確定的なものに。
もはやこれまでと感じた平氏方の武将は平知盛を始め次々と海に飛び込み、最後には当時の天皇であった安徳天皇でさえも母の二位尼と共に海に沈みました。
入水する前に二位尼が言ったとされる「海の下にも都はございます」は有名ですよね。
こうして次々と入水を遂げた平氏はこの壇ノ浦の戦いによって滅亡。
源氏の天下は決定的なものとなり、源氏の棟梁(リーダー)である源頼朝は鎌倉に幕府を開くことになりました。
場所
壇ノ浦の戦いは長門国(山口県北部)の関門海峡の下関付近の海峡の壇ノ浦と呼ばれる場所で起こりました。
元々、壇ノ浦近くの中国地方は平氏のホームとも言っても良いほどのゆかりの地であり、さらに平氏自体が海賊退治によって成り上がったこともあり水軍には自信があったのです。
屋島の戦い以降どんどん勢力を落としていっている平氏。
水軍を使い源氏を打ち破ることで勢力を伸ばすしか生き残る道はないと悟った平氏の武将たちはこの壇ノ浦に全てを賭けたのです。
地図
平氏が最後の決戦の地として選んだ壇ノ浦は北に赤間関(下関の昔の名前)、南に彦島に囲まれたすごく狭い水道でした。
平氏は水軍に強いこともあり、潮の流れというものを熟知していました。
潮の流れを取ることは戦のペースを掴むと同意義。
平氏はこの狭い水域の潮の流れを掴むことがこの決戦の勝利条件だと考えていたのでした。
三種の神器とは?
壇ノ浦の戦いで一番源氏が血眼になって探したものは、平氏の武将ではなく、三種の神器と呼ばれる三つの天皇家に伝わる宝でした。
三種の神器といえば1950年代に爆発的に普及した白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機を思い出すかもしれませんが、今回はその言葉の元になった宝物。
- 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)
- 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
- 八咫の鏡(やたのかがみ)
の三つの宝の総称のことを指します。
その三種の神器の大切さはただ単なる宝物としてだけではなく、これを所持していなければ正式な天皇として認められないという日本国内では一番大切な宝物であったのです。
そんな三種の神器ですが、壇ノ浦の戦いの時には安徳天皇という天皇の家族が所持していました。
安徳天皇といえば平氏に連れられて最終的には壇ノ浦に沈む悲劇の天皇としても有名ですが、実は三種の神器は安徳天皇と共に沈んでいたのです。
もちろん、源氏としたらこれを入手しない限りは安徳天皇が正式な天皇のままで次の天皇に引き継げないというとんでもない事態を招くことになります。
源義経は必死になって探します。
その甲斐あってか八咫の鏡と八尺瓊勾玉は手に入れることができましたが、よりにもよって最後の天叢雲剣(あめのむらくとのつるぎ)のみは本当に最後の最後まで見つかることはかないませんでした。
「じゃあ、安徳天皇以降は天皇として認められなくなったのでは?」と心配になるかもしれません。
でもご安心ください。
安徳天皇と共に沈んだあの剣は本物ではございません。
実はあのとき沈んだ三種の神器は形代といって本物を代わりに使われるレプリカなんですよ。
本物の天叢雲剣が祀られているのは愛知県名古屋市にある熱田神宮。
昔この剣を使ったヤマトタケルの奥さんであったミヤズヒメという人がヤマトタケルが亡くなったという情報を受けて熱田の地に祀ったのが始まりなんだそうです。
ただ、この剣は霊力がとんでもなく熱田神宮から持ち出した天武天皇が病に倒れそのまま崩御したり、この剣を持ち出そうとした新羅の僧の船が難破したりと散々な目にあっているんだとか。
そのため今現代で皇位継承に使われている剣とは別に本物の剣が存在している状態となっているんです。
義経の活躍とその後
壇ノ浦の戦いにおいて義経は水夫を狙うという当時の戦の戦法からしたらとんでもない卑怯な手を使って平氏を圧倒。
最終的には潮の目が変わったことがきっかけで平氏の戦力を瓦解させることに成功して、壇ノ浦の戦いは見事に源氏の勝利で終わりました。
さて、この壇ノ浦の戦いによって平氏を滅ぼした源義経は天叢雲剣は取り返すことはできなかったものの、源氏の長年の敵であった平氏を滅ぼしたことで意気揚々。
このままいけば自分の地位は安泰だと義経は感じていたと思います。
しかし、現実は非情なもので、ここから先義経の運命は大きく暗転することになります。
義経は平氏を倒したことで手柄を立てたと思いますが、兄の頼朝はそんなことはどうでもいい。
頼朝はそんなことよりも天叢雲剣を取り返すことができなかったことや、平氏を倒したことで上皇に取り入られていることを問題視していました。
当時頼朝は東国の支配が認められて朝廷とは距離を置いた政策を行なっていました。
そんな大切な時に朝廷に取り込まれている弟義経の存在は邪魔で仕方ない。
さらに、義経が頼朝の許可なく官位をもらったことに大激怒。
これが決め手となり兄弟間の中は最悪なものとなってしまいました。
そして、最終的には平氏の大将平宗盛を連れて鎌倉に帰ろうとした義経を追い返す行動をするようになりました。
義経は仕方なく、京都に出戻り途中の近江国で宗盛を斬首。
後白河上皇の下で働いて頼朝の討伐命令を受け取ることに成功します。
でもこれを頼朝は察知。
これが原因で守護と地頭が置かれるなど厳戒態勢が敷かれました。
そして、最終的には義経との縁が少しあった平泉まで落ち延びる羽目となってしまいました。
頼朝はこれを受けて奥州征伐を決意。
100年間奥州にて栄華を誇っていた奥州藤原氏もろとも義経を自害に追い込んでしまい、義経は31年の生涯に幕を閉じました。
そしてその義経の生涯は治承・寿永の乱で華々しい活躍をした名将の最後はこんなにも悲しいものだとして、今では立場が弱い人を応援するという慣用句『判官贔屓』の判官にその名が残っています。
それではまとめに入りましょう。
まとめ
それではまとめに入ります!
- 壇ノ浦の戦いとは1185年に起こった源氏と平氏の最終決戦のこと
- 壇ノ浦の戦いは今の下関海峡のあたりで行われていた
- 最初は水軍に慣れている平氏が優勢だったが、潮の流れが変わったことによって源氏の勝利に終わり、平氏は滅亡した
- 三種の神器という宝がこの戦いによって沈んだが、剣以外はなんとか回収された
- 平氏滅亡後、源頼朝と義経の間の対立が起こるようになり、最終的には奥州藤原氏とともに義経は自害に追い込まれた
最後になりましたが、この壇ノ浦の戦いによって1180年から続いた源平合戦は終わり、源氏による新しい政治システムが確立されました。
壇ノ浦の戦いは平氏の時代から源氏の時代に変わった重要な転換点だったのですね。