ご存知、『弘法大師』として知られ、真言宗を開いた人間として知られる空海。
嵯峨天皇(さがてんのう)、橘逸勢(たちばなのはやなり)と共に『三筆(さんぴつ)』、つまり筆の達人としても知られ、彼が書いた書物はその多くが国宝になっています。
『弘法も筆の誤り(どれほどの達人でも間違いや失敗をすることがあるという意味)』
『弘法は筆を選ばず(本当の名人は道具の良しあしを問題にしないという意味で、下手な人間が道具や材料のせいにするのを戒めた言葉)』
の元になった人物でもありました。
- 何故京都の高野山を総本山としたのか!?
- 同時期に新しい仏教を広めた最澄(さいちょう)との関係は!?
- 何故密教を広めたのか!?
これについてみていきます。
目次
空海とは?
平安時代初期、当時の中国である唐にわたって密教を勉強し、それまでの仏教に変わる『真言宗(しんごんしゅう)』を生み出したお坊さんです。
それより前の奈良時代は、中国に合わせ仏教が大変盛んで、政府の保護も厚かったため、僧侶が政治に口出ししたり、あるいは道鏡(どうきょう)のように自ら政治のトップである天皇になろうとする僧侶まで出てきたため、仏教も政治も大きく乱れていました。
そのため真の仏教を極めるべく、仏教の大本である中国の唐にわたり、密教の修行と思想を持ち帰って帰国。
そののちは京都の東寺(とうじ)にて、仏教を広めていきます。
天皇関連という権力にすり寄って腐敗した仏教をさけ、密教の厳しい修行の中で心身ともに修練を積み、悟りを広めていくという手段を作ったのが空海なのです。
仏教を極めることを登山、悟りを開く事を頂上に到達すると例えると、密教はヘリコプターで一気に頂上へ飛んでしまう方法といえます。
それまでは頂上を目指さなくても、少しでも上に登って仏道を極めようとする仏教がほとんどだったのですが、それを指導する登山家である僧侶がどんどん権力にすりよっていくのをみて、人々が上を登ることすら危うくなったため、空海が最澄とともに新たな登山方法を見つけたといえましょう。
その中で空海は真言宗を開き、『即身成仏(そくしんじょうぶつ)』、すなわち厳しい修行を重ねれば出家して僧侶になったりしなくても悟りを開いたり極楽に行けるということ、『鎮護国家(ちんごこっか)』、すなわち人々の心が仏に向くことで、仏が国と人を守るようになっていくことを教えていくのです。
(なお、鎮護国家の考えについては、後に日蓮の日蓮宗がさらにそれを強めていくことになり、日蓮は『真言亡国(しんごんぼうこく。真言宗は国を亡ぼす教えという意味)』と主張するようになります。)
次に、空海の経歴についてみていきます。
空海の経歴
774年、讃岐国(さぬきのこく。現在の香川県)で生まれます。
幼名は『真魚(まな)』。
6月15日生まれという説が現代の真言宗でも言われていますが、これは中国密教の大家である不空三蔵(ふくうさんぞう)が亡くなった日であり、空海を不空の生まれ変わりとする作り話とする向きが多く、正確な生まれは不明です。
(ちなみに不空三蔵は、西遊記で有名な三蔵法師(玄奘三蔵(げんじょうさんぞう))とは別人です)
788年、平城京に入京。
それから桓武天皇の皇子(おうじ。息子)の家庭教師をしていた阿刀大足(あとのおおたり)のもとで4年間、儒学を中心に勉強します。
793年から、仏教修行開始。
道鏡をはじめとする僧侶が政治に口出しすることに疑問を抱いたのかどうか、山にこもって必死に修行を続けるようになります。
このあたりから唐に留学するまでの空海についてや、いつから空海と名乗るようになったのかはよくわかっていません。
しかし高知県の室戸岬の御厨人窟(みくろど)で修行をしていた時、明星(金星)が口に飛び込んで悟りを開いた彼は、その時に空と海しか見えなかったことから、『空海』を名乗るようになったといわれています。
ちなみに794年、桓武天皇(かんむてんのう)によって政治の拠点が奈良の平城京から長岡京を経て、京都の平安京に移転します。
803年、平安京から北九州の大宰府(だざいふ)を経由して唐へ留学。
29歳になった彼は、中国語の能力の高さと薬学の知識を買われ、最澄、橘逸勢らとともに唐へ渡ります。
この時最澄は、すでに天皇の側近というべき内供奉十禅師(ないぐほうじゅうぜんじ)の一人で大きな名声を得ていたのですが、空海は無名の一介の僧侶。
いわば大学教授と無名のポスドクぐらいの名声と実力の差がありました。
実際、一時彼は海賊と間違えられたこともあり、彼の筆の達筆さを見た唐の役人が、ようやく留学生と認めたほど。
しかしこれまで厳しい修行と仏教の言葉である梵語(ぼんご。2000年以上も前のインドの言葉で、現代のお墓にある木の板=卒塔婆(そとば)に書かれた文字も、オウム真理教(現・アレフ)の『オウム』も梵語。)を熱心に学んできた空海は、日本人で初めて梵語の理解者となり、密教の師匠にその才能を見出され、密教の継承者として
『遍照金剛(へんじょうこんごう。太陽の様にこの世のすべてをあまねく照らすもの)』
の称号を与えられ、仏教や密教の教え以外にも土木技術や薬学の知識を得ます。
806年10月、九州の大宰府に帰国。
空海自身が『空しく往きて満ちて帰る(むなしくいきてみちてかえる。名声も実力もない状態で留学し、様々な知識と資格を持って充実した状態で帰るという意味)』といえるほどに、わずか2年間で様々な知識と経験を得た空海は、今日で新たな仏教を広めようという志を得ます。
しかし当初は20年間の留学予定だったのが2年間に短縮されたことや、この3月に政治のトップであった桓武天皇が亡くなって、平城天皇(へいぜいてんのう)が即位したばかりによる混乱もあってか、空海は京に入ることをしばらく拒まれます。
809年、京に戻る。
平城天皇が生前退位(生きている間に天皇の位を退くこと)して上皇(じょうこう)となり、嵯峨天皇(さがてんのう)が即位すると、留学先輩の最澄の世話もあって京に戻ることに成功。
当時の有力な貴族であった和気氏の寺であった高雄山寺(こうゆうざんじ)に入って、そこを拠点に教えを広めようとしますが、まだまだ下積み。
翌年、転機が訪れます。
810年、薬子の変(くすこのへん)勃発。
嵯峨天皇の政治に不満を抱いた平城上皇が、愛人の藤原薬子(ふじわらのくすこ)のそそのかしもあって政治の拠点を平安京から自分のいる平城京に移すという命令を発令。
今でいうと天皇は社長あるいは党首、上皇は会長あるいは最高顧問に当たりますから、実質的な権力闘争といえます。
(ちなみに現代の自民党のトップは党首ではなく総裁と呼ばれており、最高顧問も90年代半ばまでありましたが廃止されています。)
嵯峨天皇がこれを拒んだことで両者の対立は決定的となり、嵯峨天皇はかつて東北の蝦夷(えみし)の征伐に使った坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)等の武力を使って平城上皇と薬子を抑えます。
結果、平城上皇は出家して政治力を失い、薬子は官位を剥奪された後、毒を飲んで自殺します。
この時に空海は嵯峨天皇側について大規模な加持祈祷(かじきとう。祈り)を行った結果、天皇に気に入られ、仏教一の実力者となるに至るのです。
813年、最澄が求めた経典『理趣釈経(りしゅしゃくきょう)』を与えることを拒否。
元々最澄は文章による修行で密教と仏教の質を上げるべきという持論でしたが、空海は口で伝えることが密教の真髄を伝えるうえでベターという持論の持ち主で、この辺りから、彼と最澄の対立が深まっていきます。
元々仏教には『以心伝心(いしんでんしん)』『言語道断(ごんごどうだん)』という言葉があり、『悟りは言葉ではなく心と心で伝わる』『悟りを言葉で伝える道はない』と当時考えられてきました。
それだけだと難しいので、せめて言葉だけでもと空海は考えていたようです。
実際に空海は持ち前の達筆で、これ以降も密教や仏教の教えについて書いた本を出版しています。
(ちなみに『以心伝心』『言語道断』は長い歴史の中で意味が転じ、それぞれ『何も言わなくてもお互いに意思が伝わる仲』『言葉では言い表せないぐらい非常識(俗にいう「痛い」)』という意味で今日では使われるようになりました)
816年、修行の場所として高野山をもらう。
後で詳しく話しますが、当時の高野山では広く使われていた水銀が多く取れたので、そこを修行と教えを広める場所として空海は使いたかったようです。
空海は唐で建築技術についても学んでいたので、それに基づいて高野山の寺・金剛峯寺(こんごうぶじ)の作成を指導していきます。
しかしながらこの年あたりに、最澄とは完全に絶交状態になっています。
821年、香川の満濃池(まんのういけ)の改修を指導。
米作りに必要な水を人工的に補給する灌漑池(かんがいち)をつくる工事ですが、空海は当時としては最先端の技術であったアーチ形堤防の作り方などを指導して改修を成功させます。
823年、天皇の命令で東寺(とうじ)をもらって真言密教の拠点に。
東寺は今でも京都府南区九条町にある寺で、平安京の街の右側である左京(さきょう)、および国を守護するために作られた寺といわれていますから、当時の空海には天皇からの信頼がいかに厚かったかがうかがえます。
実際に鎌倉時代では空海の人気が高まり、東寺は『教王護国寺(きょうおうごこくじ。王すなわち天皇を教え、国を守る寺という意味)』とよばれるようになるのです。
やがて1994年には世界遺産にも登録されることになります。
824年、当時の僧侶の最高位である小僧都(しょうそうず)に任命。
828年、教育施設である綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)設置。
当時の教育機関は貴族か郡司しか教育を受けることができず、中身も儒教だけだったのですが、綜芸種智院は一般庶民も教育を受けることができ、中身も儒教だけでなく仏教や密教の内容まで含まれた幅広いものでした。
しかし空海の死から10年後、綜芸種智院は財政難から廃止され、今日の種智院大学(しゅちいんだいがく)と高野山大学(こうやさんだいがく)ができるまで綜芸種智院の理念はすたれ続けます。
831年、病気になる。
この辺りから空海は死期を悟って、僧侶の位を返上しようとしたり、より熱心に修行しようと食事制限付きの修行や、東大寺で密教についての講義を熱心に行ったほか、真言宗最大の秘儀である御七日御修法(ごしちにちみしほ)を行うなど、自分の宗教の完成に最後のスパートをかけます。
835年3月21日、入寂(にゅうじゃく。僧侶が死ぬこと)。
この時、空海は62歳。
遺体は火葬されたとも、手を触れられずにミイラ化したとも言われています。
次に、空海という名前の由来についてみていきます。
名前の由来
『空海』という名は、高知県の室戸岬(むろとみさき)における御厨人窟で彼が修行していた時、この堀から『空』と『海』しか見えなかったことからそう名乗ったとされています。
この時に空海は降ってきた明星を飲み込み、悟りを開いたとされています。
『弘法大師』の名は、空海の死から87年後の921年に醍醐天皇(だいごてんのう)からもらったものでした。
当初は、『本覚大師(ほんかくだいし。本当に悟りに目覚めた偉大な僧侶)』の称号の予定でしたが、『弘法利生(こうぼうりしょう。仏の教えを大きく広め、人々の声明に貢献したこと)』の業績が大きかったという事で、『弘法大師』と呼ばれるようになります。
それがやがて、『弘法さん』『お大師さん』という名前で全国に広まっていき、『天神さん』という愛称で知られる菅原道真(すがわらのみちざね)とともに、空海は学問の達人としても知られるようになりました。
次に、空海が日本に何を伝えたかったという事を見ていきます。
日本に何を伝えたのか?
基本的には密教的な要素が濃くなった仏教『真言宗』を広め、
『今までの妥協的なやり口ではなく、密教の厳しい修行で心身ともに修練を積み、生きている間に悟りを開くやり方で行くべきだ』
という考えの仏教を開いたといわれていますが、空海が唐で学んだことは仏教や密教に限らず、土木技術や薬学の知識も多かったといわれています。
実際、先ほども述べたように最先端の土木技術を広めて灌漑地を改良して稲作の効率を上げたり、高野山を選んだのも寺を建てるうえで必要な水銀が多くとれることを知っていたからでした。
また、教育の大切さも知っており、当時貴族しか受けられなかった教育を庶民にも広めることが大事と考えるようになり、その理念で自分の懐から金を削って綜芸種智院を建てることになるのです。
先ほども述べたように綜芸種智院は財政難から空海の死後10年ほどで閉鎖されますが、庶民にも教育を受けさせるべきという考えは江戸時代の幕藩体制で受け継がれ、全国津々浦々に寺子屋や、一部では学校が建てられ、読み書きそろばんを中心に教育が広がります。
次に、密教を広めた理由についてみていきます。
密教を広めた理由
元々密教とは、文字通り『仏教の中でも秘密のルートにある教義』という意味です。
他の仏教は『顕教(けんきょう)』と呼ばれることがあります。
先ほども言いましたが、仏教とそれに基づいた生き方である『仏道(ぶつどう)』を登山、悟りを開くことを頂上に到達することだとすると、それまでの奈良時代の顕教は僧俗共に、
『必ずしも頂上を目指さなくてもいいから、少しでも仏の道に基づいた生き方をし、少しでも高いところを目指そう』
という考え方で、どちらかというと修行より寄進(きしん。寺を建てるために労働やお金を提供すること)や戒律を重んじるやり方でした。
しかし今までの顕教が、道鏡の様に権力におぼれて、高い所に行くどころか水のように低い所低い所へ流れて腐敗していくのを見て、空海は顕教の頼りなさに疑問を抱くようになり、梵語を多用した本来の仏教を求めるようになっていったようです。
それで中国で学んだ密教、登山で言うとヘリコプターで一気に頂上に登る方法を『本来の仏教』として、
『密教の厳しい修行で心身ともに修練を積みながら、生きている間に悟りを開くことを目指すべきだ』
として、土木技術や薬学とともに広めていくことになるのです。
また、仏教を開いた釈迦(ゴーダマ・シッダールタ)の教えの中では、釈迦の死後、四段階の時代があるとされております。
釈迦の死から1000年間:『教え、修行、悟り』すべてが正しく伝わる、『正法の時代(しょうほうのじだい)』
正法の時代から1000年間:『悟り』を開く人間がいなくなる、『像法の時代(ぞうほうのじだい)』。
日本ではおおむね51年ごろから。
像法の時代から10000年間:『教え』しか残らない、『末法の時代(まっぽうのじだい)』。
日本では1051年から末法の時代になったといわれ、この辺りから鎌倉仏教の起こりが激しくなるのです。
末法の時代以降:教えも何もなくなった、『法滅の時代(ほうめつのじだい)』。
空海の生きた時代は『像法の時代』ですが、密教には像法も末法もないとされており、(これは鎌倉時代の禅宗も同じ)
『像法の時代だからこそ、本来の仏教に立ち返り、誰もが悟りを開くことを目指さないといけない』
というように空海は考えたと思われます。
もっとも、奈良時代から続く顕教は最澄とは違って空海は全否定はしておらず、自分の思想を広めていくために、奈良に多かった従来の宗派と妥協しながら、奈良の仏教に密教思想を広めることとなります。
(この点最澄は奈良時代の仏教に否定的で、実際今日でも奈良に天台宗の寺は少ないようです)
次に、なぜ高野山を真言宗の総本山にしたのかについてみていきます。
なぜ高野山を真言宗の総本山にしたのか?
一般的には、空海が唐での占いで、高野山方向に寺を建てよというお告げを受けて総本山にしたといわれていますが、これはフィクションといわれています。
一番有力な説が『高野山は水銀が取れる最大の場所だったから』。
唯一の液体金属である水銀は、今日では人体には毒になると有名ですが、空海の時代は不老不死の薬としてもてはやされたほか(実際、古代中国の始皇帝(しこうてい)も、不老不死を求めて懸命に水銀を探しています)、寺を赤く塗るための『朱(しゅ)』の原料として広く使われていました。
朱は当時『よみがえりの色』として愛され、仏教の寺には必ず朱を塗って建物を赤くする習慣があり、空海は朱が取れやすい高野山近くに寺を建てたほうが、経済的にも便利と見たのでしょう。
(それで今日でも『朱に交われば赤くなる(しゅにまじわればあかくなる。人は交わる友や環境によって良くも悪くもなる)』といいます)
次に、空海にまつわる伝説と謎についてみていきます。
空海にまつわる伝説と謎
全国津々浦々に空海伝説があり、その数は300以上あるといわれています。
しかしながらこれは、フィクションも結構多いようです。
『老夫婦が空海に宿を貸して、お礼にもらった手拭いで顔をふくと若返り、他人に貸すとその人間は猿になった』等。
また、真魚(まな)と呼ばれた幼少期でも、傍から見て非凡なように見えたようで、高僧の一人が「生まれながらにして仏縁(ぶつえん。仏との強い縁)を持っており大成する」等といっております。
また、7歳のころには、断崖絶壁の上から「私は仏のみちに入って、人々を迷いから救い出したい。お釈迦様よ、叶うのなら姿を現してくれ」といって飛び降りたところ、お釈迦様が現れて光で真魚を祝福し、天女が彼を抱きとめてゆっくり地上に下したといわれています。
とは言え、どれもこれも結構フィクション色が多いのが実情。
後世に生きる私たちは、結果から逆算して一番ドラマチックなエピソードを信じがちになりますが、案外それは作り話であるという事は多いのです。(聖徳太子が赤ん坊のころから念仏を唱えることができた、10人の人が同時にしゃべった言葉を聞き分けたなど)
次に、空海と同時期に仏教に革新を起こした、『伝教大師』こと最澄との関係についてみていきます。
空海と最澄の関係について
実は、一介の無名の僧侶であった空海が、嵯峨天皇に気に入られて京都に住めた背景には、一緒に唐に渡った最澄の世話があったといわれているのです。
809年に当時の有力貴族であった和気清麻呂(わけのきよまろ)の所属寺であった高雄山寺に入った後、空海は最澄と10年ほど交流します。
しかしながら、やがてそれぞれの仏教の考え方についての違いがだんだん大きくなったことに加え、最澄が欲しがっていたお経を空海が拒絶したこと、最澄の弟子の泰範(たいはん)が空海の弟子になってしまったことから、816年頃にはついに絶交になってしまいます。
『両雄、並び立たず(りょうゆう、ならびたたず。同時期に現れた英雄は、意見が合わず必ず争うものという意味)』とはまさにこのことでしょうか。
次に、空海が最澄に宛てたとされる手紙で国宝にもなっている、『風信帖(ふうしんじょう)』についてみていきます。
空海が最澄に宛てた書『風信帖』
風信帖(ふうしんじょう)は、空海が最澄に宛てた3通の手紙の総称です。
筆の達人であった空海であった耐え、手紙としても最高傑作といわれています。
元は5通あったのが1通は盗まれ、1通はのちの豊臣英次のリクエストで献上されたといわれ、残りの3通が現在、東寺に保管され、平安仏教の祖である両雄の交流の象徴として、国宝となっています。
第1通『風信帖(ふうしんじょう)』
いつ出されたのかは不明ですが、空海が最澄に対し
- 仏教書物をくれたお礼。
- 天台宗の総本山・比叡山に行けないことへのわび。
- 自分と最澄、および奈良仏教の代表者とも積極的に議論すべきだから、ぜひここに来てほしい。
という内容で書いたといわれています。
第2通『忽披帖(こつはじょう)』
これもいつ出されたかは不明ですが、空海が最澄に対し
- 法要続きでなかなか会えないことのおわび。
- 藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ。藤原道長の先祖)ら有力貴族との交流。
等の内容を描いています。
第3通『忽恵帖(こつけいじょう)』
やはりいつ出されたかは不明ですが、空海が最澄に対し
- もらったお香を3日に使ったこととその感謝。
- 法要が9日に終わるので、10日にはお伺いしたい。
等の内容を書いております。
最澄も813年、空海に対し『久隔帖(きゅうかくじょう)』という手紙を送ったとされていますが、絶交するまでは非常に深い関係で、お互いの仏教を切磋琢磨していこうという意図が感じられます。
次に、おかざき真理氏が最澄と空海を描く漫画『阿吽』についてみていきます。
空海と最澄を描いた漫画『阿吽』
実写ドラマ化もされた『サプリ』『彼女が死んじゃった。』で有名なおかざき真理氏が2014年7月から今日まで月間スピリッツに連載中の漫画が『阿吽(あうん)』。
織田信長の比叡山・延暦寺焼き討ちから物語が始まり、信長の「天台宗は大きく醜くなりすぎた」というセリフから時代を遡って、最澄・空海が腐敗した奈良仏教に辟易し、狂気的な描写も加えながら新たなる仏教を作ることを志す物語です。
最澄・空海を仏教においてしばしば対として描かれる『阿吽(あうん。「阿(あ)」とはすべての始まりの意味で、「吽(うん)」とはすべての終わりの意味)』にたとえています。
性描写もあり、線もかなり夢幻的でオカルティックなため、大人向けの漫画といえましょう。
次に、空海の名言についてみていきます。
空海の名言
- 「荒廃は必ずその人による。人の昇沈(しょうちん)は必ずその人の学び方にある」
『挫折や失敗の責任は自分一人にあり、同時に人の栄光と破滅はその人の学び方の良しあしによって起きる』という意味です。
近年日本でも通り魔事件が多発していますが、彼らが他罰的、つまり、『物事がうまくいかないとすべて人のせいにする』傾向が強いことを考えると(附属池田小事件の犯人である宅間守など)、この言葉は非常に考えさせられます。
- 「毒箭(どくぜん)を抜かずして、空しく(むなしく)来拠(らいこ)を問う」
毒矢を抜かないままその犯人探しを不毛にしているうち、毒が全身に回って死亡するという意味。
『目の前の不幸を解決しようともせず、その犯人探しばかりをしていてもむなしいものだ。それよりも不幸に向き合って、どう解決すべきかを考えるべきだ』という意味です。
先ほどの名言とダブりますが、不幸を人のせいにしてもしょうがないという事ですね。(ちなみに『箭(ぜん)』とは、中国で使われ、バネの力で毒矢を飛ばす暗殺用の隠し武器のこと)
- 「周りの環境は、心の状態によって変わる。心が暗いと何を見ても楽しくない。静かで落ち着いた環境にいれば、心も自然と穏やかになる」
意味はそのままですね。
日本でも『あばたもえくぼ』、つまり『相手に好意を持って見れば、その人の短所すら長所に見えてしまう』という言葉があります。
心が不快だと美しいものも醜いものに見えてしまうし、快いと汚いものもきれいなものに見えてしまう。
そのために静かな場所で気分を前向きにすべきだという意味です。(ちなみに私の母は、父の長所すら短所に解釈して喧嘩が絶えませんでした)
次に、空海を題材とした映画についてみていきます。
空海を題材とした映画
- 映画『空海』
北大路欣也主演の映画で、空海の死から1150年後の1984年を記念して全真言宗青年連盟映画が東映と手を組み、前売り券200万枚を完売、20億円とも24億円ともいわれる興行保証を実現させます。
12億円の製作費をかけ、当時の技術のままの遣唐使船や、空海・最澄が留学した唐の西安(シーアン。中国の陝西省(せんせいしょう)の省都で、唐の首都である長安がかつて置かれていました)で大規模なロケが行われました。
- 空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎
2017年に日中共同制作で公開された、染谷将太主演の映画です。
原作は夢枕獏。
時の権力者の不可解な死と怪事件に立ち会った若き日の空海は、白楽天(はくらくてん)として有名な白居易(はくきょい)とともにその謎について調べ上げ、50年前に生きていた留学生・阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)と中国の詩人・李白(りはく)の詩から解いていくという物語です。
白楽天と空海は同時代に生きた人間ですが、史実では2人の接点はなく、かなり脚色を利用したスペクタクルモノといえましょう。
まとめ
- 唐での占いで高野山を真言宗の総本山にしたというのはフィクションで、当時の高野山で寺に必要な朱の材料になる水銀が多く取れたから、空海は高野山を総本山にした。
- 最澄とは、最初は唐留学における先輩で、唐留学から帰って京に戻る際に世話になるなどの仲だったが、やがて仏教・密教における考え方の違いが大きくなって決裂に至った。
- 『悟り』を開く人間のいない像法の時代だからこそ、像法も末法もなく、厳しい修行を重ねて悟りを開いていこうとする密教を空海は広めようとした。
これが真実といえましょう。
仏教には『応病投薬(おうびょうとやく)』という言葉があります。
すなわち、医者が患者の病状にあわせて薬を変えていくように、仏教もまた、俗人や社会の煩悩(ぼんのう。この世の思い煩い)によってその人に合った宗派があるという考え方で、空海の真言宗も新たなる薬となったといえましょう。
実際、平安時代は天皇中心に権力闘争が激しく、その中で挫折した人間たちの怨霊(おんりょう。強い恨みを抱いて死んだ人間の幽霊)にさいなまれることが、桓武天皇をはじめ貴族でも多かったようです。
国家安泰の祈りも持った真言宗は、平安時代の怨霊たちの鎮静や国家を保護するための宗教として、広まっていきます。
しかしやがて時代が進むにつれ、世の中の変化と僧侶の怠慢によって真言宗も古くなっていき、やがて浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗といった新たなる仏教の誕生につながっていくのです。